卍の城物語

弘前・津軽地方の美味しいお店と素晴らしい温泉を紹介するブログです

袋宮寺

2010-02-02 13:03:46 | 神社・仏閣
津軽三十三観音霊場巡りを行った私は、いつのまにか観音信仰に目覚め、それに伴い、仏像の魅力に取り憑かれてしまった。

ここ「袋宮寺」には津軽地方一の名仏「十一面観世音菩薩立像」が本尊として納められている。

場所は弘前市の新寺町の通り沿いにあり、小規模の敷地なのでわかりづらいが、ちょうど弘前高校の隣にあるので迷う事もないだろう。

「袋宮寺」はもともと現在の弘前市樋ノ口にあったが、廃寺となった為、もともと「無量院」があった現在地に移り、無量院と合併して現在の「袋宮寺」になりました。

本尊の十一面観世音菩薩立像は、もともと無量院の本尊として、延宝五年(1677年)に津軽四代藩主信政公が、父の信義公の菩提を弔うために弘前城内の老木を使用し、作らせたものである。

「背高観音」と呼ばれる立像は、なんと6mもあるジャイアント観音様。
頭部は天井ギリギリまで収められ、高部から見下ろされる薄開きの目は、衆生の心を見抜き、そして癒してくれる事だろう。

胴部はところどころ剥げ欠けてはいるが、未だに美しい金色に輝き、細かい装飾の彫りも見事である。
今にも動き出しそうな迫力が感じられる。

観音立像と共に本堂も県重要文化財にしていされており、しかしながら本堂は質素な造りで、内部もとても狭く、あくまで観音立像がメインになるのは致し方なし。
観音立像の頭部近くの高部には、天女の絵もあるので、それも隠れた見所だ。

境内には本堂の他に地蔵堂と、そして三十三観音石像がある。
ここはもともと津軽三十三観音霊場の第一番札所であったが、その後の編成によって現在の三十三箇所から外されている。
その理由はわからないが、私自身、津軽三十三霊場を巡ったが、歴史や伝説などの謂れを含めても、この袋宮寺の観音立像がダントツの名仏であると断言出来る。

新寺町の煩悩の固まりの様なただ単にデカイ寺の集まりから少し外れた場所にひっそりと佇む「袋宮寺」。
ここでは純粋に、観音様に祈る事が出来、純粋に名仏に目を奪われる。
今日も十一面観世音菩薩立像は、弘前の町を見下ろし、守って下さっているだろう。

住所・弘前市新寺町26

弘前東照宮

2010-01-03 14:45:47 | 神社・仏閣
初詣に「弘前東照宮」に行ってきました。

初詣は神社に行くのか、寺院に行くのか分かれるところですが、今年は渋いところで弘前東照宮を選んだ。

弘前東照宮といえば、2年前に大きなニュースになったので多くの県民は知ってるかと思う。
私は恥ずかしながらその時のニュースで弘前に東照宮があることを知ったくらいだ。

当時の宮司が、神前婚の為に結婚式場を境内に建設。その時の借金の借り入れ方に問題があり、更に結婚式事業の運営が失敗した為に、宮司は自己破産。担保となっていた本殿以外の建物は全て競売にかけられることとなった。
現在も買い手はついていないと思われる・・・。

そんな悲しい現状の弘前東照宮だが、深い歴史がある。

津軽二代藩主信枚は、徳川家康の養女・満天姫を正室として迎える。
徳川家康が亡くなると、満天姫は弔いの為に、信枚に東照宮を弘前城内に建立するように頼まれ、信枚は幕府に勧請し、元和三年(1617年)に建立。
その後寛永元年(1624年)に現在地に移っている。

現在東照宮は全国各地にあるが、日光以外に建立されたのはこの弘前が一番最初である。

日光は江戸の真北にあたり、その日光の真北に弘前がある(北は聖なる方角とされている)

東照宮が建立される事により、徳川家とのパイプの増強が出来、津軽藩の防衛の為もあって、津軽藩にとっては有り難い事であった。

こんな津軽藩の重要な歴史を背負ったこの弘前東照宮は、金銭の為にあっという間に廃墟同然になってしまうとは、人の欲望は恐ろしいものです・・・。

鳥居を潜るとまず右手に「じょっぱり太鼓」があります。
弘前ねぷたで先頭を切るあのお馴染みの大太鼓です。ここで保管されています。

右手が元社務所と問題の式場跡でしょうか。ここは廃墟です。

そして社殿、奥に本殿があります。
本殿は重要文化財に指定されているほどで、白木造りで、装飾金具を使っておりません。

お参りをしましたが、賽銭箱すらない状態です。
元旦なのに、参拝客は誰も居らず、ここはもう忘れ去られた神社となってしまったのか、悲しい思いになりました。

それでもこの地は廃社になる事もないでしょうし、家康の分霊がちゃんと祀られている訳ですから、この地は「東照宮」として、今後もお参りしていきたいと思います。

住所・弘前市笹森町38

※無人神社です

「津軽」の旅(番外編)~雲祥寺

2009-12-09 22:18:04 | 神社・仏閣
太宰治生誕百周年記念企画「津軽」の旅・完全版。
今回は番外編として、金木の「雲祥寺」をご紹介。

何故番外編かというと、一連のシリーズは「津軽」の旅なので、太宰が「津軽」本編で訪れた場所を巡るというのがテーマであって、その際太宰は「雲祥寺」を訪れてはおりません。
「雲祥寺」に付いて詳しく書かれているのは「思い出」です。
しかしながら「津軽」でも雲祥寺に付いてほんの数行だけですが書かれています。
だから全く関係ないわけでもなく、同行した友人のリクエストもあったので斜陽館を見学した後に訪れました。

