散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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永続敗戦 (振り返り日記: 木曜篇 ~ これで一区切り)

2013-07-25 11:53:18 | 日記
7月4日(木)

この日のアメリカ人のお祭り騒ぎは一見に値するし、一見しなければアメリカ人がどういう人々かは分からない。
真珠湾攻撃が彼らの何をそんなに刺激したかもわからないだろう。
今の僕らにとってアメリカとの関係が生死の要であるならば、アメリカ人がどういう人々であるのか、もう少し知っておく必要があるはずだ。

おりしも、朝日新聞のオピニオンに『「敗けた」ということ』という記事が載った。
著者は某大学の助教を勤める政治学者で、『永続敗戦』という認識を軸に戦後史を考えているらしい。
僕らより20年も若い人だが、この年齢差が物事を見えやすくし、また言いやすくしているように思える。こちらは「日本人がどういう人々であるか」に関わるものである。

さしあたり、書かれていることにいちいち同感するのだが、特に溜飲を下げたのは、
「英語が下手なのは、言うべき事柄がないからですよ」
という下りだ。

筆者の論旨からはやや外れるが、僕の流儀ならこういうことになる。
英語がよくしゃべれたとして、アメリカに行ってまず訊かれるのは、日本の歴史・文化・現状についてであり、今の国際情勢に関する日本人と君自身の考え方だ。
その時、カンペキな英語で
「日本の古い話についてはよく知らないし、国際情勢なんて難しいことは分かりません」
と答えたとしよう。
いったい誰が、そんなノータリンを相手にしますか?

某英語学校の車内広告に
「その国には英語だけが欠けている」
とあるのは、とんでもない見当外れだよ。
おもねるのもいい加減にしてほしい。

国際化時代だからこそ、国語に力を入れ日本史についての教育を充実すべきだというのは、ここのところだ。
現代社会について自分自身の認識を養うべきなのは「論を待たず」というところ。
ヘタクソな英語でも、稚拙な内容でも、何か本気で言うことをもっているらしいとなれば、忍耐強く聞く人は聞いてくれる。
それがアメリカ人の、悔しいけれど大きな美点だ。

けれども、この筆者の論はもっとずっと深いところまで行っている。
この線で終わりにするわけにはいかないが、簡単には踏み込めない領域である。

頃合いもよし、7月第一週の振り返り日記はこの辺で一区切りにしよう。

ああ、疲れた~


ブラインド・ウォーク (振り返り日記: 水曜篇)

2013-07-25 11:03:49 | 日記
7月3日(水)

今学期は、第一水曜日を卒論の指導に宛てている。

都内のB学習センターに6名の学生が、今回も全員集合した。
首都圏在住者は3名(東京1、神奈川2)、残りの3人は山梨、大阪、そして山形からやってくる。
身銭を切り(この表現については、別に書く)、時間と労力を費やして、勉強したいことのために集まってくる。これが大学というものだ。

Bセンターは近隣に盲学校があり、白杖を突いた教員や学生が多く出入りする。
最寄駅を降りたら、改札脇に長身の紳士が立っている。
子どもの日にA君の披露宴でお目にかかったK先生だ。
(ブログ「結婚式 ~ 教え子の」参照)
軽く肘に触れながら御挨拶すると、すぐに認識して握手してくださった。

*****

ゼミは和気藹々と進み、午後になって。
助産師のMさんが妙なことを始めた。
6人を2グループに分け、それぞれ3人組でブラインド・ウォークをやれという。
彼女の卒論にどういう関係があるのか分からないが、面白そうなので乗ってみた。

ただのブラインド・ウォークならキャンプなどでよくやることだが、ここにMさんの工夫がある。
3人組みに、役割A、B、Cを割り当てる。
Aは目を閉じ、Bの腕につかまってBの導くままに歩く。口をきいてはならない。
Bは目を開け、Aを連れて意のままに歩く。口をきいてはならない。
一行の行先を決め、順路を選ぶのはBの役割である。
Cは目を開け、AとBの二人連れが安全に歩けるよう、あらゆる配慮を働かす。
Cだけは口をきいてもかまわない。Aに対して周囲の状況を説明するのもCの仕事である。

教室を出て、学習センターも出て、これで10分間、そこで役割を交代する。
30分かけて三人がすべての役割を経験おえたら、ブラインド・ウォークは終わりである。

結果からいうと、これは非常にヒジョーに学ぶところが多い。
実に新鮮、ぜひやってごらん。

まずは目を閉じて歩き出すとき、見えているBさんのゆっくりした歩みが、なお暴力的な速さに感じられること。
そのことを敏感に受け止めて修正するBもあれば、構わず進んでいくBもある。

目を閉じると、視覚以外の感覚がいっせいに活性化することはどうだろう。
大小さまざまな音は言うに及ばず、肌に触れる風、鼻をくすぐる花の香、靴底にあたる地面の凹凸、隣にいるBさんの体温や息遣い・・・
日頃、もっともっと目を閉じなければ!

Aを経験してBの役に回れば、自ずと考えるところがある。
100メートルも向こうの工事現場の機械音は、見えるものには何の脅威でもないが、目を閉じると間近に聞こえてひどく恐ろしい。Aを安心させたいと思うが、Bは口を利くことを禁じられているのでそれができない。
と、察したCが代わって伝えてくれた。
「音が大きく聞こえますけど、実際は道の向こうのずっと先ですから大丈夫。」
ありがとう!

Cにはこのように、A・B両者に対する共感性が要求される。
その言語化を繰り返すうち、BとCの間に、またAからB・Cの双方に対して、信頼と感謝が生まれてくればしめたものである。逆のスパイラルも当然あり得ることで・・・・

もう、書ききれないからやめにする。
いろいろなところで、是非やってみるといいよ。

Mさん自身は、このアイデアを通して彼女の信心のあり方を深め、検討していきたいと思っている。
そのことを追記しておく。
(僕とは違う「宗教」である。念のため。)

*****

それにしても、今年は視覚の困難に関する経験が続くことだ。
何を学べとて、こういう出会いが繰り返されるのだろうか。

小豆島のMさんが、暑い日には愛犬の足を焼けたアスファルトから守るために靴を履かせること、確か書いたよね。
Mさんがその写真を送ってくださったので、末尾にアップしておく。

「私が写したら、パンの足が1こしか写ってなかったので、姪に写してもらいました」
とのコメント付きだ。

帰り道、最寄駅の改札でまたK先生と一緒になった。
肘に触れて御挨拶、大きな手で握手してくださるのも朝と同じ。

皆さん、一日お疲れさま。





百万光年と三半規管 (振り返り日記: 火曜篇)

2013-07-25 09:59:25 | 日記
7月2日(火)

木谷實という昭和の大棋士がある。
棋士としても大きな存在で、川端康成の『名人』には、世襲制本因坊の最後となった秀哉(しゅうさい)の引退碁の相手として、大竹七段の変名で登場する。
それ以上に、その門下から才能豊かな名棋士を群星のごとく産んだことで、碁の歴史に不滅の貢献を刻んだ。

その偉人の揚げ足とりをするのも気が引けるんだけど、
精魂傾けて読みふけっても結論が出ない時、木谷はよく

「百万光年かんがえてもわからない」

と言ったのだそうだ。

わざとかな、わざとかもしれないね。

「光年」というのは、「光が一年間かけて進む距離」のことだから、時間の単位ではなく距離の単位である。だから「百万光年かんがえてもわからない」は、「1キロメートル考えてもわからない」というのと同じで、本当は意味が通らない。
もっとも、考査担当者ではあるまいし、こんなのはムキになって指摘するのが野暮というものだ。
承知のうえで
「木谷先生でも百万光年、俺なんかビッグバン以来考え続けてもわかんないよ」
とダジャレていればいいのだが。

*****

こちらはちょっと悩んでしまう。

堀口大学の『母の声』

     母は四つの僕を残して世を去った。
     若く美しい母だったそうです。

母よ、
僕は尋ねる、
耳の奥に残るあなたの声を、
あなたがこの世に在られた最後の日、
幼い僕を呼ばれたであろうその最後の声を。

三半規管よ、
耳の奥に住む巻貝よ、
母のいまはの、その声を返へせ。


結句が特に有名である。
中学か高校の教科書で見て以来、今に至るまでしっかり覚えているのは、詩の優れていることの証左でもあるだろう。
僕は散文的な人間だが、要するにこの詩には惹かれるものがあるし、感動的だとも思う。

ただ、どうしても素直に鑑賞に浸れない、というわけは、
「三半規管」にある。

医学畑でなくとも、生物をマジメに勉強した者なら知っているように、
三半規管は巧妙にできた平衡器官であって、聴覚とは何の関係もない。
聴覚に関わるのは、詩人自ら「巻貝」にたとえている蝸牛管(カタツムリ管)のほうだ。
声を返せといわれても、三半規管としては当惑するほかないのだよ。

