卍の城物語

弘前・津軽地方の美味しいお店と素晴らしい温泉を紹介するブログです

津軽観音巡礼第二十四番 入内観音堂

2009-02-27 01:19:59 | 神社・仏閣
津軽三十三観音霊場カジュアル巡礼第二十四番札所の入内観音堂に行く。

浪岡中心街から県道27号線を走ると青森空港への有料道路がある。わざわざ金払うのも馬鹿らしいので、迂回して一般道を通る。峠を抜けると青森市の中心街が見渡せる。今では新幹線の陸橋が延々と続き、開通が待ち遠しく思うところだ。
そうしてすぐ入内へ向かう道があるので右折。小舘という集落があり、観音巡礼の案内があったので向かうと、そこは納経所であった。手元の地図では観音堂の場所がよくわからず、かなり迷ったので地元の人に場所を聞いてようやく辿り着いた。

集落からは少しばかり離れた杉林の中にあり、日光は遮られて仄暗かった。杉林は巨木が多く、中でも小金山神社の参道には二本の巨大な杉が聳え立ち驚かせる。
まず左手に観音堂があり、右手に小金山神社の社殿がある。少し山を登ると薬師如来と阿弥陀如来を祀った小堂があり、その上には白山神社がある。

806~810年に、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷の首長・大獄丸を討ち取り、その首を埋めた上に観世音を祀ったのが始まりとされる。
938~947年、平将門の孫の信田小太郎が家臣の謀反に遭い、難を逃れてこの地に辿り着き、白山権現社と観音堂を建立した。
1596~1616年、津軽為信が観音堂を再建。華福寺の寺格を与えられるも、住職がいない為、更に火事に遭い荒廃してしまう。
1641年に村人達によって観音堂が再建される。
明治の大悪法・神仏分離令によって観音堂に神体が祀られ、小金山神社になる。
明治の中期には、村人によって守られた観音像が再び祀られる。
昭和初期には小金山神社の社殿が別個で建てられ、神体はそちらに移る。
昭和20年に堂宇が家事に遭うも、再建され現在に至る。

観音堂内に入って拝む事が出来たが、本尊は見ることが出来なかった。本尊は聖観世音菩薩像で、慈覚大師作とされている。

青森市の峠の森林だけあり、豪雪で巡礼にも苦労を要した。春はまだまだ遠いのだろうか・・・。

最後に入内観音堂のご詠歌
~おしなべて 貴く賤しき 者までも ここに歩みを 運ぶなりけり~

住所・青森市入内字駒田116-4

※無人神社です

津軽観音巡礼第二十三番 夢宅寺

2009-02-24 00:47:52 | 神社・仏閣
津軽三十三観音霊場カジュアル巡礼第二十三番札所の夢宅寺に行く。

青森市中心街の正覚寺を後にし、浅虫へ向かう。
幼少の頃に浅虫を訪れたような記憶があるが、定かではない。実質初めてかも知れない浅虫へ到着。吹雪の中、国道4号線をそんなに速くもない速度で車を走らせるも、案外遠くない事がわかった。
左手には陸奥湾が広がる歴史ある大温泉地の浅虫温泉。旅館やホテルが無数存在し、多くの観光客を受け入れている。公衆浴場も二軒あり、日帰り客も気軽に入れる。
国道4号線を一本外れた浅虫温泉の主要道路から右折して線路を上に過ぎて少し走ると夢宅寺がある。

平安時代初期、恐山を巡拝した後、慈覚大師が辻堂を建立し、自作の薬師如来像と地蔵菩薩像を安置したのが始まり。本尊は薬師如来像で、薬師堂と称された。
1684年、津軽信政は悪性の眼病に悩んでおり、薬師堂で治癒を祈願した。居城の庭の夢を見、目覚めると眼病が治った為、「夢宅」と漆書きして奉納した。その由来から夢宅庵となり、津軽屋市左衛門が観音像をした。
大正時代初期、現在地に移転し、夢宅寺となる。

門をくぐり、境内へ。正面が本堂、右手が庫裏である。
中へ入ろうとするも開かない・・・。さすがに閉め切っているかと思いきや、ただ戸が凍結してただけであった。無理矢理こじ開けて堂内へ。
まず「びんずる像」なる見た目があまり良くない銅像が目に入る。よくは分からないがインドの神様らしい。像が持っている数珠を患部に当てると怪我や病気が治るとか。
そして正面には本尊の薬師如来像。右手に聖観世音菩薩像を中心に、三十三観音像が所狭しと安置されている。
左手には戦争で亡くなった英霊を祀っている。おそらく地元から出征して戦死された方々であろう。この英霊には感謝の意を願わなくてならない。観音様より大事に拝ませて頂いた。

