散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

ブログ de C.S. その2 ~ 「つくる」ことと「さずかる」こと

2016-02-09 09:24:54 | 日記

2016年2月9日(火)

 以前に掲げた「産声の奇跡」が「その1」にあたる。以下は1月号掲載の「その2」

***

 12月の保護者科では、「こどもが生まれたときの思い出」について語り合いました。家族ぐるみの立ち会いや海外での出産など、それぞれの体験が生き生き紹介され、とても楽しい一時でした。中でもお母さんたちが異口同音に「感謝」を口にしたことが印象的です。前回のこの欄で「すべての誕生が奇跡」であると書きました。赤ちゃんと共に身をもって奇跡を体験したお母さんたちには、ごく自然に感謝の気持ちが湧いてくるのでしょう。こうした自然な感謝の気持ちは、信仰者が神様に対して抱く感謝の念と似たものではないかと思います。今ここに私が存在しているという奇跡、私という存在を支えてくださる方への感謝です。

 保護者科の最後に新聞記事のコピーを配りました。そこに紹介されている堀江菜穂子さんは出産時のトラブルで重い障害が生じ、生まれてから20年あまり寝たきりの生活をおくっています。けれども彼女には「ことばもいしもある」ことを、菜穂子さんの詩集「さくらのこえ」は雄弁に証明しています。菜穂子さんをずっと支えてきたお父さんが私の高校時代の同級生・堀江君であることを、卒業40周年のクラス会で知りました。

 さて、この記事を配ったのは「こどもの誕生」をめぐってご一緒に考えてみたかったからです。ある種の病気や染色体異常についての「出生前診断」が話題になっていることを、皆さんもご存じでしょう。その本来の目的は、生まれてくるこどもに障害が予想される場合、あらかじめ物心両面の準備を整え治療や対応をすみやかに始めることにあります。けれども現実には、「障害があるなら中絶する」というケースが増えることが懸念されています。皆さんならどう考えるでしょうか?

 このことを突き詰めていくと、「こどもはつくるものか、さずかるものか」という問題にたどり着きます。「つくる」ものなら、つくることを「やめる」という選択肢もありうるでしょう。しかし「さずかる」ものだとしたら、「こどもに不具合があるから中絶する」という判断は、ありえないのではないでしょうか。これは現代社会に投げ込まれた鋭い剣です。「つくる」型の生命観と、「さずかる」型の生命観、どちらが優勢になるかで社会と文明の進路が分かれるといっても過言ではないでしょう。そして聖書と教会は、一貫して「さずかる」型の生命観を発信し続けてきました。

 そのことは知っているつもりの私でしたが、実は苦い思い出があります。長男が生まれる直前に、何げない会話の中でふと「五体満足でさえあれば」と口にしたのです。会話の相手は教会の若い姉妹でしたが、黙って私を見つめました。その視線が「五体満足でなかったら、赤ちゃんの誕生を喜ばないの?感謝しないの?」と問いかけていました。みごとに一本とられました。健やかであれ、障害をもってであれ、あるがままのこどもを無条件に抱きしめるのが親心のはず。誕生そのものが奇跡なのですから。

 堀江菜穂子さんの場合は出生前診断が行われる先天性疾患ではありませんが、さずかった運命の厳しさは同様です。それをまるごと受け入れ、喜びと感謝をもって共に生きる御家族の姿は、大きな励ましとヒントを与えてくれています。

 Ω

 


魂の構造論

2016-02-09 08:47:49 | 日記

2016年2月9日(火)

 急いで追いついておこう。この1週間ほど、またいろんなことがあったので。

 大阪の井上隆晶先生(日本基督教団都島教会)から、お約束の資料とメモが届いた。メモの方を転記させていただく。

「私が書いたものは、教会員に聞かれて答えたもののメモのようなものです。出典は『キリスト教東方の神秘思想』(ウラディミール・ロースキィ著:勁草書房)「第六章 像と似姿 P.164」からです。日本名はえらい難しい題ですが、原本は「新教父学」といいます。それと、ニケア信条講話の「人間・神の像」をお送りします。何かの参考になれば幸いです。」

