散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

五月場所12日目、復活の日

2018-05-24 18:34:55 | 日記

2018年5月24日(木)

 堂々の立ち会いから胸を合わせてがっぷり四つ、渾身の力を込め細心の注意で呼吸を計り、引きつけ合い、吊り合い、投げの機を窺い、寄りたてるのを俵に足かけてこらえ、最後はまわしを放して胸を押す。歌舞伎の所作にも似た型通りの美しさ、押し相撲にはない四つ相撲ならではの角力の醍醐味、これぞ天下の力持ち、天下一の力比べ。

 実に何年ぶりに見ただろう!

 白鵬には常に準備があったが、相手を務め得る者がなかった。怪力無双の栃ノ心を得て、遂にようやくこの場面が復活する。とは言え栃ノ心は腕力頼みなどではない、しきりに見せる吊りこそは強靱な足腰の証明。古くは起重機・明武谷(みょうぶだに)、下って千代の富士と霧島の名勝負、牛若丸と呼ばれた貴ノ花(父)も小兵ながら腰の強さで吊りをよくし、輪島や北の湖を何度も吊り出した。腰の強さに加えて吊りは呼吸が肝心で、とりわけ貴ノ花の吊りには絶妙の機微があったのだ。相撲にかくも不可欠の吊りの魅力が、大型化の趨勢に呑まれてめっきり影薄くなっていたのを、復活させた栃ノ心の功績は大にして大。

 モンゴル出身の横綱とジョージア出身の大関候補が、大相撲の伝統の消えかけた半分を見事に復活させた。

 相撲バンザイ!

http://www.yomiuri.co.jp/sports/sumo/20180524-OYT1T50090.html

Ω


読みかけの物語のアッバレな決め言葉

2018-05-17 21:29:49 | 日記

2018年5月17日(木)

「よからぬ意図というものは、概ね何らかの利益と直線的に結びついています。その場合、私が満州事変の頃の話を始めた時点で、あなたは話題を変えようとしたはずです。あれは我々が生まれ育った時代のことで、正光君個人に関する具体的な情報ではないからです。つまり利益には結びつかない。ところが、あなたは熱心に聞いていた。私の体験した海戦についてもそうです。彼と同じ立場で戦闘に臨んだ人間の言葉を聞きたがっていた。あなたの目的は、正光君の情報を得ること以上に、彼を理解することなのだと思いました。私にはそれで十分でした。」

太田愛『天上の葦』(上)P. 228

薦めてくれた S 先生に感謝、おかげで仕事はまた停滞・・・

Ω

 

 


五月のトンボ

2018-05-14 06:09:11 | 日記

2018年5月6日(日)

 その後、O君の助言に従ってやたらパチパチ撮ってみるが、ヘタクソが少々のことで上達するわけはない。ついでのことにこの連休はキーボードのカナ文字入力に挑戦していて、これがまた上達の遅いことに驚き呆れる。もどかしさとの長期戦である。

 隣家との境の竹がまた勢力を増してきたので、二人がかりで二日かけて大いに刈り込んだ。伐り倒した竹を始末していたら、どこからかトンボがやってきて、ふわりと止まった。身の丈10cm近くもありそうな堂々たる居ずまいである。場所を変えて作業していると、また一匹ふわり。今度は一枚、撮らせてもらえた。近づいても逃げず、いかにもおっとりしている。

 トンボは秋の季語でもあり、毎夏の帰省でも八月上旬と下旬ではっきり数が違う。トンボにも種類は多かろうものの、五月初旬におめにかかろうとは思わなかった。調べてみると、フタスジサナエというのがどうやらそれらしい。サナエは早苗に決まっているから、トンボでありながらこの季節に見られることに注目した命名に違いない。

 トンボ目サナエトンボ科、同じコサナエ属に他に3種(コサナエ、オグマサナエ、タベサナエ)、ダビドサナエ属に3種(ダビドサナエ、クロサナエ、ヒラサナエ)など、眷属もそこそこいるようだが御多分に漏れず絶滅危惧種とある(準絶滅危惧 NT)。ダビドサナエという奇妙なお名前は、ダビドすなわちダビデ/デイビッドに由来するらしい。フランス人生物学者(同種の発見者?)の名に依るとか。

