Jun日記(さと さとみの世界)

趣味の日記&作品のブログ

私のミステリー

2024-12-26 09:40:01 | 日記
 これはミステリーだ。私は思いました。当時読書で推理物を読み耽り始めていた私です。何でも謎に準えると、推理してそれを読み解く試みをするという、そんな傾向にありました。今から思うと私は祖父母の謎を解くには幼く、又、経験不足でした。年上の従兄姉達には解けたのかも知れません。

 祖父曰く、家の家系なぞ如何でも良い、否、寧ろ絶えてしまった方が良いのだ。そう言い出すのでした。そうして、それは如何でも良い、あの場所とあの場所に立っている家、あの家が大事なんだ。そんな事も言うのです。其れ等はかつて祖母からは決して聞かなかった言葉でした。私は驚いて祖父を見上げました。『でも、お祖母ちゃんは…。』、私は祖母とこの件で最後の会話をした辺りの場面場面を思い浮かべていました。「この家や土地など如何でも良い、そんな事より…。」在りし日の祖母の元気な頃の姿。何時も見慣れた着物姿の普段着の祖母。そんな彼女の面影が、その眼差しが、在り在りと私の瞼に浮かびました。此処、ここに来てみた、祖父と祖母の意向の不一致。私はその謎を解こうと思いました。『これが現実のミステリーなのだ!。』。

 私は生意気にも興味深く考え込みました。すると自然と私の歩みは落ちて、先に進む祖父との間には距離が出来て行きました。祖父はすたすたと私の両親がいる墓前へと進んで行きました。謎について考察する私は何時しかその歩みを止めると、目の前の小道、脇の墓石、そして向きを変え、傍らに立つ寺の本堂の木壁を見上げていました。そうやっては熱心に祖母との過去の出来事を探っていました。

 「未だこんな所でぐずっているのか。」

祖父の声でハッと我に返ると、彼はまた私の側まで戻って来ていました。祖父の声にその顔を見ると、私は何を不足を言っているのだ、という感じでした。可なり不機嫌な顔付きでした。推理に没頭していた私は直ぐに現実世界に戻れずにいました。深い思考途中からの現実への帰還、直ぐには克服出来ないギャップに夢現となりました。私はボーっとした頭で真面に祖父に返事も出来ません。

 祖父は、一体如何したと言うのだ、お前が家督を継ぐ何処に不満があると言うのだ、と言うと、何やら続けて威勢よく喋っていましたが、私には彼が何を言っていたのか理解出来ず、現在も全く記憶が無いのでした。私は呆けた顔で「ああ、ええ、」と言うようなうわ言を繰り返して言うだけの状態でした。遂に祖父は、お前如何したのだと、漸く私の異変に気付いてくれました。私は未だクラクラする頭で、自分が落ち着くまで祖父に待ってもらいたいと、漸うそんな事を言いました。

 さて、落ち着いた私は祖父と祖母の意見の相違について、私がそれを不思議な謎に思い推理する事にした事、これが現実のミステリーなのだと思い、せっせと考えていた事を話しました。「小生意気に推理だなぞと、」祖父は鼻で笑った様子でした。「おしゃまさん。」

 さて、ここで、祖母の話が出たので祖父の表情が緩みました。彼は柔和な笑みなど浮かべて、それで、と、私の話に耳を傾けてくれる準備をしてくれました。

 「お祖母ちゃんはお前に他に何か話をしたかい?。」

祖父は祖母の話を聞きたかったようでした。

祖父の教えは封建時代?

2024-12-19 10:57:39 | 日記
 結局、その方の取り成しも有り、一旦事は治まり、もう陽が傾いて来た、夕暮れが近いと祖父に言われた私は、振り返って空を見上げ、金色がほんのり朱色を帯び始めた雲の端を眺めるのでした。

 私達祖父孫は、家族が待つ我が家の墓前へと歩み出しました。所がふと私が気付くと、祖父は私の傍に姿が無く、振り返ってみると私からは数歩遅れていて、私達の間には幾分距離が出来ていました。家族のいる場所迄は未だ距離が有りました。付近には他所の墓が立つのみです。祖父は私に追い付くとその場に立ち止まり、どうやら人気が無いのを確認した様子です。かれは私の側に寄ると再び私に語り掛けて来ました。その中には多分に欲の話が有りました。主として財欲と名誉欲だったようです。詰まる所祖父は、私に欲を持たないと駄目だと言うのです。

