散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

【読書記録】「中村屋のボース」

2020-03-12 19:25:32 | 読書メモ
2020年3月12日(木)
 中島岳志 『中村屋のボース ー インド独立運動と近代日本のアジア主義』 (白水社, 2005)

 出版時に話題になり、書店に平積みされてから既に15年経っている。話題作はすぐに読まない/読めない性だが、ほとぼりが冷めて入手するまで7~8年、それから読むまで7~8年では気が長すぎるか。
 もっとも、 ネット上の詳しいレビューも最近のものが多い。著者の玄洋社理解に対して疑問を呈したものが複数あり、これは一書の評価を超えて重要な問題につながっている。「ノンフィクションであって学術書ではない」といった批判もあるが、だからこそ学術書よりノンフィクションを求める読者 ~ 僕自身を含む? ~ に歓迎されるのだろう。さしあたり、こういう人物がいてこういう事実があったことを知るだけで、大きな収穫である。僕など恥ずかしながら、R.B.ボースとチャンドラー・ボースの区別がついていなかった。

 読むにつれて関心・疑問はしばしば trivial な方向へ流れ、たとえば1915年当時、イギリス外務省からR.B.ボースの逮捕要請があったにも関わらず、日英同盟(1902-23)の時代でありながら日本政府が簡単には応じず、むしろボースを泳がせておこうとしたらしいことが大いに気になる。
 インドの独立運動はイギリスにとって獅子身中の厄介な虫で、第一次世界大戦勃発(1914)後はなおさら危険な存在となりつつあった。日露戦争から10年を経て、イギリスの歓心をつなぐことが既に外交上の必須条件でなくなっているとはいえ、この非協力は相当に露骨で敵対的と見なされかねない。当時の日本政府にどんな判断や計算があったのか、その後のアジア展開に関してどのような展望をもっていたのか、そのあたりが知りたくて仕方がないのである。(P.69あたり)

 これに関連して、下記のくだりが面白い。
 「R・B・ボースとグプターの二人は、退去命令書を手にしたまま、即座に頭山満のもとへ向かった。彼らは在宅中の頭山と面会し、国外退去命令を受けたことを伝えるが、頭山は彼らの話す英語がわからない。R・B・ボースが途方にくれていると、尾行の警官が間に入って通訳をした。」(P.84)
 「尾行の警官」とさらりと書いたものだが、1915年当時英語が堪能であったことだけをとっても、この警官はただの巡査などでありえない。相当に能力の高い諜報担当者と見るべきで、それがわざわざ尾行対象者に通訳の便を買って出るなど「ありえない」図である。政府・警察側が暗にR・B・ボースらの逃走成功を望んでいるとしか思えないが、その解釈でいいのか。
 さらに trivial に食い下がるなら、なぜ尾行者は「間に入る」ことができたのか。在宅中の頭山満と面会するにあたって、インド人二人はまず頭山邸の応接間に通されたに違いない。路上の立ち話なら尾行者が「間に入る」こともできただろうが、頭山自身が招じ入れるのでなければ、屋外から中を窺う以上のことはできなかったはずである。
 実は相当に大事な場面で、ここはぜひとも資料根拠を示しつつ、綿密に考証してほしかった。

 思いがけない余得が一つ、東銀座のインド料理店「ナイル」に個人的な思い出がある。医科大の二学年上にKというアジア通があり、学生時代のアジア好きが嵩じて現在もILOで活躍中である。確かこのKが「ナイル」に連れて行ってくれた。その後に教会通いを始めた頃、小川貞昭牧師が辛いものを好むと知り、あるとき誘って連れ出した。祖父に甘える孫の気分でもあったか、ともかく辛いカレーにこちらが悪戦苦闘するのを横目に、よく光る頭に汗一つ浮かべず涼しげに平らげていらしたのが懐かしい。
 「ナイル」といってもエジプト料理ではない、インド人創業者の名前だとは当時から聞いていたが、この人物がP.215-6に登場するA.M.ナイルであるという。1928年に来日して京都帝国大学の土木工学科に学んだ後、1933年に満州に渡り、満州国を舞台にインド独立運動を推進した人物である。中村屋もナイルも、今ではそうしたものものしさと無縁の食事処になっているのが面白い。

***

 確かにノンフィクション的であるかもしれないが、R.B.ボースという人物の生涯がただ一つの目的に捧げられていることに対応して、書籍全体の主題も副題が示す方向に自ずと収斂する。著者自身のあとがきから転記することで、読書記録に代えておく。

 「R.B.ボースの提示する思想には、共鳴する部分が多かった。彼のインド独立に賭ける並々ならぬ情熱にも激しく心を動かされた。その人間性にも魅了された。しかし、彼が最終的に日本の膨張主義を看過し、その軍事力を利用してインド独立を成し遂げようとした点に、どうしても引っかかりをおぼえた。日本に亡命し帰化した彼には、そのような道しか選択の余地が残されていなかったのだろうかという問いが、私の中で何度も駆け巡った。
 私は、R・B・ボースが書いた文章に向かって、そのことを問いかけ続けた。
 本文中で見たきたように、R・B・ボースは、1920年代には日本の志那保全論者を厳しく批判し、日本政府や玄洋社の「支那通」たちに対して厳しい見解を示した。また、日本の朝鮮統治に対しても、立場上、公の場では明言することが出来なかったが、常に強い不満を抱いていた。インドの独立を目ざす彼にとって、帝国主義的傾向を強める日本は、インドを苦しめるイギリスと同じ穴の狢であった。しかし、1930年代に入ると満州事変を境に、R・B・ボースは日本の中国政策批判を完全にやめた。そして、日本によるアジアの解放というイデオロギーに、インド独立のための戦略的観点から同調していった。
 一方、彼はインドの宗教哲学者オーロビンド・ゴーシュの思想に大きな影響を受けており、究極的には国民国家体制を超えた世界のあり方を志向していた。そして、それを実現するため、東洋精神の発露としてのアジア主義を唱えた。R・B・ボースにとって「アジア」とは、単なる地理的空間ではなく、西洋的近代を超克するための思想的根拠であり、個々人の宗教的覚醒を伴う存在論そのものであった。彼は、物質主義に覆われた近代社会を打破し、再び世界を多一論的なアジアの精神主義によって包み込む必要があると主張し続けた。しかし、そのような理想は、「大東亜」戦争のイデオロギーに吸収され、それを補完する役割を果たした。結果的に、大日本帝国による植民地支配や「大東亜」戦争は、多くの人命を奪い、アジア諸国の人々の尊厳を深く傷つけた。
 R・B・ボースは、イギリスの植民地支配からインドを独立させアジア主義の理想を実現させるためには、日本という帝国主義国家の軍事力に依存せざるを得ないという逆説を主体的に引き受けた。「ハーディング爆殺未遂事件」などのテロ事件を主導してきたR・B・ボースは、目的と手段が乖離するというアイロニーを、避けて通ることのできない宿命と認識していた。彼はテロや戦争の限界を十分に理解した上で、なおかつそのような手段を用いなければ植民地支配を打破することなどできないという信念をもっていた。
 そして、この問題はR・B・ボースの生涯に限定された課題などではなかった。これは近代日本のアジア主義者や「近代の超克」論者がぶつかった大きな問題であり、広く近代アジアにおける思想家・活動家たちにも共通する難問であった。「近代を超克し東洋的精神を敷衍させるためには、近代的手法を用いて世界を席巻する西洋的近代を打破しなければならないというアポリア」こそが、20世紀前半のアジアの思想家たちにとっての最大の課題であり、苦悩だったのである。」
(P.331-2)

Ω