 写真を見ていたら、自分の出会ったのがフタスジだかダビドだか、それともまた別のだか全く自信がなくなった。そもそも、どちらも体長5cmぐらいとあるのに、僕が見たのは確かにもっと大きかったのである。同じ頃、O君は埼玉でシオカラトンボを見たという。こちらは4月中旬から10月頃まで、出現期間がかなり長いらしい。分布地域も広くて絶滅危惧からは比較的遠いようである。

          

左: フタスジサナエ http://tombon.com/ak-hutasuji.html より拝借

右: ダビドサナエ https://ja.wikipedia.org/wiki/ダビドサナエ 〃

Ω


初夏の一日、採果の風景

2018-05-02 10:42:47 | 日記

2018年5月1日(火)

> 先日、プロの写真家の方たちと話す機会がありました。
> 彼らが言うには、いまはカメラの性能がいいので、だれでもいい写真が撮れてしまう時代だそうです。確かに決定的な瞬間の写真などは、その場にいる者の勝ちで、技術はなくてもシャッターを切れば、あとはカメラが撮ってくれるのです。
> 私は、数多くシャッターを切れば、その中にはそこそこ見られる写真も含まれている、という撮影の仕方をしています。
> フィルムだったらお金がかかりますが、デジタルにはその心配はないのでお薦めです。

> 送ってくれた写真を見て、見事な塀と、樹木が鬱蒼としている様子が印象に残りました。ここは石丸君のご実家なのですか?緑の濃さに驚かされます。近所もそういう環境なのでしょうね。庭の花、野の花、森の花など被写体がたくさんありそうです。

> 花などは被写体そのものが美しいし、動物と違って逃げないので、それをアップにして、気楽に数多く撮っていれば、そこそこ見られる写真がだいたい撮れています。写真撮影は慣れだと思うので、シャッターを多く切ることで、腕も上がっていくはずです。

***

 O君、御助言ありがとう。芸術家の血筋で絵心の豊かな貴兄とは、とても同日の談ではありませんが、ともかく数多く撮るよう心がけてみましょう。と言って、最初の一枚は自分で撮ってはいないけれど。

 畑にはこんな出で立ちで出かけます。何しろ皮膚は露出厳禁、紫外線対策もありますが、虫に食われたり草の葉にかぶれたり、たちまちエラい目に遭いますから。 お百姓を見習って真夏でも長袖・長ズボン・長靴・帽子を欠かしません。それでも手袋のうえから虻に刺されたり、袖口から入ったダニで湿疹が出たり、いろいろあります。5月は日差しがきついけれど、蜂・虻・ヤブ蚊などがほとんどいないので気持ちよい。
 僕の実家があり、貴兄の御先祖さま発祥の地でもある、松山北縁の初夏の一日です。

 手にした高バサミがスグレモノで、樹冠の奥の実を採る時など ↓ こんな具合に重宝します。 ハサミなのに実を把持できる構造って、分かりますか?詰め込み過ぎると重くて腰を痛めるので、20個ごとに往復することにしました。

 

 花も実もある甘夏柑、花は純白で特有の甘い香り。この花で養蜂できたら良いのだけれど。ミカンの蜂蜜、美味しいですよ!

Ω

 


はちきん / 同情と共感

2018-05-01 11:37:49 | 日記

2018年4月27日(金)

 被爆二世さん、いつもコメントありがとうございます。倉成塾・高知の部、楽しかったですね。

 「いごっそう」は知っていましたが、「はちきん」は今回初めて知りました。これについて、Wikipedia に面白いことが載っています。曰く…

 ・・・土佐の男はギャンブル投資額・飲酒量・テレビや映画の視聴時間の長さ・飲酒以外の浪費などにおいて、全国一の怠け者揃い(要出典!)、それに比べて土佐の女性は働き者の敏腕家。隣接する愛媛県では「高知から嫁を貰え」というくらいである。これは、愛媛の男は「優しいが少々頼りない」傾向で「高知の女性に(精神的に)鍛えてもらえ」という意味合いがある・・・

