散日拾遺

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盤上の無限

2016-02-11 11:26:52 | 日記

2016年2月10日(水)

 Fさんとは1~2週に一度、昼休みの45分ほどを使って対局する。技術・運輸部のFさんは教員と違って就業時間厳守だし、終業後は僕のほうが都合がつきにくく、家路も遠いので原則として打たない。45分で決着のつくことは少ないので、どうしても打ち掛けになる。お互い、次の機会まであれこれ頭の中で検討することになる。

 これは碁会所などではまず絶対に生じない状況で、その教育的な効果をFさんと打つようになって痛感した。途中で手を止めて検討し方針を選択する。打ち進めてその方針や判断過程を振り返る。この繰り返しが上達を生むはずで、無反省に番数ばかり重ねても学習効率はひどく悪いはずである。

 ある時たまたま対局に使っている部屋に立ち寄ったら、休憩中のFさんが碁盤を出して難しい顔で考え込んでいる。そうか、先方もそれをやってるなら反則ではないねという訳で、こちらはケータイ写メに撮って電車移動中などに見直すようになった。それで学んだことは山ほどあるが、殊に先週3日(水)の打ち掛け場面は自分にとって永久保存ものである。

 

 右辺で黒が白石を取り込み、50目からの確定地を得た。その代わり中央左の黒の一団がはっきり生きておらず、当然白はこれを狙ってくる。次は黒番、黒としてはこの一団をできるだけ効率よく生き、先手を取って他に回りたい。それができれば黒の逃げ切り、もたついて生き損なったり、生きたは良いが左下の白地が大きくまとまったうえ、先手で他に回られたりすれば局勢がもつれる。

 技術的なポイントが2つ。黒一団の左上に位置する白の7子も形が悪く、下方とつながり損なうと取られてしまう。もうひとつは左下で捕捉されている黒2子で、逃げ出すことは不可能だが直上の白2子のダメを詰める働きをしており、取られるにはまだ2手かかる。これらの兼ね合いを踏まえて次の手を考えていたら、次から次へとさまざまな変化図が現れ、自分でもびっくりした。初手の候補がいくつもあり、上下の石に先に利かすか、利きを保留して後に回すかの手順の問題があり、先手を取った場合に黒はどこへ回るか、白ならどこを打つかの関連も生じて、ほとんど無尽蔵の変化である。そのプロセスで、印刷物の中でしか知らなかった手筋が至るところに顔を出し、ベランダのプランターの中にジャングルを見つけたような気分がする。

 しきりに賛嘆していたら、次男が「変化パターンは有限でしょ」と横目で曰うた。そりゃそうだよね、だからこそPCがプロ棋士を破る時代も到来しつつあるわけだ。(先ごろ Nature に載って騒ぎになった件、いつかはそうなるだろうけれど、それがそんなに画期的ですかね。http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2016_0210.html)

 しかし、そんなのはサハラ砂漠の砂粒の数が有限というのと同じで、神学的なレベルの言説である。神の有限は人の無限、「古今同局なし」という盤上の無尽蔵を、素直に楽しむところに祝福が訪れる。

 それにしても取られている石の発揮する「利き」ということ、不思議の不思議を今回とっくり得心した。これがあるため、黒の一団の特に下の部分は見た目以上に強い。白2子の方からは迫ることができないカラクリが、全くびっくりぽんである。僕らの碁では期せずしてそういう場面が現れるが、プロはそれを狙って捨て石を放つ。その域に少しでも近づきたいものだ。

 

 今日の打ち継ぎ、部分的には狙い通りに進んだが、先手を取ってからの打ち方に思慮の不足あり、意外にもつれた。左上でセキ狙いのヨセを放ったところ、Fさんが見損じて白石が部分的に死んでしまう。ところがさすがFさん、長くつながった大石の反対端でコウを挑まれ、一瞬ひやりとした。結局、右辺の白が息を吹き返して逆に黒を取り込み、黒は盤の左上をごっそり地にするという、特大のフリカワリになった。日曜日の河野・井山局みたいと言ったら恐れ多いけれど。

 碁に無限の深さがあると言えばテクニカルには誤りだが、人生の営みとしては少しも間違っていない。それを教えてくれるのは、憎さも憎き碁敵である。

***

 打ち終えて、昼休みの残り10分あまり。「布石だけでもやりますか」「では手番を入れ替えて」と、さらさら進んだ下記の場面。次は白番の打ち掛け図、さあ今度はどうしましょう?

Ω