今日はなんという日なのでしょう!
この喜びを伝えたくて花緑さんの独演会小さん23回忌興行の前に急遽書くことにしました。
台湾の地震で津波警報が出て心配でしたが、注意報が解除されたとのことでよかったです。
この数年、私の懸案事項だった織機のことです。この一度半分引っ越しする機会に地下にある織機を上に持って
来たいと思っていました。ところが組み立てたりする時に必要な説明書がここに引っ越してきて一度ある場所が
わかったのですが、またみつからなくなりました。
それでこの織機での織物を最初に習うきっかけとなった私のピアノの先生の娘で私の小学校低学年の時の親友に
マニュアルがあるかどうか電話したら、もうないということで、次に最初に織を習った先生の所のお嫁さんの
真理子さんに連絡しました。10年少し前に亡くなられた先生ですが、その後お電話をいただいてお会いするところ
だったのですが、今度は主人が亡くなり、それどころではなくなってしまいました。その時に同じく機織りを習った
ことのあるみどりちゃんも一緒に会うはずでした。それから10年以上が流れました。もうどこの家の織機も近くの施設に
寄付してしまったとのことでしたが、久しぶりにお元気な声を聞いて、あの頃を思い出します。まだ20代の中頃でしたが
週1回お弁当持ちで通っていました。私がフルタイムで仕事に戻り、昼間通えなくなり、その時の次男さんのお嫁さんの
関係で林辺先生を紹介していただき、プロの人に習うことになりました。
どこにも織機の名前の手掛かりさえなく、みどりちゃんから確か笠原とか言わなかったかしらと織機の名前がわかりました。
それでもインターネットで探しても出てこなくて、織機は原理はどこも同じだから組み立てることができるかなと思って
あきらめていました。
リフォームのための片付けを初めて、最初に何回となく以前も探したスーベニールのポケットファイルのうち1冊を開けたら
開けたそのページになんとこの織機のマニュアルが出てきたではありませんか!
他にも手紡ぎ車のガイダンスも・・・
やっぱり笠原だったのです。もう一度ネットで検索してみると笠原吉太郎という画家の妻で、なんと佐伯祐三たちとも
交流があり、目白文化村に住んでいたことがわかりました。家から歩いて行ける距離に笠原さんは住んでいたのです。
この発見に舞い上がる気分でした。なんという偶然。私のピアノの先生だった小学校の親友のお母さんが直接この方に
織物を習い、私に織物の良さを教えてくれました。彼女の紹介で同じくそこで習った方を紹介していただいて
習いに行くようになりました。そのころの笠原さんはもうかなりの高齢だったと思います。
気になる下落合というブログのシリーズから笠原美寿の生涯を知ることができました。
笠原美寿の父は星野銀治で名主で沼田銀行の頭取でもあり、母が美寿16歳の頃亡くなり、家のことや家業でもあった養蚕などで
忙しく過ごして、18歳に東京の青山学院の中の女子手芸学校に通う。その後洗礼を受ける。沼田に帰り、フランスのリヨン国立
美術学校意匠図案科を卒業して帰国した当時は農務省技師であった笠原吉太郎と結婚(美寿22歳)。麹町から1920年にアトリエ
付きの目白の家を建て引っ越し、その後笠原氏は退職し洋画家としてデビュー。8人の子供を貧しい中苦労して育てあげたが
娘二人を失うという不幸な出来事もあった。1954年夫が78歳でこの世を去ったあと、小型の手織り機を開発し、普及に努めた。
私はこれからの老後を何をしておくろうかと日夜迷った末、やっぱり手織が老人に最もよい仕事であると確信しました。
しかしその時は以前に使った織機は駄目になりましたので、よし現代の家屋に向くような小型であって何でも織こなせる
ような織機を作ってみようと考えました。それは画室に架けられた夫の野外写生に使った三脚が目に止まり、その三脚の
ヒントを得てそれをA字型にして織るに必要な整経のクイを後方の斜面にうえ、また横糸を巻く糸車を取付けてきわめて
重宝な立体手織機の試作が私の手で作り上げられました。 笠原の手織り機と基礎織より
もし部品が使えなかったらと思い糸栄産業販売部というところに電話したら、電話口に出られた方のお父様(=秋山さん)
がこの織機にかかわっていたがもう他界していて、その事業はしていないとのことでした。
もう10年以上前のことだったでしょうかジィオデシックのパーティで林辺先生の友人だった元花椿(資生堂の広報誌)
編集長の平山景子さんにお会いした時に織をまたおやりなさいと言われたことが心にずっと残っていました。
笠原美寿さんが私と同じ学校出身でなんと住んでいたところも今の私の近くだったなんて・・・
これはもう織機を組み立てて、再開するしかないです。もしうまく組み立てられればですけれど・・・
笠原美寿と吉太郎の生涯を知ることができた、下落合のブログです。
私が持っている手織り機の奥にあるストーリーを知ることができました。
佐伯作品が架けられた笠原吉太郎葬儀。 [気になる下落合]
笠原吉太郎の鐘馗と美寿夫人の手ざわり。 [気になる下落合]
八面六臂の活躍をする笠原美寿。 [気になる下落合]
老後を楽しく暮らす美寿夫人の原動力。 [気になる下落合]
笠原邸はコロナのワクチンを家から歩いて接種に行った聖母病院の手前にありました。古地図を片手に歩いても面白そうです。
この中の記事にある柳瀬正夢は主人方の親戚です。
今日はいろいろ片付けを続行して、ずっと闘病生活の夫と家族を応援してくれた義理の姉からの山のような手紙もでてきて
励まされて支えられて生きてきたことも思い出されました。最初はちぎり絵等があるきれいなはがきだけを取り出しましたが
あの素晴らしい文章を捨てるわけにはいかなくて、また取っておくことにしました。彼女は小さなころ病弱で学校をずいぶん
休みましたが母親に手紙を書きなさいと言われて、文章をたくさん書いたとのことで、どれもすごく楽しい手紙なのです。
とにかく奇跡的な一日だったので、前日にマニュアルについて問い合わせた方たちに見つかったことをお知らせして、
友人にも私の喜びを知ってもらいたくて電話で話しました。ショートメールでは言い表せません。友人はすごく価値がある物
じゃないと言ってくれました。普通の木製の織機なのですけど・・
その後も注意深く使用しなくて取ってあるだけのいらないものと、思い出のある大切なもの、捨てたら二度と手に入らないものを
分ける作業を続けました。
April 3 2024
追記)
ブログ「落合学 (落合道人 Ochiai-Dojin)」から写真の転載の許可をいただきましたので星野美寿(笠原)関連の写真を
載せさせていただきます。ありがとうございました。
1927年(昭和2)5月に佐伯祐三が制作した『笠原吉太郎像』
笠原吉太郎の描いた落合風景
佐伯祐三の絵とよく似ています。お互いに影響を与え合ったのでしょうね。
星野美寿 活発だった少女時代
ドメス出版から星野達雄『からし種一粒から』(1994年)という本が出ていることを教えていただきました。
3代にわたり、キリスト教信仰に立った一族のことが書かれているということです。
夫亡きあと、70代を過ぎてから開発した笠原手織機。
関東一円で織を教えて、広めたとのことです。
都会にある老人ホームの建設に尽力されたという行動力に驚きます。
落合で活躍された素晴らしい方を知ることができて、とても嬉しかったです。