「やぁ、漸く座敷に春が来たな。」
「もう夏も近くなるというのに。」
私が気が付くと父が廊下側の入り口に立っていた。私はハッとして自分の血の出ている方の手を後ろ手に隠した。何食わぬ顔をしていたつもりだったが、この私の態とらしい行動は目敏く父に見つけられた。彼はひょっ!とした顔付きで目を見開いた。そしてまじまじと私を見詰めて来た。私はしまったと思った。
「やっ、お前、今何か後ろに隠しただろう。」
彼は私が菓子か何かを手に持っていてそれを後ろに隠したと思ったようだ。
「未だご飯を食べて間が無いだろう。」
彼はそう言うと、お八つの時間には未だ大分早い、間食はいけないぞと、どれどれという感じで私の隠した物の正体を見極めようと、私の傍へとやって来た。
父が1歩足を縁側へ下ろした途端、
ガクン!
床板が揺れて彼は後方へとバランㇲを崩した。しかし彼は流石に大人だ。不意の衝撃に崩れるバランスを持ち堪えた。自身の体位を立て直したのだ。私はこの父の様子に流石だと思った。その後父は1、2歩あるくと、振り返って今ほど下がった床板を見た。下がって縦揺れした個所を確認したのだ。「危ないなぁ。」お前大丈夫だったのか?父は私の顔を見て尋ねた。
「うっ、…うん。」
私は正直に怪我したと言った物かどうかと一瞬迷った。血が出たと言っても僅かな事だ、このままにしておいていいんじゃないかな。隠した掌の、先程見た小さな赤い丸い粒が脳裏に浮かんだ、続いて、ヨードチンキの小瓶やガーゼに含まれた臙脂色が瞼に浮かんだ。私は一瞬目を閉じるとふるふるっと頭を振った。『それは嫌だな。』。
何とかそれをしないで済まないだろうか。そんな事を考えて目を細くすると、歯を食いしばる様にして微笑んだ。父はそんな私の様子に、
「お前何だかおかしいな。」
明らかに様子が変だぞ、と、言うと、どれ、と言って、彼は私の後ろに顔を回すと私の軽く握りしめている拳を見つけた。
「手に何を持っている。何か良からぬものだな。」
と父は不機嫌に言ったが、私は「何も、何も持っていないよ。」と、正直に答えた。
そしてこれは本当だと内心舌を出して思った。しかし、怪我の事は言いたくない。何とか父に怪我をしていると分からないようにこの場をやり過ごせない物だろうか。私は内心冷や汗物で、如何したらよいだろうかと迷っていた。実は正直に話して、父に怪我の手当てをして貰った方が良いだろうかと、そんな考えも捨てきれずにいたのだ。
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