先日、プチ虹のサロンのメンバーと話した時のこと。
友人に体外受精で妊娠したことが分かってわずか1ヶ月後に、乳がんの骨転移が判明した方がいる、という話題が出た。
ご主人もご両親もそうした状況での出産を大反対されたようだが、ご本人はあくまで出産優先を貫き、出産後治療に専念するということで、現在は妊娠中でも投与出来る抗がん剤治療をし、ホルモン治療は中断して妊娠継続中だそうだ。そして今は出産に向けて、これまで見たこともないほどとても光輝いているのだという。
本当に心から待ち望んだ妊娠だったのだろう・・・ということは、そのお話を少し聞いただけでも容易に想像できる。一般に、術後のホルモン治療が終了するまでには短くても5年かかり、その後概ね2年は妊娠を避けるように言われるから、確かに出産のリミット等の問題もあったのかもしれない。
だが、初発で治療が無事終了しての妊娠・出産というわけではなく、すでに骨盤転移が判明している厳しい状況である。妊娠が判明する前も松葉杖で歩くような状況であったのに、転移のことは疑わずにそのまま過ごして、主治医に驚かれたのだという。そして今現在は、普通に歩くことが出来ず、車いすで生活をしているそうだ。
それを聞いた他のメンバーも私も唸った。
後にも先にも息子1人しか妊娠出産経験のない私ですら、子どもは産んだらおしまい、というわけではないし、お腹の中にいる時はいる時でそれなりに大変だったけれど、それよりも何よりも身が2つになってからの方がよほど大変だ、ということをいやというほど経験した。再発治療と待ったなしの新生児の世話の両立が、どれほど大変であろうかは目に見えている。いつでも手足になってくれる人がいる、というわけでもないようだ。今はご主人が通院の送迎をしてくれているそうだが。
たとえ健康な体であっても、まとまった時間眠ることもできないほどハードなのが育児だ。初めてのお子さんであれば、どこまで手を抜いていいのかもわからないから、なおさら厳しく感じるのではないだろうか。しかも新米のお母さんは車いすで再発治療中。出産はご主人の強い希望で、というわけでもなく、あくまでご本人の強い意志だという。産まれた後の厳しい状況が今から目に浮かんでしまう。
生きた証を残すこと、自分の命のリレーをどうしてもしたかったのだ、と思う。
誰だって唯一無二の存在、尊いたった一人の自分だ。だからこそ、その自分が生きた証を残したいと思うのは当然のことだ。
独身でおられるメンバーからは、ご自身が出産という形で生きた証を残せなかったということについてのお話も出た。
かくいう私も、まずは「完治しない」という厳然たる事実を受け入れることで始まったエンドレスの再発治療が一段落した時、はて、このまま闘病の末に人生をフェイドアウトすることになるであろう私という人間の生きた証は何だろう・・・と思った。こうしてブログを始める前までは、四半世紀近く続けてきた仕事においても、何か名前が残せるほどのことが出来たわけでないことに内心忸怩たる思いがあった。
今ではほぼ毎日のようにブログを書きながら、夫や息子に何かメッセージとして遺しておく、ということとともに、他でもない自分のために、自分が生きた証として、記録として、日々を綴っている、と思っている。
そして息子という存在が私の生きた証と言っていいのかは、正直なところ今でもよくわからない。
人は二回死ぬ、と言う。1回目は生命体としての死、そして2回目は他の人たちに忘れられ、思い出してもらえなくなった時。
ふと、ああ、ずいぶん長いこと闘病しながら、太くはなく細かったけれど、それでもしぶとく生きていたこんな友人がいたな、こんな知りあいがいたな、と思い出してもらえるなら嬉しい。そんな形でちょっとでも思い出してもらえるのだったら、生まれてきた意味があった、生きた証が遺せた、と思ってもいいのではないか、と考えている。
気づけば本当に日が長くなった。まだこの季節としては気温が低めだけれど、新緑が美しい。つつじも咲き始めた。週末からはゴールデンウィークが始まる。そして明日はまた通院日だ。