帰りは温泉でゆっくり休んでから浅虫を後にする。観音巡礼も残り僅か。巡礼に訪れる人たちの多くはこの温泉で休んでいかれるのであろうか。

最後に夢宅寺のご詠歌
~月も日も 磯辺に浮かぶ 裸島 誓いも固き 石となるらん~

住所・青森市浅虫山下208
電話・017-752-3254

津軽観音巡礼第二十二番 正覚寺

2009-02-20 02:22:45 | 神社・仏閣
津軽三十三霊場カジュアル巡礼第二十二番札所の正覚寺に行く。

ニ月の下旬にもなるのに大雪です。弘前とは違い、青森はやっぱり雪が多い。国道7号線は道路凍結もあってトロトロ運転になっていた。青森までいつもの1.5倍近い時間がかかった。
正覚寺は青森の中心街にあるので、迷わずすんなり辿り着いた。

これ寺?と首を傾げるほど巨大な建物である。豪華な日本的なスポーツ施設の様な見た目である。
社務所と書かれた入り口があり、中へ入って観音様巡拝を請うて上がらせて頂いた。
一階は位牌堂になっており、本堂は二階なので、二階へ上がって襖を開けるとだだっ広い本堂になる。

正覚寺は1628年、良故竜呑上人によって開基。本尊は阿弥陀如来像。
1645年、近くの毘沙門天堂に正観世音菩薩像を本尊として観音堂が建立される。
その後「青森観音堂」と呼ばれ親しまれるも、境内地争いで現在の広田神社に移転。
1766年、大地震で観音堂は全壊。正覚寺に観音堂を建立し、本尊を移遷。
昭和20年の戦火で正覚寺と観音堂は焼失したが、本尊は無事であった。

本堂内陣の中央には阿弥陀如来像が、右手には聖観世音菩薩像が安置されている。どちらも慈覚大師作とされている。
聖観世音菩薩像は金と白のコントラストが美しく、青銅製となっている。
他にも二体の観世音菩薩像、毘沙門天像があり、内陣左手には鬼神母子像と、竜呑上人像がある。

その後ろには、祭壇があり、故人の写真が・・・。多分この日は通夜があるのだと思う。そういえば礼服の人が何人かいたもんな・・・。適切なタイミングではなかったが、拝めてよかったです。

近くには同じ様な巨大な寺が他に3箇所もある。何でこんな中心街にあるのだろうと思ったが、もともとこの辺りは森であって、森の中に寺が密集していて、それが戦火で森ごと焼け爛れ、再興した時には寺も辺りも真新しくなってしまったんだね。
それにしてもドデカ過ぎる寺である。こういう風情もへったくれもない寺は好きじゃないが、戦火を逃れた有り難い観音様を拝めるので善しとしようか。

最後に正覚寺のご詠歌
~浪の音 松の響きも 御法にて 風をも弥陀の 正覚寺かな~

住所・青森市本町1-1-12
電話・017-776-3454

津軽観音巡礼第二十一番 鬼泊巌屋観音堂

2009-02-10 01:25:22 | 神社・仏閣
津軽三十三霊場カジュアル巡礼第二十一番札所の鬼泊巌屋観音堂へ行く。

前回も二十一番では?カブってるのでは?とお思いだろうが、ご名答で、二十一番札所はカブってます。

津軽三十三霊場巡礼は藩政時代から始まっているが、その当時の巡礼箇所と現在の巡礼箇所は結構違い、順番もかなり違う。寛延時代に再編されて現在の形が完成されたとされているが、そのために過去の巡礼だった寺社も今尚存在しているわけであり、三十三番から取り消された巡礼地も重要な場所である場合は訪れた方がいいとされ、それは各々の受け止め方次第である。
そんな複雑な理由によって重複した観音巡礼の最たる場所がこの鬼泊巌屋観音である。

1647年、海中の洞窟に観音堂を建て、聖観世音菩薩を安置されたのが始まりとされる。
1716~36年頃には場所柄、堂宇は損壊してしまい、貞伝和尚が本覚寺に仮移遷した。
明治の大悪法・神仏分離令によって鬼泊巌屋観音堂は消滅した。
明治20年代に海雲堂釈迦堂に本尊だった聖観世音菩薩が安置された。
昭和30年代に現在の場所に観音堂が再建したが、本尊は戻ることはなかった。

海雲堂釈迦堂から国道280号を東へ。海岸線の眺めは大変美しく、陸奥湾には遥か北海道の地まで見渡せる。
6kmほど走ると案内標識がある。見落とすと確実に通り過ぎ去って探せなかったかもしれない。
辺りには集落も無く、目印になるものも無い。ただそこに観音堂があるのみだ。
車を路上駐車し、海岸近くに行くと鳥居がある。鳥居を幾つか潜ると、小さな堂があらわれる。もちろん本尊は無い。
目の前には波しぶきがあがり、潮の香りとさざなみの音を聞きながら拝んだ。

この場所は袰月観音堂と呼ばれていたが、現在の袰月村にある釈迦堂が袰月観音堂となってしまった。
しかし元来はこの地が袰月観音堂である事を知った巡礼者たちは、海雲堂釈迦堂と鬼泊巌屋観音堂のどちらも巡礼し、現在ではそれが定番となったようだ。

