散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

ある意見

2021-08-09 09:10:10 | 日記
2021年8月8日(日)
 「イシマルさんは、東京五輪の何がいちばん残念でしたか?」
 「関係者の得体の知れない衣装とか、『復興五輪』が消えて亡くなったこととか、そもそも開催したこととか、いろいろありますが…センセイは?」
 「私はね、プラカードから何からすべてアルファベット表記で、漢字・カタカナ・ひらがな等、日本語がいっさい発信されず主張もされなかったことが、何より悔しくて残念でした。この国は自分の言葉を捨てるつもりだろうかと、涙が出そうになりましたよ。中国だって韓国だって、決してこんなやり方はしないでしょう。」

 個人の意見、である。述べているのは文学者でも国語教育者でもない、工学系の研究者であること、念のため。

Ω

ザリガニの記憶

2021-08-03 11:23:12 | 日記
2021年8月4日(水)
 一ヶ月ほど前になるが「アメリカザリガニ」がミドリガメとともに特定外来生物に指定されたことが新聞に載った。今後は野外で繁殖しないよう、規制する方向だという。

    

2021年7月7日(水)朝日新聞紙面より

 このニュースに、実は少なからず驚いた。つまり、
 「え、今さら?」
 という驚きであるが、果たしてその意味が通じるだろうか。

 ザリガニに接する機会を日常的にもったのは1962(昭和37)年から1969(同44)年にかけて、前橋・松江・山形に住んだ時期だった。69年夏に名古屋に移ってからも、少し脚を伸ばせばザリガニの住む水辺もあったはずだが、住宅街に住む中学生だったからそのチャンスは実際にはほとんど訪れなかった。
 この時期の初め、確か前橋で小学校1~2年の頃と記憶するが、クラスの誰かが家周りの水辺で捕まえた生き物をもってきて、教室の水槽に入れたことがあった。大ぶりのタニシや水棲昆虫と一緒になって、ザリガニが二匹入っていた。
 二匹の様子は、これが同種の生き物かと思うぐらい違っていた。一方は褐色でちんまりし、ずんぐりぽってりの体型。もう一方は鮮やかな緋色で巨大なハサミをもち、脚の長い堂々たる骨格、実感としてほぼ二倍の大きさだった。日ならずして、小さい方が消えてしまったことは言うまでもない。
 担任は思慮深いI先生だったから、事の顛末が子どもの目に露骨に触れぬよう配慮なさったのだと思うが、何が起きたかはみな分かっていた。アメリカザリガニが在来種のザリガニを圧倒し、餌にしてしまったのである。
 この時期の日本人が「アメリカ」というシンボルに対して抱いていた複雑な感情は、今日の若者の想像し得るところを遠く超えている。ザリガニまでアメリカが強いのか、赤鬼のように大きくて強くて容赦がないのか、ここにはカケラほどの冗談もない。大谷翔平の活躍がどれほどのシンボリックな意味をもち得るか、若者自身はおそらく知らない。

 これが推定1963~4年、つまり前回の東京五輪前後のことである。放っておけば北関東はおろか、日本全土のザリガニが在来種からアメリカザリガニに置き換わるのに大した年数はかかるまいと思われた。先に「今さら?」と言ったのは「保護すべき在来種のザリガニが、まだいたんですか?」あるいは「まだ間に合うんですか?」という意味である。
 インターネット情報によれば、固有種のニホンザリガニ Cambaroides japonicus は現在では北海道と北東北三県(青森・岩手・秋田)のみに生息し、大館市の生息地が国の天然記念物に指定されているとのこと。絶滅が危惧であってまだ現実でなかったことに、無知を恥じつつ安堵する。ニホンザリガニの個体数減少に関してアメリカザリガニの脅威甚大とはいえ、自然環境の全般的変化の影響も無視できないともある。さもありなん。

 


 アメリカザリガニは、「1927年に食用ガエル(ウシガエル)の餌として初めて輸入された」と新聞解説。
 1927年という年は後述の引用に照らして確認の必要があるが、それはさておき、この一行の記述から時代状況が思い浮かぶ程度の歴史素養をもちたい。昭和初年の日本の農村は深刻な窮乏のうちにあった。ということは、当時の日本人の多くが困窮していたということでもある。その打開策として食用蛙の養殖事業を農村に興そうと試み、餌となるアメリカザリガニを苦労して運び入れた人々があったのだ。

