Reflections

時のかけらたち

名古屋・岐阜のスーベニア 名古屋・岐阜巡り⑥・・・ Souvenirs of Nagoya and Gifu (Nagoya&Gifu tour-6)

2023-06-19 23:59:53 | memories

今回はコンサートに行くだけだったのでお土産を買う時間もほとんどなくさっぱりしたものです。
昨年有松を訪ねて犬山、如庵まで行きましたが、今回名古屋の都市部を見ましたが、コンサートにはさまれた
時間の制約があり、名古屋と言う町の魅力もあまりなくて計画は困難でしたが、行ってみると広々とした
公園の多い町で初めての名古屋よかったです。徳川園が行くほどのことがないというのがちょっとがっかりでしたが
徳川の何か素晴らしいものはないのかしら? やっぱり徳川美術館くらいなのかな~。

養老の瀧から名古屋へ向かう途中不注意によるロスタイムがあって、名古屋駅で十分な時間がなくて、お土産を選んで
買う時間がありませんでした。以前友人に聞いていた柿のお菓子は前日名古屋駅に着いたときに売っている店があったと
教えてもらっていたので迷わず買えましたが、栗羽二重と言うお菓子は店が見つからず買えませんでした。

 

竹を使って固めた羊羹です。


自然な上品な甘さの羊羹でした。




名古屋のソウル・フードの鬼まんじゅう(梅香堂)の残りを持ち帰り・・・


養老の天然水

 

御朱印

日泰寺

熱田神宮と養老神社

 

借りて来た本はなんと友人が学生時代にレポートを書くための使った参考書。
本編を読んでからと思って図書館から借りていた翻訳がひどくて読む気がしないと言ったら
今度は原書と対訳を持っていたはずと探していたら部屋中本に埋まってしまったと
話していて申し訳なく思っている所・・

 

June 4-5 2023  Nagoya & Gifu

 

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友との別れ ・・・ farewell to a close friend

2023-05-29 11:59:13 | memories

5月28日

衝撃が走ったのは5月15日の中学の同級生からのメールでした。

やっと連絡が取れた2か月前に電話で話したのが最後になってしまいました。その時は入院中でしたが
メールも見れていないようだったので、電話をしたら出てくれて、今までと全く変わらないかわいい声で
話していました。ご主人も彼女も病気のことには触れなかったので重い病気なのかともちらっとよぎったのですが。

私が検査入院に病院に入った日に息を引き取って、14日に葬儀をすませたとのことでした。
退院したと聞いていたので、いい方向に向かったいるものだと思っていました。突然のことで受け入れがたいことでしたが、
近くに住んでいるお友達と一緒にお参りに行きたいと話して、親しかった友達にも声をかけたら行きたいとのことで
4名でお宅に伺うことにしました。ご主人と連絡を取り合ったいた時も私がニックネームを書いたらやっと私のことを
わかってくれたようで、快く訪問を受け入れてくださいました。

クラス全体のお母さんみたいに誰にでも分け隔てなく優しかった彼女。私の母も私のクラスにはお母さんみたいな人がいるのね
と話していました。数年前クラス会を立ち上げようと思ったとき、手伝ってもらうのは彼女以外いないと思ったほどです。
打ち合わせを何回もして、初めて飲みにも行ったし、今までになく頻繁に会うことになった時期がありました。私は彼女にお礼が
言いたくて、彼女のイメージのブリザーブド・フラワーのアレンジメントを作ってもらって持って行きました。

これは10年前、主人が亡くなったときに職場の先輩にいただいた花で、今でもまだ飾っていて
お気に入りです。先輩にまだこの作者の方は作ってもらえるか聞いたところ、教室の先生をして
いらっしゃる方だけど大丈夫と言うことで、お願いしました。

 

23日に新宿まで届けてくださいました。

 

パステルカラーは彼女のイメージでしたが、ピンクや紫のホワホワした千日紅もぴったりでした。

 

当日は最寄り駅までご主人が迎えに来てくださって車でお宅まで。
彼女が退院後ベッドを置いてあった場所に祭壇があり、彼女が微笑みかける素敵な写真が飾ってありました。
彼女に話しかけるようにお参りしました。

ご主人から病気のことの説明がありました。昨年の8月に体調を崩してすい臓がんがみつかり、早期発見だったにも
かかわらず手術が難しい場所だったので放射線治療を進めていたとのことでした。

体調を崩す前に金婚式のお祝いをして、北海道の旅行もされたとのことで、金婚式に集まったご家族、4人のお子さんと
たくさんのお孫さんに囲まれた彼女の写真を見せていただきました。