国道280号線は今別から青森市の油川まで続く、陸奥湾の外ヶ浜をずっと眺め続けていける最高のドライビングコースであった。
陸奥湾はとても穏やかで、静かな海であった。日本海しか知らない自分には結構驚きであった。
家々も波打ち際ギリギリに建てられており、もちろん道路もそうである。海が荒れたらどうなるのか心配するも、湾なので大丈夫なのであろうか。津波もそんなに被害なさそうだし、穏やかな海だからこその立地状態なのだろう。
しかしながら、海岸線には神社が数多くあった。稲荷神社も幾つか見受けられ(中には何故か岩木山神社もあった・・・。見間違えか?)、漁で成り立つ村には、海難を防ぐ為に多くの神社を建立したのだろうと推測される。
それにしても天気の良い外ヶ浜は美しかった。夏場になったら訪れてみたいものである。

最後に鬼泊巌屋観音のご詠歌
~いにしえの 鬼の岩屋に 神立ちて 悪魔はあらず 外ケ浜にも~

津軽観音巡礼第二十一番 海雲堂釈迦堂

2009-02-09 23:37:27 | 神社・仏閣
津軽三十三霊場カジュアル巡礼第二十一番札所の海雲堂釈迦堂へ行く。

高野山観音堂から国道280号線で10kmほど進むと袰月という集落があり、海雲堂釈迦堂へはきちんと案内標識もあり、道路沿いにあるのでわかりやすく辿り着けた。

海雲堂釈迦堂は滝見観音とも言われ、その理由は観音堂のすぐ後ろに小さな滝が流れているからである。冷え込む冬ながら、ささやかな流れを続けていた。滝から流れ出た水はそのまま陸奥湾に流れ込む。
ここら辺りの浜は舎利浜といい、小豆ほどの大きさの白い光沢のある舎利石が取れるところで知られる。

釈迦堂の草創は824~833年くらいで、舎利浜から現われたとされる釈迦如来像を本尊として草創された。1615~1624年に再建。
明治20年代には、ここから6kmほどにある鬼泊巌屋観音堂にもともとあった聖観世音菩薩像を譲り受け、滝見観音海雲堂となった。

観音堂は小さく、すぐ隣には民家があり、こじんまりとしとしている。
中へ入ると座敷にも関わらず、ベンチが置いてある。ここは近所の寄り合いの場所としても使われているらしく、脚の悪い年寄りの為にベンチがあると思われる。
中央には釈迦如来像が安置されており、メインの聖観世音菩薩像はその隣にある。ここは今なお釈迦堂であり、本尊はあくまで釈迦如来像である。
聖観世音菩薩は鬼泊巌屋観音にあったものであり、移遷したものだが、旧来の悪地によって致し方なく移ったものだ。
ちなみに訪れた時にはどれが何の像なのかさっぱりわからなかった・・・。勉強してから訪れるのが一番である。

そしてこの聖観世音菩薩像がもともとあった鬼泊巌屋観音へ向かう。ただしそこも二十一番札所なのであるが・・・。

最後に海雲堂釈迦堂のご詠歌
~鷲の山 誓いも重き 袰月の 影を浮世に 残す舎利浜~

住所・今別町袰月袰村本98-1

※無人仏堂です

津軽観音巡礼第二十番 高野山観音堂

2009-02-08 02:02:25 | 神社・仏閣
津軽三十三霊場カジュアル巡礼第二十番札所の高野山観音堂へ行く。

義経寺から旧道の国道280号線を今別町方面へ進む。道路は海沿いにあり気持ち良い。
高野山観音堂は今別町役場の近くにあり、役場の案内板に向かって進むと観音堂の看板が見える。でも線路があって観音堂の境内まで車で行けない。線路の手前に駐車し(空き地があったから駐車したが、多分そこは民家の駐車場なのかもしれない)

線路を跨ぐと観音堂の境内に入る。右手に観音堂、奥に三十三観音石像、左手に元保育園がある。

高野山観音堂は824~34年頃に草創。その後観音堂は荒廃してしまい、1791年に本尊を本覚寺へ仮移遷する。1793年、観音堂を新築し本尊を安置する。その後円通寺になる。
昭和30年の今別大火で、観音堂を含め建物は全て焼失。この地にあった大仏さえ焼失したが、本尊は無事であった。

観音堂は施錠されておらず中へ入れた。しかも本尊が堂内にきちんと安置されており、義経寺同様に観音様を拝む事が出来た。
本尊は十一面観世音菩薩像で、慈覚大師の作である。金色眩い美しいものである。津軽の海をいつまでも守って頂きたい。

観音堂を出て、林の中へ向かうと、銅製の慈母観音像があり、続いて三十三観音石像が続く。林を抜けると広場のような空き地になっており、先には小学校のグランドさえ見える。
もともとこの空き地に観音堂があった。おそらく大仏もここにあったのであろう。

