碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
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書評した本:鏡明 『ずっとこの雑誌のことを書こうと思っていた』

2019年09月08日 | 書評した本たち

 

 

週刊新潮に、以下の書評を寄稿しました。


著者の運命を左右した ある雑誌との邂逅

鏡 明:著

『ずっとこの雑誌のことを書こうと思っていた』

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著者がずっと書こうと思っていた「この雑誌」とは、「マンハント」のことだ。創刊は1958年。東京オリンピックがあった64年に終刊となっている。「読んだことがある人、手を挙げて!」と叫んでみても、多分そんなにはいないはずだ。当時、ハードボイルド・ミステリに特化した同名雑誌がアメリカにあり、いわばその日本版。つまり、相当マニアックな雑誌だったのだ。

すると今度は、「見たことも読んだこともない雑誌について書かれた本なんてパスだ」と考える人が出てくるだろう。当然ではあるけれど、それはもったいない。著者は「ミステリ雑誌」という観点からこの雑誌を語っているわけではないからだ。

まず、「マンハント」と出会って、自分がいかに触発されたか。次に、そのバックナンバーを集めるプロセスで、どんな活字文化を体験してきたか。そして、この雑誌を起点として玉突きのように広がっていった世界と自身の関係を振り返っている。実際、「マンハント」がなかったら、作家、翻訳家、評論家、さらに優秀な広告人でもある著者のキャリアはなかったかもしれないのだ。

本書には、「マンハント」に関連して嬉しい名前が続々と出てくる。植草甚一、片岡義男(当時はテディ片岡)、小鷹信光などだ。いずれも著者が愛読した連載コラムの執筆者たちである。小鷹へのインタビューでは、「マンハント」で展開されていた、自由過ぎる翻訳をめぐる話が興味深い。それはポジティブないい加減さであり、面白く読ませるための型崩しであり、後に訳者から何人もの作家が誕生したことを思うと、原文を素材とした創作的翻訳だったとさえ言えそうだ。

それにしても、この雑誌が今の自分のベースを作ってくれたと言える著者は、なんと幸せなことか。いや、逆かもしれない。雑誌には人の運命を左右する力がある。そのことを実感させてくれるのが本書だ。

(週刊新潮 2019829日秋初月増大号)

 


空気を読むことに疲れた主人公「凪のお暇」 

2019年09月08日 | 「北海道新聞」連載の放送時評

 

 

「凪のお暇」

空気を読むことに疲れた主人公

 

劇作家・鴻上尚史さんの近著のタイトルは、『「空気」を読んでも従わない』だ。周囲に同調しようと息苦しい思いをしている人に、空気をわかった上で無理に従う必要はないとアドバイスしている。ドラマ「凪のお暇(いとま)」(TBSHBC)のヒロイン、大島凪(黒木華)にも、ぜひ読んでもらいたい一冊だ。

凪は28歳の無職。会社を辞めたのは周囲の人たちとのコミュニケーションがうまくいかなかったからだ。一見普通に接しているのだが、本当は摩擦が起きないよう、仲間外れにされないよう、常に「空気」を読むことに必死だった。

職場の女子たちとのランチでも、本当は静かに一人で食べたいのに、そんなことは言えない。話題になる旅行やアクセサリーについても、その場にいるメンバーの顔色をうかがいながら無難な話を探した。

また、同僚から仕事上のミスの責任を押し付けられても、本当のことを言ってその場の「空気」を悪くするのが嫌で、文句が言えなかった。凪は、日常的に「自分でない自分」を演じることに疲れてしまったのだ。

そして、もう一つ。凪が生活を丸ごと変えようと思った理由が恋愛問題だ。同じ会社の優秀な営業マン、我聞慎二(高橋一生)とつき合っていたが、彼にとって自分が単なる「都合のいい女」であることが判明。恋人の前でも「空気」を読むことに腐心していた自分に気づいた凪は、我聞との関係も断つ。つまり、会社からも恋人からも「お暇」頂戴だ。

郊外のボロアパートに引っ越した凪。仕事も、貯金も、家財道具もないが、嬉しい出会いがあった。隣の部屋に住む、クラブDJなどをしているゴン(中村倫也)だ。一種の自由人で、誰にでも優しく、一緒にいると凪の心も晴れ晴れとしてくる。普通なら、ここから新たな恋物語が始まるところだが、そうならないところがこのドラマらしさだ。

実は、これまでゴンに夢中になった女性たちは、自分だけのものにならないゴンに苛立ち、ことごとく自壊していたのだ。しかも、そんなゴンが凪を本気で好きになる。遅すぎる初恋だ。そして、我聞の「本心」も徐々に明らかになってきた。「空気」を読む達人を自認する我聞は本当の気持ちを表すことが苦手で、凪に対しても正直になれなかったのだ。

見ている側が思い込んでいた登場人物たちのキャラクターが、物語の進展に従って大きく変容していく面白さ。ゴンと我聞と凪の奇妙な三角関係の行方と、「素の自分」で生きることを始めた28歳無職に注目だ。

(北海道新聞「碓井広義の放送時評」 2019.09.07)