斜陽館から徒歩1分くらいでしょうか。
三味線会館を道路を挟んで真向かいにあるのでかなりわかりやすい場所にあります。

「雲祥寺」の開基は1596年。
1969年に再建し、現在の総ヒバ造りの本堂が建てられた。

太宰は幼少の頃、たけに雲祥寺によく連れてきてもらったと書かれている。
幼少の太宰は「地獄絵」に恐怖し、卒塔婆の「後生車」の結果に恐怖した。

まず立派な山門がお出迎え。
金剛力士像が二体。二階に鐘が据えてある特殊な形状でした。

境内には思いっきり倒れ掛かっている大きな松があり、他には地蔵堂、そして「後生車」付きの太宰治の記念碑もある。
「後生車」は墓地や地蔵堂によく備えてある、鉄輪を回して停止してから戻らなかったら天国行き、停止してから逆転したら地獄行きというもの。
幼少の太宰はこの後生車を何回回しても逆戻りするので、地獄に落ちると信じて慄いたとか。

そして本堂へ。
「見学自由」みたいな事書いてたので、自由に見学させて頂きます。
もちろん仏像もありますが、そっちのけで「地獄絵」を見る。

地獄絵と呼ばれる「十王曼荼羅」は、江戸時代初期から中期に掛けて描かれたとされ、作者は不明。
七幅対の掛軸から成り、岩彩を使用し、金の模様は金箔を張り付けている。

七幅全てが同じ様な構成で、上部には地獄の王と仏がおり、その下で各々の罪によって各種の地獄のフルコースが展開されます。

予想したよりとても精密に描かれており、状態もかなり良いので絵画として美しさすら感じてしまうほど。

仮に、天国は存在しなくても問題ないが、地獄は是非存在して欲しいと思いながら見てた。
この世で生きてりゃ多少なりとも罪を犯すけど、どうやっても贖えない大罪を犯したらこの絵の地獄に堕ちるべきです。そうしないと被害者はやりきれないしなぁ・・・。

そんな見惚れてしまうほどの地獄絵は日本絵画として充分価値が高いものです。
予想以上に楽しめました。とても貴重な寺でした。

住所・五所川原市金木町朝日山433
電話・0173-53-2074

「津軽」の旅(4)~本覚寺

2009-12-03 18:10:15 | 神社・仏閣
太宰治生誕百周年記念企画「津軽」の旅・完全版。
第四回は今別の「本覚寺」です。

蟹田の観瀾山を後にし、国道280号線をひたすら北上。そして西へ。
外ヶ浜をぐるりと廻り、海は陸奥湾から津軽海峡へ、どことなく姿を変える。

国道280号線の海沿いの旧道へ入り、今別の中心街へ。
ここら辺は今年初旬の観音霊場で訪れているから少しばかり土地感がある。
「本覚寺」へは大きな看板があるので、迷うことなく辿り着く。

本覚寺は天正年間(1573~92年)に草創と伝えられる名刹。
今別出身の五世・貞伝上人は名僧として知られており、漁業や地域の振興に力を注いだ。

境内には貞伝上人の菩提を弔う為に建立された「青銅塔婆」は県重要文化財に指定されているが、後から知ったので見ていない・・・。

境内の右手は古い建物で、ここが旧本堂だと思われる。工事中でした。

本堂にお邪魔しようと思ったが、施錠しており、拝観をお願いしたかったが留守の様で無理だった。

なので大仏を拝観。
この大仏はいつ出来たかわからんが、かなり新しいものでしょう。
大仏の下部の堂は、中へ入るとセンサーでライトやダミーの蝋燭が点き、賽銭を入れるとお経と鐘が鳴るハイテクなシステムを取り入れてるのがなんか笑えた。

更に多聞天が祀られており、ここもお参り。
他にも地蔵堂があったと思う。

太宰は「津軽」本編で、蟹田を後にした後に今別に立ち寄っている。
すぐ竜飛に舟で向かう予定だったが、舟が欠航だった為に、Mさんの家に寄り、酒を酌み交わしてから、その流れで本覚寺に訪れる事になった。

そして道中に意気揚揚で鯛を買い、本覚寺のおかみさんに寺の説明を受けている。
酔っ払いN君とおかみさんとの噛み合わないエピソードの一文で締め括りたい。

~。「いったい、このお寺はテイデン和尚が、いつごろお作りになったものなのでしょうか。」
「何をおっしゃっているのです。貞伝上人様はこのお寺を御草創なさったのではございませんよ。貞伝上人様は、このお寺の中興開山、五代目の上人様でございまして、――」と、またもや長い説明が続く。
「そうでしたかな。」とN君は、きょとんとして、「しからば、さらにお尋ねいたしますが、このテイザン和尚は、」テイザン和尚と言った。まったく滅茶苦茶である。
 N君は、ひとり熱狂して膝をすすめ膝をすすめ、ついにはその老婦人の膝との間隔が紙一重くらいのところまで進出して、一問一答をつづけるのである。そろそろ、あたりが暗くなって来て、これから三厩まで行けるかどうか、心細くなって来た。
「あそこにありまする大きな見事な額は、その大野九郎兵衛様のお書きになった額でございます。」
「さようでございますか。」とN君は感服し、「大野九郎兵衛様と申しますと、――」
「ご存じでございましょう。忠臣義士のひとりでございます。」忠臣義士と言ったようである。「あのお方は、この土地でおなくなりになりまして、おなくなりになったのは、四十二歳、たいへん御信仰の厚いお方でございましたそうで、このお寺にもたびたび莫大の御寄進をなされ、――」
 Mさんはこの時とうとう立ち上り、おかみさんの前に行って、内ポケットから白紙に包んだものを差出し、黙って丁寧にお辞儀をしてそれからN君に向って、
「そろそろ、おいとまを。」と小さい声で言った。
「はあ、いや、帰りましょう。」とN君は鷹揚に言い、「結構なお話を承りました。」とおかみさんにおあいそを言って、ようやく立ち上ったのであるが、あとで聞いてみると、おかみさんの話を一つも記憶していないという。私たちは呆れて、
「あんなに情熱的にいろんな質問を発していたじゃないか。」と言うと、
「いや、すべて、うわのそらだった。何せ、ひどく酔ってたんだ。僕は君たちがいろいろ知りたいだろうと思って、がまんして、あのおかみの話相手になってやっていたんだ。僕は犠牲者だ。」つまらない犠牲心を発揮したものである。

