風薫る5月、緑の美しい季節になった。
例年通り、5月の声とともにテンプレートも新緑に衣替え。
さて、このブログで何度かご紹介している小笠原望先生のコラム。最新号を読んで思ったことが今日の標題である。長文ではあるが、以下転載させて頂く。
お母様とご家族の温かな時間がじんわりと胸に沁み入ってくるようだ。
※ ※ ※(転載開始)
診療所の窓辺から こころの様子は、身なりに表れる 小笠原望
母の髪を切った。母と一緒に住む兄嫁と妻と、そしてぼくとの3人がかり。診療所の忙しい時期を乗り切って、久しぶりに妻と実家に帰った時だった。
昼間に布団で横になっていた母に声をかけると、腰をかがめて食卓に出てきた。その様子にちょっとびっくりした。電話の母は腰痛を嘆きながらも、変わらぬ元気な声だった。
「髪をきれいにしたら」と、母には前々から勧めていた。「天気のいい日に、美容院にそのうち行くから」と、あいまいな返事が続いていた。
母は89歳。食卓に出てきた母の髪はやっぱりそのままで、後ろの髪は輪ゴムでくくっていた。相変わらず腰の調子が悪いと言う。腹も張る、それがもっと大変だとも訴える。
いつもよりも早く母が自分の部屋に引っ込んだので、ぼくが説得に行った。「髪だけでもきれいにしようよ」と、患者さんに話すように繰り返した。ぼくの本気を感じたのだろうか、母も本心は伸びた髪をうっとうしく思っていたのだろう、「そんなに言うなら」と、しぶしぶ髪を切ることに同意した。
兄嫁と妻が、ハサミとカミソリでずいぶん多くの髪を切った。「こっちがまだ多い。ここここ、そうそう」とか、ぼくは理髪店のエプロンのようなものを持ちつつ、指示を続けていた。切り終わると、なかなかの出来栄えだった。
しばらくして、母が食卓に戻ってきた。「頭が軽くなった」と、少女のような笑顔だった。あんなに嫌がっていたのが嘘(うそ)のように、後ろ髪を触ってはさっぱりのいい顔だった。
1カ月に1回訪問診療に行く、有料老人ホームの92歳の女性がいる。時々、便秘や喘息(ぜんそく)のような症状でばたばたするのだが、落ち着いているときはいつもにこにこしている。
今月も順調。頭には緑のベレー帽のようなもの、薄化粧どころか、顏もきちっとしわが見えないくらいに塗っている。口紅が真っ赤で、ときにちょっとくちびるをはみ出しているときがあるのがご愛嬌(あいきょう)。ぼくの診察の日だけの化粧なのかは聞かないが、ぼくもにこにこしながら「お年には見えませんよ。元気でいいですね」と声をかける。
「この頃、化粧しだしたのよ」と、妻が母親の様子を言う。脳梗塞(こうそく)のあと転倒しやすくなり、ここのところぼくたちの家で過ごしている。その義母はこの頃調子がよく、散歩をしたり、食事に友人と外出するようになった。となると、女性は化粧をする。外出の予定がなくても、最近は化粧をしていると妻から聞いた。
患者さんの身なりは、こころの様子を表している。こころが落ち込んでぎりぎりの人は、男性は髭(ひげ)のそり残し、女性は髪はぼさぼさ、すっぴんで診察に来る。化粧をしている人はまだ余裕がある。
「美容院に行ってきました」と、何回目かの受診のときに患者さんが口にする。「もう大丈夫ですね」と、素直に驚いてそして一緒に喜ぶ。
母の電話の声は変わらず力強い。やっぱり顔を見て話をしないと本当はわからない。二週間後に家に帰ったら、食卓にちょこんと座っていた。川柳を見てくれとノートを持ってきた。「いい感性をしている。素晴らしい」と句を褒めたら、うれしそうだった。