23歳で入社して同じ会社に勤めていたご主人と山岳部とコーラス部で出会って24歳で結婚して、4人の子供を育て上げた
彼女。独立したご主人の会社を手伝って、同人誌でも活躍して最後まで充実した生活を送っていることがわかりました。
同人誌の話は知らなかったわ。彼女が育んできたものが今、ご主人を支えているのだと思いました。
一緒にお参りした友人からご主人のお人柄に接して、彼女の幸せがじんわりと暖かく心に伝わってきましたとのメールを
帰ってから頂きました。

私が3月にお話しした時はつらい治療の最終だったにもかかわらず、そんな感じが全く伝わって来ませんでした。その後
他の臓器にも影響があり、退院が遅れたようですが、4月に退院して在宅治療と看護を続けられたとのことでした。
亡くなられる前にお孫さんが車椅子を押して、近くのチューリップ畑まで出かけたと聞いて、その光景が目に浮かびました。

最後は痛みもなく旅立って行ったとお聞きしてよかったと思うと同時に、彼女は幸せな生涯を送ったのだと思いました。
中学の同級生が集まり、当時の話をして、ご主人の寂しさが少しでも和らいだらいいと思いました。お仕事と介護や家事で
大変な日々を送られたと思います。6月3日の結婚記念日に納骨ということでした。

帰りは駅まで近くわかりやすい道なので歩いて、ずっとみんなでおしゃべりをしていました。
久々に会う友達同士・・話がつきません。

 

駅につばめが巣を作っていました。

 

 

 

自分用にもアレンジをひとつ求めました。

 

おまけにマグネットがついているものをいただいたのですが、冷蔵庫の扉にはいろいろなものが
貼ってあるので、食器棚の上にのせました。

 

今日(5月29日)は大学病院へ検査入院後のメンテナンスへ行ってきました。数値もよく落ち着いているとのことで
ひとまず安心です。歩くのも少しは早く歩けるようになって、お皿は相変わらず痛いのですが、階段も以前に近いように
降りることができるようになり、柔軟性が戻ってきています。

なんとなく疲れやすく、今は時間に押されて体が何とかついて行っているような感じです。

 

 

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江戸の面影が残る小石川再訪 2 傳通院 ・・・ Denzu-in

2021-03-01 23:33:19 | memories

2月25日

牛天神から傳通院に向かいました。

安藤坂という坂道を登って行きます。この辺は坂が多いところです。江戸時代にはここまで海が入り込んでいました。牛天神あたりも、葛飾北斎の浮世絵でも海の向こうに富士山が見えています。

 

傳通院には外から見ているだけで、まだ中まで入っていませんでした。徳川を中心に著名人のお墓もたくさんあるようです。

 

 

 

 

 

徳川関連の女性や子供のお墓が多かったです。子供については第28男とかもうたくさん子どもを持っても早くに亡くなる世継ぎ候補者も多く、将軍って徳川家のために大変だったのだなと思ってしまいました。それにもまして悲惨だったのは女性の運命です。ここには家康の母、於大の方や千姫のお墓がありました。家の都合で結婚させられたり、離婚させられたり、すごい時代です。於大の方は自分がどこにいようとも家康のことを思い続けたと説明に書いてありました。この時代の人々の日記とか思いをつづった文学もなさそうですが、唯一残されているのが手紙なのですね。そこで思いを知ることができます。

於大の方(徳川家康の生母) の墓

 

 

 

 

 

 

一番大きかったのは千姫のお墓でした。時代の波に翻弄された苦労の多い人生を哀悼するように大きなお墓です。

 

 

 

日本史にはあまり興味がなかったので千姫の生涯も最後まで知りませんでしたが、姫路城に住んでいたことがあったのですね。愛情のある結婚をしてもその人を大阪城落城の日と同じ日に31歳で亡くして江戸にもどったということです。その後は結婚せず、二人の夫の菩提を弔って生きたとのことです。

 

千姫については下記のブログに詳しく載っていました。

千姫とは~徳川家の娘として波乱の人生を歩んだ戦国時代最後のヒロイン

 

 

 

 

 

 

 

 

庭には入れませんでしたので、外から撮りました。

 

 

 

ここから善光寺坂を通り、こんにゃく閻魔に向かいました。

 

Feb.25  2021   Denzu-in 

 

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久々の銀座 ・・・ quiet Ginza

2020-06-19 23:46:27 | memories


6月14日

きものクリニックに久し振りに銀座の呉服屋さんまで行きました。
最終日に滑り込みです。この期間に丸洗いなどが特別安くなります。
地下鉄から地上に上がると銀座通りは歩く人もまばらです。
観光客も消え、静かな銀座です。海外からの観光客がいなければ成り立たないなんていつから
何がずれてきてしまったのでしょう・・



