散日拾遺

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総督ピラト

2021-08-01 17:23:23 | 日記
2021年7月20日(火)
 E君、
 貴兄からピラトについて御質問いただくとは、20代の頃には予想だにしなかったことでした。貴兄ならいくらでも自分で調べられるでしょうに、どうやら宿題をくださったようですね。
 聞けば、ブルガーコフの快作『巨匠とマルガリータ』の冒頭近くにピラトが登場するとのこと。それではなおのこと、解説も的確を要するでしょう。
 一つ気になるのは、ロシア人作家ブルガーコフには正教徒としてのピラト理解が前提としてあるだろうということです。西方教会の事情についてはある程度、確信をもって語れますが、ひょっとして東方教会のピラト理解には何か違いがありはしないか。以下に御紹介する信仰告白の文言に戻れば、そんな心配もないはずだけれど。
 ということで、まずは西方教会の流れを汲む現代のプロテスタント教会で、僕が教わってきたことをおさらいしてみます。それからブルガーコフを読んだうえ、読後に二人で解題を試みることにしましょうか。

***

 ポンテオ・ピラトと表記することにしましょう。この人物はローマ帝国の第二代皇帝ティベリウス(在位 A.D. 14-37)時代のローマ人で、ユダヤ属州の第5代総督(A.D. 26-36)とされています。ヨセフスの『ユダヤ古代史』などにも事績や失政ぶりが記されており、実在の人物であることは確実なようですが、キリストに十字架刑を宣告したことについては新約聖書以外に記載がありません。
 その新約聖書にどう描かれているかということですが、その前に「使徒信条」や「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」について触れた方が早いでしょう。
 使徒信条 は Credo の通称で知られる比較的短いもので、早い時期の教会で洗礼式に用いられたのが起源とのことですが、現在ではカトリックのミサやプロテスタントの礼拝の式文に組み込まれ、西方教会では広く共有される信仰告白文です。ただ、東方教会では使徒信条を用いません。東西両教会にまたがる共通の信仰箇条を探すとなると、ニカイア・コンスタンチノポリス信条がそれにあたります。381年のコンスタンチノポリス公会議で採択されたもので、世界中のほとんどのキリスト教会がこれを信仰の基礎として受け入れています。
 これらの中に、下記の文言があるのです。
 「主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ…」(使徒信条)
 「聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ...」(ニカイア・コンスタンチノポリス信条)
 誕生の後は、生涯の詳細に触れることなく、受難・死・復活へ直結していくのですが、その受難が「ポンテオ・ピラトのもとで」なのですね。
 これは私、なかなか納得がいかなかった。私ばかりでなく、多くのビギナーが首を傾げてきたのではないかと思います。何故というに福音書に描かれている総督ピラトは、彼の権限の許す範囲内でナザレのイエスの処刑を回避しようと腐心していることが明らかだからです。

