「終わりし道の標に・安倍公房著」には、
1948年の真善美社版と、1965年に同作者によって推敲された冬樹社版の二種類がある。
二作品を読んでみた。
冬樹社版では「亡き友金山時夫に」が「亡き友に」になっている。
固有名詞が消えている。
テーマを固有名詞で括るのをよしとしなかったのだろうか。
それとも固有名詞を出すのに何らかの差し障りが在ったのかも知れない。
冬樹社版では観念的な表現を平易な文章に改稿している。
安倍公房は中国の東北部「満州国」で生まれたという。
日本がつくりあげた傀儡国家である。日本の敗戦と共に消滅する。
彼は、15年間殆どこの地で過ごす。いわば故郷である。
八路軍(中国共産党)、関東軍(日本陸軍)、国民党(蔣介石)が入り乱れた故郷である。
「何故に人間は斯く在らねばならぬのか?」の本作品のテーマは、当時の情勢と通底しているように思う。
戦争を知らない、団塊世代下層を逃げ回り、のほほんと生きてきた僕には作者のような故郷はない。
「何故に自分は斯く在るのか?」という疑問だけを引きずっている。
何故に自分は斯く在らねばならぬのか?……。
中学校の校庭の隅に、4、5人の男子が集まっていた。
Aは米屋の息子で、背が高く勉強も出来たし腕っ節も強かった。
Bは「大鵬」というあだ名で巨体だった。いつもニコニコしていた。
その間に背の低い僕と博士と言われる物知りの分厚い眼鏡のCがいた。
「へその下やと思うねん」
Cが言った。
「そこから生まれるんか」
AがCの顔を覗き込むようにして言った。
「へぇ」
と言って、Bはニヤニヤ笑った。
僕には、見当がつかなかった。
ただ、その時は、
父ちゃんの○○○が絡んでいるとは全員知らなかった。
こうした因果で僕らは生まれた。そして、孫まで生まれた。
だが、今まで生きてきた70年のどこからが自分なのか。どこに自分がいるのか。
考えれば考えるほど分からない。
「何故に自分は斯く在るのか?」