納経所は今別の名刹の本覚寺である。この場所からすぐ近くにある。自分は納経してないので訪れていないが、高野山観音堂と本覚寺は古くから深い関係にあるので訪れなかった事が悔やまれるが、いずれ別の機会で訪れたいところ。

最後に高野山観音堂のご詠歌
~高野山 誓いをここに 今別の 石の光も 弥陀の舎利浜~

住所・今別町今別149-3

※無人仏堂です

津軽観音巡礼第十九番 義経寺

2009-02-05 04:52:56 | 神社・仏閣
津軽三十三霊場カジュアル巡礼第十九番札所の義経寺へ行く。

小泊の海満寺から竜泊ラインで竜飛を通って義経寺へ。が、理想のコースなんだが、竜泊ラインは冬季閉鎖してます・・・。通った事ないからなんとも言えないが、観音巡礼者の為に除雪してはくれまいか、行政よ。
海沿いだからそんなに積雪あると思えないけど、交通量がないから仕方なしか。

国道339号線をひたすら北上し、中里で途中、県道14号線に乗り換え、蟹田方面へ。さらに県道12号線に乗り換え北上。今別町を通り、三厩へ。
弘前を出発した時には天気は晴れだったが、ここまで来たら吹雪になってきた・・・。
そして国道280号線に入り、海沿いドライブ。少しばかり走ると国道沿いに義経寺はある。

古くは鎌倉時代~、源義経は兄の頼朝と不和になり、平泉の藤原秀衡のもとに逃れるも、息子の奉衡は頼朝に恐れをなし、義経を急襲し、義経は自刃する。これが史実であるが、義経は悲劇のヒーローとして讃えられ、各地で実は生存していたという伝説が数多くある。その中でもこの三厩が代表の地として挙げられる。
義経は平泉を逃れ、南部、八戸、三沢、六ヶ所、平舘、油川、今別を通り、そして三厩へ辿り着く。そして蝦夷へ向かおうとしたが海が荒れて渡れなかった。
義経は念持仏の白銀の千手観音を奉安し、三日三晩祈願した。すると老人が現われ、三頭の竜馬を与えられた。その竜馬に乗り、義経は蝦夷へ向かったのである~。

義経の念持仏は、僧の円空が発見し、流木を彫って観音像を安置し、竜馬山観音堂とした。その後明治に入って本覚寺の末寺となり、義経寺となった。


太宰治の小説「津軽」でも太宰は友人と三厩を訪れ、途中義経寺にも寄っている。そこで義経伝説に疑問を持ち、不良青年が義経と弁慶を名乗って田舎者をたぶらかしたに違いない云々との記述があってなかなか楽しめながら読める。

義経寺は小高い丘の頂上にある。境内までの階段の前には厩石と呼ばれる巨岩がある。
もとはこの岩の麓に観音堂があった。
この巨岩は義経が乗った竜馬が繋がれていたとされる。三頭の馬の屋があった場所から、三馬屋(みんまや)の名が付いた。

長い曲がりくねった階段をヘエコラ登る。途中津軽海峡が眺望出来、頂上まで登りきり、境内に入るとそこからの眺めは更に絶景となる。
天気が良ければ北海道の渡島半島まで望めるが、何故かこの時間吹雪いていて悲しかった。

綺麗な門をくぐり、まず観音堂があり、右手に弁財天堂と観音石像と釣鐘、左手に金毘羅大神社殿と売店、奥に義経寺本堂がある。

観音堂は開いており、自由にお参り出来る。ここでこの観音霊場、十九番目となって初めて観音像本尊を拝見出来た。
冬季だからか、観音堂は大抵施錠されているか、時間外で見られないか、後は重要に保管されているかで一度も拝見した事なかったが、ここにきてやっと観音様を拝む。綺麗な金色の聖観世音菩薩です。ありがたや。丁寧にお参りして後にする。

最後に義経寺のご詠歌
~陸奥の いわれをここに 来て三馬屋 浪打ちぎわに 駒ぞ勇める~

住所・外ヶ浜町家ノ上76
電話・0174-37-2045

津軽観音巡礼第十八番 海満寺

2009-01-28 01:17:20 | 神社・仏閣
津軽三十三霊場カジュアル巡礼第十八番札所の海満寺に行く。

積雪の道路をなんとか脱出し、再び339号線へ。ここからも北上し、小泊へ向かう。
339号線から左手には日本海が望める。この日本海、なんとまあ、荒れ狂うのか!!
去年小泊に来た時もこんな風に荒れていた。冬だから仕方ないのか、でも空はすこぶる晴天なのに、何故ここまで荒れる必要があんのかしら。
そして小泊の目印ともいうべき、禿山が見えてくる。小高い山なのだが、緑色の素っ気も無い禿げた山。強烈な西風によって木々の生命力を断ち切られている。この山が小泊という寒村そのもののイメージを表しているような気がする。
この山手に右折し、集落へ入ったていく。そして海満寺を探す。去年来ただけあって何か懐かしい気さえ覚える。