呉服屋さんでは、お店の方々にマスクをしていてもバレバレでよく覚えているので驚きます。
着付けを習っていたのはもう5年くらい前のことになります。あの頃が遠い昔のことのように
思えます。そのころの先生たちもずいぶんやめられています。
袷の時の長襦袢と木綿の着物を丸洗いに出しました。



家で着物を探したりしていたら、今年は虫干ししていなかったので、今頃空気を入れて
天気も良くないのにね。
そしたら小さな包みが出てきて懐かしくなりました。それは小学校低学年の頃お人形さんの着物や
お布団を同居していた祖母が作ってくれたものの一部でした。今見ても素晴らしいです。
















祖母のことを関連して思い出し、もっといろいろ話を聞いておけばよかったと思いました。
すてきな縷々さんとのことを。
旅館のお嬢さんと書生。祖母も養女だったのですが、祖父も養子だったのですね。どちらも親類関係だったような。
旅館の経営者だった養父は小倉市長でもありました。祖母はもし結婚できなかったとしても一生支えたいと思っていたと。
やっぱすごい人だったのだ。母にはいつも縷々さんは男が惚れる男だったと話して、息子であった父とは比べ物に
ならないと話していたそうです。夫と息子を比較してどうするの? 母であるより妻であった祖母だったようです。

でもこうして作ってくれたものがまだ手元にあるとなんだか祖母自体がすごくいとおしく思えてきます。
おおらかで細かいことは全く気にしない豪快な人でした。めちゃくちゃ正直でそれがまた周囲の人を
傷つけていました。特に母を。
私の宝物のタイトルで
数年前にもブログにアップしていました。

このごろ自分の衰えを感じるのはちょっとつらいかも。それが自然とはいえ。
主人や母もそういう自分を見つめていくのがつらかったと思います。母はよく言っていましたが、
難病の主人はそういうことは口にしませんでした。そう言う余裕もなかったのかもしれません。



子どもが生まれた時に、高校時代の友人がたくさん洋服を作って送ってくれました。
彼女は舞台衣装もどんどん作っちゃうクリエイティブな人です。
いろいろ思い出されます。




あじさいの写真は5日の神代植物公園の水生植物園で撮ったものです。
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寒い日の別れ ・・・ departure on a cold winter day

2019-02-11 23:52:57 | memories


2月の空気は冷たく何か精神が覚醒しそうなそんな感じがします。
今日は雪になるかとの予報でしたが、雪は降らずに済みました。

私は2月14日が結婚記念日ですが、主人はこの2月の空気が好きだと
結婚式で挨拶をしていました。
たまたま神崎主計(俳号 縷々)のことを見ていたら、2月11日生まれで
亡くなったのが2月28日(祖母は手帳に雪が降っていたと書いていました)。

この頬に冷たい風を感じる日に友との永遠の別れがありました。
昨年の11月の始めにお見舞いに病院まで行って、彼女の治療計画とかいろいろ
聞いて、友人と3人で持って行ったケーキを食べました。ポットにコーヒーも入れて。
その後、いったん退院して、1週間弱家にいて、治療のための再入院。それは腰とか
痛く、通院が困難な彼女のために取ってくれた病院の配慮でした。11月の終わりに
治療中の病気ではなく大腸の出血であまり詳しくはお聞きしていませんが
手術後意識が戻られなかったようです。2月4日に連絡があり、3日に旅立ったとの
ことでした。私が知っているのは病気の原因がわかり、治療が進み、回復することを
描いていた彼女でまた元気になってコンサートに行こうと言っていたのに。
今日最後に会った彼女はあの治療中の様子とはかけ離れて別人のようでした。
穏やかに眠っていましたが、痩せてしまって・・
神様はこの世でもっと楽しませてくれないで、この世の苦しみから彼女を救い
永遠の安らぎの中に連れて行ってしまったのだと思いました。
参加する人の少ない静かな告別式でしたが、本当に彼女をよく知っている人たちに
囲まれて、友達のすすり泣きが聞こえ、きっとかわいがったであろう甥御さんたちも
号泣していました。私も自然に流れる涙が頬を伝い、ときどきぬぐいました。
でも最後にお別れした彼女はあまりにも変わっていたので、実感がわきませんでした。





元気になって行けたらいいねと話していたアヴデーエワのコンサートが2月にあることを
知り、慌ててオペラシティでのチケットを取りました。昨年の6月に私といつも一緒に
コンサートに行っている方が行けないので彼女を誘いましたが、行けなくなり、次回ご一緒
しましょうと話していたのに。

最近は毎日シラグーサのCDを聴いています。彼女からのプレゼントです。暖かく若い澄んだ声です。
私も好きなテノールでしたが、最近は彼女のイメージも重なって、もっと心に響きます。