 「昭和五年(註:1930年)、河野芳之助氏が外遊の途次、ニューオルレアンス市のパーシー・ヴィオカス氏を訪れ、食用蛙の餌として100匹エビカニを手にいれ持ち帰った。サンフランシスコよりの航海中80匹はたおれ、他の20匹が無事到着したので、それを岩瀬(註:現在の鎌倉市岩瀬)の食用蛙を入れない池にはなったのが渡来の濫觴(らんしょう)である。」
 「河野氏の養蛙事業はその後頓挫して池は潰され、飼育のエビカニは逃げ出して広い天地を求め、先ず大船付近の水田から次第に東京府、埼玉県、千葉県と広がった。今では局部的ながら全国に拡散し、江崎悌三博士によると、九州でも福岡付近に相当繁殖している。」

 以上は、丘英通・高島春雄『帰化動物』(1947)からの、下記新書への引用である。新書はこの引用からも窺われるとおり、ザリガニを通して幅広くものを考えさせてくれる好著、ぜひ読み継がれてほしい。


 山口恒夫『ザリガニはなぜハサミをふるうか 生きものの共通原理を探る』 中公新書(2000)

Ω

コメント御礼 ~ 『ウラル・アルタイ語族じゃないんですか』の件、遅くなりました

2021-08-03 09:57:40 | 日記
2021年8月4日(水)
 7月7日(水)にいただいたコメントにつき、御礼が遅くなりました。
 御尊名を明かしてくださっていますが、ここではS.T.様とだけ記します。その方面の専門家か、少なくとも事情に詳しい方でいらっしゃるのでしょう。

***


 もう、ずいぶん昔の、貴ブログですが、たまたま拝読しました。
 確かに、表題の件ですが、二十世紀前半のころまで、『ウラル・アルタイ語族』という概念がありましたが、現在では、、この学説は破綻しています。
 現在の学問的成果では、ウラル語族とアルタイ諸語は、まったく別のものであり、日本語はアルタイ諸語にも属さない孤立語だと言うのが、実証的な結論です。
 しかし、それにもかかわらず、いまだに『ウラル・アルタイ語族』の説に固執する人もいるらしく、辟易します。今年『令和3年』になっても、まだウラル・アルタイ語族を主張した本がてているらしく、うんざりします。
 いまどき、時代おくれの『ウラル・アルタイ語族説』を唱えるひとは、よほどの『情報弱者』か、あるいは、何かおかしな意図があるか、、どちらかでしょうね。

***

 明快な御教示をありがとうございます。いわばダメを押していただいた形で、すっきりしました。
 ただ末尾の一文は、その領域の研究者に限定すれば仰る通りなのでしょうが、素人の他愛のないおしゃべりにまで当てはめるのは少々厳しすぎるように感じます。(S.T.様がそのように仰っているという意味ではありません。念のため。)
 その昔、当時は通用していた説を耳にして記憶に留め、そのまま数十年が経過するうちに、専門領域における常識はすっかり変貌していたという例は巷に溢れておりますでしょう。ことに世相や人心の変貌のスピードは近年加速度的に増しており、浦島太郎の当惑を追体験するに太郎のような長年月は不要のこと、数年もあれば十分であろうと思われます。
 それだけに、何かを真剣に論じようとするなら、まずは関連情報の最新の状況を一通り確認せねばなりませんね。この基本心得を思い出させてくださったことに感謝いたします。ありがとうございました。