 以上が送り状、以下が「私(=井上先生)が書いたもの」である。

***

 私としては、人間は魂と肉体の合成物であり、霊とは「聖霊」のことを意味しており、聖霊は人間の魂と結びついて魂を生かすというように単純に考えています。

 日本人は「霊」という言葉を簡単に使いますが、神である聖霊を知らないから使うのであって、これと混同しない方がいいと思います。学問をするときには、言葉の定義をしなければ対話がずれてしまうからです。

 日本人のいう「霊」は、神の霊である「聖霊」以外の霊をいうのであって、聖書なら「悪霊・諸霊」に当たります。聖霊を知らない人は、それらの諸霊の働きを神の働きと混同しているからです。だから簡単に木の霊とか、水の霊、人の霊魂などと表現します。

 教父たちは人間というものを三部分(精神・心・身体)なら成るとしたり、二部分(心と身体)から成るといっていますが、説明によって分けているだけのことであって同じことを言っているようです。

 精神とは、魂のもっとも高度な能力のことであり、この能力によって人は神と交わることが出来ます。また、心は感情を司る魂の部分です。身体 ― 心 ― 精神というように深くなっていきます。霊的なものは精神がそれを捕え、心に送り、身体がそれの影響を受けるということです。

 精神とか心というのは、この世での「魂の働き」のことであって、肉体が朽ちた後は、魂が残ると言います。来世に精神や心が残るとは言わないからです。だから構造論としては「肉と魂の合一体」と考えた方が、考えやすいと思うのです。その魂が「いのちの息」である聖霊を持っているか、持っていないかで生きた魂と呼ばれるか、死んだ魂と呼ばれるかなのです。死んだ魂は、来世で肉体が復活し、死なない身体(肉体ではなく)を得て、再び合一したら、身体は永遠に死なないのに、魂は死んでいるという矛盾状態になるので、永遠の裁きになってしまうのです。

 アダムは単に(心や精神)という魂の部分で罪を犯したのではなく、肉体でも罪を犯したので、死もこの二つ(魂と肉体)に及びました。だから癒されるのもこの二つなのです。だから肉の復活が必要なのです。

 教父たちの神学を学ばなければ復活のことは理解できないと思います。プロテスタントの神学者で説明できた人に私は会ったことがありません。

 以上、私が今、理解している人間論です。

***

 ・・・単純、でもないですよね。教父の神学については、以前「聖霊論」と「数理神学」に関して興味を惹かれたことがあったが、何となく沙汰止みにしてしまった。勉強してみようかな、できるかな。

 井上先生、また教えてください。


満点解題

2016-02-09 07:48:06 | 日記

2016年2月8日(月)

「俺は別に土下座ぐらいならしてもいいんだが ・・・」とやっぱり佐瀬、

「・・・でも、こんなところで正座すると膝に悪そうだな」、このヒネリがいい。

「そうだな。俺も最近なんとなく膝が思わしくないんだ」、藤原も応じる。

「次郎(=藤原)、前に出るな。巻き込まれるとまずいことになる」と、慎重な広岡、これも予想通り。

さらに・・・

 血が昇ったらしい若者が、左手で胸倉を掴んだまま、星の顔面にパンチをたたき込もうと右手を大きく振りかぶった。

 その次の瞬間、サングラスの若者が短い呻き声を上げた。

「ウッ!」

 そして、その場に崩れ落ちた。

「おっ、キッドのキドニー」

 藤原が嬉しそうに言うと、星が息も切らさず訂正した。

「キドニーは打ってない、レバーだ」

(『春に散る』301-303回)

 

 キドニーにレバーって解剖学みたい。もっとも武術の必然か、柔術から整復・整体が起きる理屈だ。それはともかく、慎重な広岡、剽げた佐瀬、実行部隊の星という役回りが予想通りで、読者としては溜飲を下げたわけである。場面は進んで今度は第二のチンピラ君に、佐瀬がジャブを連発して軽くあしらう。

 さて、その次だ。実は「満点」と威張るのはまだ早かった。チラリと思わないではなかったから書いておけばよかった。若者4人組のうち特にガラの悪いのは先輩格の2人で、背後にあと2人控えている。4人組対4人組、作者が意味なく数あわせしたとも思えない。僕の予想は、かつて広岡が星に一発かまされてボクシングに入ったように、残る若者2人がこれをきっかけにボクシングに魅せられ、ひょっとすると主人公らが籍を置いたジムに入門するのではないかというのだった。しかし仕掛けはもっと凝っていて、「ウェルター級の体格」の若者相手に出番が来た広岡が、相手の構えからボクシングをやっているらしいと感づく。すると若者の仲間が・・・