彼女の棺の中にファビオ・ルイージのN響のパンフが入っていました。一緒にサイトウキネンで
ファルスタッフを見たことを思い出します。ルイージの指揮は他にも一緒に行きましたね。
最後のマリア・ジョアン・ピリスや一緒に行ったコンサートが浮かびます。
あとはボランティアの日本語のテキストも入っていました。一人残された娘さんが準備された
のでしょうね。うちと同じような環境なので他人事とは思えません。

帰り道、珍しくかわいい鳥の声で空を見上げたら、うちの近くの公園の枯れ枝の上の方に
エナガが来ていました。

いつも穏やかで冷静でつつましやかで上品だった彼女はいつまでも私の友人で、人生の師でも。
彼女の人生に拍手を送りたい。今彼女の魂は自由に羽ばたいているのでしょう。


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変わりゆくお茶の水 ・・・ changing Ochanomizu

2019-02-02 22:26:19 | memories
ここに来れば思い出されることがあまりにもありすぎます。
主人を連れて来たり、救急車では何回搬送されたことか・・
そして入院とまるで主人のセカンドハウスのように親しんだところでした。
看護婦さんも先生もソーシャルワーカーさんも皆さんがサポートして
くれたのでここまで生きられたようなものでした。

最後の方の通院は介護タクシーででした。いつも同じ人にお願いしていたけど
大変な仕事で、ときどき仕事がなくなっちゃうと話して。どうしてとお聞きすると
お客さんが亡くなってしまうと・・ うちもそれでそれっきりになっちゃったのね。

私もこの病院がとても気に入っていて、無呼吸症候群らしいと思って呼吸器内科を
受診したら、快眠センターというのがあって、定期的にチェックをしてもらっています。
マウスピースを使っているので、歯科と連携を取ってくれるのも情報が共有できて
いいです。おかげで年に2回は歯の方もチェックしてもらえます。

この日は無呼吸の歯科の受診があり、かみ合わせやマウスピースを使うことによって
起こる弊害についてチェックします。いつもいつも歯の磨き方について注意され、
いろいろな器具・・歯間ブラシとか、それが糸になっているものとか教えてもらうのですが、
長続きしません。何時も裏側がきれいに磨けていないと言われ、今回は歯磨きしてきましたか
と聞かれてしまい、かぶせたものが取れたときに痛くて触れなかったと話しました。
今回は心を入れ替えようかと思いました。

そのあと1時間以上間をあけて、呼吸器内科での肺癌の精密検査でCTを取るようになっていたので
美味しいコーヒーを飲みに、須田町まで歩いて行きました。













変わりゆく御茶ノ水駅。いったい何年工事しているのかしら・・外堀。 駅も少しずつ変わっているようでした。
徐々に新しく変わっていく御茶ノ水駅。こうやっていつの間にか新しくなって・・静かに世代交代も行われていくのでしょう。









お気に入りの高山珈琲で、今回は強めのタイプしして、最初はブラックで。




いつも静かなジャズピアノが流れています。
お聞きしたらマスターの趣味ですって。ボーカルは嫌いらしい。














また歩いて病院まで戻る。まつやは入ったことがない。藪そばは上司に連れて行って
もらったことが1回だけあるけれど。小さなおうちみたいになってしまったまつや。







ニコライ堂も1回だけ友人と山下りんのイコンを見に行ったことがあります。




CTは検査はあっという間に終わりました。後は結果を来週聞きにいくだけです。
他のところも何かわかるかも知れません。




病院の夕暮れ ・・今もたくさんのドラマが繰り返されているのでしょう。ドクターたちは本当に
自分の時間がないほど大変だと思う。それがずっと続いているのだから。


帰りに京王のデパ地下に寄ったら、鯖のとても新鮮なのがお買得になっていたので
買って帰り、他の予定をずらして、竜田揚げの野菜あんかけにしました。
初めて作るに等しい料理でしたが、酸味がやさしくできておいしかったです。
母は時々竜田揚げを作ってくれていました。


Jan.30 2019  Ochanomizu & Kanda

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スーべニア  ・・・ souvenir

2018-08-29 23:54:34 | memories
ビリー・ジョエルのスーベニアが懐かしく響く。



A picture postcard
A folded stub
A program of the play
File away your photographs
Of your holiday

And your mementos
Will turn to dust
But that's the price you pay
For every year's a souvenir
That slowly fades away
Every year's a souvenir
That slowly fades away

同じようにSimon & Garfunkel - Bookends Theme  も



A time it was
And what a time it was,
it was A time of innocence
A time of confidences
Long ago it must be
I have a photograph
Preserve your memories
They're all that's left you