Ω


カントからピラトへ

2021-08-02 19:07:29 | 読書メモ
2021年8月2日(月)
 E君
 いよいよ読み始めた『巨匠とマルガリータ』、のっけから面白い。この面白さには、実はプライベートで特殊なものがあります。なぜというに…
 先週、貴兄との約束に従って研究室から『地名アイヌ語小辞典』をもちかえり、歌登が ota-nupri つまり「砂の山」であることなどをお伝えしました。その時、あわせてもちかえったのが購入して20年間むなしく書架に放置されていた『倫理21』(柄谷行人)、読んでみればたいへん面白いこの本の、一つの軸になっているのがカントであったわけです。
 然るに『巨匠とマルガリータ』の冒頭早々…
***
 「それでは神の存在の証明、ご存じのように、ちょうど五つある例の証明はどうなります?」
 「ああ、なんということです!」憐れむようにベルリオーズは答えた。「あの証明のうち、どれひとつとして価値あるものなんてありません、そんなもの、とうの昔に、人類はお払い箱にしてしまっています。だって、そうでしょう、理性の領域では、いかなる神の存在証明もありえないのですから」
 「ブラヴォー!」と外国人は叫んだ。「ブラヴォー! あの苦労性の老人イマヌエル・カントの考えを、そっくりそのままくり返されました。しかし、まったく滑稽なことに、カントは五つの証明をことごとく否定し、そのあとで、まるで自分自身を愚弄するみたいに第六の証明をでっちあげたのですからね!」
 「カントの証明だって」薄笑いを浮かべて、学識豊かな編集長は反駁した。「やはり説得力のないものです。それだからこそ、この問題に関するカントの考察は奴隷を満足させるだけだとシラーが語り、シュトラウスもこの証明を一笑に付して、まともに相手にしなかったのは無理のないことです」
ブルガーコフ/水野忠夫訳『巨匠とマルガリータ』岩波文庫(上)P.21-22
***
 決してなじんでいるわけではないカントの思想に、数日の間に立て続けに出会う面白さを「プライベートで特殊」と言ったのです。偶然でかたづけるには、あまりに意味ありげで艶っぽい始まり方でした。
 それを別にしても、とにかく面白い。電車の中、診療の合間に、あっという間に130頁ほど読み進んで、もう第6章です。そこで既に通り過ぎた、問題の第2章『ポンティウス・ピラトゥス』についてですが。
 ここに描かれているイエスは福音書のそれとは全く違う、善良で楽天的なユートピア思想家ですね。それを福音書記者マタイが、事実とかけはなれたストーリーの主人公に仕立てようとする。
 「あの男は羊皮紙を持って私のあとをしつこくつきまとい、ひっきりなしに書きつけているのです。ところがあるとき、その羊皮紙を覗きこんで愕然とさせられました。そこに書かれてあったのは、私がまったく言いもしなかったことばかりだったからです。どうかお願いだから、その羊皮紙を焼いてほしい、と頼みました。しかしあの男は、それを私の手から奪い取ると、逃げてしまったのです。」(P.44-45)
 要するにナザレのイエスは実在したが、キリスト教の核心的メッセージはすべて周囲の関係者や後世がイエスに託して創作したもので、その意味で福音書は何一つ本当のことを述べていないという「教授」の主張です。
 このように、イエスもマタイもユダも正統的解釈とはまったく違った有り様で描かれるのですが、その中で不思議にピラトだけは(そしてその反射的存在である大祭司カヤファも)正統的解釈における描かれ方といちばんズレが小さく、ほとんど無修正で通用するように思われます。
 これはナゼなのでしょう?逸脱者のあり方は多様であっても、それに対応し問題を処理する現世権力のあり方は、いつでもどこでも驚くほど一様で没個性的といったことが浮かびます。そうであるがゆえに、物語の一つの座標軸として働くのかもしれないと思ったりしますが、さてブルガーコフはどういうつもりで何を仕掛けているのか興味津々といったところ。
***
 以上、とりいそぎ「作業開始」の報告まででした。
 ところで些細なことですが、ちょっと驚いたことに2015年第1刷、2019年第5刷のこの文庫本には、
 「要するに教授は気違いなのだ」(P.87)
 と書かれた部分があります。この言葉を活字で見るのは、いったい何年ぶりでしょう。考査課の面々が見たら、さだめし驚き憤ることでしょうね。
 今日の標準では「アウト」ですし、もちろん私も使いはしませんが、「気」が「違う」と語源的に分解してみるならこの言葉には含蓄があります。「気が大きくなる」「気が沈む」などの言い回しが「気」の量的変調を表すのに対して、その質的逸脱を示すのが「違う」という言葉の謂なのでしょうから。言葉を差別的にするのは使う者の性根であること、真にうんざりです。
 またあらためて
M拝
Ω