 私などは頼りない伊豫の優男の典型でしょう。つれあいは高知の出身ではありませんが、腑に落ちるものがあります。揶揄しているようで実は褒め言葉なのは「かかあ天下」などと通じそうですね。「はちきん」の語源として通常言われる説は、とてもブログにあからさまに書けるものではありませんが、Wiki にもあるように「はち」がお転婆に通じ、いかにもハッチャケてるというのが正しいのではないかと愚考します。

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 「同情と共感」は被爆二世さんから御下命のあったテーマでしたが、久方ぶりに話題にできて非常に楽しく充実した時になりました。感想を拝見して驚いたのは、多くの人が「共感が正しく、同情はいけない」と思っていることです。これがカウンセリングや心理療法の訓練の結果だとしたら、指導の仕方が根本的におかしいと私は思いますよ。

 ガイアでのやりとりの中で、とっさに「同情は空腹と同じで否応なく生じるもの、良いも悪いもない」と言ったこと、自分としては気に入っています。空腹の強度に個人差があり、人/病理によっては空腹の否認が起きることもよく似ており、そのことからも分かるとおり同情 sympathy は共鳴 resonance などと表裏一体の、生理/心理的必要から立ち上がっているものです。良いも悪いもありません。

 問題はその後で、自身の同情に無反省に呑まれて言語化したり行動化したりするなら、空腹の命ずるままに食い散らかすことと同じく、エゴイズムの発露と自己満足(あるいは自己不満足)に終わってしまうでしょう。同情を素材とし、あるいは原動力としながら、相手を理解し援助するために頭を働かすところに、共感の醍醐味が生まれてきます。とはいえ、そもそも同情が生じないようであれば共感の成立する基盤がありません。空腹を知らない人が、美味しい料理のレシピを理屈で考えるようなもので、そんな人に共感を学んでほしいとも思いません。論理的にも倫理的にも、同情なくして共感は成立しないはずです。

 大したことを言っているわけではないので気が引けますが、あの場のやりとりで「同情は悪くないと知って気が楽になった」とおっしゃる方が多いとすれば、繰り返し伝える意味があるかもしれないと思います。

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 光市の事件について、言及してくださりありがとうございました。考えるだけで正気を保てなくなりそうで、うなされて飛び起きたこともありました。赤の他人の私ですらそうなのです。どんな言葉も表しきれない、どれほどの苦悩があったことか、それを抱えて生き続ける日々がどんな地獄であったことか。

 それでもそこに支える意志があり、意志をもち続けた人々があった。そして木村さんは絶望と闘ったのですね。

 まだ、この国は生き延びていけるかもしません。compassionate cities (共感都市)などというものも他のすべての理想と同じく、人々がやむにやまれず既に着手していることの中にこそ、実現への道が見いだされるのでしょうから。

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コメント: 2018/4/30 03:01

タイトル: 同情と共感

 土佐弁「おいでてますよ!」…温かい響きですね。いごっそう、はちきん…土佐人の気質も初めて知りました。

 「同情と共感をめぐって」のご講話ありがとうございました。多角的に教えていただき、私たちの中に自然と湧き上がる同情心を肯定すると共に、人との境界線と、相手の感情に巻き込まれ、流されない共感を意識しようと思いました。

 10年前の本ですが、門田隆将著「なぜきみは絶望と闘えたのか」(新潮社)を思い出しました。1999年に起きた山口県光市で起きた母子殺害事件の被害者の本村 洋さんの3300日。ある日突然、18歳の少年に 妻と幼子を殺害され、痛々しい遺体を発見した当日23歳の本村さんは、どんなにか苦悩したでしょうか…

 この本を読んで、多くの同情と共感、コミュニティが 彼を支えたのだと、私は思いました。死と隣り合わせだった本村さんを支えたコミュニティの存在…

 同情と共感のコミュニティがあるからこそ、人は支えられ、勇気をもらうから、人にも優しくなれるのだと思います。コミュニティ、大切ですね。

Ω