去年小泊を訪れた理由は、太宰治の小説「津軽」のクライマックスで太宰が育ての親のたけを探して小泊を訪れ感動の再会を果たすという場面に感銘を受け、自分も訪れようと思ったからであり、小泊にはその感動の再会の場面を石像にし、記念館まで立っている。そこをゴールとして訪れた(過去の当ブログ参照)

街中へ入り、地図を片手に海満寺を探すも見当たらず。どこにあるのかさっぱりわからん。辺りはもう暗くなり、ますますわからん。同じところをぐるぐるぐるぐる・・・。地図には書いてあるのに見つけられない。何故だ!?落ち着いてゆっくり探すと、あまりにもひっそりとその寺は佇んでいた・・・。

道路から小さい階段を上がり、真正面に海満寺。振り返ると後ろに観音堂がある。反対側には観音石像もある。

もともと安東氏が築いた柴崎城跡に観音堂はあったが、1704年の山津波によって堂も本尊も海中に消える。
その後、漁に出ていた漁師が偶然網に観音像を引き上げた。一時海満寺に仮安置されるも、小泊観音堂に移遷し、海から出現した観音様という事で多くの参拝客を呼んだという。
明治の大悪法・神仏分離令によって、本尊は再び海満寺に安置される。
海満寺は二度の火災に遭い全焼するも、観音堂は難を逃れ、本尊は無事であった。

ちなみに海満寺の創建は1658年で、良無玄道師が開いた。当時の小泊の数多い水死者の冥福を祈るために建立したとされる。

春日内観音堂と海満寺の所在地に手間取って、辺りは真っ暗でじっくり参拝など出来なくて残念だった。
途中大きく迷って、再会公園の前を通り過ぎた。ここもじっくり訪れたかったところだ。
しかしこの地はまた訪れるであろう。さらば小泊。また会う日まで。

ここから339号線を北上すると次の目的地の義経寺に辿り着くのだが、あいにく339号線竜泊ラインは冬季閉鎖・・・。また来た道を戻り、北上しなければならない。観音巡礼も一筋縄にはいかないものであり、それが修行の道なのである。

最後にご詠歌
見渡ば 御法も深き 海満寺 鐘のひびきに うかぶあまびと

住所・中泊町字小泊204-1
電話・0173-64-2301

津軽観音巡礼第十七番 春日内観音堂

2009-01-27 02:28:53 | 神社・仏閣
津軽三十三霊場カジュアル巡礼第十七番札所の春日内観音堂へ行く。

今泉観音堂を後にして、また国道339号線に戻り、ひたすら北上。峠に差し掛かると、道の駅十三湖高原が左手にある。山奥の冬場にも関わらず通年営業してるのだが、ゆっくり立ち寄ってもいられなかったのでそのまま通り過ぎる。
道の駅から少しばかり過ぎると左手に福島城跡がある。
さらに走ると右手に観音堂の案内があり、なんなく着くのかなと思ったら、除雪は途中までしかしておらず、その先は積雪で進めない!!ここにきて観音堂冬季休業か!?
愕然とし、地図を見直すと、もう一つ違う道路からも向かえることが分かる。もう一度339号線に戻り、沼が見えるところに看板があるので、そこを右折。その道路も積雪はあるが、タイヤ跡があったので、走行出来ると判断。多分この先にあるのだと思い、なんとか走らせるが、やはり前日の大雪の為、雪にハンドルを取られてなかなか真っ直ぐ走らない。だがここで諦めるわけにはいかず、低速でじっくりと進む。
10分ほどかかって観音堂の駐車場らしきところに着く。鳥居があったのでここに間違いはないだろうが、堂らしきものは見当たらない。じゃ、この先参道になっているので歩かなきゃならんのだろうと普通は思う。でも、ずっと雪藪です・・・。溜め息交じりで半分笑いながら、雪中行軍。

150mほど進むと、鳥居と橋、堂が見えてくる。堂の中には自由に入っていいような旨の張り紙があったが、がっちりと施錠・・・。こんな真冬に誰も来るわけがないと思っての事か。当然だろうけど。
観音堂の裏には奥院の鞘堂。その後ろには滝があるらしいが、冬だから凍ってたのかも。
左手には道路があり、三十三観音石像が並び、山頂の唐川城跡まで続く。ま、雪で行けないが。

1229年、安東氏は十三湖一帯を支配していた十三氏を倒し、十三氏の拠城・福島城を大規模改築した。相内地区に万一の出城として唐川城を建てる。
安東氏が繁栄し築いた巨大な港町は大津波で一瞬にして壊滅。精力を失った安東氏は南部氏によって攻められ、福島城は落城する。

観音堂の創建は1669年。龍興寺と春品寺の跡地に村人が建立した。
その後飛竜宮となるも、明治の大悪法・神仏分離令によって廃堂。春日内神社となる。大正に入ってから春日内観音堂に変更している。