「この腰のつらさは、内科の医者のあんたにはなんぼ言うてもわからんやろう」には苦笑いをするだけだが……。(朝日新聞発行の小冊子「スタイルアサヒ」2013年5月号掲載)
(転載終了)※ ※ ※
そう、本当に身なりは心を映す鏡だと思う。心底落ち込んでいればお洒落など出来ない。大層具合が悪ければお化粧だって出来ない(もちろん病院で診察を受ける時、顔色を見て頂くためには厚化粧をして化けてしまってはいけないのだけれど、普段からお化粧時間はチョチョイのチョイで5分程度の私はそういう心配はもともと、ない。)。
まあ、入院中は当然すっぴんだし、フル装備で基礎化粧品からメイクアップ用品まで何から何まで持ち込むわけではない。最低限で我慢、我慢だ(これはずぼらな私だけだろうか。ただでさえ塞ぎがちな気持ちをアップさせるために、自宅で使っているもの全て持ち込んで、完璧に入院ライフに備える方もいらっしゃるかもしれないけれど、私にとってそれはそれほど重要なことではない。)。ろくにブローだって出来やしない(第一、脱毛していれば室内帽やバンダナを被るのが精一杯だ。)。
だから、既にそういう姿をお見せしてしまった主治医や看護師さんたちには、普段の通院日には、私が私なりにちゃんとした身なりをして行っていることがご理解頂けるだろう。
さらにレントゲン検査があれば脱ぎ着のし易いもの(被りものはかつらがずれるから避ける。)、肩ひものストラップにプラスチック等がついていないスリップを選ぶ。そうすれば、ブラさえ外せばそのままレントゲン撮影が出来るので、わざわざ糊の効いた検査着を1枚余計にランドリーに回すこともない。採血のためには腕まくりのし易いもの、かつ、化学療法室に移動した時にポートに針刺しして頂き易いように胸がちょいと開けられる服を着る。まあ、今の季節から夏にかけてはまだしも、冬にタートルネックを着られないのはちょっと辛い(昔、母が「歳をとると首から風邪をひくのよ。」と言って首の詰まった服を着ていたけれど、今はそれが良く理解出来る。)けれど、首にはストール等の巻物をしてやり過ごすのも、慣れればどうってことない。
そう、ちょっと書き出してみても通院時にはそれなりに気をつけなければならない(というよりも気をつけた方が、自分がより心地よく過ごせる)ことが結構あるのだ。が、余裕がないと、どれかを忘れることになる。
もちろん余裕のない時こそちょっと深呼吸をして落ち着いて・・・と努めてはいても、本当に高熱があって、すわ、入院か、などと切羽詰まっていれば、そうもいかない。だから私はここ数年、何はともあれ、非常持ち出しバックよろしく入院グッズを一式入れたボストンバックを常備している。
翻って“美容院に行く”というイベントは、いくつになっても女性にとってとても気分が良くなるものだと思う。けれど、それなりに疲れるものでもある。だから、美容院に行こう-身なりをきちんとしよう、お洒落をしよう-と思えるようになることは、先生が書いておられる通り本当に体調が良くなってきたという印であり、患者にとってはとても喜ばしいことだ。
ああ、私も爽やかな緑の風を感じながら、自分の髪の毛をなびかせてみたい。早くこのまま髪の毛が伸びて、無事2度目のかつらサロン通いを卒業して美容院に行ければな~、いや、行きたいなと心底思う。
そして、今は美容院に行けなくとも、私なりに季節を感じられるお洒落をし続けたいな、と思う。
そんな気分でいられる今の私はまだまだ大丈夫!
