碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

怒涛のブックガイドにして、本の大海原を渡るための海図

2008年10月31日 | 本・新聞・雑誌・活字
ずっとミステリ小説が好きだった。もちろん、今も大好きだ。

大学を出て就職したのも、“その筋”では知られるH書房だった。同期入社には、現在、音楽評論家をしている萩原健太がいる。

読む小説はミステリが多くなるが、それでも広大なミステリの世界の、ほんの一部にしか接していない。そのことを実感する一冊が出た。

日下三蔵さんの新著『ミステリ交差点~博覧強記の現代エンターテインメント時評』(本の雑誌社)である。

ページをめくっていくと、未読の本、知らなかった本が、わんさか登場する。ミステリファンを自称するのが恥ずかしくなるくらいだ。

タテ軸とヨコ軸で立体的に構成された、怒涛のブックガイド。いや、本の大海原を渡るための海図といってもいい。恐れ入りました。

ミステリ交差点
日下 三蔵
本の雑誌社

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他人の幸福のために尽くしていた“寅さん”はすごい

2008年10月30日 | 本・新聞・雑誌・活字
志村史夫さんが書いた『寅さんに学ぶ日本人の「生き方」~世の中、銭金、勝ち負けだけじゃ哀しい』(扶桑社)。

映画『男はつらいよ』をテキストにして語る人間論だが、面白いのは、著者の志村さんが半導体や物理学の専門家であること。

「競争原理とは無縁で、排他性を持たず、己の利益をおいても他人の幸福のために尽くす」寅さん。それを人間の理想像と捉え、映画場面の豊富な引用で裏打ちしていく。

起きないことはない、いや、起きるはずのないことも起きてしまう現在のニッポン。この本に書かれているように、<日本人本来の姿>が寅さんならいいんだけどなあ。そうであって欲しいよなあ。

寅さんに学ぶ日本人の「生き方」
志村 史夫
扶桑社

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安倍サンも福田サンも選にもれた「日本の歴代権力者」

2008年10月29日 | 本・新聞・雑誌・活字
まだまだ株価は下がり続けていて、どこまで落ちるか分からない。私のような経済オンチの無株者(?)でさえ、「アメリカをリーダーとする資本主義体制」だの、「近代高度産業社会」だのが、ダメダメ君になっているのを感じる。

それに、こちらの国では、麻生サンがまだまだ解散しそうにないし、食品問題も連続技だし、かなりトホホな状態だ。

で、小谷野敦さんの新著『日本の歴代権力者』(幻冬舎新書)。 

ここには、古代から現代まで、約1400年間の権力者126人が列挙されている。しかも天皇は一人も登場しない。

小谷野さんによれば、日本における権力者は天皇でない場合が多く、将軍や総理大臣でさえそうでなくなるという。

この「多重構造」こそが、この国の特徴なのかもしれない。

各人に関するコンパクトな解説文に潜む、“寸鉄、人を刺しちゃう”ような、鋭い言葉たちが光る。

「現代編」には、戦後の首相の中から15人が選ばれているけど、安倍サン、福田サンなどは登場しない。そんな彼らがトップにいた、この数年って一体・・・。

面白いのは、首相経験者以外で小沢一郎サンが入っていること。しかも、解説には「首相になる機会をことごとく失ってきた」とある。

今度はどうなのかねえ。首相になったとして、アメリカ丸と共に、仲良く沈んでしまいそうなニッポン丸を救助できるのか、どうか。うーん、悩ましい秋だ。

日本の歴代権力者 (幻冬舎新書 (こ-6-2))
小谷野 敦
幻冬舎

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”本の狩人”と呼ばれる達人の記録

2008年10月28日 | 本・新聞・雑誌・活字
文化人類学者である山口昌男さんは、本の“目利き”としても知られている。

新著『本の狩人~読書年代記』(右文書院)には、約半世紀にわたって書かれた本に関する文章から、単行本未収録のものが集められた。

未読の本がたくさんあるにも関わらず、また専門書が多いにも関わらず、すっと読めてしまう。いわば<書評の教科書>だ。

また、専門書以外にも、竹中労や小沢昭一などの著作も取り上げ、その価値をずばりと指摘しているのが嬉しい。

本の狩人―読書年代記
山口 昌男
右文書院

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この何日間か続いていた「高校訪問」が、昨日で終わった。

教員が直接高校の進路指導の先生方と話をさせてもらうのだ。これは大学の広報活動の一つであり、少子化時代の入学者対策でもある。

私は、すでに北海道の大学で経験していたが、本学としては今年初めて行われた。

高校もまた、時代と共に変化しており、大学の教員が自身の高校時代のイメージのままだと、間違うことも多い。少なくとも、高校の現状に触れるという意味で、高校訪問は悪くないと思っている。

