散日拾遺

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誕生日と新年 ~ 個別化と共感

2013-07-05 07:43:56 | 日記
「誕生日と命日」の話を書いたところで、繁忙に突っ込んだのだ。
ブログも書けないなんて情けない。
書きたいことはたくさんあったので。

個人単位で誕生日を祝う習慣は、日本史の中で案外新しいのではないか。
これは誰でも考えることで、個人というものが尊重されるにつれ、その誕生日を祝う習慣も浸透したのに違いない。
しかし、たぶんそう単純でもないのだな。

少なくとも傑出した人物の誕生日は、昔からよく覚えられていた。
釈尊の誕生日は旧暦4月8日(ものの本・・・ではない、Wiki を見ると「インド系太陽太陰暦第2月15日」とある。どんな暦だろう?)、キリストの誕生日は12月25日、いずれも後世の操作によるものと考えられるし、後者は冬至の祭りを踏まえたもので、従ってキリスト教暦の新年でもあるのは分かりやすい。
(ついでに言えば、キリスト教の復活祭は春分の祭りの意味をもつと考えられる。そうしてみると、やはりシンボルとしての太陽の意義が大きいのだ。)

こういうウルトラスーパースターは別として、面白いところでは織田信長の件がある。
晩年の信長が、自分の誕生日を民に祝わせる計画をもっていたというのだが、どこで読んだ話だったかすぐには分からない。
その話を聞いたとき、戦国末期という時代の古さと「誕生日」の取り合わせが面白くて、印象に残ったのだ。

もちろん、これは例外であったには違いない。
しかし、一般庶民にとっては誕生日などなかったかといえば、それはそうでもない。
「正月」が「誕生日」だったからだ。

やや語弊があるか。

それぞれの誕生日にそれぞれ一歳ずつ年を取るのが「満年齢」のシステムだとすれば、
正月に皆一斉にひとつ年を取るのが「数え年」のシステムだ。
そのように考えれば正月は皆にとっての誕生日である。だからめでたいということがあった。

考えてみれば大らかで清々しいシステムだ。

クリスマスと同じく、正月は冬至の直後にあって、基本的には冬至の祭りだ。
冬至がなぜめでたいかといえば、それまで日ごとに衰えてきた太陽の力が、冬至を境に再び伸長に向かう、その転回点だからである。
フェニックスが灰の中からよみがえるというに似て、太陽が力を回復し新たな生へと向かう起点が冬至=正月。
太陽の新生と同期して、人もまた一斉に新生する。

君も僕も、彼も彼女も、お天道様にならって天地万物が一斉に新しくなるお正月。
お正月は皆の誕生日だったのだ。だからおめでたい。
お年玉は誕生日のプレゼントであり、それだけでなく身につけるものや身の回りのものを正月に一新し、それを一年使うという習慣もいろいろとあったのだ。

さて、そういう次第であるとすれば。

個人の誕生日を祝う習慣が浸透すれば、その分だけお正月のステイタスが低くなるのは当然で、これが実際、戦後の日本の家庭で進行してきたところではないかと思う。
皆一緒のお正月より、私固有の誕生日、それはちょうど皆一緒の居間・茶の間より、それぞれの個室を家族が(特に子供や若者が ~ 僕ら世代のだよ、言っとくけど)求めた軌跡と正確に平行する。

そしていま、個室よりも(少なくとも個室とあわせて)共同スペースが求められるように、誕生日とあわせてお正月が待望されるのではないかしら。

何しろ絆が待望される時代だからね。

*****

これは実は「共感」という大枠でとらえられることだ。

人と人との気がそろうこと ~ 小さな気、ミクロの共感
天地万物と連動すること ~ 大きな気、マクロの共感

どちらも欲しいのが人間、欲張りなようでも、人間はそういうふうにできている。

小さな共感と大きな共感

キーワードは「気」 ・・・ 日本人の手作りの精神病理学

そして共感をつかさどる自律神経系(sympathetic/parasympathetic nervous system !)とその失調

きりがないな