 人間生まれたからには欲を持って、立身出世を目指すべきだ。昔なら(明治時代の祖父に取っても昔の事です)、栄誉栄達せよ等言われた物のだ。と、自分も親か祖父母、誰かしらから言われたものだと、彼は微笑して、私をじっくりと見詰めると語り掛けて来るのでした。私が見上げるその様子では、祖父の機嫌は上々のようでした。私には祖父の言動や彼の上機嫌が、何処から来ているのか全く理解出来無いのでした。私にすると、先祖代々を引き受けた、それだけで良いのではないかと思ってしまうのでした。

 それで私は、自分の思う所を祖父に伝えた所、祖父は単に家名を継ぐだけでは駄目だと言うのです。再び栄誉栄達等口にすると、家を栄えさせ、家名に名誉をもたらす位の気概を持たないといけない、等、彼の機嫌を損ねて仕舞いました。顔付きも厳しく変化して仕舞いました。こうなると話は祖母の時の延長のような物でした。私はやはりと継ぐのを断り、この話は別の従兄姉に、と、話を元に向けるのですが、お前は一旦この話を引き受けただろうと、祖父も譲らないのでした。以降の私の耳はお決まりの戦法に入り、祖父の話の聞き流し状態でした。馬の耳に念仏です。時候の風が通路を吹き渡り始めると、私の耳を掠めて涼しく通って行きました。

 ふと、おい、おい、と、祖父が私に掛けて来る声でハッと気付きました。私が祖父の顔を見て微笑むと、祖父は大丈夫なのかと心配そうな顔付きで見つめて来ました。そうして、祖母と私とはどんな話になっていたのかと、彼は神妙な顔付きで尋ねて来ました。私は祖母が、この家(立物、土地)の事など如何どうでも良い、家名を継ぐ方が大事、家名と墓を引き継いで欲しい、それで良い、と言われた旨を祖父に説明しました。すると彼は思う所が有った様子でした。彼は沈黙し、ゆるりと私に背を向けると暫時、彼は私と関わり合いになる時を持ちませんでした。

 祖父の背は物言う事無く、その後の彼は何やら放心の体でうろうろしている様子でした。そんな祖父を見ていた私は、彼が私に対して繰り出す何か次の説得の言葉を探しているらしいと気付きました。そこで私はこの場から逃げ出そうと考え、祖父の様子を窺い走り出す準備に掛かりました。が、それをピン!と察したのが祖父の方でした。彼は私に背を向けていたのに、不思議にも忽ち私を引き止めました。お前何処へ行こうとするんだ、ちゃんとそこにいなさい。と言う訳です。そうして、その後振り返った祖父は私の見る所、頬を赤らめてと言うよりは顔が赤らんでいました。特に頬の先や目の縁が妙な色に赤らんでいました。

 さて、ここで私は祖父から祖母とは反対の言葉を聞かされたのでした。

 「家系の家は大事じゃない、むしろ如何でも良い、放っておいてもいいんだ。それより、あの家、住んでいる家や土地の方が大事だ。」

と、そんな事を祖父は言い出したのです。私は初の祖父母意見の不一致に出会い、度肝を抜かされました。これ迄の私は二人は図っている、考えを一致させているのだと思っていましたから、そうでは無かったのだという事実に驚き、二人の考えは違うのだと気付きました。仲の良い祖父母が、如何してここ迄来て意見を異にしたのだろう?。私は不思議に思いました。正に私のミステリーでした。

 

立身出世、栄誉栄達

2024-12-17 15:26:35 | 日記
 題字通り、現在の子育てにおいて、一般には多分に聞かない言葉です。昭和でさえ私の成長期にもそうは聞かなかった言葉です。他に、故郷に錦を飾るとか、青雲の志とか、身を立てる理想の言葉が有りましたね。

 さて、ここで、私の祖父は明治の人なのだと思い出し、再度認識しておかなければなりません。どうも祖母は祖父と図っていた、いえ、祖父が祖母にそう仕向けていたのでは、と私は感じずにはいられません。

 祖父は私に、「お前しか家を継ぐものはいない、分かったね。」と又もや過去の祖母の時と同じ言葉を、さも因果を含めるように発すると、続けて「はいと言いなさい!。」と、祖母の言わなかった言葉、それを喝!のように言って、私に畳み掛けて来ました。

 「はい。」

私はそう言わずにいられませんでした。祖父の家長としての威厳がそう言わせたのかもしれません。確かに祖母の時とは違って、祖父の言葉には荘厳な重みがありました。また、祖母の時で了承してあったのだからとか、祖母と私の遣り取りが祖父には知れていたのだ、隠せ無い、決定事項になっていたのだと思い、私はこの時諦めモードになっていました。