 

「ショーゴ、やめろ。ライセンスが・・・」

 それを耳に留めた佐瀬が驚いて言った。

「ライセンス?おまえ、プロのボクサーか?」

 広岡が若者に言った。

「プロなら、やめておけ。リングに上がれなくなるぞ」

 しかし、若者は無言で広岡にじりじりと迫ってくる。

 そのとき、若者と向かい合っている広岡に奇妙な感覚が生まれた。

 ひとつは、遠い昔のことながら、まだ体の奥底に残っている、パンチを受けたときの衝撃と痛みの感覚をまた味わってみたいという思い。もうひとつは、この若者とは、いつかどこかで会ったことがあるのではないかという思い。

 もちろん、そんなはずはない。

(同 306回)

 

 この章のタイトルは「新しい人」というのだった。作者の大きな構想が次第に明らかになってくる。朝の楽しみ。


満点花丸 (^^)/

2016-02-06 08:18:25 | 日記

2016年2月6日(土)

 わ~い、思った通りだ。満願完答満点花丸、やったね~!

 何がって?朝刊の『春に散る』、展開予想のことです。

 種明かしは帰宅後に、今日は我孫子のお話第2回なのでした。池下さんが御来聴の予定で、少なからずわくわくしている。あっちとこっちの知人がぐるっと回ってつながること、昨日も経験した人生の楽しみである。


再生を願う

2016-02-03 23:42:51 | 日記

2016年2月3日(木)

 清原を惜しむ。人一倍に。

 もうだいぶ前から、いずれこの種のことが起きるのではないかと思っていた。事情を知る者はみな同じ懸念をもっただろうが、いっそ早く起きれば良いと願ったのは、少しでも早く彼を止めて欲しかったからである。

 高校野球ファンでしかも四国贔屓だから、蔦監督率いる池田高校を熱烈に応援したのは当然のこと。夏春夏の3連覇という前人未到の偉業を、本当にやってのけるかもしれないと思われた83年夏の準決勝、彼らの前に立ちはだかったのがPL学園だった。主戦投手・桑田真澄、主砲・清原和博、ともに一年生。7対0の完勝である。僕は西陣・堀川病院での学生実習を終えて、牧師の叔父と醍醐寺を見物に出かけており(!)、帰途に街頭のTVを見て叔父と二人呆然とした。その夕、帰京する駅の売店あたりで、号外を見た子どもたちが「やった、PL勝ちよった!」と関西弁で(あたりまえだ)大騒ぎしていたっけ。

 それから5回続けてKKは甲子園に君臨し、優勝2回、準優勝2回、ベスト4が1回という、途方もない成績を残した。(敗れた相手は、岩倉高校、伊野商業、取手二高、5年間に3校だけである。)むろん二人だけで勝てたのではないけれど、彼らの存在感は傑出していた。特にどちらかといえば「陰」の桑田に対し、やんちゃ坊主がそのまま大きくなったような清原の「陽」が、決してPLを応援したのではない僕などにも好ましく見えた。「何でそんなに打てるの?」とインタビュアーに訊かれ、「母さん丈夫に生んでくれたから」と即答した少年の笑顔を今も思い出す。お母さん、つらかろう。

 清原の打撃のすばらしさは、さほど強振しているとも見えないのに打球が軽々と飛んでいくことだった。テークバックが小さく、フォロースルーが大きい。ブレることなく最短距離でとらえたボールを、グンと大きく運ぶ。もともとそういう風だったが、プロ入り後しばらくして落合博満のバッティングに学び、球を引きつけてバットに乗せる感じがいっそうはっきりした。「桑田は10年に一人の名選手だが、ひょっとしたら清原は100年に一人の逸材かもしれない」と思った。高校卒でもあり、どんなものすごい記録を残すかとも。

 どこでどう間違ったのだろう?原因か結果かわからないが、読売へ来たあたりからおかしくなったと思う。西武に留まって、ミスター・パリーグであり続ければ良かったのだ。

 再生を、心から願う。