続く。

住所・今別町今別字今別119
電話・0174-35-2076

大円寺

2009-11-26 14:49:16 | 神社・仏閣
大鰐町蔵舘にある「大円寺」に行ってきました。

大円寺には国指定重要文化財の阿弥陀如来像が本尊として祀られています。
しかし、この本尊は古くから大日如来として崇められているのです。境内や本堂にもちゃんと「大日如来」と記されていまます。

大日如来は密教の真言宗の本尊であり、宇宙そのものを神格化たのが大日様です。
阿弥陀如来は浄土宗の本尊であり、極楽浄土に住み、全ての人を極楽へ導くとされているのが阿弥陀様なので、大日如来とは全く違います。

まず朱色の門から2体の仁王像が迎えてくれます。
そして本堂へ入ります。本堂も朱色が生える美しい建造ですが、建て替えられた物なので、比較的新しさを感じます。

奥に本尊の阿弥陀如来像がガラス越しに見えます。安全と保存のためにガラスで遮ってるのでしょうか。
阿弥陀如来像の下には不動明王像、愛染明王像、そして大日如来像があり、この三体は比較的新しいもののように見受けられます。

本尊の阿弥陀如来像は平安末期から鎌倉初期に作られたもので、総ヒバ使用の寄木造りです。1650年には京都で修復されています。
津軽地方では最古の仏像とされています。

かなり大きい阿弥陀如来坐像です。しかしどうみても大日如来とはフォルムが違います。
さて、なぜ阿弥陀如来なのに大日如来として信仰されてきたかですが、諸説あります。

一番に信じられていた説は、胎内仏として阿弥陀如来の胎内に大日如来が納められていたという説がありますが、近年の調査によって仏像内には何もなかったというのが証明されています。

また、これが有力な説ですが、真言宗では阿弥陀如来を大日如来に見立て、信仰してきたという歴史があると文献に載っていたようです。
それが密教ならではの慣わしだったと推測されます。

大円寺の住職によると、大日如来は阿弥陀如来や不動明王に姿を変えるとされている、とお話されるようです。

そんな謎めいた御本尊は、輝しい光を放って堂々とお座りになっておられます。

もともと大円寺は弘前の銅屋町、現在の最勝院がある場所に構えていたのですが、明治の神仏分離令によって現在の大鰐に移っています。
弘前の年配の人たちは最勝院のことを未だに大円寺と呼んだりしていて、その名残が窺えます。

境内には本堂の他、観音堂、金毘羅大権現、地蔵堂、三十三観音石像があります。

大円寺は未申の一代様としても知られてますが、何故か門には牛頭が形取られたものや、牛の石像があります。
これは京都での修復を終えた阿弥陀如来像を牛が運んだきたので、それを労っての事だそうです。

歴史ある如来像、歴史ある温泉。大鰐町が一層有り難く思えた時でした。

住所・大鰐町蔵館字村岡12
電話・0172-48-2111

高照神社

2009-08-12 22:23:12 | 神社・仏閣
羽黒温泉に行ってから時間が余ったので、どこかに立ち寄ろうと思って車を走らせていると、道路脇に「高照神社・宝物展」なる看板を見た。
この看板は結構前から岩木山の主要道路のいろんなところにあって気になってたが、なかなか行こうとは思わなかった。
だけど今回は時間もあったのでフラッと立ち寄る事にした。

近くの岩木山神社はいつも観光客がたくさんいるが、高照神社に着くと、観光客など誰もおらず・・・(ちょっと経ってからサイクリング中の2人が来たくらいだ)。

広い境内には巨木の杉があり、左手に「宝物展」開催中の蔵があった。300円も取られるから入るかどう迷ったが、その日は火曜日の定休日だった・・・。どちみち入れず。

門を潜ると拝殿。そして奥に本殿がある。
鮮やかな朱色が眩しく、建物も古式ゆかしい見事な造りだ。
拝殿の隣にナントカ殿と書かれた堂があるが、いつ壊れてもおかしくないほどボロイ。見た目はそんなに価値があるように思えないので、取り壊すか立て直すかどちらかにした方がいいのでは思った。震度4くらいで全壊しそうだもの。

さて、高照神社の歴史と由来を辿ってみる。

名君と呼ばれた津軽4代藩主信政の遺志を継いで、5代藩主信寿が1711年に建立。
社殿は吉川神道に基づき、東西に建物が一直線に並ぶ配置で、全国的に類例が無い。
明治十年、藩祖津軽為信公を合祀する。
平成一八年、高照神社の社殿建造物八棟と信政公の御廟である墓二基が国の重要文化財に指定される。