ニュアンスは少し違いますが、大好きな2曲です。

加藤先生の読書のための推薦図書を書いてくれたメモ(なんと50年近く前の!)がどこかで
みつかったので、また探しているのだけれどまだみつからない。

それでガラクタ入れというかもらった写真や手紙や分類できなかったり、手元に置きたかったものやら
未整理の雑多なものが入っているスーベニアの箱から過去がたくさん零れ落ちてきました。
私の過去以前のものも。

小さい時の写真もアルバムにも貼ってあるのですが、バラに少しだけ入っていました。




私は九州で生まれて転勤で1歳で東京に来ました。母は東京生まれの東京育ち、父は生まれたのは芦屋かどこかで
小倉で育ち、旧制七高から大学は京都でした。祖父が早くなくなったので、飛び級をして親の負担を軽減したみたいです。
妹が生まれたこの頃は祖父母の家に数年住んでいたかと思います。記憶のあまり残っていない時代です。

この頃近くに最近再会した中学の同期生の旧姓Wさんが住んでいて、母は私が中学の時に覚えていると話していました。
確かWさんのお母様も覚えていらしたと聞いていました。



小さいころは私は父親の担当でしたが、妹はすぐおんぶしてもらったり、とにかく甘えていました。




母と父の父親、おじいちゃん同士は東京の大学で一緒で、親友でした。同じ九州出身だったので親近感を覚えたのでしょうね。
アルバムからはがされた写真が私の箱に入っていました。




祖父は30代で亡くなりましたが、これはきっと高校生くらいの写真でしょうね。
縷々は私の会ったことのない憧れの人でした。




縷々の弟の画家で晩年は芸大教授だった庫田叕が書いたはがき。宗達の絵の裏に書かれていて、
インクが消えかかっていたのがスキャンしたら割と読めるようになりました。




27歳の初めて海外旅行でフィレンツェで。




1週間イタリアをローマから北上してアオスタを通り、シャモニーを抜け、スイスに入りるところまでベネチア在住の
アメリカ人、マイケルが案内してくれました。一人で参加したパッケージツアーでしたがそういう人が集まって5人で
仲良しになりました。マイケルはベニスの夜の街を私たち5人を連れて案内をしてくれました。
メキシコとロシアのハーフでアメリカでは暮らしにくかったのか、イタリアがお気に入りでした。なぜならpeople like people
だからと話していました。寒くなったのでアオスタで買ったマフラーと帽子で。




懐かしいアトリエの先輩からの絵葉書。出張先から送ってくれた葉書が数枚出てきました。
後で私も金沢や新潟に行ってどっちだったか、空港からのバスから日本海を見て、そうこういうグレイッシュな色だったと
彼の油絵を思い出しました。アトリエの帰りに京都や奈良の話をよく聞いたり、音楽も好きでアーノンクールの古楽器の
演奏会に連れて行ったもらったこともあったっけ。バロックのテレマンが好きだったみたい。
10年くらい前に山口薫展を世田谷美術館に見に行った時、とても似ている方に会ったけれど違うだろうと思い
声をかけなかったけれど後から彼だったことが分かったことがありました。もう何十年もお会いしてなく、
私よりちょっと年上だったのでどういう風に年を重ねられたのかわかりませんでした。世田谷美術館は最近行っていないけど、
アトリエで一緒に絵を描いた仲間には他の時も会ったことがありました。
今振り返ればとてもお世話になったと思い出しました。主人が亡くなった時もすぐお電話をいただきました。

イタリアに行ったことからイタリア語を習い、その時に知り合った建設会社の方からアトリエに誘ってもらって、
世界がいくつも広がっていきました。

結婚してからは子育てと仕事でそれ以外のことはなにもできませんでしたが、若い時に蒔いておいた種は
またいつか目が出てくることもあるものだと最近つくづく思います。全く初めてのことも面白いけれど
少しやっていたことは思い出しながら、とっかかり安いです。



支離滅裂ボックスですが他には中学時代のトントンと一緒の写真や、職場で撮ってもらった写真、友達の結婚式での
写真とかいろいろ入っていました。国際会議のお世話もしたことがあったので、国に帰ってからお礼の手紙を
いただいたものも入っていました。そういえばユーモアのセンス抜群のイギリスのプロフェッサーもいましたね。
あのBritish Englishで映画のセリフのような言葉が出てくるので就職したての何もわかってない幼い私は
完全にノックダウン。大人の世界でした。
箱根をエクスカーションで案内したときに、湖水地方のことを初めて聞きました。

断片的に思い出せばきりがなく話のチェーンが繋がっていってしまいます。
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記憶のラビリンスに迷い込む ・・・  getting into labyrinth in memory