柔らかな詩の中に、ゴツゴツした解剖学用語を挿入したことは、詩人の工夫としてこの作品が長く注目されてきたキモの理由でもある。
そのキモに解剖学・生理学上の基本的な誤りが含まれているのは、音韻上いくらすぐれているとしてもやっぱりマズくないか。
といって、

蝸牛管よ、

では詩にならないんだろうな、たぶん。

堀口大学だけのことなら誰かが一度だけ指摘して、それと知りつつ詩を味わえばすむことかもしれない。
「百万光年」と同じことだし、切手だってエラー切手の方が値打ちが出る。

ただ、今回びっくりしたのは、「三半規管が聴覚受容器である」という間違いそのものを(たぶん)この詩から学んで、いまだに間違え続けている人の多いことだ。
論より証拠、「三半規管」でネット検索してごらん。

これは、これではいけない。



*****

最後にもうひとつ、思い出すたびに今でも複雑な感じを覚える記憶がある。

T大時代、毎年何人かの自殺者が学生の中から出た。
一学年に三千人を超える学生がいたのだから、痛ましいけれども統計上は不思議のないことだ。

確か教養二年の冬だったと思うが、法学部の学生がS池のほとりで縊死を遂げた。
遺書があって、そこに「自分の人生を関数に見たてて積分すると、その値がどうしても負になってしまう」と書かれてあったという。真偽のほどは分からないが、ともかくしばらくのあいだ話題になった。

ある日、生協で買い物をしていると、後ろの二人連れの会話が耳に(それこそ耳の奥のカタツムリに)入ってきた。
明らかにその件について話している。

「積分したって言うんだけどさ」

と、そのうちの一人。

「関数が不連続だったらどうするのかな」

相手は、困ったような苦笑で応じた。
理科系の学生たちなのだろう。

何か強く叫びたいことが胸の内に起きたが、それが死者に対してなのか、目の前の生者に対してなのか、どうにも分からなかった。

今でもよく分からない。





二畳間の招き (振り返り日記: 月曜篇)

2013-07-25 08:49:33 | 日記
7月1日(月)

どこまで書いたか忘れたんだが、確かこれはまだだな。

利休ものをいくつか読んだ。その感想は別に書くとして。
最初に読もうと思い立ったとき、野上弥生子の『秀吉と利休』という有名作が絶版で、新本としては入手できないことを知った。
さもありなんと思いつつも落胆。まあ、古書で読むのがかえって似つかわしいかもな。

6月に帰省の際、こういう作品には母が詳しいことを思い出して訊いてみたが、「今、手許にはない」との返事だ。

その翌日、前に紹介した二畳間の掃除をしていたら、古い小さな本棚の隅に一冊だけ、埃に埋もれていた文庫本が、何と『秀吉と利休』である。これには驚いた。
母のものではないらしく、あるいは昔この家をしばらく貸していた時の、借家人Iさんの置き土産かもしれないと父の説。
奥付は昭和55(1980)年となっているが、まさか自分が買ったのではなかろう。

埃をぬぐい、東京へもちかえって読みふけった。
その中に、豪奢な書院茶に代えて侘び茶を編み出した利休が、二畳一間の方丈に天地をなぞらえる場面が出てくる。

二畳間だよ。

利休を知りたいと思いながらさしあたり術がなく、たまたま二畳間を掃除していたら、待っていたかのように30数年前の利休本が見つかり、その中で二畳間が讃頌されている。

合わせ鏡?入れ子?

何というのか、軽いめまいの感覚がある。
二畳間に呼ばれているみたいだ。
利休さんにではなくて、二畳間に。

*****

落語のオチを解説するみたいで、気が進まないのだけれど。
しかも自作の、面白くもない落語のね。

先日の「ハスとサイパン」というのは、僕にとっては二畳間の話と少し通うものがある。

7月18日が伯父の命日であると意識したのは、ここ数年のこと。
今年になって、この日が大賀ハスの開花日であることを知った。
そこにメッセージを読むのは、いとも簡単だ。

失われたかに見えたハスの実が、数千年を経て開花する ~ 不死と再生を象徴するように

失われたかに見える日本の若者たちの命が、遠い未来にいつか別の天地に開花することはないのか ~ 不死と復活の希望へ

伯父たちが亡くなった同じ日、歴史的にはまる八年後に、ハスが開花した。
その「偶然」が二つのことのつながりを伝えていないか。

バカバカしい、単なる偶然の一致だよ。
そうだろうね、たぶん。

僕は納得しない。

言いたかったのはそのことだが、これまでに感想を寄せてくれた人々は皆、申し合わせたようにそのことを回避している。
なので、あえてオチの解説を書き留めておくことにする。

*****

二畳間とこの件と、どこが通うかって?