本殿をぐるりと後ろに回り、そして林の中へ真っ直ぐつき進むと、信政の御廟がある。

この林道がまた奥ゆかしい。
石畳の参道は苔が生え、日光を遮った清涼な空気感が、外界の猛暑と全く違っている。
200m先にひっそりと佇む廟所までの距離が異世界との橋渡しに思える。

この杉林は明治時代まで一本も木が生えておらず、乗馬場だったと記されており驚く。

廟所を参拝してから元来た道を戻り、そこから右折する道があり進むと、信政だったか信寿の家臣の廟所がある。
藩主が死んだと聞きつけ、忠心の強き余りに自害したとされ、忠義を讃えられてここに建立されている。ここもひっそりと建っている。

こんな伝統のある神社になぜ今まで来ていなかったのかと恥ずかしく思う。
神聖さに於いては、岩木山神社より明らかに高照神社の方が強く感じられる。

宝物展は10月くらいまで開催しているので、この機会に参拝してみてはいかがでしょうか。

住所・青森県弘前市大字高岡字神馬野87
電話・0172-83-2426

津軽観音巡礼第三十三番 観音山普門院

2009-04-11 00:40:42 | 神社・仏閣
津軽三十三観音霊場カジュアル巡礼最終回。

一番札所の久渡寺に行ったのはいつだったか・・・。
去年の12月に始めた観音巡礼はいつのまにか4ヶ月近く掛かってしまった。
そして遂に今日、三十三番札所の観音山普門院を訪れた。

観音山普門院と聞いては、どこかと思われる人が多いだろうが、「山観」と聞くと地元の人はわかるだろう。
山観は津軽の夏の風物詩「宵宮」が一番早く行われる事で有名である。5月の下旬に早々と開催される。

おととしの夏には「劇団夜行館」の演劇が境内で催された事もあり、初めて山観に訪れ、境内にて演劇鑑賞をした。
おどろおどろしい演劇の夜行館の演劇の内容に相応しい幽玄な場所であったのを記憶としている。
その演劇に参加していた山観の住職はさぞや芸術に理解のある偉大な人間なのだろうと感じたものだ。

もともとこの場所は茂森山として一帯を見下ろせる小山であったが、弘前城より高く、山の頂上からは天守閣の中をも覗けてしまう為、切り崩し工事にて平地となり、現在の城下町が形成されている。
しかし弘前城が築城される前から、この場所には観音堂が存在している。

階段の参道を登り、境内へ進む。弘前の中心地に存在するのが珍しい巨木が幾つかある。
観音堂までは、閻魔堂、身代観音堂、稲荷堂なとがある。左手には庫裏がある。

観音堂裏手の道には三十三観音石像が見守っている。

観音堂の扉を開けると遠くに聖観世音菩薩像が見える。
そしてお祈りを捧げ、満願成就。長きに渡った観音巡礼もここにて終止符を打った。

津軽の冬は長く、巡礼の季節は春から始まる。その逆をついて、厳冬期に始めた観音巡礼は細かく時間を割いて少しずつ進めていった。
冬ならでは、道路が積雪で通れず、二十五番札所の松倉観音堂は訪れる事が出来なかった。ここは悔やむところであった。
他には、普段堂宇に入れるであろうところでも、冬季だからか施錠しているところも多かった。
ほとんどの札所は無人であり、地元民が管理している所が多い。昨今の仏像盗難を考えると、堂宇の施錠は致し方あるまい。
そしてメインの観世音菩薩像を拝むことが出来たのはあまりに少ない。三十三ヶ所中7ヶ所ほどであったか。

観音信仰は日本全国で行われている。西国三十三ヶ所がその頂点であり、古くから巡礼のメッカとして全国から訪れていたようだ。
そして津軽の藩政時代には、西国三十三ヶ所を真似て、津軽三十三ヶ所を形成した。
その理由は多額の旅費、労働力、そして藩内の情報が藩外に流出するのを防ぐ為、藩内で巡礼出来るようにしたのである。
そのような例は全国にも及び、各地に三十三ヶ所霊場が存在している。
巡礼は千年前から行われており、古くから西国の地を巡礼するのは一生に一度あるかどうかののイベントであった。多くの行けない者は一人の代行者にまかせ、土を持ち帰るのが風習となった。
今でも西国巡礼の土を埋めている札所はいくつかある。

仏教が日本に伝来し、信仰宗教と成り得たのは、森羅万象八百万の神としての神道に歩み寄り、解釈を変えてまでして対立を避けた事にある。
神も仏も共存する社会を作り出せたのは、あらゆる物を祀り、畏れる日本人の性格にあっていたからであろう。

そもそも何故本尊として観音像を祀るのかは、観音経の広大な救済力にあるからといっても過言ではない。
観音経は、どんな災難があっても、観音力を信じれば必ず救済されると説いている。
更に女性的な外観は親しみを覚え易いことから、多くの人々から愛されることとなった。
全国中の観音像は、他の菩薩像、如来像や明王像などを全て合わせても、観音像の方が多い事から、いかに観音信仰が日本人の心を掴んだか示している。

そんなことで、この巡礼で仏教についても少しばかり勉強する事も出来た。
神道と仏教の二大宗教を潜在的に信仰している日本人たちであるが、戒律宗教の一神教と違い、穏やかな神性が世界の目に余る暴虐的な不幸を生み出さなかったのは日本の宗教の誇れるところだ。