鬱蒼とした山の中だが、春に訪れるとさぞ気持ちの良いものであろう。
帰りもブーツの中に雪が入りまくりながら、泣きながら帰った。

最後に春日内観音堂のご詠歌
野をも過ぎ 山路に向う 雨の空 祈れば晴るる 峰の曇りも

住所・五所川原市相内字岩井81

※無人仏堂です

津軽観音巡礼第十六番 今泉観音堂

2009-01-24 00:00:08 | 神社・仏閣
津軽三十三霊場カジュアル巡礼第十六番札所の今泉観音堂へ行く。

第十五番の薄市観音堂からは実際、車で五分と掛からない。そんなに近いと思わないので、つい通り過ぎてしまった。
今泉観音堂から十三湖は目と鼻の先にある。

安藤氏が十三湖に築いた港町は、外国との貿易も行い大繁栄したのだが、1340年に大津波が押し寄せ、一瞬にして壊滅状態になってしまった。
その為安東氏は、津波の犠牲者を弔う為に、唐崎山に地蔵堂を建立した。
地蔵堂は金木の川倉へ移り有名になったが、最近になって唐崎山にも地蔵堂が再建された。

観音堂の現在地は今泉山だが、この地から1km離れたところに唐崎山はある。
観音堂ももともと唐崎山に創建された。
明治の大悪法・神仏分離令により、本尊の千手観音像は弘前の最勝院に移遷される。
その後村人達の強い希望により、本尊を取り戻す。そして現在地の神明宮があった場所に観音堂を建立し、現在に至る。

ここも小高い丘で、鬱蒼とした林の中に参道があり登っていく。参道の途中には観音石像が頬被りして迎えてくれる。
林の中には堂がいくつか存在する。頂上には神明宮社殿、そこから中腹辺りに不動堂、水神堂、山神堂、庚申堂、そして観音堂がある。全て施錠しておらず、中へ入ってお参り出来た。ほとんどの堂に太鼓が備えてあり、わかんないけど叩けばいいのかな?

この林はきれいなブナがたくさん生えていた。中泊町は津軽平野にあるのに、70%が森林を占めている。特にヒバの生産が高く、製材工場も多いのだとか。
きれいな森林を後に、次の目的地へ向かう。

最後に今泉観音堂のご詠歌
むかしより ありとも知らぬ 今泉 千手の神の 示現なるらん

住所・中泊町今泉字唐崎81

※無人仏堂です

津軽観音巡礼第十五番 薄市観音堂

2009-01-22 02:23:12 | 神社・仏閣
津軽三十三霊場カジュアル巡礼第十五番札所の薄市観音堂へ行く。

国道339号線に戻り、北へ。少し走ってから右折すると薄市の集落がある。集落の狭いメインストリートを走ると極々小さな案内板があり、そこを右折して少し過ぎたところにあった。
仕立山という小さい丘に観音堂はある。鳥居をくぐり、曲がりくねった石段を登る。
参道には三十三観音石像が祀られている。
まずは中腹に山神堂がある。そのまんまん山の神様なのかな?建物はつい最近造られたような簡易プレハブ小屋みたいだった。
そしてもう少しばかり登ると観音堂があり、この建物も最近建てられたようなもので、なんとも味気ない。
だが、中は綺麗に飾られており、有り難いものであった。山神堂もだが、施錠はされておらず、中へ入って拝める様になっており、管理する方の気持ちが伝わってくる。

創建は1668年で、もともと仕立山とは違う、薄市山山頂に観音堂はあった。その後薄市山の山崩れに危惧して、現在地に移る。
寛政時代には飛竜宮となったが、明治の大悪法・神仏分離令によって廃堂となる。
その後、観音巡礼の機運が高まり、十五番札所として復活。観音堂再建は昭和45年と、つい最近に至っている。

山頂からは十三湖が拝める。古くは安東氏の本拠地として栄えていた十三湖。
津軽の母なる川・岩木川のゴール地点であり、海流も交じり合う湖として、シジミの名産地として知られている。
巡礼の帰りは国道339号線ではなく、県道12号線(通称メロンロード)を通る。十三湖大橋からは、右手に日本海、左手に十三湖が広がる絶景を拝めることが出来る。実際この日の帰りは夜遅くて暗くて見えなかったのだけれども・・・。

最後に薄市観音堂のご詠歌
まんまんと 眺めもあかぬ 十三の潟 千年をここに まつ風の音

住所・中泊町薄市山1-1

※無人仏堂です

津軽観音巡礼第十四番 弘誓寺観音堂

2009-01-20 23:10:27 | 神社・仏閣
津軽三十三霊場カジュアル巡礼第十四番札所の弘誓寺観音堂へ行く。

国道339号線を北上。金木から中泊町へ。
中泊町といえば、旧中里町と旧小泊村が合併して誕生したが、中里と小泊の間の市浦が五所川原市と合併してしまった為、中泊町は飛び地合併になってしまった。
そんな旧中里町へ入り、尾別という集落へ。右手に鳥居と小高い丘が見えると、そこが今回の目的地である。