総督ピラト

2021-08-01 17:23:23 | 日記
2021年7月20日(火)
 E君、
 貴兄からピラトについて御質問いただくとは、20代の頃には予想だにしなかったことでした。貴兄ならいくらでも自分で調べられるでしょうに、どうやら宿題をくださったようですね。
 聞けば、ブルガーコフの快作『巨匠とマルガリータ』の冒頭近くにピラトが登場するとのこと。それではなおのこと、解説も的確を要するでしょう。
 一つ気になるのは、ロシア人作家ブルガーコフには正教徒としてのピラト理解が前提としてあるだろうということです。西方教会の事情についてはある程度、確信をもって語れますが、ひょっとして東方教会のピラト理解には何か違いがありはしないか。以下に御紹介する信仰告白の文言に戻れば、そんな心配もないはずだけれど。
 ということで、まずは西方教会の流れを汲む現代のプロテスタント教会で、僕が教わってきたことをおさらいしてみます。それからブルガーコフを読んだうえ、読後に二人で解題を試みることにしましょうか。

***

 ポンテオ・ピラトと表記することにしましょう。この人物はローマ帝国の第二代皇帝ティベリウス(在位 A.D. 14-37)時代のローマ人で、ユダヤ属州の第5代総督(A.D. 26-36)とされています。ヨセフスの『ユダヤ古代史』などにも事績や失政ぶりが記されており、実在の人物であることは確実なようですが、キリストに十字架刑を宣告したことについては新約聖書以外に記載がありません。
 その新約聖書にどう描かれているかということですが、その前に「使徒信条」や「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」について触れた方が早いでしょう。
 使徒信条 は Credo の通称で知られる比較的短いもので、早い時期の教会で洗礼式に用いられたのが起源とのことですが、現在ではカトリックのミサやプロテスタントの礼拝の式文に組み込まれ、西方教会では広く共有される信仰告白文です。ただ、東方教会では使徒信条を用いません。東西両教会にまたがる共通の信仰箇条を探すとなると、ニカイア・コンスタンチノポリス信条がそれにあたります。381年のコンスタンチノポリス公会議で採択されたもので、世界中のほとんどのキリスト教会がこれを信仰の基礎として受け入れています。
 これらの中に、下記の文言があるのです。
 「主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ…」(使徒信条)
 「聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ...」(ニカイア・コンスタンチノポリス信条)
 誕生の後は、生涯の詳細に触れることなく、受難・死・復活へ直結していくのですが、その受難が「ポンテオ・ピラトのもとで」なのですね。
 これは私、なかなか納得がいかなかった。私ばかりでなく、多くのビギナーが首を傾げてきたのではないかと思います。何故というに福音書に描かれている総督ピラトは、彼の権限の許す範囲内でナザレのイエスの処刑を回避しようと腐心していることが明らかだからです。