それでも、この巡礼で避けて通れない、最も憤った事は「神仏分離令」が施行され、「廃仏毀釈」が行われたことである。
この神仏分離令は、大悪法と呼ばれる明治の日本の大汚点である。
神仏習合が完成し、生活に根付いた仏教は神道と共存し、神社と寺院は同じ場所に建てられる事もあった。
動乱の幕末を経て、明治新政府は国家宗教としての神道を位置付けし、仏教と厳しく区別する事とした。
仏教排斥を目的としてはなかったが、一部の神官や国学者が扇動し、排斥運動に広がり、寺院・仏像の破壊活動まで行われた。
仏教の怠惰がここにきて民衆のフラストレーションの的となり、廃仏毀釈は徹底的に行われた。
一部の寺院の廃寺、観音堂の廃堂、そして本尊を回収されてしまった。その後、仏教寺院は神社になったところがあまりに多い。
しかし実際は、多くの良識ある民衆達が廃仏毀釈を拒否し、本尊を隠したりして難を逃れているのも多い。
その後神仏分離令は5年ほどで頓挫し、神仏習合状態に戻っている。神仏習合が日本全国に根付いていたのが窺える。
津軽三十三箇所でもほとんどの観音堂は一度廃堂になっている。本尊は地元民が隠したり、ダミーを渡したりして、廃仏毀釈の勢いが薄まってきてからまた観音堂を再建し、元に安置する例が多い。
それほどまでして観音信仰は強かったのだと感心してしまう。

他にも観音堂の歴史を辿ると、津軽または日本の歴史と繋がっており、これも地元に住んでいるのに新たに知り得る事が多く、非常に勉強になった。

更に単純に旅行気分が味わえ、訪れた事のない地に足を踏み入れ、津軽は広いなぁとしみじみと思えた。

長くはなったが、この巡礼は本当に為になった。
そして最近体調が芳しくないが、これもまた修行の一環としてしっかりと受け止める。
大体はどこの巡礼地でも家族の健康をお祈りしたが、やはり健康第一だなと自然と思う。

そしてもう一つ、歴史ある観音霊場が、観世音の下に平和で永遠にあるように願ってきた。
戦死者慰霊碑がある寺も少なくはない。動乱の戦国時代、そして日清・日露・大東亜戦争と、望まぬともやってくる戦いの魔の手に巻き込まれた数億の無辜の民の死者の霊の下に自分達が生きているということは心して受け止めるべきである。

今回の巡礼はあくまでカジュアルに挑むというコンセプトで旅したが、巡礼の知識も豊富に身に付いてしまったので、いずれまたこの津軽観音巡礼に挑みたい。
その時は正装で、きちんと納経し、お参りしたい。その時まで健康で、平和であって欲しい。

最後に観音山普門院のご詠歌
~いままでは 親と頼みし 笈摺を ときて納める 茂森の寺~

津軽観音カジュアル巡礼満願終了

住所・弘前市西茂森町2-17-4
電話・0172-32-5105

津軽観音巡礼第三十二番 苦木観音長谷堂

2009-04-09 00:55:47 | 神社・仏閣
津軽三十三観音霊場カジュアル巡礼第三十二番札所の苦木観音長谷堂へ行く。

居土普門堂を後にし、再び国道7号線へ戻り、碇ヶ関方面へ車を走らせる。
目印もあまりないが、苦木の集落へ向かう橋があるので右折して渡る。そこからは案内看板もあるのでなんとか辿り着けた。

苦木観音長谷堂の参道の前に駐車場があり、そこには竜神宮の堂宇がある。
参道の階段を登りきると境内がある。まず子宝神社の小堂があり、予定もないけどお参りしておく。その先に姥石神社の小堂がある。
そして右手から山神宮、熊野神社、観音堂と並ぶ。

苦木観音長谷堂は1632年、南朝の武将水木監正の一族によって創建された。
水木監正は南朝の長慶天皇の武臣で、長慶天皇と共に現在の相馬村の紙漉沢に落ち延びた。天皇が崩御し、水木は現在の苦木に移り住み、開墾し集落を形成した。

ご本尊は正観世音菩薩像である。
過去二回、盗難にあっている。1度目は女修験者に、二度目は神官によって盗難されたが、無事に戻ってきている。
明治の大悪法・神仏分離令により、観音堂は取り壊されたが、ご本尊は他の場所に移して無事であった。
熊野神社となってからは密かにまた祀り直している。

大鰐町は一大温泉地であり、スキー場としても有名である。
その阿闍羅山は梵珠千坊、十三千坊と並び、津軽三千坊と呼ばれ、霊験あらたかな山として昔から崇められてきた。
今では無謀に進めたリゾート開発のツケで、瀕死の町としてどことも合併が出来ない状態となっていて、スキー場の存続も危ういとされる。
それでも山には神がいるし、観音様は温かく守って下さっている。

そして次に向かうのが最終札所の山観である。長い観音巡礼も遂に終わりを告げようとしている。

最後に苦木観音長谷堂のご詠歌
~いくたびも 法に歩みを 運ぶなり あまき苦木は 後の世のため~

住所・大鰐町熊野平91

※無人神社です

津軽観音巡礼第三十一番 居土普門堂

2009-04-05 01:32:26 | 神社・仏閣
津軽三十三観音霊場カジュアル巡礼第三十一番札所の居土普門堂に行く。

仕事も忙しくなってきて、観音巡礼もなかなか行き難くなってしまって、もう四月に入ってしまった。
昨年の12月から始めた巡礼だが、厳冬の季節を終え、もう春を迎えた。積雪の状態によってはいけない場所もあったが、この時期ではどこにでも行けるだろう。