観音堂は小高い丘の頂上にあるが、麓には神明宮の社殿がある。
前日の大雪の為、道路から参道の階段まではずっと雪藪・・・。ブーツで来たのが間違いだった。ブーツの中に雪が入りまくって冷たくなってもどうでもよくなってきて、ただひたすら雪中行軍する。階段はそんなきついわけでもないが、何せ雪深いから大変だ。

やっとこさ頂上へ。観音堂までの参道は松や楢の木々の根が土からせり出している。
観音堂には千手観世音菩薩が本尊として祀られている。
丘の中腹には、丘を一周出来る参道があり、三十三観音石像が安置されている。

かつての尾別観音は、尾別川の上流の滝の麓に観音山解脱院として存在していた。
1648年に現在地に移遷し観音堂が再建。その後飛竜宮へ改称。
明治の大悪法・神仏分離令によって、観音堂は神明宮に変わり、本尊は弘前の最勝院に移遷されてしまう。

さらにこの地の観音堂の歴史は続き、僧の海野戒淳(後の円海)が尽力している。
明治34年、観音像三千三百体制作の為に全国行脚中の戒淳がこの地を訪れ、観音堂の事情を知って、最勝院から本尊を取り戻す。
更に戒淳は、この地の観音堂再建に尽力しようとしたが、戦争に召集され、この地を去る。しかし住民達の力によって観音堂は再建出来た。三十三石像も円海の描いた画像から刻んで造られたという。
昭和4年に戒淳は円海に改名し、尾別へ帰ってくる。もともと解脱院にあった釈迦如来像を本尊に寺を築こうとしたが、それも叶わぬうちにまたこの地を後にする。
しかし戦火を逃れて円海はまた尾別に舞い戻る。そして昭和28年に解脱院弘誓寺を創建した。
昭和31年に円海は80歳で没する。

頂上の境内からは岩木山や、日本海と十三湖が眺望出来る。なかなか気持ちの良いものである。
帰りも雪に埋れながらこの地を後にする。

最後に弘誓寺観音堂のご詠歌
万代を 祈り祈りて いまここに 千手の誓い たのもしのみや

住所・中泊町尾別胡桃谷198

※無人仏堂です

津軽観音巡礼第十三番 川倉芦野堂

2009-01-18 00:06:46 | 神社・仏閣
津軽三十三霊場第十三番札所の川倉芦野堂へ行く。

昼間に起きて、予想外に好天だった為、これは観音日和だと思い、急いで着替えて出発。
今回は金木から小泊まで一気に北上する予定であった。まずは五所川原市の旧金木町の川倉へ向かう。
金木といえばもちろん、太宰治の出生地である(ついでに吉幾三もだが)。

当ブログでは去年に、太宰治「津軽」の旅という企画で、小説「津軽」に於いて、太宰治が津軽半島を旅した足跡を辿った。
蟹田・金木・深浦・鯵ヶ沢・五所川原・三厩・小泊など、太宰は津軽の風土記製作の為に、各地を訪れた。自分もそれに倣い、印象深い場面が描かれている場所に訪れたのである。
そんなこともあって、この地方は何回も通ったので、慣れたものである。斜陽館も何回か来た事もあるし、ここからの観音霊場のほとんどは、国道339号線沿いに近いので、安心して車を走らせた。
が、前日大雪降ったので、道路は凍結でスピードもあまり出せず、日が暮れるまでに小泊まで行けるのか不安になり、出来るだけ急いだ。

国道339号線をひたすら北上する。ようやく金木町へ辿り着く。凍りついた芦野湖を眺め、芦野公園を通りすぎ、少し走ってから左折し、狭い道路を進むと川倉芦野堂に辿り着く。

ここは前日の大雪に関わらず、管理者がきれいに除雪してくれて大変助かった。駐車場も境内もとても歩きやすかった。

境内の一番奥には、三柱神社の社殿がある。近くには、ケヤキの大木が聳え立つ。樹齢500年以上とのことで、存在感を漂わすが、冬場の為に葉がないので寂しい。夏場なら生命力をこれでもかと漲らせている事だろうと思う。
少し離れた所に山門があり、くぐると観音堂が建っている。本尊は観世音菩薩のほか、阿弥陀如来と薬師如来。

この観音堂は各所と違い、歴史が短い。とはいっても創建1668年。戦乱で命を落とした人たちを弔う為に建立された。
1855には、観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来の他に、飛竜権現も加え、「飛竜三社権現」に改称している。
その後、明治の大悪法・神仏分離令により、観音堂は廃堂。三柱神社となる。飛龍権現は金木八幡宮へ合祀される。そして本尊上納の命令があったにも関わらず、村人達は断固拒否。本尊を隠し、移遷しようと持ち歩いたのだが、なんと行方不明になってしまった。
その後、太宰治の生家である津島家を中心として観音堂を再建。本尊は新しく彫られたものを安置し、現在に至っている。

