に収められている三浦哲郎の「私の履歴書」は、
「私は、昭和六年三月十六日、東北の三陸海岸の北はずれにある青森県八戸市の、三日町という商家が軒をつらねている町筋に生まれた」ではじまっています。
私の兄は同年の二月生まれですから早生れ同士で、尋常小学校入学とか、
「太平洋戦争がはじまったのは五年生のときの冬である」とか、
「翌々年の昭和十八年春、私は八戸国民学校(すでに数年前からそういう名称に変わっていた)を卒業して青森県立八戸中学校に入学した」とかも、
兄の入学したのは生まれた東京神田の小学校ですが、当時の日本の少年の同様な経歴をたどることができます。
以前このブログにアップした兄のことを思い出しました、これです
https://blog.goo.ne.jp/kaeru-23/e/ba3562b955d042205c9e2a40bc307d0b
小池は私の旧姓です、兄は三浦哲郎死去の6年後2016年の6月に85歳で亡くなりました。三浦哲郎が「ためらわずに文学の道へ進」んだのに対して、兄は小説的なものを拒否した生涯で「つくりものを信じなくなった」のだ、と言ったことがありました。
兄の本棚には小説類としてあったのは、ただ一冊の文庫本トルストイの「クロイツェル・ソナタ」で、なぜ「クロイツェル・ソナタ」だけだったのか推測できたのは、亡くなる3年ほど前に兄の口から聞けた告白でした。
人が生きていくうえで文学を求める時がある、必要とする時がある。そんなことを「つぶやき」、三浦哲郎の「私の履歴書」の感想とします。