国道7号線を南へ。居土普門堂は大鰐町にある。大鰐町に入ってスキー場が見えてきたら、トンネルを潜る前に右折。3kmほど進むと居土の集落がある。案内があるのですぐわかる。
その居土普門堂の入り口から100mほど離れたところに集会場があり、車での参拝客はそこが駐車場であり、敷地内に無人の納経所がある。

鳥居を潜り、山道を登る。杉林の中に入ると、樹齢数百年の大杉が何本も生えているのは圧巻である。
登りきる途中に右側に入ると稲荷神社らしき小堂があった。
林を過ぎると平面になり、周りにはりんご畑もある。そしてさらに進むとまた林の中へ。そして境内が現われる。

境内には樹齢400年以上の大イチョウが二本聳え立つ。奥には二本の杉が根元付近から一緒にくっ付いてしまっている夫婦杉もある。それにしても巨木が多いところである。
中央には熊野神社の社殿、隣に居土普門堂の観音堂、そして神明宮、白竜神社といった小堂がいくつかある。
その中の一つの小堂が崩れ倒れていた。中には獅子舞の獅子が奉納されてあった。なんとか元の位置に起こした。
多分カラスの仕業だろうが、参道にはゴミが散乱していて、そして倒れた小堂があったりで荒れていた。少し前まで冬だから参拝客もほとんど来ないだろうから仕方ないか。
参道にはまだ積雪があったほどだ。

観音堂の創建は1620年。
明治の大悪法・神仏分離令によって廃堂。熊野神社となる。
その後観音像を祀り直し、居土普門堂になる。

ご本尊は千手観世音菩薩像である。拝む事は出来ない。

大鰐スキー場も雪は疎らで、津軽にも春が来たのだと視覚的にも感じられる。
次の苦木観音長谷堂も大鰐町内にあるので向かう。

最後に居土普門堂のご詠歌
~わが国を 巡りめぐりて 巡礼の めでたく帰る もとの居土へ~

住所・大鰐町居土字観音堂1

※無人神社です

津軽観音巡礼第三十番 大光寺慈照閣

2009-03-22 02:18:07 | 神社・仏閣
津軽三十三観音霊場第三十番札所の大光寺慈照閣に行く。

沖舘を後にし、大光寺へ。
この地は群雄割拠の戦国武将たちの重要な戦場であったらしい。

鎌倉時代に曽我氏がこの地に大光寺城に入城する。
その後曽我氏は滅亡し、変わって安東氏の拠城となる。
室町時代、南部氏が津軽を統一し、南部氏が大光寺を重要拠点とする。
そして津軽為信が大光寺城の千徳政氏を奇襲し、落城する。

大光寺城は代わる代わるその時代の力のある武将の拠点となっていた。
その城は弘前城建築の為に取り壊され、大光寺城の大手門は弘前城の亀の甲門に移築されたものである。

大光寺城の古舘があったとされる場所の近くに観音堂はある。
保食神社の敷地内にあり、境内のまん前に社殿。左側に観音堂がある。

1577年、津軽為信は娘婿の健広に大光寺城の城主とした。
1603年、為信の娘は若くして病死した。菩提の為に三重の塔を建立した。
1606年、正観世音菩薩を祀った観音堂と、薬師如来を祀った慈照閣を建立。
1630年、三重の塔は落雷の為に焼失。
明治の大悪法・神仏分離令によって本尊は上納させられ、保食神社になる。
明治の中頃、千手観音像を安置して霊場復活。
昭和38年、社殿の新築により、宮殿が観音堂となる。

そんな歴史深いこの地。合戦の主戦場に何度となくなったこの地は、今では農地が多く、更に工業地帯としても発展している。

戦があったからこそ平和がある。それを心に受け止め、観世音にも感謝したい。

最後に大光寺慈照閣のご詠歌
~仏法に 名を得しいまの 大光寺 参る心も のちの世のため~

住所・平川市大光寺四滝本62

※無人神社です

津軽観音巡礼第二十九番 沖舘観音堂

2009-03-20 22:29:58 | 神社・仏閣
津軽三十三観音霊場第二十九番札所の沖舘観音堂へ行く。

広船を後にし、沖舘の集落へ向かう。
頭上の高速道路を過ぎ去り、沖舘の集落へ。そしてまた高速道路を跨ぐと沖舘観音堂はある。

参道に入る右手前に池がある。池の守り神でも祀っているのか、小堂がある。
鬱蒼とした林の中に参道が続き、真っ直ぐ進むと、神明宮の社殿がある。
その手前の左側に観音堂はある。

沖舘観音堂の歴史
782~806年、坂上田村麻呂によって草創。
1007年、恵心僧都が刻まれた十一面観世音菩薩像を奉安。
1294年、荒廃していた観音堂を、僧の知慶が再建。
1478年、一道坊全賢が神明宮を勧進し、社殿が建築される。
1576年、津軽為信が再建。その後、観音画像を奉納。
明治の大悪法・神仏分離令によって観音堂は廃堂。本尊は弘前大行院に匿う。
大正14年、本尊は元に戻り、再建。
平成8年、改築、奉安。
現在に至る。

この地方一帯は、古くは南部氏の支配下にあり、津軽為信が南部氏を滅ぼし、津軽統一を果たすまで、大小の城が多くあったという。
大光寺城、田舎館城、浅瀬石城、新屋城、尾崎城、乳井城、三ッ目内城、沖舘城などなど・・・。
中でも大光寺城は戦略上の重要地で、為信は大光寺城攻略の為、沖舘観音に戦勝祈願する。
そして成就した為に、為信作の観音画像を奉納した。その絵は今でも見られるという。