***

 福音書によれば、イエスの処刑を待望・画策していたのはピラトではなく、ユダヤ人共同体内の伝統的・保守的な宗教指導者でした。こうした人々がラディカルで尖鋭な改革者を危険分子と見なすことは、どこの社会でも珍しくないことですよね。宗教的には形骸化しまたそれゆえに社会の安定に寄与している守旧派にとって、改革者が民衆の熱狂的な支持を集めつつあるとすれば、なおさら看過できない危険な存在となります。
 祭司団、律法学者、ファリサイ派、サドカイ派など互いに軋轢を抱えた諸グループが、危険分子の芽を摘もうとする点で利害の一致を見るのですが、ローマの支配下にあった当時のユダヤにおいて、彼等は自身の手でイエスを死刑に処する権限をもっていませんでした。その権限をもつのはローマ皇帝の代理人である総督ピラトです。
 そこで祭司長ら指導者グループは、彼ら自身の裁判システムによってイエスを瀆神の罪に問うたうえ、死刑の執行をピラトに要請します。実際に当時のシステムがこのように運用されていたのかどうか、そのあたりはわかりません。ともかく要請をもちこまれたピラトの方は、簡単にうんとは言いませんでした。
 以下のやりとりが記されています。
 「そこで全会衆(石丸注:長老・祭司長・律法学者ら、直前まで最高法院でイエスを裁いていた人々)が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。
 『この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。』
 そこでピラトが『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは『それは、あなたが言っていることです』と答えた。」(ルカ 23:1-3)
 最後の部分は「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」というヨハネ福音書(18:34)の言葉の方が分かりやすいですね。
 いずれにせよこれはピラトにとってはまことにバカバカしいやりとりで、目の前の男が王を僭称する意図も政治的実力もないのだと見切れば、ユダヤ人同士の神学論争など、どうでもよいことです。「皇帝への納税を禁じた」のが事実であれば公然たるローマへの反逆でしょうが、イエスが決してそのような動きをとらなかったことは、有名な「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という納税をめぐる問答からも明らかです。
 そこでピラトは、
 「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」(ルカ 23:4)
 と明言するのですが、祭司長らは、
 「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです。」
 と、納税問題を除いた残りの主張を繰り返します。(ルカ 23:5)
 今日で言うなら騒乱罪というところでしょうが、今日のそれと同様に事実そのものが怪しい話です。また、それがユダヤ人内部のいざこざにとどまる限り、総督ピラトにとって預言者イエスの活動がもたらす動揺はむしろありがたいぐらいのもので、少なくとも指導層に肩入れしてイエスを排除する積極的な動機などありえません。そのように醒めた目から見れば、祭司長たちの訴えが「ねたみのためである」(マルコ 15:10)ことは一目瞭然でした。

***

 こうした経緯の中で、ピラト自身がイエスの霊的活動やその預言者としての存在感に、どのような関心をどれほどもっていたかは不明です。ただ、ピラトの妻が裁判の最中に伝言をよこし、「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢でずいぶん苦しめられました」と訴えたという逸話がマタイ福音書(27:19)に記されています。彼の妻に託されている葛藤と呵責は、ピラト自身の内心の投影として記されているのかもしれません。
 いずれにせよ、前述の通り「この男に何の罪も見いだせない」というのが彼の結論であったなら、端的に無罪を宣告するのが当然の結論ですし、彼には(そして彼だけに)その権限があったのです。ところが、このあたりから単なる法官ではない、現地の行政トップとしてのピラトの打算と保身が動き始めます。
 仮に自身の責任においてナザレのイエスの無罪を宣言すれば、これに対する反発がきっかけとなって、ローマの支配に対するユダヤ人の不満に火が点く危険があるでしょう。無実と信ずる人間を処刑するのは気が進まないが、無罪を公然と宣言する役割は御免被りたい、そんなところでしょうか。
 困ったピラトは、イエスがガリラヤ出身であることに注目し、ガリラヤの統治を委ねられていたヘロデ(いわゆるヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパス)のもとへイエスを送ったとルカ福音書(23:6-12)にあります。しかしヘロデもまた、面白半分にイエスを嘲弄したあげくピラトに送り返しており、このあたりは責任回避のたらい回し劇ですね。
 いよいよ思案に詰まったピラトは、過越祭に死刑囚を一人、特赦を与えて釈放してきた自らの前例に訴えます。ということはイエスを死刑に定めたことが前提ですから、既に内心の信念には反しているわけですが、ピラトとしては民衆に判断を委ねれば、イエスが釈放されるに違いないと読んだのでしょう。何しろわずか数日前の日曜日には群衆の大歓呼の中、小ろばに乗るという奇想天外な姿でエルサレムに入城してきたカリスマ預言者です。競合するもう一人の死刑囚はバラバという男で、「都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」(ルカ 23:19)あるいは「暴動のとき人殺しをして投獄されていた」(マルコ 15:7)とありますから、この男こそ騒乱罪の有力容疑者であったかもしれません。何しろ、集まった群衆がイエスを捨ててバラバを助けるとは、ピラトは予想もしていなかった。イエスが釈放されるに違いないとタカを括っていた。しかし実際にはその予想外のことが現実になったのです。