面白いのは、校門を入っただけで、それぞれの高校の、独自の雰囲気があることだ。

古い校舎でも、ピカピカにして使っている高校がある。すれ違う生徒たちが、何者か知らない我々(複数の教員で回る)に対しても、「こんにちは」と挨拶をしてくれる高校がある。非常に熱心に、こちらの説明を聞いてくださる高校がある。

本学全体も、メディア学部も、それぞれにカラーがあり、100人の高校生の全員にマッチしているわけではない。逆に、1人でも2人でも、「ここで学べてよかった」と思ってくれる学生が来てくれれば嬉しい。

そして、時代は続いて行くけど、問題は「人のあり方」

2008年10月27日 | 本・新聞・雑誌・活字
橋本治さんの新刊は『最後の「ああでもなくこうでもなく」 そして、時代は続いて行く』(マドラ出版)。

残念ながら、来年春の<休刊>が決まった雑誌『広告批評』で、11年にもわたって連載が続いてきた、時評エッセイの最終巻だ。

連載自体は最終号まで継続されるのだが、単行本としてはラストになると、橋本さん自身が書いていた。

この2年ほどの間に起きた、食品偽装、サブプライム問題、そして秋葉原無差別殺傷事件などが論じられている。特色は、「人間」にフォーカスされていること。

例によって、決して分かりやすい内容ではない。いや、それは正確じゃないな。「テレビ的な分かりやすさ」のようなものを、橋本さんは目指してもいないし、「分かりづらい」という読者がいるのは承知で書いているはずだ。

でも、橋本さんは、そんな読者に「じゃあ、読むのやめれば?」とは言わないし、「ついてこれる人だけ、ついてきなさい」とも言わない。

たぶん、「十分には分からないけど、でも、橋本さんでなければ展開する人はいない論旨であり、やはり読みたい」と答える読者が大多数じゃないんだろうか。

とにかく、「人のあり方」に軸を置くこのシリーズが、この最終巻も含め、泥沼化する近代産業社会への強烈なカウンターパンチであることは確かだ。

最後の「ああでもなくこうでもなく」―そして、時代は続いて行く
橋本 治
マドラ出版

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人はみなワケありだ

2008年10月26日 | 本・新聞・雑誌・活字
神足裕司さんの新著『空気の読み方~できるヤツと言わせる「取材力」講座』(小学館101新書)を読了。

『金魂巻』や『恨ミシュラン』などで知られるコラムニストが開陳する「取材」の極意だ。

まず相手を知る。次に誠意をもって接し、安心感を与える。

さらに先方のボディランゲージにも注目して、今どういう精神状態であるかを確認。「小さなイエス」を積み重ねながら話を進めていくのだ。

「人はみなワケありだ」と神足さんはいう。

それを踏まえて相手をわかろうとすること、つまり「空気を読む」ことが人間関係における潤滑油となる。

取材力はマスコミ人御用達に非ず。仕事場はもちろん、家庭や恋愛にも応用できる一冊だ。

空気の読み方~「できるヤツ」と言わせる「取材力」講座~ (小学館101新書) (小学館101新書 8)
神足 裕司
小学館

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昨日から今日にかけて、父の3回忌で信州の実家へ行ってきた。ごく身内だけの、こころなごむ、いい集まりだった。

中央高速を走ったのだが、道路の両側の紅葉がきれいだった。2年前の秋、こんな紅葉の頃に、父は亡くなったんだなあ、とあらためて思った。(そういえば、亡くなって2年目なのに3回忌なのだ)

父が、ちょうど今の私の年齢の頃、私はテレビの世界に“転職”した。その前は高校の先生をしていたのだから、オーバーにいえばカタギからヤクザへ、みたいなものだ。父にも母にもずいぶん心配をかけた。