2017-04-17 23:59:44 | memories
ナタリー・デセイのコンサートから帰って、なんだか急にしばらくぶりで
胸が苦しくなって、体を休めました。4月はコンサートや展覧会が重なってしまい
ちょっとセーブしないといけないのですが、用心しながら無理しないで過ごしていかないと。
その翌日は休暇を取ってもう終わってしまうヨーヨー・マのドキュメンタリーを見て
家で型染めの図案最終を写して、翌日は型染めの工房へ。土曜日はヨガの後で星岡の日本料理。
日曜はさすがヨガは止めて、食品の買い出しの後は夕方からFelicissimiでプーリア料理の講習会。
プーリアから一時帰国している内山さんの家庭料理とプーリアの紹介です。日本では手に入りにくい
カジュアルなプーリアのスプマンテやワイン、デザートワインやアーモンドのお菓子などで
とてもいい気分になって、帰ってからすぐ寝てしまいました。
昨日の午後新宿御苑に寄ってからFelicissimiに行こうかと思ったけれど、家のなかのことを
あれこれしてから時間ぎりぎりで出かけました。その代り今日なんとか雨も降らなかったので仕事の後で
お弁当を買って、新宿御苑の最後の桜を見に行きました。混み具合もそれほどでなく
目に焼き付くような春の風景でした。





今日は15日の星岡に行った時に通った以前住んでいた場所をさまよったことを中心に。
中央線の阿佐ヶ谷と西武新宿線の鷺宮からもアプローチできる場所に星岡はあります。
ヨガの後だったので、西武新宿線を使って初めて行ってみました。

数年前に娘とも行ってみた場所ですが、住んでいた賃貸マンションはちょっと高級感ある
低層の分譲マンションになっていて、運転のペーパードライバー講習で出入りした
駐車場はたくさんの建売住宅になっていて、近くにあった広場は住宅公団の
ちょっと高めの集合住宅が建ったけれど、その近くにまたマンションか何かの工事が
進められていました。少し広々していたところがなんだかごちゃごちゃして
息詰まる感じ。







帰りもその近辺を歩いてみました。突然最初に鷺宮で住んでいたマンションが目の前に
現れました。場所もなんだかはっきりと覚えていなかったのね。もう1本向こうの道かと
思っていたので、いきなりの出現に驚ろきました。3階建ての3階に住んでいた。主人が会社を突然辞めて、
家を手放す運命に。より保育園に近い賃貸のマンションに引っ越したのだけど、
主人もついてきました。ベビーカーで保育園に通った日々。主人の精神的にも不安定な日々が
よみがえってきて、ちょっと苦しくなりました。



この神社の前に耳鼻科があって、保育園の帰りに良く通った。
聖路加の小児科で担当の細谷亮太先生がとてもおもしろい先生だったのだけど
医師としても名医で鼻が詰まりやすいこういう子どもは中耳炎になりやすいので
見てもらいなさい言われて耳鼻科に行って、中耳炎がわかりその後もずっと
鼻と耳のことで通ったところ。病院は無くなって空き地になっていた。
そのころ通った病院はどこも年取った女医さんばかりでした。

その隣にお寺があったのだけれど節分とかに子どもと行ったりしたところです。
お正月に境内を散歩したり・・






今の家の近くの野球場そばの桜。

時空を超えた散歩をしてぐったり疲れました。







ヨーヨー・マのシルクロードアンサンブルを聴いていたら、ボーカルに何か聞き覚えがあり
アントニオ・ガディスを見に行った時の音楽を連想したり、アンドレア・ボッチェリと
デュエットしたファドのミュージシャンかと思い、久々にボッチェリのCDを聴いてみた。

ボッチェリは仕事で苦しかったときに朝5時に起きて毎朝仕事に行く前に聴いていた曲。
半年くらい聞き続けたか・・あまり聞きすぎて聴きたくなくなったくらい。
久しぶりに聴いたらとてもよかった。なぜかイタリアの街の石畳を感じる。




Con Te Partirò


いきなり同僚がアメリカに短期留学したので、担当替えで国際会議を担当になり、
とても苦しい時期だった。
国際会議は2~3年準備をしてから開催となるけれど、開催半年くらい前で
原稿が飛び交いもう直前の感じ。セッションの構成やプログラムの作成などから
当日の配置などハードルの高い事務が続いて、おまけに科研費まで取っていたので
経理手続きも大変だった。