沖舘を後にし、そして次は大光寺城があった、大光寺慈照閣に向かう。

最後に沖舘観音堂のご詠歌
~霧霞 くもりて見ゆる 沖館も 祈る心に 晴るる薄雲~

住所・平川市沖舘字宮崎266-3

※無人神社です

津軽観音巡礼第二十八番 広船観音堂

2009-03-19 15:59:03 | 神社・仏閣
津軽三十三観音霊場カジュアル巡礼第二十八番札所の広船観音堂へ行く。

温湯温泉を後にし、平川市の広船という集落を目指す。
白岩森林公園へ向かうように行けば着く筈だが、随分と迷った挙句、なんとか辿り着く事が出来た。

境内は広く、観音堂の他にいろいろ祀られている。
中央には広船神社。左側に観音堂、更に左側に稲荷神社。左の奥の方には薬師堂がある。

右手には滝が流れており、小堂が三ヶ所ほどあり、近くには清水がある。清らかな水が絶えず流れている為、清水観音とも呼ばれていることであろう。

境内内には社務所や納経場が無人ではあるがきちんとあり便利である。
大きなイチョウもまたこの地の神聖さの重要な存在である。

観音堂の入り口の線香やら蝋燭台が、先日の嵐で吹き飛ばされていたのか、かなり荒れていた。あまり大事にされていないのか・・・。そんなことはないだろうが、一応きれいに掃除しておいた。
本尊は千手観世音菩薩像祀られている。

弘船観音堂は807年に坂上田村麻呂によって創建。
1428年に再建。1605年に修築。
明治の大悪法・神仏分離令により広船神社となり、ご本尊は村人が保管。その後再び安置される。
昭和15年に観音堂を新築再建。
そして現在に至る。

集落はまるで船のような形をしているため、広船という名になったとか。
上空から確認しようがないが、山上からでも見て名付けたのだろうか。

この地は何かゆったりと時間が流れる様な気がした。そんなに田舎というわけでもないが、他県に訪れた感覚に似た、空気感が違う様な気がした。

最後に広船観音堂のご詠歌
~世の人を 洩らさで乗する 広船の 誓いは深し 法の山川~

住所・平川市広船字平沢89

※無人神社です

津軽観音巡礼第二十七番 袋観音堂

2009-03-17 16:46:12 | 神社・仏閣
津軽三十三観音霊場第二十七番札所の袋観音堂へ行く。

法眼寺に後にし、そのまま真っ直ぐ温湯温泉郷へ向かう。
袋観音堂は温湯温泉郷の温泉街を抜け、袋という集落の中にある。

大きな鳥居を潜ると、雪に埋まった田んぼが広がる。そこから森の中へ入って行き、そして山へ登る。
途中には巨大なイチョウの木があり、樹齢400年と記されており、県の天然記念物に指定されている。
このイチョウの木があった所に、かつて観音堂はあったそうである。

この訪れた日の数日前に大雪が降ったので、参道は雪に埋まっており、かなりの積雪であった。
参道は階段状になって整備されているようだが、それは積雪でほぼ無意味になっており、雪藪を漕いで登山しているような形になった。
参道には三十三観音石像がお出迎えしてくれる。
それにしても悪路で、しかも堂宇までかなりの距離である。体調も芳しくなかった為、かなりの疲労を費やしてやっとこさ登りきった。

山の中腹に白山姫神社の社殿と併用している観音堂がある。
入り口付近にもあったが、堂宇の前にも馬の像があり、どちらも帽子を被っていた。地元地の参拝客が雪に埋れないように被せたものであろうか。しかし狛犬には帽子は被せてなかった。
それもその筈、この白山姫神社は午年の一代様で、馬を大切に祀ってあるらしい。

728~806年、坂上田村麻呂が創建。
1469~87年、南部光政が再建。
1788年、もともとイチョウの木があった所から、現在の場所に移健。
明治の大悪法・神仏分離令によって、袋観音堂は白山姫神社になる。

帰りも雪藪の中を歩いて降り、ブーツはびしょぬれになりながら次の目的地へ向かう事にした。
本当は鶴の名湯・温湯温泉でゆったりと体を休めたかったところだが、温湯温泉はそんなに遠い場所でもないので、行きたい時に行けるだろうから今回は我慢した。

最後に袋観音堂のご詠歌
~いまの世は 弓矢袋に おさまりて 民のかまどは にぎわいにけり~

住所・黒石市袋字富岡185

※無人神社です

津軽観音巡礼第二十六番 法眼寺

2009-03-13 20:36:09 | 神社・仏閣
津軽三十三観音霊場カジュアル巡礼第二十六番札所の法眼寺に行く。

黒石の山形町にあり、中心街からは少し離れてはいるが、とても大きい寺なのですんなりと辿り着いた。

まず立派な山門を潜ると、左手には鐘楼堂がある。この堂の中にある鐘には、棟方志功の三尊のレリーフがあるとのことだ。現在は封鎖されていた。

隣には不動尊堂、開山堂、砂踏の碑がある。砂踏の碑の周りには、西国三十三霊場巡礼の地の砂が埋まっているとの事だ。

そして法眼寺本堂が真ん前に聳える。とても大きくて立派な寺で、屋根は萱葺きになっている。
中へ入って拝む事にした。勝手に入って拝んでから気付いたが、こういう住職のいる寺は、許可を得てから入らないといけないと今更ながら気付いた。
今までの巡礼地はほぼ無人な為、堂が開いていると勝手に入るのが当たり前になって、ついつい同じ様に勝手に入ってしまった。これは無礼な事だった。