これからも、きっとこんなふうに、「父が今の私と同じ年齢のとき、私は・・・」と何度も思うんだろうなあ。それで、空想ではあるけれど、父と会話をするんだろうなあ。「あの時はさあ・・・」って。

60~70年代サブカルチャーへの旅

2008年10月25日 | 本・新聞・雑誌・活字
自伝や回顧録を読む楽しさは、書き手がどう生きてきたのかを知るのはもちろん、背景となる“時代そのもの”に触れることだ。

津野海太郎さんの新著『おかしな時代~「ワンダーランド」と黒テントへの日々』(本の雑誌社)は、まさにそんな一冊。 『本の雑誌』で連載中も、毎月、楽しみに読んできた。

60年代のはじめ、早大生だった津野さんは、劇団「独立劇場」を仲間と立ち上げ、演劇の世界に入っていく。同時に、雑誌『新日本文学』で編集者としても歩み出す。

その結果、演劇人として、また編集者として、60~70年代のサブカルチャーを創出する一員となった。

この自伝の最大の魅力は、この時代を熱く生きる人々に著者を通じて出会えることだ。

演劇青年だった唐十郎、岸田森、草野大吾、蜷川幸雄。文学界では花田清輝、大西巨人。デザインの杉浦康平、若き日の池田満州夫。さらに編集者・小野二郎や装丁家の平野甲賀もいる。

津野さんは小野が興した晶文社に入社。ポール・ニザンや植草甚一の本を手がける。やがて幻の雑誌『ワンダーランド』を創刊するが、それが後の『宝島』へとつながっていく。

私が大学生になったのは1973年で、その頃初めて<晶文社の本>を目にした。あの犀のマークの背表紙。ぴちっとしたビニールのカバーの感触も忘れていない。

学生にとっては少し高めの値段だったが、植草さんの著作などを、バイト代で一冊、また一冊と手に入れていった。渋谷の古書店で、ときどき植草さん本人に遭遇してドキドキしたものだ。

津野さんは当時の自分を振り返って、「腰のすわらない(…)ごくあたりまえの混乱したガキのひとりだった」と書いている。自らを伝説化せず、時代を俯瞰することを忘れない冷静な目が、この傑作自伝を生んだのだと思う。

おかしな時代
津野 海太郎
本の雑誌社

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デザインとはビジョンを形にしていくこと

2008年10月24日 | 本・新聞・雑誌・活字
気鋭のアートディレクター・佐藤可士和(さとう・かしわ)さんの『佐藤可士和デザインペディア』(マガジンハウス )が、どのページを開いても面白い。

これは、可士和さんが、身の回りのものを対象に語った私的デザイン論だ。

中でも、最近の仕事である<明治学院大学のブランディング>が興味深い。

「大学自体のアイデンティティを感じにくい」というところから始まり、創設者であるヘボン博士を掘り起こし、「この大学の本質は博士の志である」という“発見”に至る。

博士の志とは「他者への貢献」であり、これをコンセプト・ワードとする。

スクールカラーも「他者を照らす光」をイメージしてイエローに決定。入試のパンフから、学食のトレイ、ロゴ入り文具まで、あらゆるグッズを新たに作り直すのだ。

中でも、新しい「大学ロゴ」の知的で美しいデザインに感心。在学生はもちろん、これから入ろうとする高校生にも愛好されること必至だ。

明学大をはじめとする自身の仕事はもちろん、可士和さんが「これはいい」と思うデザイン(マックなど)をたくさん取り上げ、それらが「なぜいいのか」を明快に解説している。

豊富なビジュアルが、「デザインとはビジョンを形にしていく作業である」という可士和さんの信条を、具体的に伝えてくれる一冊だ。

ポパイ特別編集 佐藤可士和 デザインぺディア (マガジンハウスムック)

マガジンハウス

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こころだって、からだです

2008年10月23日 | 本・新聞・雑誌・活字
昨日、こんな報道があった。

病院に勤務していた44歳の医師が自殺した。遺族は過労によるうつ病が原因だとして、病院側に損害賠償を求めた。その訴訟の控訴審判決で、東京高裁は、請求を棄却した1審・東京地裁判決を支持し、遺族の控訴を棄却したのだ。