有り難く参拝し、金木を後にする。太宰治を愛する故に、金木はまた何度も訪れることになるであろうかと思い、寂しい気持ちもなかった。

最後にご詠歌
水上は いずこなるらん 川倉の 耳にこととう 山びこの声

住所・五所川原市金木町川倉字林下91-1

※無人神社です

津軽観音巡礼第十二番 蓮川観音堂

2009-01-16 01:19:58 | 神社・仏閣
津軽三十三霊場カジュアル巡礼第十二番札所の蓮川観音堂へ行く。

つがる市の旧森田村から旧木造町へ。
つがる市は、木造町、森田村、柏村、車力村、稲垣村が合併して誕生したが、個人的にイマイチピンときていない。ネーミングも、津軽を代表出来ているかと言えば、納得出来ないし、なんで平仮名?という疑問もあるし。まあ、決まったんだからそういうことにしておくが、「つがる市」と口に出して言ったことは一回もない。

それはさておき、地図を何度も確認しながら、なんとか蓮川観音堂へ辿り着いた。
前回の高城八幡宮と同じく、ひっそりとして、規模もかなり小さい。
あまり手入れがされていないのか、雪で折れたであろう、松の枝が境内に散らばっていた。冬だから仕方なしか。

ここは月夜見神社という美しい名前の神社で、境内には社殿、小堂と、観音堂がある。聖観世音菩薩が本尊になる。観音堂の周りには三十三観音石像が取り囲んでいる。

この観音堂の創建は1682年に村人の手によるもの。その後1712年に正徳院とともに再建。1855年に飛竜宮に改称。
そして明治の大悪法・神仏分離令によって御堂は解体。正徳院も廃寺。月夜見神社となる。
昭和に入り、蓮川の集落は大火に見舞われ、神社も焼失したが、観音堂は無事であった為、観音信仰は更に強くなったと言う。

蓮川観音を後にし、温泉に入って帰るかなと思い、帰路を走ると、岩木山が望まれた。
弘前から見る岩木山が一番だと思っていたが、この木造から見る岩木山も、なかなかどうして絶景である。
太宰治の「津軽」でも「華奢で頗る美人」と誉めている。
弘前から見る岩木山は、ボン、キュッ、ボンのグラマラスな美女であるが、木造から見る岩木山は、手足の長いスラリとしたモデルのような美女である。(さすがに鯵ヶ沢方面からは不細工であるが・・・。)
岩木山は本当に見惚れるくらいの美人な山なのだと再確認して木造を後にした。

最後に蓮川観音堂のご詠歌

野をも越え 里をも行きて 眺むれば いつも妙なる 法の蓮川

住所・つがる市清川59

※無人神社です

津軽観音巡礼第十一番 高城八幡宮

2009-01-15 15:34:28 | 神社・仏閣
津軽三十三観音カジュアル巡礼第十一番札所の高城八幡宮へ行く。

今年に入ってからまた巡礼を再開する。なんといっても真冬なので、天気がよろしくないとなかなかまわれないわけで、それでもその日は晴れ模様だったので、遠出の甲斐があるというものである。

今回の高城八幡宮はつがる市森田町下相野というところにある。
地図で確認するも、弘前から行くには簡単には辿り着けない。しかも途中で道に迷ってしまうも、地元に29年も生きていると、いやでも地理に詳しくなってしまうものであり、一度通った事のある道路はなんとなく憶えているものであり、そうするとなんとなく辿り着いてしまったから不思議なものである。

下相野地区にひっそりと構える小さな神社が高城八幡宮である。
まず大きな石碑が目立つ。これは「弥三郎節の碑」と題された石碑だが、民謡の「弥三郎節」はこの下相野から生まれている。「弥三郎節」は、嫁いびりをテーマとして唄ったもので、嫁いびりという津軽の悪習を嘆いて改善しようとした云々と記されている。

境内へ。まず社殿があり、冬期仕様の為、雪囲いが成されてあった。
珍しく戸は開放されてあり、社殿内へ入れたので、賽銭して礼拝していく。壁には竜の絵が飾ってあった。そもそもここは飛竜大権現を祀る飛竜宮であった。
社殿から離れて観音堂があり、そこには如意輪観世音像が奉納されている。

観音堂のはじまりは、田園開拓が進められた1675年、越前出身の盛作右衛門が屋敷内に建立し、如意輪観世音を本尊として安置した。
その後、1855年に飛竜宮に改称。
そして明治の大悪法・神仏分離令によって観音堂は取り壊され廃堂。八幡宮へと変わる。
その時に観音像も没収されたが、上納した像は身代わりで、本物の像は地元の人々に守られ、廃仏希釈の風潮が薄れてきた頃に、同じ地に祀り直したのである。

如意輪観世音菩薩像は、小さな木造坐像であるが、この観音様を守る為に、地元の人々は必死に尽力したほど、観音信仰は強いものであったと窺う事が出来る。

最後にご詠歌

のちの世を 願う心は 下相野 白髪の雪の 降らぬその間に

住所・つがる市森田町下相野字野田38-1
電話・0173-42-2510