葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

歴史は地中にひそむ。

2019-09-20 23:39:38 | 逗子 鎌倉 それぞれ

昨日の住吉城址に関連した史跡としてこちらを、

北に鎌倉駅、南が逗子駅で海側の住吉城址の背中の山のなかに「名越切通」と「大切岸」があります。

一昨日講演会の件で教育委員会に顔を出した際、受付にあったこのチラシ、

今日のタイトルとのことでは、

読みにくいので書き写しです、

切岸とは、山城などで敵の侵入を防ぐ人工的な崖のことです。大切岸は、 長さ800m以上にわたって高さ3-10mにもなる切り立った崖が尾根に沿って連続しています。

従来、鎌倉幕府が三浦一族からの攻撃に備えるために、切通の整備と一体のものとして築いた、鎌倉時代前期の防衛遺構だと言われてきました。しかし発掘調査を行ったところ、現状の断崖は四角い板状の石材を切り出す作業を大規模に行った結果、最終的に城壁のような形で掘り残されたもの、つまり石切り場の跡だということが確認されました。

石切りが行われた時期ははっきり判りませんが、宝永4年(1707年)に噴火した富士山の火山灰が上に堆積していたので、石切り作業はおおむねそれ以前に終了しています。一方、14~15世紀の鎌倉では、建物基礎や溝の護岸、井戸枠などに周辺の山から切り出した石材が盛んに用いられていますので、ここで大規模に石切りが行われたのも、その頃が中心ではないかと考えられます。

この結果のみをもって、大切岸に鎌倉を防御する目的は一切なかったと即断することはできませんが、従来の通説を再検討する必要に迫られています。なお、お猿畠という地名は、鎌倉を追われた日蓮が、この付近で三匹の白猿に助けられたという伝承に因むものです。

従来の「防衛遺構」と考えられていたが「石切作業場遺構」だったというわけです。
 
さらにこちらも、

こちらも書き写して、

いわゆる「鎌倉七ロ」で、切通路そのものを対象とした発掘調査は、名越切通以外では行われていません。

平成12年度に第1切通部分で通路を構断するトレンチ調査が行なわれました(調査主体:神奈川県教育委員会、(財)かながわ考古学財団)。その結果、現在私たちが歩いている路面の下60cmまでの間にすくなくとも4回、道路を補修した痕跡が確認され、最下層の岩盤削り出しの路面上からは18世紀後半以降に作られた焼物の破片が出土しました。つまり、現在のルートの下に残っている最も古い道は、江戸時代に使われていたものだということです。

平成16年度、同じく第1切通部分の崩落防止工事に伴う通行路付替えに先立って、部分的な発掘調査を実施したところ、切通路のもっとも狭まった部分の幅は現在約90cmですが、 かつては約270cm以上あったことがわかりました。それ以外の部分についても、現在の道幅の倍以上広かったと推定されます。

以上のことから、名越切通の第一切通部分は、江戸時代の後半には現在よりも幅の広い道路でしたが、それ以降、数度の大地震等で崖が崩落して埋まり、その都度かさ上げしながら道幅を狭めつつ復旧し使われてきたものと考えられます。

 
   以前この道を通り、なるほどこの狭さでは大軍が押し寄せることは出来ぬ、鎌倉防衛の役割に納得!していたものでした。数百年前のことでも目の前の「現実」をもって組み立てる、イヤハヤ歴史観です。

ここにも歴史の面白さ、深さに引き込む渦を感じます。
コメント (4)
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