日本は、年間3万人もの人が自殺で亡くなる<自殺大国>である。もちろん原因は様々だろうが、うつ病はかなりの割合を占めているようだ。


うつ病からの連想だろう。ふと、中島らもさんのことが思い浮かび、『心が雨漏りする日には』(青春出版社)を取り出した。

病気の辛さは、他人に理解してもらうのが難しい。それが精神的な病だと尚更だ。

この本は、らもさんが、自身の「躁うつ病」体験をオープンにしたもの。しかし、単なる闘病記の類ではない。

自らをも客観的に見つめる作家らしく、苦笑、爆笑に溢れた“らも流”エッセイとなっている。

うつ病がらもさんを襲ったのは30歳のときだ。すぐさま妻に「励まさない。気分転換を強要しない。干渉しない」の3つの注文をした。

一旦回復した後、らもさんは不安を消すため仕事を増やす。しかも、酒を飲んでは書き、書いては飲む生活だ。結果は当然、アルコール性肝炎でダウン。困った人である。

だが、この入院体験が、吉川英治文学新人賞受賞作『今夜、すべてのバーで』を生み出したのだ。

再発は40歳。うつ病とアルコール依存症のWパンチで、ここからは入退院を繰り返し、飛び降り自殺の一歩手前までいく。

さらに、42歳の厄年には躁病にかかってしまう。やたらに怒る。人の意見は聞かない。芝居の稽古もつけられない。で、また入院・・。

その後、大量の薬をやめ、奇跡的な回復へと向かうまで、失禁と昏倒の日々が続く。この本が出たとき、らもさんは50歳。本人作の名コピー「こころだって、からだです」を実感する一冊だ。

それから2年後、らもさんは階段から転落し、脳挫傷、外傷性脳内血腫のため、亡くなってしまう。2004年7月26日のことだった。

心が雨漏りする日には
中島 らも
青春出版社

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創造と恋愛が同時進行する波乱の人生

2008年10月22日 | 本・新聞・雑誌・活字
今、二つの<ピカソ展>が、同時に開催されている。

国立新美術館で「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」。サントリー美術館が「巨匠ピカソ 魂のポートレート」だ。

見に行きたいのだが、なかなか時間がとれない。

そこで、アートディレクターである結城昌子さんの新著『ピカソ 描かれた恋』(小学館)を開いた。

美しい図版で見る作品群。ビジュアル型のピカソ入門書だ。

副題は「8つの恋心で読み解くピカソの魅力」となっていて、正妻オルガ、愛人マリー・テレーズ、40歳年下のフランソワズ・ジローなど、天才芸術家を愛し、愛された女性たちとのエピソードが登場する。

巨匠が91歳で亡くなったのが1973年。もう35年もたつ。しかし、作品はもちろん、創造と恋愛が同時進行する波乱の人生そのものが、今も強いインパクトを与えてくれる。

ピカソ 描かれた恋-8つの恋心で読み解くピカソの魅力 (ショトル・ミュージアム)
結城 昌子
小学館

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「この世は虚構だ」と山田風太郎さんはいった

2008年10月21日 | 本・新聞・雑誌・活字
例によって、気になる作家の<未発表原稿>とか、<単行本未収録>とか、<未刊行>といった“お誘い”には弱い。つい手にとってしまう。

