2016年2月9日(火)
以前に掲げた「産声の奇跡」が「その1」にあたる。以下は1月号掲載の「その2」
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12月の保護者科では、「こどもが生まれたときの思い出」について語り合いました。家族ぐるみの立ち会いや海外での出産など、それぞれの体験が生き生き紹介され、とても楽しい一時でした。中でもお母さんたちが異口同音に「感謝」を口にしたことが印象的です。前回のこの欄で「すべての誕生が奇跡」であると書きました。赤ちゃんと共に身をもって奇跡を体験したお母さんたちには、ごく自然に感謝の気持ちが湧いてくるのでしょう。こうした自然な感謝の気持ちは、信仰者が神様に対して抱く感謝の念と似たものではないかと思います。今ここに私が存在しているという奇跡、私という存在を支えてくださる方への感謝です。
保護者科の最後に新聞記事のコピーを配りました。そこに紹介されている堀江菜穂子さんは出産時のトラブルで重い障害が生じ、生まれてから20年あまり寝たきりの生活をおくっています。けれども彼女には「ことばもいしもある」ことを、菜穂子さんの詩集「さくらのこえ」は雄弁に証明しています。菜穂子さんをずっと支えてきたお父さんが私の高校時代の同級生・堀江君であることを、卒業40周年のクラス会で知りました。
さて、この記事を配ったのは「こどもの誕生」をめぐってご一緒に考えてみたかったからです。ある種の病気や染色体異常についての「出生前診断」が話題になっていることを、皆さんもご存じでしょう。その本来の目的は、生まれてくるこどもに障害が予想される場合、あらかじめ物心両面の準備を整え治療や対応をすみやかに始めることにあります。けれども現実には、「障害があるなら中絶する」というケースが増えることが懸念されています。皆さんならどう考えるでしょうか?
このことを突き詰めていくと、「こどもはつくるものか、さずかるものか」という問題にたどり着きます。「つくる」ものなら、つくることを「やめる」という選択肢もありうるでしょう。しかし「さずかる」ものだとしたら、「こどもに不具合があるから中絶する」という判断は、ありえないのではないでしょうか。これは現代社会に投げ込まれた鋭い剣です。「つくる」型の生命観と、「さずかる」型の生命観、どちらが優勢になるかで社会と文明の進路が分かれるといっても過言ではないでしょう。そして聖書と教会は、一貫して「さずかる」型の生命観を発信し続けてきました。
そのことは知っているつもりの私でしたが、実は苦い思い出があります。長男が生まれる直前に、何げない会話の中でふと「五体満足でさえあれば」と口にしたのです。会話の相手は教会の若い姉妹でしたが、黙って私を見つめました。その視線が「五体満足でなかったら、赤ちゃんの誕生を喜ばないの?感謝しないの?」と問いかけていました。みごとに一本とられました。健やかであれ、障害をもってであれ、あるがままのこどもを無条件に抱きしめるのが親心のはず。誕生そのものが奇跡なのですから。
堀江菜穂子さんの場合は出生前診断が行われる先天性疾患ではありませんが、さずかった運命の厳しさは同様です。それをまるごと受け入れ、喜びと感謝をもって共に生きる御家族の姿は、大きな励ましとヒントを与えてくれています。
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