***

 福音書によれば、イエスの処刑を待望・画策していたのはピラトではなく、ユダヤ人共同体内の伝統的・保守的な宗教指導者でした。こうした人々がラディカルで尖鋭な改革者を危険分子と見なすことは、どこの社会でも珍しくないことですよね。宗教的には形骸化しまたそれゆえに社会の安定に寄与している守旧派にとって、改革者が民衆の熱狂的な支持を集めつつあるとすれば、なおさら看過できない危険な存在となります。
 祭司団、律法学者、ファリサイ派、サドカイ派など互いに軋轢を抱えた諸グループが、危険分子の芽を摘もうとする点で利害の一致を見るのですが、ローマの支配下にあった当時のユダヤにおいて、彼等は自身の手でイエスを死刑に処する権限をもっていませんでした。その権限をもつのはローマ皇帝の代理人である総督ピラトです。
 そこで祭司長ら指導者グループは、彼ら自身の裁判システムによってイエスを瀆神の罪に問うたうえ、死刑の執行をピラトに要請します。実際に当時のシステムがこのように運用されていたのかどうか、そのあたりはわかりません。ともかく要請をもちこまれたピラトの方は、簡単にうんとは言いませんでした。
 以下のやりとりが記されています。
 「そこで全会衆(石丸注:長老・祭司長・律法学者ら、直前まで最高法院でイエスを裁いていた人々)が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。
 『この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。』
 そこでピラトが『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは『それは、あなたが言っていることです』と答えた。」(ルカ 23:1-3)
 最後の部分は「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」というヨハネ福音書(18:34)の言葉の方が分かりやすいですね。
 いずれにせよこれはピラトにとってはまことにバカバカしいやりとりで、目の前の男が王を僭称する意図も政治的実力もないのだと見切れば、ユダヤ人同士の神学論争など、どうでもよいことです。「皇帝への納税を禁じた」のが事実であれば公然たるローマへの反逆でしょうが、イエスが決してそのような動きをとらなかったことは、有名な「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という納税をめぐる問答からも明らかです。
 そこでピラトは、
 「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」(ルカ 23:4)
 と明言するのですが、祭司長らは、
 「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです。」
 と、納税問題を除いた残りの主張を繰り返します。(ルカ 23:5)
 今日で言うなら騒乱罪というところでしょうが、今日のそれと同様に事実そのものが怪しい話です。また、それがユダヤ人内部のいざこざにとどまる限り、総督ピラトにとって預言者イエスの活動がもたらす動揺はむしろありがたいぐらいのもので、少なくとも指導層に肩入れしてイエスを排除する積極的な動機などありえません。そのように醒めた目から見れば、祭司長たちの訴えが「ねたみのためである」(マルコ 15:10)ことは一目瞭然でした。

***

 こうした経緯の中で、ピラト自身がイエスの霊的活動やその預言者としての存在感に、どのような関心をどれほどもっていたかは不明です。ただ、ピラトの妻が裁判の最中に伝言をよこし、「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢でずいぶん苦しめられました」と訴えたという逸話がマタイ福音書(27:19)に記されています。彼の妻に託されている葛藤と呵責は、ピラト自身の内心の投影として記されているのかもしれません。
 いずれにせよ、前述の通り「この男に何の罪も見いだせない」というのが彼の結論であったなら、端的に無罪を宣告するのが当然の結論ですし、彼には(そして彼だけに)その権限があったのです。ところが、このあたりから単なる法官ではない、現地の行政トップとしてのピラトの打算と保身が動き始めます。
 仮に自身の責任においてナザレのイエスの無罪を宣言すれば、これに対する反発がきっかけとなって、ローマの支配に対するユダヤ人の不満に火が点く危険があるでしょう。無実と信ずる人間を処刑するのは気が進まないが、無罪を公然と宣言する役割は御免被りたい、そんなところでしょうか。
 困ったピラトは、イエスがガリラヤ出身であることに注目し、ガリラヤの統治を委ねられていたヘロデ(いわゆるヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパス)のもとへイエスを送ったとルカ福音書(23:6-12)にあります。しかしヘロデもまた、面白半分にイエスを嘲弄したあげくピラトに送り返しており、このあたりは責任回避のたらい回し劇ですね。
 いよいよ思案に詰まったピラトは、過越祭に死刑囚を一人、特赦を与えて釈放してきた自らの前例に訴えます。ということはイエスを死刑に定めたことが前提ですから、既に内心の信念には反しているわけですが、ピラトとしては民衆に判断を委ねれば、イエスが釈放されるに違いないと読んだのでしょう。何しろわずか数日前の日曜日には群衆の大歓呼の中、小ろばに乗るという奇想天外な姿でエルサレムに入城してきたカリスマ預言者です。競合するもう一人の死刑囚はバラバという男で、「都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」(ルカ 23:19)あるいは「暴動のとき人殺しをして投獄されていた」(マルコ 15:7)とありますから、この男こそ騒乱罪の有力容疑者であったかもしれません。何しろ、集まった群衆がイエスを捨ててバラバを助けるとは、ピラトは予想もしていなかった。イエスが釈放されるに違いないとタカを括っていた。しかし実際にはその予想外のことが現実になったのです。