今の体調が少しでも長く続くことこそ、何より有難いことである。
帰宅すると今月1回めのお花が届いていた。濃淡のピンクのアルストロメリアが5 本、紫がかったピンクのダイアンサスが2本、かすみ草が2本。花言葉はそれぞれ「凛々しさ」、「純粋な愛」、「清い心」だという。
例年通り、5月の声とともにテンプレートも新緑に衣替え。
さて、このブログで何度かご紹介している小笠原望先生のコラム。最新号を読んで思ったことが今日の標題である。長文ではあるが、以下転載させて頂く。
お母様とご家族の温かな時間がじんわりと胸に沁み入ってくるようだ。
※ ※ ※(転載開始)
診療所の窓辺から こころの様子は、身なりに表れる 小笠原望
母の髪を切った。母と一緒に住む兄嫁と妻と、そしてぼくとの3人がかり。診療所の忙しい時期を乗り切って、久しぶりに妻と実家に帰った時だった。
昼間に布団で横になっていた母に声をかけると、腰をかがめて食卓に出てきた。その様子にちょっとびっくりした。電話の母は腰痛を嘆きながらも、変わらぬ元気な声だった。
「髪をきれいにしたら」と、母には前々から勧めていた。「天気のいい日に、美容院にそのうち行くから」と、あいまいな返事が続いていた。
母は89歳。食卓に出てきた母の髪はやっぱりそのままで、後ろの髪は輪ゴムでくくっていた。相変わらず腰の調子が悪いと言う。腹も張る、それがもっと大変だとも訴える。
いつもよりも早く母が自分の部屋に引っ込んだので、ぼくが説得に行った。「髪だけでもきれいにしようよ」と、患者さんに話すように繰り返した。ぼくの本気を感じたのだろうか、母も本心は伸びた髪をうっとうしく思っていたのだろう、「そんなに言うなら」と、しぶしぶ髪を切ることに同意した。
兄嫁と妻が、ハサミとカミソリでずいぶん多くの髪を切った。「こっちがまだ多い。ここここ、そうそう」とか、ぼくは理髪店のエプロンのようなものを持ちつつ、指示を続けていた。切り終わると、なかなかの出来栄えだった。
しばらくして、母が食卓に戻ってきた。「頭が軽くなった」と、少女のような笑顔だった。あんなに嫌がっていたのが嘘(うそ)のように、後ろ髪を触ってはさっぱりのいい顔だった。
1カ月に1回訪問診療に行く、有料老人ホームの92歳の女性がいる。時々、便秘や喘息(ぜんそく)のような症状でばたばたするのだが、落ち着いているときはいつもにこにこしている。
今月も順調。頭には緑のベレー帽のようなもの、薄化粧どころか、顏もきちっとしわが見えないくらいに塗っている。口紅が真っ赤で、ときにちょっとくちびるをはみ出しているときがあるのがご愛嬌(あいきょう)。ぼくの診察の日だけの化粧なのかは聞かないが、ぼくもにこにこしながら「お年には見えませんよ。元気でいいですね」と声をかける。
「この頃、化粧しだしたのよ」と、妻が母親の様子を言う。脳梗塞(こうそく)のあと転倒しやすくなり、ここのところぼくたちの家で過ごしている。その義母はこの頃調子がよく、散歩をしたり、食事に友人と外出するようになった。となると、女性は化粧をする。外出の予定がなくても、最近は化粧をしていると妻から聞いた。
患者さんの身なりは、こころの様子を表している。こころが落ち込んでぎりぎりの人は、男性は髭(ひげ)のそり残し、女性は髪はぼさぼさ、すっぴんで診察に来る。化粧をしている人はまだ余裕がある。
「美容院に行ってきました」と、何回目かの受診のときに患者さんが口にする。「もう大丈夫ですね」と、素直に驚いてそして一緒に喜ぶ。
母の電話の声は変わらず力強い。やっぱり顔を見て話をしないと本当はわからない。二週間後に家に帰ったら、食卓にちょこんと座っていた。川柳を見てくれとノートを持ってきた。「いい感性をしている。素晴らしい」と句を褒めたら、うれしそうだった。
