野球の指導者にとって、教え子が甲子園に行ったとか、プロ野球選手になったとか、全日本代表になったなんて話は夢のような出来事なのでしょうが、そのような出来事は塾長にとってそれほど嬉しい出来事ではありませんとは先日のブログで書いた通り。
全く嬉しくない訳ではありませんが、それは自分が関わった子供の才能と努力が世間に認められたと言う嬉しさで、それ以上でも無ければそれ以下でもありません。
子供達に色んな事を教えていると、そんな嬉しさもあるのですが。
実際にはもっともっと嬉しい事と沢山出会います。
せっかく次の練習まで時間が空いたので、そんな思い出話をいくつか御紹介しますね。
ある夏の日の事です。
その日は太陽も高く、気温が軽く30度を越えておりました。
そんな中、ある塾生にグラウンドを走って来るように指示します。
「今からグラウンドを10周走って来い、歩くようなペースでも構わないから」
指示されたのは当時5年生だったT君。
いきなりの指示に驚いて目を丸くしました。
実はT君、幼い頃から小児喘息を患い、今まで運動らしい運動をした事がありません。
学校の体育もほとんどが見学。
平成塾に来てからも、最初のアップで行うグラウンド3周に付いて来れないのです。
毎回グラウンドを1周走った所でリタイア。
発作を起こすのが怖いのでしょう、いつも自分で自分にブレーキをかけてしまいます。
ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、小児喘息は本人の体力向上と共に消えて無くなる病気。
T君のご両親もそれを承知で平成塾にT君を加入させたのだと思います。
けれども、体力が付くか発作を起こすかと言うのは、鶏が先か玉子が先かと言う様な問題です。
体力を付けさせる為に運動をさせれば発作を起こす心配があり、かと言ってそのまま放っておけばいつまでも体力が付きません。
この真夏の炎天下、塾長はとうとうT君にグラウンドを走らせる事を決意しました。
トボトボと歩くようなスピードで走り出すT君。
頭の上には容赦無い日光が注がれています。
実は塾長、T君を走らせる前に小児喘息に付いて色々と勉強をします。
慈恵医大の先生、及び東和記念病院の小児科の先生に話しを伺い、ネットや家庭の医学書を読み漁りました。
更には救急隊員から発作を起こした時の対処法を教わり、整骨院の先生からも話しを聞きます。
およそ2ヶ月、付け焼刃とは言え軽い発作程度であれば何とか対処する自信もできました。
万が一に発作を起こした時の準備は全て整え、当日はさりげなくT君の体調も確認しています。
T君がトボトボ走っている間は黙って見ていただけですが、実は気が気ではありません。
発作の症状は出ていないだろうか、肩で息を始めて無いだろうか。
何しろT君は最も長い距離で、グラウンド1周しか走った事が無いのです。
それが今回の走る距離はグラウンド10周。
自転車にやっと乗れるようになった子供が、いきなり自転車で旅行に行くようなものです。
果たしてT君。
無事にグラウンド10周を走り終えました。
早速褒めてやる塾長、自分の快挙に驚くT君。
でも、実はこれは試練の始まりだったのです。
給水させて、10分ほど休んだ所で、もう一度グラウンド10周を命じます。
目を丸くするT君。
歩いているようなスピードで構わないからと念を押し、もう一度グラウンドを走らせます。
更に10周、また10周と繰り返され、練習が終わる夕方近くにはT君の走った距離はグラウンド50周になっていました。
皆を集めて、その事を報告します。
それを聞いた塾生達は驚きの声を上げたあと暫く沈黙が続き、その内に誰かが拍手を始めました。
T君への賞賛の拍手です。
それはそれは大きな音で1分ほど鳴り止む事はありませんでした。
T君に自信が付き、それを仲間が迎え入れた瞬間です。
T君はその次の練習から、途中で休む事は無くなりました。
それどころか、今までの分を取り返そうとしているかのように、積極的に運動するようになったんです。
小学校6年生の時には、平成塾のメンバーで構成された地域のソフトボール大会で優勝投手にもなりました。
そして無事に中学に上がったT君。
中学最初の運動会で長距離走の選手に立候補します。
T君を昔から知っている友達は仰天。
けれども全員がT君を応援してくれました。
果たして中学校の運動会。
T君はダントツのビリです。
最後から2番目の選手に1周以上の大差を付けられています。
けれども一度も足を止めようとしないT君。
見学している他の中学生、参観に来ている大勢の父兄、更には学校の先生達も割れんばかりの拍手を送ります。
T君のご両親は泣きながら我が子を見守っておりました。
その横で、誰よりも大きな声で泣いていたのが塾長でございます。