***

 なぜそんなことが起きたか。
 考えられる理由の一つは、イエスを告発した大祭司以下の人々が、配下を使って群衆を扇動し操作したということ。(マルコ 15:11)
 もう一つは、イエスが自分たちの期待したようなこの世の革命家ではなく、ローマの圧政からイスラエルを解放する政治的リーダーでもないと知れたとき、それまでイエスに期待を寄せていた民衆の大きな失望が、一転して「裏切り者」に対する憎悪に変わったということ。
 どちらも分かりやすいことでしょう。とりわけバラバの関与していた「暴動」が反ローマ的な意味合いをもつものだったとすれば、上は大祭司ら指導層から下は一般民衆まで、政治的な解放を待望する人々の共感あるいは打算的な期待がイエスよりもバラバに傾斜することは、容易に想像されます。
 そうした民心の機微をピラトがどこまで理解していたか、ともかく、ここに至ってもピラトは「イエスを釈放しようと思って」(ルカ 23:20)、「いったいどんな悪事を働いたというのか」(マルコ 15:14)、「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。鞭で懲らしめて釈放しよう」(ルカ 23:16)などと言葉を尽くして群衆を説得します。「この人を見よ ecce homo」(ヨハネ 19:5)という有名な言葉がピラトの口から出るのも、この場面ですが、ついに断念せざるを得ませんでした。
 「ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。』」(マタイ 27:24)
 「そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」(マタイ 27:26)

***

 長くなって申し訳ありません。素材の提示は以上です。このような福音書の記述を踏まえて、使徒信条やニカイア・コンスタンチノポリス信仰告白が「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と述べることが、なかなか腑に落ちなかったのは先に書いたとおりです。
 少なくともピラトは、イエスを十字架に架けた「主犯」とはいえません。むしろ彼の権限の許す限り処刑を回避しようとして、できるだけの手を打ったと言えるでしょう。それ以上頑張れば「暴動が起きかねない」と判断したのであれば、現場の行政官としては致し方ないギリギリの決断ではないか。
 しかし、その一連の言動が「ポンテオ・ピラトのもとで」と世界史の中で永久に記憶されることになったのです。
 E君、どうお思いですか?

***

 護教的に居直るつもりは毛頭ありませんし、信仰告白が制定された当時の人々の思いに肉薄する想像力は到底もたず、困ったという他ないのですが、その後の日々に考え巡らしたことが一、二あります。簡単に記すこととさせてください。
 まず、およそ人が信念に従おうとするならば、いつの時代にもどこの国でも、その時その国の「ポンテオ・ピラトのもとに」苦しむことを覚悟せねばならないのではないか。少々飛躍のあることは承知のうえで、そのように一般化してみたい含みがここにあります。
 より文脈に即して言えば、ピラトが内心ではイエスの無罪を確信しながら、結局のところその権限によって死刑を命じ執行させたこと、それが行政官の判断としては誤っておらず正しいとすら言えることの意味です。そのような性質をもつ政治権力の庇護のもとで、われわれの日常の安寧は守られているのですが、その同じ公権力は、われわれが地上の国ではなく神の国の民 ~ 必ずしも宗教的なものに限らない、いかなる意味であれ現に存在していないユートピアの民 ~ たらんとするとき、われわれを守るものではなく裁くものになるだろうということ。
 そして、実際にそのように裁かれ滅ぼされたものへの信頼と同一化に、この民は希望をみるのだということ。
 そうしたあれこれを人が思い巡らすときの敵役として、ピラトはその名を残すことになったのだろうと思います。

 最後にE君、恐縮ながら下記をあわせて御笑覧いただけないでしょうか。
 四つの福音書は、その特徴から三つの共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とヨハネ福音書に大別されます。上記のページに記したとおり、「真理」という言葉は共感福音書ではほとんど全く使われていないのに対して、ヨハネ福音書では中心的な課題を表すキーワードとして頻出します。
 そのヨハネ福音書の「真理」の用例23箇所の最後のものが、ピラトのこれまた有名な言葉である「真理とは何か」なのです。
 政治的人間であるピラトは、イエスの突きつける「真理」の問題について、徹頭徹尾感受性を欠いていた、あるいは欠いているフリをし続けました。それこそが最も分厚く越えがたい、この世の障壁であるのかもしれません。

 さて、ブルガーコフは総督ピラトにどのような役割を与えているのでしょうか?いよいよ楽しみに拝見することにしましょう。

Ω