散日拾遺

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カントからピラトへ

2021-08-02 19:07:29 | 読書メモ
2021年8月2日(月)
 E君
 いよいよ読み始めた『巨匠とマルガリータ』、のっけから面白い。この面白さには、実はプライベートで特殊なものがあります。なぜというに…
 先週、貴兄との約束に従って研究室から『地名アイヌ語小辞典』をもちかえり、歌登が ota-nupri つまり「砂の山」であることなどをお伝えしました。その時、あわせてもちかえったのが購入して20年間むなしく書架に放置されていた『倫理21』(柄谷行人)、読んでみればたいへん面白いこの本の、一つの軸になっているのがカントであったわけです。
 然るに『巨匠とマルガリータ』の冒頭早々…
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 「それでは神の存在の証明、ご存じのように、ちょうど五つある例の証明はどうなります?」
 「ああ、なんということです!」憐れむようにベルリオーズは答えた。「あの証明のうち、どれひとつとして価値あるものなんてありません、そんなもの、とうの昔に、人類はお払い箱にしてしまっています。だって、そうでしょう、理性の領域では、いかなる神の存在証明もありえないのですから」
 「ブラヴォー!」と外国人は叫んだ。「ブラヴォー! あの苦労性の老人イマヌエル・カントの考えを、そっくりそのままくり返されました。しかし、まったく滑稽なことに、カントは五つの証明をことごとく否定し、そのあとで、まるで自分自身を愚弄するみたいに第六の証明をでっちあげたのですからね!」
 「カントの証明だって」薄笑いを浮かべて、学識豊かな編集長は反駁した。「やはり説得力のないものです。それだからこそ、この問題に関するカントの考察は奴隷を満足させるだけだとシラーが語り、シュトラウスもこの証明を一笑に付して、まともに相手にしなかったのは無理のないことです」
ブルガーコフ/水野忠夫訳『巨匠とマルガリータ』岩波文庫(上)P.21-22
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 決してなじんでいるわけではないカントの思想に、数日の間に立て続けに出会う面白さを「プライベートで特殊」と言ったのです。偶然でかたづけるには、あまりに意味ありげで艶っぽい始まり方でした。
 それを別にしても、とにかく面白い。電車の中、診療の合間に、あっという間に130頁ほど読み進んで、もう第6章です。そこで既に通り過ぎた、問題の第2章『ポンティウス・ピラトゥス』についてですが。
 ここに描かれているイエスは福音書のそれとは全く違う、善良で楽天的なユートピア思想家ですね。それを福音書記者マタイが、事実とかけはなれたストーリーの主人公に仕立てようとする。
 「あの男は羊皮紙を持って私のあとをしつこくつきまとい、ひっきりなしに書きつけているのです。ところがあるとき、その羊皮紙を覗きこんで愕然とさせられました。そこに書かれてあったのは、私がまったく言いもしなかったことばかりだったからです。どうかお願いだから、その羊皮紙を焼いてほしい、と頼みました。しかしあの男は、それを私の手から奪い取ると、逃げてしまったのです。」(P.44-45)
 要するにナザレのイエスは実在したが、キリスト教の核心的メッセージはすべて周囲の関係者や後世がイエスに託して創作したもので、その意味で福音書は何一つ本当のことを述べていないという「教授」の主張です。
 このように、イエスもマタイもユダも正統的解釈とはまったく違った有り様で描かれるのですが、その中で不思議にピラトだけは(そしてその反射的存在である大祭司カヤファも)正統的解釈における描かれ方といちばんズレが小さく、ほとんど無修正で通用するように思われます。
 これはナゼなのでしょう?逸脱者のあり方は多様であっても、それに対応し問題を処理する現世権力のあり方は、いつでもどこでも驚くほど一様で没個性的といったことが浮かびます。そうであるがゆえに、物語の一つの座標軸として働くのかもしれないと思ったりしますが、さてブルガーコフはどういうつもりで何を仕掛けているのか興味津々といったところ。
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 以上、とりいそぎ「作業開始」の報告まででした。
 ところで些細なことですが、ちょっと驚いたことに2015年第1刷、2019年第5刷のこの文庫本には、
 「要するに教授は気違いなのだ」(P.87)
 と書かれた部分があります。この言葉を活字で見るのは、いったい何年ぶりでしょう。考査課の面々が見たら、さだめし驚き憤ることでしょうね。
 今日の標準では「アウト」ですし、もちろん私も使いはしませんが、「気」が「違う」と語源的に分解してみるならこの言葉には含蓄があります。「気が大きくなる」「気が沈む」などの言い回しが「気」の量的変調を表すのに対して、その質的逸脱を示すのが「違う」という言葉の謂なのでしょうから。言葉を差別的にするのは使う者の性根であること、真にうんざりです。
 またあらためて
M拝
Ω