***

 なぜそんなことが起きたか。
 考えられる理由の一つは、イエスを告発した大祭司以下の人々が、配下を使って群衆を扇動し操作したということ。(マルコ 15:11)
 もう一つは、イエスが自分たちの期待したようなこの世の革命家ではなく、ローマの圧政からイスラエルを解放する政治的リーダーでもないと知れたとき、それまでイエスに期待を寄せていた民衆の大きな失望が、一転して「裏切り者」に対する憎悪に変わったということ。
 どちらも分かりやすいことでしょう。とりわけバラバの関与していた「暴動」が反ローマ的な意味合いをもつものだったとすれば、上は大祭司ら指導層から下は一般民衆まで、政治的な解放を待望する人々の共感あるいは打算的な期待がイエスよりもバラバに傾斜することは、容易に想像されます。
 そうした民心の機微をピラトがどこまで理解していたか、ともかく、ここに至ってもピラトは「イエスを釈放しようと思って」(ルカ 23:20)、「いったいどんな悪事を働いたというのか」(マルコ 15:14)、「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。鞭で懲らしめて釈放しよう」(ルカ 23:16)などと言葉を尽くして群衆を説得します。「この人を見よ ecce homo」(ヨハネ 19:5)という有名な言葉がピラトの口から出るのも、この場面ですが、ついに断念せざるを得ませんでした。
 「ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。』」(マタイ 27:24)
 「そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」(マタイ 27:26)

***

 長くなって申し訳ありません。素材の提示は以上です。このような福音書の記述を踏まえて、使徒信条やニカイア・コンスタンチノポリス信仰告白が「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と述べることが、なかなか腑に落ちなかったのは先に書いたとおりです。
 少なくともピラトは、イエスを十字架に架けた「主犯」とはいえません。むしろ彼の権限の許す限り処刑を回避しようとして、できるだけの手を打ったと言えるでしょう。それ以上頑張れば「暴動が起きかねない」と判断したのであれば、現場の行政官としては致し方ないギリギリの決断ではないか。
 しかし、その一連の言動が「ポンテオ・ピラトのもとで」と世界史の中で永久に記憶されることになったのです。
 E君、どうお思いですか?

***

 護教的に居直るつもりは毛頭ありませんし、信仰告白が制定された当時の人々の思いに肉薄する想像力は到底もたず、困ったという他ないのですが、その後の日々に考え巡らしたことが一、二あります。簡単に記すこととさせてください。
 まず、およそ人が信念に従おうとするならば、いつの時代にもどこの国でも、その時その国の「ポンテオ・ピラトのもとに」苦しむことを覚悟せねばならないのではないか。少々飛躍のあることは承知のうえで、そのように一般化してみたい含みがここにあります。
 より文脈に即して言えば、ピラトが内心ではイエスの無罪を確信しながら、結局のところその権限によって死刑を命じ執行させたこと、それが行政官の判断としては誤っておらず正しいとすら言えることの意味です。そのような性質をもつ政治権力の庇護のもとで、われわれの日常の安寧は守られているのですが、その同じ公権力は、われわれが地上の国ではなく神の国の民 ~ 必ずしも宗教的なものに限らない、いかなる意味であれ現に存在していないユートピアの民 ~ たらんとするとき、われわれを守るものではなく裁くものになるだろうということ。
 そして、実際にそのように裁かれ滅ぼされたものへの信頼と同一化に、この民は希望をみるのだということ。
 そうしたあれこれを人が思い巡らすときの敵役として、ピラトはその名を残すことになったのだろうと思います。

 最後にE君、恐縮ながら下記をあわせて御笑覧いただけないでしょうか。
 四つの福音書は、その特徴から三つの共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とヨハネ福音書に大別されます。上記のページに記したとおり、「真理」という言葉は共感福音書ではほとんど全く使われていないのに対して、ヨハネ福音書では中心的な課題を表すキーワードとして頻出します。
 そのヨハネ福音書の「真理」の用例23箇所の最後のものが、ピラトのこれまた有名な言葉である「真理とは何か」なのです。
 政治的人間であるピラトは、イエスの突きつける「真理」の問題について、徹頭徹尾感受性を欠いていた、あるいは欠いているフリをし続けました。それこそが最も分厚く越えがたい、この世の障壁であるのかもしれません。

 さて、ブルガーコフは総督ピラトにどのような役割を与えているのでしょうか?いよいよ楽しみに拝見することにしましょう。

Ω