「この腰のつらさは、内科の医者のあんたにはなんぼ言うてもわからんやろう」には苦笑いをするだけだが……。(朝日新聞発行の小冊子「スタイルアサヒ」2013年5月号掲載)
(転載終了)※ ※ ※
そう、本当に身なりは心を映す鏡だと思う。心底落ち込んでいればお洒落など出来ない。大層具合が悪ければお化粧だって出来ない(もちろん病院で診察を受ける時、顔色を見て頂くためには厚化粧をして化けてしまってはいけないのだけれど、普段からお化粧時間はチョチョイのチョイで5分程度の私はそういう心配はもともと、ない。)。
まあ、入院中は当然すっぴんだし、フル装備で基礎化粧品からメイクアップ用品まで何から何まで持ち込むわけではない。最低限で我慢、我慢だ(これはずぼらな私だけだろうか。ただでさえ塞ぎがちな気持ちをアップさせるために、自宅で使っているもの全て持ち込んで、完璧に入院ライフに備える方もいらっしゃるかもしれないけれど、私にとってそれはそれほど重要なことではない。)。ろくにブローだって出来やしない(第一、脱毛していれば室内帽やバンダナを被るのが精一杯だ。)。
だから、既にそういう姿をお見せしてしまった主治医や看護師さんたちには、普段の通院日には、私が私なりにちゃんとした身なりをして行っていることがご理解頂けるだろう。
さらにレントゲン検査があれば脱ぎ着のし易いもの(被りものはかつらがずれるから避ける。)、肩ひものストラップにプラスチック等がついていないスリップを選ぶ。そうすれば、ブラさえ外せばそのままレントゲン撮影が出来るので、わざわざ糊の効いた検査着を1枚余計にランドリーに回すこともない。採血のためには腕まくりのし易いもの、かつ、化学療法室に移動した時にポートに針刺しして頂き易いように胸がちょいと開けられる服を着る。まあ、今の季節から夏にかけてはまだしも、冬にタートルネックを着られないのはちょっと辛い(昔、母が「歳をとると首から風邪をひくのよ。」と言って首の詰まった服を着ていたけれど、今はそれが良く理解出来る。)けれど、首にはストール等の巻物をしてやり過ごすのも、慣れればどうってことない。
そう、ちょっと書き出してみても通院時にはそれなりに気をつけなければならない(というよりも気をつけた方が、自分がより心地よく過ごせる)ことが結構あるのだ。が、余裕がないと、どれかを忘れることになる。
もちろん余裕のない時こそちょっと深呼吸をして落ち着いて・・・と努めてはいても、本当に高熱があって、すわ、入院か、などと切羽詰まっていれば、そうもいかない。だから私はここ数年、何はともあれ、非常持ち出しバックよろしく入院グッズを一式入れたボストンバックを常備している。
翻って“美容院に行く”というイベントは、いくつになっても女性にとってとても気分が良くなるものだと思う。けれど、それなりに疲れるものでもある。だから、美容院に行こう-身なりをきちんとしよう、お洒落をしよう-と思えるようになることは、先生が書いておられる通り本当に体調が良くなってきたという印であり、患者にとってはとても喜ばしいことだ。
ああ、私も爽やかな緑の風を感じながら、自分の髪の毛をなびかせてみたい。早くこのまま髪の毛が伸びて、無事2度目のかつらサロン通いを卒業して美容院に行ければな~、いや、行きたいなと心底思う。
そして、今は美容院に行けなくとも、私なりに季節を感じられるお洒落をし続けたいな、と思う。
そんな気分でいられる今の私はまだまだ大丈夫!
今の体調が少しでも長く続くことこそ、何より有難いことである。
帰宅すると今月1回めのお花が届いていた。濃淡のピンクのアルストロメリアが5 本、紫がかったピンクのダイアンサスが2本、かすみ草が2本。花言葉はそれぞれ「凛々しさ」、「純粋な愛」、「清い心」だという。