2021年8月4日(水)
一ヶ月ほど前になるが「アメリカザリガニ」がミドリガメとともに特定外来生物に指定されたことが新聞に載った。今後は野外で繁殖しないよう、規制する方向だという。
2021年7月7日(水)朝日新聞紙面より
このニュースに、実は少なからず驚いた。つまり、
「え、今さら?」
という驚きであるが、果たしてその意味が通じるだろうか。
ザリガニに接する機会を日常的にもったのは1962(昭和37)年から1969(同44)年にかけて、前橋・松江・山形に住んだ時期だった。69年夏に名古屋に移ってからも、少し脚を伸ばせばザリガニの住む水辺もあったはずだが、住宅街に住む中学生だったからそのチャンスは実際にはほとんど訪れなかった。
この時期の初め、確か前橋で小学校1~2年の頃と記憶するが、クラスの誰かが家周りの水辺で捕まえた生き物をもってきて、教室の水槽に入れたことがあった。大ぶりのタニシや水棲昆虫と一緒になって、ザリガニが二匹入っていた。
二匹の様子は、これが同種の生き物かと思うぐらい違っていた。一方は褐色でちんまりし、ずんぐりぽってりの体型。もう一方は鮮やかな緋色で巨大なハサミをもち、脚の長い堂々たる骨格、実感としてほぼ二倍の大きさだった。日ならずして、小さい方が消えてしまったことは言うまでもない。
担任は思慮深いI先生だったから、事の顛末が子どもの目に露骨に触れぬよう配慮なさったのだと思うが、何が起きたかはみな分かっていた。アメリカザリガニが在来種のザリガニを圧倒し、餌にしてしまったのである。
この時期の日本人が「アメリカ」というシンボルに対して抱いていた複雑な感情は、今日の若者の想像し得るところを遠く超えている。ザリガニまでアメリカが強いのか、赤鬼のように大きくて強くて容赦がないのか、ここにはカケラほどの冗談もない。大谷翔平の活躍がどれほどのシンボリックな意味をもち得るか、若者自身はおそらく知らない。
これが推定1963~4年、つまり前回の東京五輪前後のことである。放っておけば北関東はおろか、日本全土のザリガニが在来種からアメリカザリガニに置き換わるのに大した年数はかかるまいと思われた。先に「今さら?」と言ったのは「保護すべき在来種のザリガニが、まだいたんですか?」あるいは「まだ間に合うんですか?」という意味である。
インターネット情報によれば、固有種のニホンザリガニ Cambaroides japonicus は現在では北海道と北東北三県(青森・岩手・秋田)のみに生息し、大館市の生息地が国の天然記念物に指定されているとのこと。絶滅が危惧であってまだ現実でなかったことに、無知を恥じつつ安堵する。ニホンザリガニの個体数減少に関してアメリカザリガニの脅威甚大とはいえ、自然環境の全般的変化の影響も無視できないともある。さもありなん。
アメリカザリガニは、「1927年に食用ガエル(ウシガエル)の餌として初めて輸入された」と新聞解説。
1927年という年は後述の引用に照らして確認の必要があるが、それはさておき、この一行の記述から時代状況が思い浮かぶ程度の歴史素養をもちたい。昭和初年の日本の農村は深刻な窮乏のうちにあった。ということは、当時の日本人の多くが困窮していたということでもある。その打開策として食用蛙の養殖事業を農村に興そうと試み、餌となるアメリカザリガニを苦労して運び入れた人々があったのだ。
「昭和五年(註:1930年)、河野芳之助氏が外遊の途次、ニューオルレアンス市のパーシー・ヴィオカス氏を訪れ、食用蛙の餌として100匹エビカニを手にいれ持ち帰った。サンフランシスコよりの航海中80匹はたおれ、他の20匹が無事到着したので、それを岩瀬(註:現在の鎌倉市岩瀬)の食用蛙を入れない池にはなったのが渡来の濫觴(らんしょう)である。」
「河野氏の養蛙事業はその後頓挫して池は潰され、飼育のエビカニは逃げ出して広い天地を求め、先ず大船付近の水田から次第に東京府、埼玉県、千葉県と広がった。今では局部的ながら全国に拡散し、江崎悌三博士によると、九州でも福岡付近に相当繁殖している。」
以上は、丘英通・高島春雄『帰化動物』(1947)からの、下記新書への引用である。新書はこの引用からも窺われるとおり、ザリガニを通して幅広くものを考えさせてくれる好著、ぜひ読み継がれてほしい。
山口恒夫『ザリガニはなぜハサミをふるうか 生きものの共通原理を探る』 中公新書(2000)
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