山田風太郎さんの新刊『秀吉はいつ知ったか~山田風太郎エッセイ集成』(筑摩書房)も、そんな一冊だ。

この本には、今は亡き山田さん(2001年7月28日没)が、自分の住んだ町を軸にして書いた都市論から歴史的人物論まで、未刊行のエッセイが集められている。

表題作では、秀吉が光秀の謀反を予期していたという推理を展開。ちょうど、つい先日読了した新保裕一さんの『覇王の番人』に重なる部分もあって、興味深く読んだ。

また、日本人に重大な影響を与えた人物としてヒトラーを挙げている。その説明は省くが、実に論理的かつ説得力のある論を展開している。

いずれにせよ、どんな時代にあっても、少しもブレない透徹した目がそこにある。

「この世は虚構だ」という言葉が印象に残った。

秀吉はいつ知ったか―山田風太郎エッセイ集成
山田 風太郎
筑摩書房

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活字で追体験する最近の「お笑い」

2008年10月20日 | 本・新聞・雑誌・活字
『テレビの笑いをすべて記憶にとどめたい』という、なにやらチカラの入ったタイトルの本が出た。

構成作家である松田健次さんが、お笑い番組の中の「笑ったシーン」を収集したものだ。

コント形式あり。一発ギャグあり。いわば活字で再現された笑いのカタログである。

番組を見た人も、見てない人も、現在の「お笑いの構造」や「お笑いのツボ」、そして「お笑いのレベル」までが確認できる。ありそうでなかった労作といっていい。

こうして活字で採録されると、正直いって笑えるものと、笑えないものが出てくる。

たとえば「あらびき団」での、はるな愛による松浦亜弥ライブのあてぶり。その“セレクトされたMC箇所”なんか、むしろ活字で読むほうが可笑しい。

それにしても、この2年間の、5000本のお笑い番組を完全視聴したことには感心(寒心?)するしかない。アタマが爆発したりしなかったのだろうか。

テレビの笑いをすべて記憶にとどめたい 笑TV爆笑シーン採録2006~2008
松田 健次
白夜書房

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昨日の日曜日は、キャンパスでAO入試。

全国各地から来てくれた高校生たちと面談を行った。「私は高校で、こんなことをやってきました」とか、「この大学で、こんなことを学びたい」とか、それぞれに語ってもらうのだ。

みんな、なかなかいい生徒たちで、全員が入れたらいいのに、と思ってしまう。もちろん定員があるから、そうはいかないが。

私のいるメディア学部を志望する高校生は、ゲーム、音楽、映像といったジャンルに興味のある人が多い。基本的には、何かを創りたい、生み出したい、と考えている。

コンテンツ立国を政府が標榜するなら、彼らは、まさにそのど真ん中にいる大切な人材というわけだ。

後は、学んだことを生かせる「場」との連携が、これまで以上に求められるが、それは大学とメディア産業界との課題である。

呼吸は奥深いものだった

2008年10月19日 | 本・新聞・雑誌・活字
北海道から戻る飛行機の中で読んだのは、『息の発見』(平凡社)。

『気の発見』をはじめとする五木寛之さんの「発見シリーズ」第4集だ。

人間の生命活動の基本である呼吸をめぐって、芥川賞作家であり禅僧でもある玄侑師と語り合っている。

まず、「息の力」を再確認する。生きることは肉体が息を吐いて吸ってという動作に他ならないからだ。その動作に意識を向けることで、たとえば風邪を撃退したり、上がったときにそれを抑える息の使い方が出来るようになったりする。

次にブッダが教える息に言及する。その教えは「息に気づきなさい、呼吸を大切にしなさい」という当たり前の教えなのだ。波が寄せてさっと引くとき、一瞬止まるようになる。そんな間合いで息を吸って吐くこと。

では、具体的にどんな呼吸法がいいのだろう。1日5分、自分が「息そのものになる」ように丁寧な息をすること。幼児のごとく、全身を柔軟にして空気を迎え入れることだという。

また、玄侑師が編み出した「喫水線呼吸法」も紹介される。自分の体を空っぽの容器とみなし、呼吸と共に水が入ってくるとイメージするのだ。面白い。

結局、「息の発見」とは、呼吸する楽しさを実感することであり、いのちへの気づきであることが分かる。それは、無理をせず、自然に生きることにも通じているようだ。

息の発見
五木 寛之,玄侑宗久
平凡社

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歴史は勝者によって描かれていく

2008年10月18日 | 本・新聞・雑誌・活字
昨日は、午前中「トークDE北海道」(北海道文化放送)、午後「イチオシ!」(北海道テレビ)の生出演。若手オーナーシェフの店から中山代議士の出馬・不出馬問題まで、多彩な話題が並んだ。

移動の合間に、ススキノのいつもの蕎麦屋さんで昼食。いつもの鴨せいろ、やはり美味い。

そして、近くの、これまた行きつけの古書店で探書。ここの百円ワゴンは、必ず何かが見つかる宝箱だ。松本清張『不安な演奏』(文藝春秋新社・1962年)、野上弥生子『随筆 一隅の記』(新潮社・1968年)を入手。