娘が書けるようになった字で、七夕の短冊に「お母さんのお仕事がうまくいきますように」
と書いてくれ泣けた。

他にもナショプロが取れてしまった研究費の5年に亘るプロジェクトも最も大変だった仕事の
ひとつ。特に科技庁による(のちは文科省)による監査が今まで経験したことのない
厳しさで本当にびっくり。組織としての妥当性も問われるので、監査前は特に大変で
なかなか家に帰れなくて、家に電話をしても子供の泣き声しか聞こえなくて
せつない時もあった。
研究者として一緒に科技庁と戦った企業の研究者も忘れ難い人で、その後癌になって
一時学会で復帰して拍手で迎えられたけれど転移して亡くなられた。自分が癌だなんて
信じられないと言っていたけれど。そのころ奥さまが司法試験を目指していて
子どもの当番で家から同じく子供のことで家にいた私と電話でのやり取りもしたことがあった。
亡くなられてから学会で論文賞を取られて、司法試験をパスした奥様とお嬢さんに
早大理工学部キャンパスでの授賞式でお会いした。

思い出深い育児休業後の仕事です。



アンドレア・ボッチェリにはCon Te Partirò のほかにも勇気づけられた曲がたくさんあります。




Andrea Bocelli, Céline Dion - The Prayer




Andrea Bocelli - Cantico




Andrea Bocelli & Gerardina Trovato - Vivere




Andrea Bocelli: O mare e tu

ファドのDulce Pontes とのデュエット。 ヨーヨー・マのドキュメンタリーでなぜか
Dulce Pontesを思い出しました。スペインやポルトガルの心から振り絞るような歌声。
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赤坂センチメンタル・ジャーニー ・・・ sentimental walk around Akasaka

2016-04-09 23:28:06 | memories
娘がオフで私が1時まで仕事ですが、桜を見に行こうというので
私が朝日新聞の販売店からもらった紀尾井アートギャラリーを見に行って
清水谷公園と上智大の土手のところはどうかしらと思い見附で待ち合わせて
散歩しました。

四谷は学生時代に先輩が通っていたので、青春の思い出の地です。
学生運動をしていた彼に会いに良く大学の学生会館に行きました。新宿でJazzを聴いたり
まさにあの時代です。

清水谷公園はべ平連のデモの集合地だったような・・
国会前のフランスデモ行きましたよね。

社会人になってからやっと遊んで、K建設のアトリエで彫金と
油絵を習った日々。春には四谷に出て花冷えする頃お花見をして
お店に入ってホッとして、おちょこに花びらを浮かして冷酒を飲んだ。

他には帰りに「しろたえ」に行ったり、カフェ・イ・アルテだったり
ディスコだったり・・銀座の日本酒センターまで行ったことも。
おまけも楽しい活動でした。

今散歩しながら上智の学生がお花見しているのを見て、
ふと社会人になってから学生みたいに遊んでいた頃を
思い出しました。学生時代は民主主義とかいろいろ考えて
勉強とそれだけの生活。時代の空気ってあったと思う。
教室移動中に警官に追いかけられたこともあったような・・
卒業直前はロックアウト。






仕事が終わってオフの娘と見附で待ち合わせて、お昼抜きなのでしろたえのケーキとコーヒーで
少ししのいで、弁慶橋までやってきました。








旧プリンスホテルは結婚式場となるそうです。そのあとで丹下健三の設計で建てられた
赤プリはもう跡形もありません。好きな設計ではありませんが、あんな高層ホテルも壊してしまうのだという驚き。
そういえば上智大クルトルハイム聖堂で結婚式をフロモン神父様にあげてもらって、維新號で披露宴、そして
このホテルで一泊したのを今思い出しました。




都市センターホールには高校生の時だったかWalker Bros.のフィルムコンサートに来たことがあったっけ。
フィルムなのに絶叫状態。




この近くに紀尾井アートギャラリーがあったのにわからず、この辺をぐるぐる回って清水谷公園まで降りて
また上がってきて、やっと見つけたギャラリー。













すてきな伊勢型紙の世界にちょっと興奮。




この辺の場所は徳川のもので、紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名に
なったとのこと。知りませんでした。





徳川のものは皇室が全部所有して、宮家で分けていたわけだけど、このギャラリーの前は昔のままで徳川の
中屋敷があったところだということでした。今の皇室は皇居とかみんな徳川から奪ったものだけど
そのおかげで今も残っているということで悪くはなかったということにしておこう。
上野の桜木あたりと同じように江戸の空気が残っているところです。











清水谷公園に降りてきました。
江戸時代の水道に使われた石組。




この近くで大久保利通が暗殺されました。
記念碑が建っています。日本の近代化に大きな影響を与えた人です。



















































お花見コースは清水谷公園から上智大学の土手への登って行きます。









































わが青春の上智大学!

