四人のレギュラーが和服姿で映し出され「てんがらもんラジオ」の2017年の幕開けとなりました。話の内容も年明けに相応しいもので、視聴しつつ頭に浮かんできた本の名前があります。岩波文庫にある『女の平和』という古代ギリシャ喜劇のひとつです。
なぜこの本の名前が浮かんできたか、解説目録によって内容を紹介します。
「男が戦争を終わらせるだけの能力がないのに愛想をつかした女主人公リューシストラテーは、アテーナイの女たちをアクロポリスに立てこもらせ、市民が和議を結ぶまで男と床を共にしないと誓わせる。女たちの男に対するセックス・ストライキは功を奏して、ついに和平が実現する。滑稽な中に作者の平和への熱望が溢れている」というのです。
神話のイザナギ、イザナミの出合いの話ではどちらから声をかければ良いかという話でしたが、お互いの黙示の誘いがあってのことと思うのは我が身のささやかな実感です。 神話の世界から現実の世界に戻った時、男女の違いで命に関わる一番の違いは何か、それを痛切に教えてくれたのが上床さんのお子さん・幸子さんのことです。
「誰にも話したくない話」と題するこの話のなかで、出産された直後には命が絶えていた娘さんの寿命を母親である上床さんが「10ヶ月の命」と言われたのです。私にはこの寿命感覚がありませんでした。
昨年の暮の村永さんの長男・健君も生まれて8日後に亡くなっているので私には寿命8日間ですが、母親感覚では10ヶ月が加わるのでした。授乳もあって母親はますます子供との一体感が深まり、子育ての社会性を主張し社会的な支えを作り上げる力になっていきます。今日の村永さんの保育所運動の話はその現れでした。
もうひとつ今日「てんがらもんラジオ」を視聴する前に、「女の平和」に繋がる新聞記事を読んでいました。北海道の50歳代の母親、陸上自衛隊に所属する息子さんがいます。その人が南スーダンPKO派遣差し止めを求めて安倍政権を相手に訴訟を決意しました。「自衛隊が戦闘状態のところに銃を持って行かされる。自分の産んだ子も、どの子も殺されたくない、殺させたくない。母親なら誰もが持つ気持ちではないでしょうか」。
私もこの声には同意できますが、それ以上に母性としての女性は深く共感するのではないかと思うのです。
イザナギとイザナミはお互いの裸身の違いから足りるところ、足りないところを補いあうわけですが、現代の男女も命の大切さをどう受け止めているかでは理解に大きな違いがあるのではないかと思います。その元になっているのは、胎児の成長期間を自分のものとして共有しているか否かという決定的相違からくる違いでしょう。
戦争のない世界にしたいは、古代ギリシャは申すに及ばず人類史とも言うべき長い歴史のなかで求めてきたもので、わが国では憲法9条問題として現われています。このような根本的な問題に向き合う視点は、「生命の尊厳」に向き合うことに通じると思うのです。女性のと言うより母体の思想とでも言うべき視点、それを根底にして考えを組み立てていくべきものです。
人のとって最も根本的なことは心の奥深い場所にあり、「誰にも話したくない」か「話せない話」なのです。同時にそれは誰にも分かる、誰にある話です、命の話とはそういうことだと深めることができました。
なぜこの本の名前が浮かんできたか、解説目録によって内容を紹介します。
「男が戦争を終わらせるだけの能力がないのに愛想をつかした女主人公リューシストラテーは、アテーナイの女たちをアクロポリスに立てこもらせ、市民が和議を結ぶまで男と床を共にしないと誓わせる。女たちの男に対するセックス・ストライキは功を奏して、ついに和平が実現する。滑稽な中に作者の平和への熱望が溢れている」というのです。
神話のイザナギ、イザナミの出合いの話ではどちらから声をかければ良いかという話でしたが、お互いの黙示の誘いがあってのことと思うのは我が身のささやかな実感です。 神話の世界から現実の世界に戻った時、男女の違いで命に関わる一番の違いは何か、それを痛切に教えてくれたのが上床さんのお子さん・幸子さんのことです。
「誰にも話したくない話」と題するこの話のなかで、出産された直後には命が絶えていた娘さんの寿命を母親である上床さんが「10ヶ月の命」と言われたのです。私にはこの寿命感覚がありませんでした。
昨年の暮の村永さんの長男・健君も生まれて8日後に亡くなっているので私には寿命8日間ですが、母親感覚では10ヶ月が加わるのでした。授乳もあって母親はますます子供との一体感が深まり、子育ての社会性を主張し社会的な支えを作り上げる力になっていきます。今日の村永さんの保育所運動の話はその現れでした。
もうひとつ今日「てんがらもんラジオ」を視聴する前に、「女の平和」に繋がる新聞記事を読んでいました。北海道の50歳代の母親、陸上自衛隊に所属する息子さんがいます。その人が南スーダンPKO派遣差し止めを求めて安倍政権を相手に訴訟を決意しました。「自衛隊が戦闘状態のところに銃を持って行かされる。自分の産んだ子も、どの子も殺されたくない、殺させたくない。母親なら誰もが持つ気持ちではないでしょうか」。
私もこの声には同意できますが、それ以上に母性としての女性は深く共感するのではないかと思うのです。
イザナギとイザナミはお互いの裸身の違いから足りるところ、足りないところを補いあうわけですが、現代の男女も命の大切さをどう受け止めているかでは理解に大きな違いがあるのではないかと思います。その元になっているのは、胎児の成長期間を自分のものとして共有しているか否かという決定的相違からくる違いでしょう。
戦争のない世界にしたいは、古代ギリシャは申すに及ばず人類史とも言うべき長い歴史のなかで求めてきたもので、わが国では憲法9条問題として現われています。このような根本的な問題に向き合う視点は、「生命の尊厳」に向き合うことに通じると思うのです。女性のと言うより母体の思想とでも言うべき視点、それを根底にして考えを組み立てていくべきものです。
人のとって最も根本的なことは心の奥深い場所にあり、「誰にも話したくない」か「話せない話」なのです。同時にそれは誰にも分かる、誰にある話です、命の話とはそういうことだと深めることができました。