夜は、番組の方たちと、ファイターズ対西武の中継(日ハム大敗で残念!)を眺めつつ、夕食とテレビ談義。2次会を終えてホテルに戻り、『覇王の番人』の続き。

昨日から読んでいる真保裕一さんの長編時代小説『覇王の番人』、ようやく下巻に入った。

主人公は、明智光秀である。光秀というと、私も含めて、どこか「悪役」、もしくは「卑怯者」的なイメージを持っている人が多いのではないか。

乱暴にいえば、「信長にいじめ抜かれ、ついに堪忍袋の緒が切れて、本能寺で主君を襲い、天下をとったつもりが、秀吉に追撃され、敗走するうちに、農民か野武士に襲われて、殺されちゃった男」てな具合。

しかし、『覇王の番人』で知る光秀は、そんなチャチな人間ではない。頭脳明晰、文武に秀で、人のこころを理解し、人情にも篤い。私利私欲に走らず、平和な世の中を希求して戦いの日々を生きた。

「信長の時代」「信長の天下」の本質が見えたからこそ、ついに本能寺へと向かってしまう。これって、新たな光秀像だ。

そして、この物語には、もう一人の主人公が登場する。過酷な運命を背負い、忍びとして闇に生きる小平太だ。光秀の武将としての戦いぶりも凄まじいが、小平太が体験する忍者同士の激突場面の迫力も特筆モノである。

真保さんは、戦国時代の複雑なチカラ関係・人間関係を鮮やかにさばきながら、滅びへと突き進まざるを得なかった武人の姿を、独自のリアリティをもって描き出している。

あとがきに「歴史は勝者によって描かれていく」とある。確かにそうかもしれない。

覇王の番人 上
真保 裕一
講談社

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「追伸」と書いて、その後をどう続けるのか

2008年10月17日 | 本・新聞・雑誌・活字
番組出演の仕事で札幌に来ている。

かなり涼しい、いや寒いかも、と思っていたら、意外とそうでもない。日中は14度。北海道の秋らしく爽やかだ。

札幌の街なかで、明日18日から始まる映画の看板を見た。「P.S.アイラヴユー」。どんな内容なのかは知らないけれど、タイトルが気になった。

「P.S.」って何だっけ? 意味は分かる。手紙の本文を書き終えた後、付けすことがあって再度書き込む。「追伸」だ。

で、思い出した。「P.S.」って、確かpostscriptの略だったはず。scriptを本文とするなら、その後で(post)ってわけだ。

で、またまた思い出した。今、真保裕一さんの長編時代小説『覇王の番人』を読んでいる最中(飛行機の中もずっとこれ)だけど、その真保さんに『追伸』という作品があった。

この小説、全編が手紙だけで構築されている。そう、かなり野心的な一作。

登場するのは、50年の時を隔てて重なり合う2組の夫婦だ。1組目は、仕事でギリシャへと赴いた悟と、夫についていかなかった奈美子。

二人の間を行き来する手紙からは、一緒にいたときには見えなかった各々の姿が浮かび上がってくる。

妻が隠していたこと、夫が言わずにいたこと。離婚を求める妻、拒む夫。互いを傷つけまいとしながらも、二人は歩み寄れない。

そして驚くべきは2組目の夫婦の手紙である。それは奈美子の祖母父が交わしたものだが、祖母はこの時殺人容疑で煉獄の中にいたのだ。

なぜ祖母はそんな事態に陥ってしまったのか。祖父は何を知り、何を知らずにいたのか。古い手紙に書き込まれた運命の物語は、現代を生きる二人に、また読む者にも鋭く突き刺さってくる。

電子メールは確かに便利だけど、デジタル信号と液晶ディスプレイが作り出す文字たちは、どこか空疎で真実味がないと感じるときがある。本来その向こうに見えるはずの相手の顔も思い浮かばない。

その点、たとえワープロ打ちであっても手紙は違う。手書きなら尚更で、書いた人の息遣いさえ聞こえてくるようだ。

追伸・・・と書いて、その後をどう続けるのか。伝えたい、でも言えない、いや、やはり書こう。なーんて光景を思い浮かべてしまう。

「P.S.アイラヴユー」。やっぱ、見に行こうかな。

追伸
真保裕一
文藝春秋

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