そしてずっと経ってからキリスト教の結婚の講座に通い、フロモン神父様の聖書研究会にも結婚前と結婚後に
少しだけ通ったことがありました。
その後仕事で上智大学に行った時、庭で偶然フロモン神父様にお会いしたことがありました。

この界隈はK建設と言い、私の青春時代が凝縮されている地です。













四谷に抜けて帰りました。四谷は長年通ったヘア・サロンもありましたね。
懐かしさいっぱいのお花見になりました。紀尾井ギャラリーに行ったついでのお花見でしたが。


April 1  2016  Akasaka, Yotsuya
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100周年記念式典 ・・・・ Ceremony Commemorating the Centennial of ISIJ

2015-02-07 23:17:12 | memories
私も雇用延長が終了してまさか100周年記念の日にこの職場で
まだ仕事をしているとは思いませんでした。

担当は式典の受付でしたが、バックアップのために万が一に備えて
カメラも持っていきました。写真はOBで鉄道写真のマニアの元マネジャーが
たくさん撮ってくださいました。彼の今年の年賀状はパタゴニアを走る
SLの写真で、式典後はルーマニアに向かうとのことでした。ゆうゆうの
生活を送られています。

私のカメラはシャッターが押しにくくなっていて、ズームアップすると
焦点が定まらないという状況で以前修理に出したことのあるレンズです。
今ちょっとイラっと来ていて買うことを視野に入れました。
7年も使えば今のカメラは電子機器ですので、買い替えも必要かと
ひしひしと思い始めました。つかえる限りは使いたいという気持ちと
修理になった時は買い替えるか・・それとも買い換えるのなら早めにとか
いろいろと考えてしまいます。

写真という意味で現首相や大臣の写真もパーティの一部として
載せます。

その時のスピーチが
政府インターネットテレビ
配信されています。その前座で宮沢経産省大臣、下村文部科学大臣のあいさつがありました。
昼間の式典にはそれぞれの副大臣と内閣府総合科学議員の久間氏がいらしていました。


各社の社長や関連省庁の方が多く出席されていましたが、
私としては完全リタイアの前にかつてお世話になった方々(特に一緒に部会を運営した大学の先生方)
や事務局のかつての上司にお会いできてとてもうれしかったです。私が最も長く籍を置いた社会の場所です。
久しぶりに会えたことを喜んでくださった方もいらっしゃいました。




式典の会場は立て替える前に事務所があった経団連会館の国際会議場です。
受付をしていたので、写真は撮れませんでした。



式典に続けて行われた祝賀パーティの方ではバックアップにスナップ写真を撮ることになりました。

関連のある省庁の大臣のご挨拶が初めにありました。経産省の宮沢氏はあまりよく見えない位置にいたので
撮れませんでした。




下村文部科学大臣








安倍さんは首相というより、一時神戸製鋼所にいたという感覚で、鉄鋼業をよく知る個人的に近いスピーチで
したが、産業界と国とのお互いの強い必要性を感じました。学会ですので、産業界をバックにその分野の科学を
発展させたいというのが使命ですが、企業のニーズも見過ごせない学問だけの学会でないところが特徴かも。








こんな報道のカメラを見たのは初めて。
この倍以上いました。スペースが決められていてそこから出ることはできません。




私を一度やめてからまた正式に採用して下さった当時の専務理事やISO事務局にいたときの上司がいます。





100周年のためにいろいろ企画などしてくださったメンバー。




元上司や新日鐵出身の方は大学教授になるケースも多いです。




女性が少なかったのが残念でしたが、理化学研の個性的な研究者です。研究会のリーダーで
とても注目されています。
左端は国際会議や部会でとてもお世話になった新日鐵のかたです。




元上司は企業の定年退職の時、突然の発病で長いこと治療して数年前からやっと元気な姿を見せてくれました。
今では水彩画を描いたり、育成などの仕事にかかわったりされているようです。年取って認知症にならないためには
5つ以上趣味を持たなくてはいけないという説を力説されていました。




学長になられた先生はお忙しくて、本当にお会いすることがなくなりましたが、久しぶりにお会いできて
よかったです。




いっしょに仕事をした先生方がそこここにいらして、懐かしかったです。
東北大では地震の時に建物や研究施設に甚大な被害を受け、大変なご苦労だったと思います。





とてもフットワークの軽い若々しい新日鐵住金の副会長と後ろの方に京大のカリスマ的名誉教授が写っています。
写真はじゃまにならないように適当に撮ったので、ウォーリーを探せではないのですが、こんなところにこんな人が
写っていると結構整理して楽しかったです。




企業からNIMSを経て大学教授になった先生にはよくiPadのことを教えてもらいました。




天文写真を撮るJFEスチールの研究者と今年研究会が採択された若手の阪大の先生が写っています。



ほんとうにカメラが言うことを聞かなくて残念でした。ズームアップして焦点が合ってくれないので
シャッターが押せませんでした。
それでもまぁ何とか撮れたかなと思いましたが、ピンボケの写真が多くて・・


職場を去る前に皆様方にお会いすることができて、嬉しかったです。


Feb.3  2015
コメント (2)
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