本気で訊いてるの?




H先生にインタビュー (振り返り日記: 日曜篇)

2013-07-25 07:56:44 | 日記
例によって振り返りの後出し日記。
3週間以上も経ってしまったが、それでも書いておきたいあれとこれと、これとそれと、

6月30日(日)は、午後からH先生のインタビューに出かけた。
暑い日だったと思ったが記録を見れば28℃、その一週間後に猛暑が始まったのだ。
この日にすませておいてよかった。

H先生は死生学の領域では誰でも知っている方だから、実名で書いてしまっても良いようなものだが、きわどく慎みたい気持ちがある。
この件は5月20日(月)にお目にかかってうちあわせてある。ざあざあ降りの赤坂だったっけ。
その際の申し合わせに従って、先生の所属なさる教会へ伺ってインタビューをいただく。

僕のほかに制作部のスタッフ2名、現地集合にしたが肝心の技術屋さんがなかなか着かない。
訊けば、駅の反対側の別の教会に行っちゃったのだ。
これはこちらが不親切だったかな、プロテスタント教会にもいろいろあるが、事情を知らない彼には紛らわしかったことだろう。

待つ間にH先生と事前の確認。
「2週間前に、母が亡くなりまして」
とH先生がおっしゃる。
まったく知らなかった。97歳の大往生でいらしたとのこと。

「先日、赤坂でお目にかかかった時は、母はまだおったのです。ですので、」
ひとつ咳をなさって、
「ですので、私自身の闘病のことは、インタビューでは話さないつもりでおりました。どこから母の耳に入って心配をかけるか分かりませんから。しかし、このようなことになりましたので、今日はすべてお話ししようと思います。」

思わずこちらの背が伸びる。
今日H先生が語られる「復活の希望」は、お母様との再会の希望とも重なることになる。

T女学院に死生学講座を開設なさった件について、触れてくださるよう確認する。
「そもそもの立ち上げの経緯から・・・」
と言うのを、
「そうですね、立て上げの際には」
と、さりげなく言いなおされた。

そうだよ、「立て上げ」が正しい。
複合自動詞「立ち上がる」に対しては、当然ながら複合他動詞「立て上げる」が対応する。

「立ち上げる」は、捻じれたツギハギなのだ。30年近く前、はじめてこの表現を聞いて以来、何かヘンだと思いながら何となく使い続けてきて、今日H先生に修正していただいた。
来てよかった。

やがて技術さんが無事到着、大汗かきながら、でっかいスチールの箱からあれこれ機材を取り出す。
「重くて大変ですね」
「いやあこれでも楽になりましたよ。機械がコンパクトになりましたからね。デンスケの時代は大変でした・・・」
デンスケ!
何と懐かしい・・・
礼拝堂は、ほどなくミニスタジオに変身した。

インタビューは滞りなく済んだ。
語ることを豊かにおもちのH先生だけに、予定時間には終わるまいとの希望を含んだ予想とは異なり、はずした腕時計をメモの横に置かれた先生は、ひとつひとつの話題を歯切れよく語っては区切り、都度、唇をぎゅっと結んで厳しい表情をなさる。
行動の人であるとともに、克己の人でもいらっしゃる。

技術さんが、拡げた時と同じ要領でミニスタジオの機材を手際よく片づけていく。
ドラえもんのポッケ、というより、寅さんのでっかい荷物の感じだろうか。
仕上げに、いま収録したばかりのインタビューをその場でCDに焼き、H先生と僕に渡してくれた。専門家の手際の良さは気持ちの良いものだ。

片づけながらの雑談で、ふとカメラマンというものの凄さに話が流れた。
三浦雄一郎の最高齢エベレスト登頂ニュースからの連想だが、誰かが登頂したことを伝えるニュース画面は、他の誰かがそれを撮影しているわけである。撮影しながら登頂する方が、被写体よりも倍ほど大変なのではあるまいかと。

「そうですよ」

と技術氏はこともなげに返答する。
カメラマン養成は10年がかり、特に山岳と深海は大変で、それ専門のカメラマンが必要になる。
それを自前で養成する(できる)組織は多くはない。
自前で養成できなければ、外部に委託するわけか。
それにしたって、どこかで誰かがコストと時間をかけて養成せねばならず、養成される側からいえばこの一事に人生をかけることになる。

これが人間社会の面白さだが、こういう遠回りの発想が最近どんどんやせ細っているような気がする。
相当大事な何かが、この問題に隠れているよ、きっと。