「資本論」にはご無沙汰が続いていたら、前回紹介しました友人のYさんから「資本論学習まとめ」が送られてきました。その表題が「最後の挑戦」。先月で80歳になったことで青年時代から学んできた「資本論」に改めて挑戦しよう、人生最後の挑戦だ、というわけです。
私も地域で進めてきた購読会が最終段階で仕上げられずにきていたので、改めて全体を学ばねばと思っていましたので、Yさんに応えて「人生締め括りの資本論」と名付けてみました。
Yさんともども「資本論」のどの頂上までたどり着けるかわかりませんが、ただひたすら登るという体力もないでしょうから、変化する景色も楽しみながら歩を進めたいと思います。
まず、昔の「資本論講座」の卒業作文を書き起こして、第1歩とします。
これは44年前のものです。
【「資本論」講座に参加して
ある著書を学ぶ場合、著者がこの書によって果たそうとした目的と、自分が学ぶ目的が合致していればいっそう正しく深く理解できる。
「資本論」は何のために書かれたのだろうか。私は何のために学んだのだろうか。講師(宮川實氏)は「『資本論』はプロレタリア党のために書かれた」ことを強調した。それは「労働者階級に資本主義の本質を理解させ、自らの階級的使命を自覚させるため」である。
マルクスが、家主からの執達史に追われ、「肉屋からの手形絶証書」を送られ、「石炭と食糧が欠乏し、妻は病床に横たわっている」状況のなかで、「猛烈に勉強している。たいてい朝の4時まで」も研究したのはすべて前述の目的のためである。
だからこそ「ドイツの労働者の広い範囲にわたって『資本論』が急速に理解されだしたことは、私の仕事への最上の報酬である」とマルクス喜びを語った。
さらに付け加えるならば「(フランス語版が分冊で発行されることに対して)この形式によれば、この著作は労働者階級の手にもっと入りやすくなるでしょうし、その点の考慮こそ、私にとって他のなににもまして大切なのです」という言葉。
これらの言葉に私は励まされる。
マルクスが語りかけてくる労働者階級の一員であることに対して誇りを感じる。もちろんその意識と自覚は浅い、それだからこそこの講座にお参加したのだが、どれだけ深まったかは疑問だ。しかし多くの仲間とこの講座で学ぶなかでこの日本でも「偉大な理論的感覚が……労働者階級のなかによみがえっている」と言えるのではないかと、と思えた。何人かの仲間たちの話は、この日本の労働者が職場で直面している課題を明らかにしその解決のため正しい理論が求められていることを示していた。
ここでもマルクスの注意を思い起こさせる。「一般的原則と自分が熱中している直接的問題との連関を知りたがる……読者が、どんどん先に進むことができないからと言って読み続けることがいやになりやしないか」。
マルクスは私たちに期待しているのだ。「私の想定している読者は、なにか新しいことを学ぼうとし、したがって自分自身で考えようと欲する人なのである」「真理を求める読者にあらかじめ注意をうながし、覚悟をさせておく……。学問には平坦な大道はありません。そして、学問の険しい小径をよじ登る労苦をいとわないものだけが、その輝く絶頂にたっする見込みがあるのです」。
私が労働者階級の意識と自覚を自分のものにするためにはこの労苦を避けてはならないのだ。仲間と共に生涯の課題として。】
生涯という舞台の最終場面で、44年前の自分から「君のセリフだよ」と示されて、下を向いてモグモグしているわけにもいきません。
マルクスの言葉「覚悟をさせておく」を最後に記しておきます。