散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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見えない存在/養豚場の終わり

2013-07-15 22:32:28 | 日記
2013年7月14日(日)

そうか、パリ祭なのね・・・きっと大騒ぎだね。でも時差があるからまだか。

C.S.小学科で説教当番。創世記のヨセフ物語だが、有名な夢解きの場面ではなく、その後にファラオがヨセフに栄誉と全権を与える場面が指定されている。

むろん、ポイントはヨセフ個人の賛仰ではなく、神がヨセフを用いてどんな絵を描こうとしていたかにある。よく読めば、ヨセフ自身、ファラオ自身の言葉がそれを明示している。

神様の御計画?
未だに自分自身が納得していないこと、格闘していることについて、幼い者たちに確信ありげに語るのは、偽善ではないか?

ともいえない。
このことを信じ得るかどうかに魂の再生がかかっている、その認識は心からのものだ。

ふと思いついて、here and now に引きつけてみた。
いま皆の前に立っているこの先生が語っている、そのことが問題なのではなくて、
この先生に語らせている見えない神の力とメッセージが主題なのだ、と。

now と here をつなげると、nowhere になる。
「白水社の本棚」最新号巻頭エッセイの結びで、被爆地長崎に生まれ育った岡野雄一氏が書いていることだが、僕も気づいていたのに、注目して言葉にすることがなかった。
僕の話も nowhere だったのかな・・・

*****

礼拝の後、例によって七月生まれの生徒のお祝いをする。
今月8歳になるB-day girl に「皆さんから、何か質問はありませんか?」と司会者。
「ハイ」と手を挙げて、「18歳になった時は、何をしていると思いますか?」
言ったそばから後悔した。案の定、女の子は何も言えずにもじもじしている。

もうずいぶん前から、夢や将来計画に関する質問を子供たちは受けつけない。
僕らが子どもの頃には決まって訊かれ、胸を張って答えたこと。
「将来は何になりたいですか?」

「野球選手」「女優」「宇宙飛行士」「翻訳家」「お笑いタレント」「大金持ち」
もう誰も、そんなことは言わない。
「分かりません」「まだ決めてません」
そう返ってくるのが分かっているから、質問する方もこんなことは訊かない。
「好きな色は何ですか?」「好きな食べ物は何ですか?」「好きなスポーツは・・・」
バカバカしくても、そうではなくては答えが返ってこない。そのことをうっかりしていた。
「18歳の自分」なんて、分かるわけないでしょ、禁じ手に当惑して押し黙っている。

アホな親父をフォローする声が、後ろの方からかかった。
「誕生日のプレゼントには、何をもらいますか?」
なるほどね。
それでも女の子は答えられない。
視線を泳がせている先を見れば、どうやら一緒に来た母親に目で相談している風情。
何だか、いじめているような気持になる。時代は変わったのだ。

夕食時の次男氏、
「立派ないい話だったんだけど・・・」
しばし言いよどんで
「あれって、どのくらい伝わってるのかなぁ」

目に見える人物の背後に、彼を用いている神の力と計画があるという、そのことを言っているのだ。
話し手の狙いを過たず受け止めてくれたわけで。

「君なら、どうする?」
「そうねぇ・・・」

確かに伝わらないかもしれないのだが、伝わることを伝わるように話すというのは事のたかだか半面に過ぎない。さしあたり伝わろうが伝わるまいが伝えるべきことを語るのだし、そうする他はないということが残りの ~ より重要な ~ 半面である。これ、親父の矜持。

目に見えるものを超え、背後により大きな真の力があるということ、spirituality とは要するにこのことだ。そのことへの感受性が僕らの社会に大きく欠けており、就中、教育の中に欠落していたのだ。
いい大人がカルトに引っかかるのは、カルトに出会って初めて spirituality の重要性に直面するからだ。

世の中に女という生き物がいることを知らずに育った男が、いきなり悪女に出会えば手もなく籠絡される。幼い時から女について当たり前のことを知らされていれば、話はだいぶ違うだろう。