友人に体外受精で妊娠したことが分かってわずか1ヶ月後に、乳がんの骨転移が判明した方がいる、という話題が出た。
ご主人もご両親もそうした状況での出産を大反対されたようだが、ご本人はあくまで出産優先を貫き、出産後治療に専念するということで、現在は妊娠中でも投与出来る抗がん剤治療をし、ホルモン治療は中断して妊娠継続中だそうだ。そして今は出産に向けて、これまで見たこともないほどとても光輝いているのだという。
本当に心から待ち望んだ妊娠だったのだろう・・・ということは、そのお話を少し聞いただけでも容易に想像できる。一般に、術後のホルモン治療が終了するまでには短くても5年かかり、その後概ね2年は妊娠を避けるように言われるから、確かに出産のリミット等の問題もあったのかもしれない。
だが、初発で治療が無事終了しての妊娠・出産というわけではなく、すでに骨盤転移が判明している厳しい状況である。妊娠が判明する前も松葉杖で歩くような状況であったのに、転移のことは疑わずにそのまま過ごして、主治医に驚かれたのだという。そして今現在は、普通に歩くことが出来ず、車いすで生活をしているそうだ。
それを聞いた他のメンバーも私も唸った。
後にも先にも息子1人しか妊娠出産経験のない私ですら、子どもは産んだらおしまい、というわけではないし、お腹の中にいる時はいる時でそれなりに大変だったけれど、それよりも何よりも身が2つになってからの方がよほど大変だ、ということをいやというほど経験した。再発治療と待ったなしの新生児の世話の両立が、どれほど大変であろうかは目に見えている。いつでも手足になってくれる人がいる、というわけでもないようだ。今はご主人が通院の送迎をしてくれているそうだが。
たとえ健康な体であっても、まとまった時間眠ることもできないほどハードなのが育児だ。初めてのお子さんであれば、どこまで手を抜いていいのかもわからないから、なおさら厳しく感じるのではないだろうか。しかも新米のお母さんは車いすで再発治療中。出産はご主人の強い希望で、というわけでもなく、あくまでご本人の強い意志だという。産まれた後の厳しい状況が今から目に浮かんでしまう。
生きた証を残すこと、自分の命のリレーをどうしてもしたかったのだ、と思う。
誰だって唯一無二の存在、尊いたった一人の自分だ。だからこそ、その自分が生きた証を残したいと思うのは当然のことだ。
独身でおられるメンバーからは、ご自身が出産という形で生きた証を残せなかったということについてのお話も出た。
かくいう私も、まずは「完治しない」という厳然たる事実を受け入れることで始まったエンドレスの再発治療が一段落した時、はて、このまま闘病の末に人生をフェイドアウトすることになるであろう私という人間の生きた証は何だろう・・・と思った。こうしてブログを始める前までは、四半世紀近く続けてきた仕事においても、何か名前が残せるほどのことが出来たわけでないことに内心忸怩たる思いがあった。
今ではほぼ毎日のようにブログを書きながら、夫や息子に何かメッセージとして遺しておく、ということとともに、他でもない自分のために、自分が生きた証として、記録として、日々を綴っている、と思っている。
そして息子という存在が私の生きた証と言っていいのかは、正直なところ今でもよくわからない。
人は二回死ぬ、と言う。1回目は生命体としての死、そして2回目は他の人たちに忘れられ、思い出してもらえなくなった時。
ふと、ああ、ずいぶん長いこと闘病しながら、太くはなく細かったけれど、それでもしぶとく生きていたこんな友人がいたな、こんな知りあいがいたな、と思い出してもらえるなら嬉しい。そんな形でちょっとでも思い出してもらえるのだったら、生まれてきた意味があった、生きた証が遺せた、と思ってもいいのではないか、と考えている。
気づけば本当に日が長くなった。まだこの季節としては気温が低めだけれど、新緑が美しい。つつじも咲き始めた。週末からはゴールデンウィークが始まる。そして明日はまた通院日だ。