 祖父はと言うと、私の返事で大喜びしたかと思いきや、私がこの時見直した彼は、どう言うものか視線や肩を落とし、神妙な面持ちでその場に立っていました。そうして、駄目かと呟きました。

 「お前も駄目か…」と、祖父は沈み込んでいます。私は唖然としました。お祖父ちゃんたら、と、私は「はい」を繰り返したのですが、そうか、やっぱりなと祖父は元気の無いままでした。余程従兄弟従姉妹に拒否され続けたのだろう、拒否される事が彼には当たり前になってしまったのだろう、私のはいの返事さえ、嫌やいいえに聞こえたのだろう。そう私は思うと、気の毒にと、祖父の項垂れる有り様に同情しました。
 
 その後、数回、祖父の言葉と私の了承のはいと言う言葉、それを言った状況を繰り返し彼に説明し、最後には到頭、祖父を正気付かせようと彼の手を取り、お祖父ちゃんと、ゆりゆりと手を揺らして彼の注意を引くと、私は再度事情を説明して、漸くの事に祖父は自分の頼みが承諾された事を飲み込んだようでした。私にすると、まぁ、ままよと、事は決まって仕舞ったのだから、それはそれでよいでは無いか、もう悩む必要も無いのだ、そう思い返ってサバサバとした気分になりました。

 所がここで、祖父は又、お前本当は嫌なんだろうとか、継ぎたく無いのだろうとか、あれこれとゴネ始めたのです。私は困り、一々祖父への返答を繰り返す事態に陥りました。果ては、お前欲が有ったんだな、とか、欲が有ったんだ、あの家が欲しいんだろう。そう祖父は口にし出しました。私は呆れ、不快に思うと同時に、祖母も私が了承した後の日に、祖父のこの言葉と同様の言葉を私に言った事を思い出しました。

 『もしかすると、』私は考えました。祖父母は本当は私に家を継いで貰いたく無いのではないか、彼らの本心はやはり歳上の従兄姉達に継いで貰いたいのではないか。私は喋り続ける祖父を目の前に、渋い顔で首を垂れて黙り込んでいました。

 「先程から何をごちゃごちゃ言っておられるんです。お子さんはさっきはいと返事をしておられたのに。」

そんな助け舟が側から入り、漸く私は祖父の鬱陶しい問答から解放されました。「継ぐと言っているのだから、それで良いでは無いですか。」、正に私がその時思っていた通りの言葉をその人は言ってくれたのでした。また、何をそれ以上に御託を言う必要があるのだと、私が同様に感じていた言葉も言って貰えたのでした。

 私は祖父の問答が続く内に、段々と彼に憤りを感じていました。私が彼の言葉を引き受けたのは厚意からなのに…、何故欲張りと迄言われ無ければならないのか。黙々として、この時の私の内心は、ふつふつと湧いて来る祖父への可なりの怒りを抱いていました。

至極単純な話の訳も無いのに

2024-12-11 10:26:35 | 日記
 それは過去のある日の出来事でした。本当にうんざりする程の回数です。私が祖母から、「お前は重たいものを背負っている」云々と、家を継いで欲しいという話をあれこれと聞かされ、その対策を私は考えて、手を打った後の事でした。対策が功を奏したのか祖母からは暫くその話が無かったので、私はホッとして落ち着いていた頃です。祖母はその日私と二人になると又家の話を始めました。

 『又か。』と私は思いましたが、前回から期間が空いていた事と、やや成長し落ち着いた気分の時期でしたから、たまにはあれこれ言わず、黙してお祖母ちゃんの話を聞いてあげよう、そんな事を考える程に私は心にも余裕が有りました。それにその頃にはもう、いざとなったら聞き流すという術を私は心得ていました。実はこれが私が祖母に対して取った対策でした。

 私は祖母に配慮すると静かに微笑みました。そうして彼女の話が私の嫌な方向へ向かうようなら、忽ち私は耳から入る彼女の言葉をシャットアウトしてしまうのです。私は準備を体制を整えました。が、祖母の話は今回直ぐに本題に入り、私が了承して直ぐに終わりました。

 今回の祖母の話はというと、現実に有る住まいとしての建物の家では無く、我が家の家の代を継いで欲しいのだ、という話でした。住まいでは無くお墓の面倒等をみる事なのだと祖母が口にするので、当時の私は真っ先にお盆の墓参りを思い浮かべました。年一回、しかも数時間の仕事だと私は思いました。そうしてその時、私は何だそんな簡単な事をしろという事だったのかと、祖母のそれまでの重たい話に対して、気持ちも明るく軽くなり、ほっと安堵を覚えました。
 