いま伝わらなくても、いつか思い出してくれればいい、そう思わなければこんな作業はできない。

「なるほど」

と次男氏。再来週は彼の番だ。

ところで、トーマス・マン晩年の大作に『ヨセフとその兄弟』というのがある。
円熟の老大家は、毎晩、明日は何をどう書こうかと楽しみに休んだそうだ。
邦訳はこれまた大家の小塩節、やはり晩節の仕事を楽しんだだろうか。
僕も人生のもう少し後の方で、楽しみに読んでやろうと確信的に積ん読状態。
まだちょっと早いかな。
うん、まだ早い。

*****

ずいぶん久しぶりに鶴見川 15kmコースに出かける。
2012年2月にハーフ・マラソンを走って以来、レースはもとよりランニングそのものを封印していた。
右膝の調子がいまひとつなのでね。
しかし、休ませておいて回復する兆しもなし、むしろ運動不足からかえって膝を守る筋力を落としている感じ。
で、0からやり直すことにした。膝に負荷をかけない、というか、負荷のあり方を今の状態の膝が許容できるものに修正する。早い話がフォームを変え、スピードをぐっと落とす。
これがしんどいんだな。慣れないフォームでゆっくり走るのは、なかなかしんどいよ。
いわゆるLSDと変わらない。

で、2年前には20kmを当たり前に完走できたのに、今は3kmで歩いてしまう。
まぁいいや、短くても遅くても、走れているならそのうちにパフォーマンスも挙がるだろう。

そういう次第で、以前は1時間半で走っていた15kmのコースを走ったり歩いたり2時間あまりかけて流す。
陽射しは強く、河原の緑は鬱蒼と重い。タチアオイやらキョウチクトウやら花は色濃く、魚がしきりと川面に跳ねる。蝉は聞こえないが、鳥はこまめに囀っている。

どんな走り方も自由だけれど、せっかく自然の近くに来て、わざわざ人工的な音楽で両耳を塞いで走るのが、僕にはどうもわからない。リズムに乗って快走できるというんだけど、それじゃ here and now の全否定じゃないか。自然の否認だってば。
まぁ求めるものが違うんだから仕方ない。すれ違いざま「こんにちは」と声をかけてくれる人が時々あるが、もちろんこの人々は耳に何も差し込んでいない。

前腕に塩の層がこびりつくほど汗をかいて無事ゴール。
久々の達成感の中で一点の落胆。

養豚場が閉鎖されていた。
豚のにおいも声も気配もなく、がらんとした敷地内に無人のショベル・カーが停めてある。
連休明けには取り壊されるのだろう。

持ち主が年を取って後継者がいないのか、近隣との折り合いがうまくないのか、経済的にペイしないのか、
理由は分からない。
いつかこの日が来るとは思っていたけれど、寂しいな。

都市部に農地や農業施設を残すことは、三大都市圏の居住者が総人口の半数を超えた現代だからこそ、政策的に留意すべき点だと思う。土と農業から離れれば離れるほど、人間の存在は危うくなる。
家ではゴキブリを叩けず、電車内にカナブンが一匹入り込んだだけでいい大人たちが恐慌状態に陥る、そんなところでどんな想像力が育つものか。富士山に登るにもヘッドフォンをかけていくことだろうよ。

そうか、だから音楽聞きながらのジョギングが忌々しいのだ。
耳は塞げても、鼻を塞いでは走れない。「臭い豚小屋がなくなってジョギングコースの環境が改善した」ってことにもなるだろうし、その方が「ふつう」なんだろうな。

先月の末に、次男の属するコーラスグループなど四団体合同の定演があった。
アンコールのアンコールは、指揮者のはからいで会場全体の『大地讃頌』大合唱。
感動の中で頭の隅が覚めていたのは、地面の露出部分など街路樹の根本ぐらいしか見当たらないコンクリートの真っただ中で、大地の讃歌に酔いしれる皮肉をついつい思うからだ。

何かが大きく間違っている。

「ふつう」のあり方がヘンなんだよ。