2016年2月19日(金)
すごく良いことがあったのに、忘れていた。
Fさんが、採血を受けると約束してくれたのだ。この一件で、憂さの1ダースぐらいはチャラにしてお釣りが来る。
やったね~ ♪♪♪
2016年2月19日(金)
すごく良いことがあったのに、忘れていた。
Fさんが、採血を受けると約束してくれたのだ。この一件で、憂さの1ダースぐらいはチャラにしてお釣りが来る。
やったね~ ♪♪♪
2016年2月19日(金)
「気立てが良い」という言葉は「娘」につながって、昔話や小説などで主人公クラスが好もしい花嫁候補であることを暗示する際など、よく使われるのだと思う。しかし本来は女性に限った形容ではないし、むしろ「気立ての良い若者」などと言ってみれば、実在・架空のある種の青年イメージがいくつか彷彿され、心楽しむところがある。
自分自身は、「気立てが良い」と言われるに必要な条件を微妙に/決定的に欠いていた。ワガママとか、気分のムラが大きいとかいうのは、やっぱりどうしても「気立ての良い」の反対でしょう。
ところで「気立て」というこの言葉である。もうだいぶ前から「気」でできた言葉がそれこそ気になっていて、「気」をキーワードに街場の精神病理学を組み立てられないかと考えたりする。印象としては「気」は基本的に流動的なもので、感情の状態や変化を表す力は豊かであるが、構造論には向かないと思っていた。けれども「気立て」は、これとは違って構造論的な特性を備えている。パーソナリティにぐっと近づいてくる。disposition に近いかも知れないが、もう少し自覚的に陶冶できるものを含むだろう。
「立て」という言葉との組み合わせがこうした意味合いをもたらすのだ。「組み立て」という時の「立て」である。そう考えて、思い出すのが「石立て」だ。耳慣れないかもしれないが、これは古来の囲碁用語、今日「布石」というところを江戸時代には「石立て」と呼んだのである。碁の序盤において、一局の基本構造を決定する大きな枠組みが「石立て」だ。
いつになってもこの「石立て」がものにならないのは、「気立て」の悪さが原因かしらん・・・
それにしても、ここ数日どうも気が重い。思い当たる理由がいくつかある。
人々のマスク、看護師や書店員の固陋で配慮の欠けた「言葉」、診療空間に次々ともちこまれる裁判沙汰、等々。しかし一番は、自分の能力と姿勢に関する不信であるらしい。
朝の憂鬱。