散日拾遺

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訃報の偶然/居の一字

2021-09-09 06:31:48 | 日記
2021年9月9日(木)

    

 ジャン・ポール・ベルモンド、9月6日没(88歳)
 色川大吉、9月7日没(96歳)

 二件の訃報が、同じ面の上下に並んだ。例によって意味のある偶然とでも言いたいところ。ベルモンドに熱狂する若者たちをポカンと口開けて眺める小学生、生協書籍部に並んだ講談社文庫『明治精神史』を見るなり手を伸ばす大学生、個人的な昭和の記憶がいちいち紐づいている。それで訃報に目がいくのか。

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 いい場面、いい写真。
 ただ、写真の下の隠れた見出しは「大谷、ダルビッシュと再会」である。「大谷とダルビッシュ再会」あるいは長幼の序に沿って「ダルビッシュと大谷再会」でもよかろうに、時めいている存在を中心に置き、それを主語にするのがメディアの常道。
 それに発憤したわけでもあるまいが、翌日ダルビッシュは6回投げて奪三振7、失点1の見事な内容で8勝目を挙げた。なぜか大谷の出番はなし。なぜ?

 ついでに記事の中の残念な表現について:
 「投げているボールもすごいし、立ち振る舞いもかっこいい。一番好きなピッチャーでした。」
 サンディエゴ遠征前に大谷がダルビッシュについて語ったとされる言葉だが、どこがおかしいか?中学入試レベル。もとより、大谷ではなく記者の言語感覚を問う。

 「立ち振る舞い」などという言葉はない。「立ち居振る舞い」に決まっている。
 一字抜けて何が悪いか?大いに悪い。「居」の一字は「座る」という意味である。「立つ」のと「座る」のとセットで「立ち居」、「行住坐臥」の「行/住」「坐/臥」などと同じく二つ一組で、「立ち振る舞い」では意味をなさない。おまけに「タチイフルマイ」という七字のリズムが欠けてぐらぐら、意味も音もぶち壊しである。
 「居」について、面接授業で必ず紹介するのが「居ても立ってもいられない」という言い回し。冒頭「居ても」の「居る」と後半「いられない」の「いる」は、それぞれ sit と be にあたる別の言葉であり、全体として「座っても落ち着かず、立っても落ち着かず、どうにもこうにも落ち着かない」という意味になる。焦燥感の苦しさつらさを鮮やかに表した、市井の名表現である。
 一字をおろそかにする者に、一文を草する資格はない。いえ、私自身のことなのでした。

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 ダビデの信仰がありさえすればとつねづね思ってきたが、ソロモンの知恵の欠片にでもあやかりたいこの初秋。

Ω