法眼寺は1680年、現在の温湯に南宗和尚が開創し、1691年に現在地に移遷した。
江戸時代に、現在地の近くの神明宮に観音堂があったが、明治二年の大火で観音堂は焼失した。
その後、本尊は法眼寺の鐘楼堂に移ったが、巡礼者の要望から、寺の本堂に祀られる事となった。

本尊は十一面観世音菩薩像である。中へ入って、向かって右側に三十三観音菩薩像と共に祀られていた。

法眼寺から中心街にはそう遠くも無い。こみせ通りなど城下町の風情があって観光としても立ち寄りたいところ。
最近ではつゆ焼きそばが有名で、町の至る所で食せる。

でも次の巡礼が控えていたので、早々と後にした。

最後に法眼寺のご詠歌
~後の世を 願う心は 軽くとも 仏の誓い 重き黒石~

住所・黒石市山形町82
電話・0172-52-3644

津軽観音巡礼第二十五番 松倉観音堂

2009-03-02 01:02:59 | 神社・仏閣
津軽三十三観音霊場第二十五番札所の松倉観音堂へ、行ってはいません。行けませんでした。
代わりに「元光寺」に行く。

松倉観音堂は、梵珠山に連なる松倉山の頂上にある。一般的な巡礼コースとして、国道7号線から101号線に乗り換え、板柳方面へ向かう小路に反れ、そこから前田野目に向かって走り松倉山へ。車で行けるのは駐車場がある所まで。そこから徒歩で20分ほどで着く、らしい・・・。
遂に、冬の観音巡礼の限界を知ってしまった。途中の前田野目辺りまで行けたのだが、そこからは積雪の為、車では無理だった。もともと砂利道らしく、除雪もほとんどしてなかった。残念ながら断腸の思いで引き返した・・・。
過去、十七番札所の春日内観音堂への道のりも積雪でなんとか辿り着けたが、さすがにこの松倉観音堂はどうやっても無理だった。歩いても行けるだろうが、標高が低いが一応雪山登山になるため、素人の自分には危険過ぎるので遠慮しておいた。あくまでカジュアルに巡礼するというコンセプトにも反する。
では二十五番はパスするのか?
いや、納経所である元光寺には、松倉観音のうつしである観音石像があるのだ。
元光寺は松倉山に向かう途中に、101号線から一本外れたコカコーラの工場の近くにある。
松倉山登山が過酷である為、健康・身体に問題がある人、時間に余裕のない人の為に、うつし観音石像が立てられているのである。

元光寺は結構大きい新しい風な立派な寺である。境内の高台には目的の、うつし十一面観音石像が聳え立つ。
観音石像を拝んだ後は折角なので元光寺の中も参拝した。

この辺り一帯は、大釈迦、梵珠山、釣鐘堂山など、仏教に関わる地名が多い。それらの由来と、松倉観音堂の歴史を紐解いてみる。

奈良時代、道昭上人が釈迦如来、普賢菩薩、文殊菩薩を現在の梵珠山に泰安する。梵珠は文殊菩薩の文殊から名付けられた。そして鬼門封じの為に釈迦如来を安置した場所から大釈迦と名付けられた。
801年、坂上田村麻呂によって観音堂が創建。
1210年、金光上人が入山し、十一面観音を安置し、信仰の霊山とする。
明治の大悪法・神仏分離令によって本尊は上納させられる。
その後、霊場として復活し、馬頭観音像が安置される。

霊験あらたかなこの地だが、地名とはうって代わってラブホテルの多いこと!!だが半分以上廃墟と化している。どうでもいい情報だが、巡礼する人はかなり気になることであろうかと思う。

さて、今は県民の森としてハイキングや登山、キャンプ場として人気があるそうだが、梵珠山といったらやはり「火の玉探検」である。
火の玉探検は、旧暦の7月9日から10日の未明に掛けて、火の玉が現れるという怪奇現象を体験するものである。
私が小学6年生頃だったか、友人が家族と火の玉を見に行くというので、その時ちょうど遊んでいた友人何人かと一緒に連れて行ってもらった。
火の玉など半信半疑で、取り合えず友人と楽しく遊んでいた。そしてそろそろ火の玉が出るであろうとの時間になり、多くの観光客とともに火の玉の出現を待ちわびていた。
時間だけがただ流れ、真っ暗な空間をただ眺め、本当に現れるかどうか定かでもない得体の知れないものをただひたすら待っていた。深夜の為に子どもの私は眠たくてうつらうつらしていた、その時!!目の前が一瞬眩やかに光る炎が目の前の空中を通り過ぎたのだ!!あれが、あれこそが火の玉であった。
毎年火の玉探検ツアーが開催去れている様だが、実際の所、ツアーの参加者達はほとんど火の玉を観測出来ていないそうである。そう思えば貴重な体験をしたもんだ。
その火の玉が現れる場所が、お釈迦様の墓の上なのであるが、何故こんな青森の山に釈迦の墓があるのかは疑問だが、火の玉は釈迦の墓に高僧の霊が帰って来る時の後光なのだという事だ。

話は反れたが、松倉観音堂には行けず無念であった。頂上からの眺望は絶景であるらしい。冬に巡礼するのが間違いなのであるが、それも北国津軽の観音巡礼だから致し方なしと受け止める。

最後に松倉観音堂のご詠歌
~あな尊と 導き給え 観世音 誓いをここに 松倉の宮~

住所・青森市浪岡大釈迦字山田199-3(元光寺)
電話・0172-62-3382