 それ迄は、「この家を継いで欲しい。」というのみの話でしたから、私はてっきり、固定資産としての建築物、建物を引き受けてくれと言う事だと思っていました。寒い年末の大掃除、冬の凍える屋根雪下ろし、その他この家の年間の諸事一般、今迄は子供の手で少し手伝っただけの物でしたが、その大変さに、私は仕事の膨大な暗雲を、自分の背に山と背負わされるイメージを抱いて来ました。その為私はこの家の世話を相当負担に思うと同時に、それら全てを背負い込んで切り盛りする事等、私には到底出来無い、引き受けられ無いと、想像を絶する重圧に感じ、家を継ぐ事は唯漠然と暗く重苦しい闇のイメージに飲み込まれる事だとのみ感じて来ました。正に祖母の最初の言葉、私が背負う重い荷物、それも山のように膨大な黒雲の如く広大に膨れ上がる不安な荷物に思えていました。

 幼少の砌です。否、私は世間一般の欲という感情に対して幼かったと言うべきでしょう。経験と目に映る物が世の全てでした。家の祭司を任される事、そしてそれが家督を相続する事、結局は住まいとしての家も相続するのだと言う事に考えが及ぶ筈も無なかったのです。私は責任が軽くなった、と身軽に思い、祖母の申し出を快く承諾しました。この時の安堵した私は芯から笑顔で祖母に微笑んだ物です。お祖母ちゃん孝行が出来る、そんな事も考えて善行を行った気持ちでした。

鐘に夕暮れ

2024-12-07 11:19:48 | 日記
 鐘に夕焼けの日差しといえば、柿食えば…の句が思い浮かぶ所です。唯、今回の場合、季節が思い出せないという曖昧な記憶なので、秋の果物の柿も、釣瓶落としと言われる日暮れの言葉、そうした会話さえも無く、赤蜻蛉の飛び交う中空の記憶も、私の当時の記憶、風景の中で、ハッキリとイメージされ、浮かんで来るというような事象は全く有りません。この事から察すると、時候は秋では無かったようです。

 さて、去った祖母と共に私が葬り去った祖母との遣り取りの一部始終、それを祖父が又この場で復活させて来るとは、私はその場に立った儘で唖然とした衝撃を受けていました。祖母との遣り取りは複数回有ったとはいえその場限りの物、そうしてその場には私達二人だけしか居なかったのです。家族の誰も立ち合っていなかったので、私は自身が忘れて仕舞えば誰にも知られ無い、もうそれっきりの事柄になると考えていました。

 さては祖父母は情報を共有していたのか、と、その時の私は思いました。それでは、祖父も祖母同様に他の従兄姉達に家系の引継ぎを打診して回ったのだろう。私は祖父母の言動の共通性にそう推察しました。

 私の父は祖父母の末子に近く、私も従兄弟姉妹達の中では年少者に分類される彼等の孫でした。それなのに私に迄この跡取り云々の打診が回って来る頃には、彼は相当に時間を費やして彼の孫達とこの遣り取りを行って来た事でしょう。祖母との記憶が私にそう祖父の事を推察させました。それはかつての私がした祖母との度重なる遣り取りの繰り返しや、その時に聞かされた彼女の話からも、私には容易に推察する事が出来たのでした。私はこの手の話題が繰り返されるしつこさに辟易し、既に祖母の時にこの話題を嫌悪していました。私はこの話を又持ち出した祖父を前に、あの憂鬱感に再度襲われるのかとうんざりして肩を落としました。そうして祖父の目の前で非常に渋い顔をしてしまいました。唯、祖母の時からの一、二年の成長の違いが、私の目に年老いた祖父を気の毒にも思わせました。

 低学年〜中学年、中学年〜高学年、祖母と祖父の打診時期の違い、そういった私の成長時の時期の違いがあったのでしょう。又祖母との経験からも、私はこの問題で祖父とああだこうだと問答すると、極めて話が長く成るという事を学んでいました。

 『又私迄話が回って来たのだ、又、従兄弟姉妹達はこの話を断ったのだ。』私は再びそう考えると、『祖父の場合はこれが初回の話し合いなのだ』と感じました。それから、私が過去に祖母に対して、もう家督としての代を継ぐ事によいと承諾の返事をしてしまった事も思い出していました。そうです、私は生前の祖母に対して、既に家の代を継いでもよい旨、過去にはOKとの返事をして仕舞っていたのでした。