葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

「頼朝の腹」、旗揚げ? kaeruはお手上げ

2022-01-16 22:32:00 | 三浦半島

 タイトルの頁は「鎌倉殿の13人ー2ー」の見出しですが「挙兵の雄叫び」からは今日の分です。文字化しておきます次頁分まで。

 挙兵の雄叫び

 三浦半島が雄叫びをあげたのは、1180 (治承四)年八月、ふつうこれを頼朝の旗揚げというが、その実体は、「頼朝の」というより、それを担いだ東国武士団のクーデターだったと、私は思っている。そしてそのとき、中心になって活躍したのは、まさに三浦一族だった。彼らは、たしかに伊豆での挙兵の現場に居合わせてはいない。が、にもかかわらず、彼らを中心勢力と見るのは、一つには彼らの動員兵力を重視したいからだ。
 頼朝が事を起したとき、直接従ったのは、舅である北条時政やその付近の武士団、それに土肥実平たちだが、彼らを合計して、せいぜい三百、と『吾妻鏡』は書いている。それも石橋山(ここまでp11 次から頁を替えて)
まで出て来たときの数で、挙兵時は百にも満たなかったのではないか。これに比べて大庭景親に率いられた平家側の武士は三千というから、その数をそのまま信じるかどうかは別としても、とうてい頼朝側が互角に戦える相手ではなかった。
 これに対して三浦一族の動員兵力はどのくらいか。正確なことはわからないが、「三浦半島城郭史」を書かれた赤星直忠氏は、『源平盛衰記」を引かれて三浦氏の兵力を三百八十くらいと推定しておられる。三浦氏は頼朝が行動を開始したとき、それに呼応して、石橋山に駆けつけるべく行動を起しているが、このときは全勢力挙げての出陣ではなかったにしても、まず、かなりの数が動いたとみてよい。頼朝が彼らをあてにしていたことは、明らかである。

永井路子さんのこの一文では、特記したいのはここです。
 三浦半島が雄叫びをあげたのは、1180 (治承四)年8月、ふつうこれを頼朝の旗揚げというが、その実体は、「頼朝の」というより、それを担いだ東国武士団のクーデターだったと、私は思っている。

「私は思っている」とは言うまでもなく永井路子さんの思いですが、三浦半島に今は冬眠中のkaeruの腹の中でも「共感」の2字がジワリと広がっているのです。

 しかし、肝心のプリンターとの接続は出来ず、何時間かの奮闘努力の甲斐もなく、こちらはお手上げでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする