碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
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倉本聰が書き上げていた 幻の新作『北の国から2021ひとり』、 その衝撃の内容

2021年11月02日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

富良野2021秋

 

 

倉本聰が書き上げていた幻の新作

『北の国から2021ひとり』

その衝撃の内容

 

『北の国から』放送40年を迎えて

ドラマ『北の国から』(フジテレビ系)が始まったのは1981年10月9日。翌年3月に全24話が終了した後も、スペシャル形式で2002年まで続いた。今年は放送開始から、ちょうど40年に当たる。

放送されていた約20年の間に、壮年だった黒板五郎(田中邦衛)は60代後半となった。また小学生だった純(吉岡秀隆)や螢(中嶋朋子)は大人になっていき、仕事、恋愛、結婚、さらに不倫までもが描かれた。

ドラマの中の人物なのに、見る側はまるで親戚か隣人のような気持ちで黒板一家を見守った。この「時間の共有」と「並走感」は、『北の国から』の大きな魅力だ。

最後の『2002遺言』から、さらに20年の歳月が流れた。だが、多くの人にとって、物語は今も続いているのではないだろうか。

思えば、確かに五郎は遺言を書いていた。しかし亡くなったわけではなかった。純や螢も、あの遺言書を目にしていない。

あれからずっと五郎は富良野で、そして子どもたちはそれぞれの場所で元気に暮らしている。見る側はそんなふうに想像しながら20年を過ごすことが出来たのだ。

完成していた『北の国から』新作脚本

実を言えば、倉本聰は『北の国から』の新作を書き上げていた。それが『北の国から2021ひとり』だ。

読ませてもらうと、黒板一家が東日本大震災をどのように体験し、昨年からのコロナ禍とどう向き合っているのかも知ることが出来た。そして何より、「五郎の最期」が描かれていることに衝撃を受けた。

2021年10月9日、40年前に『北の国から』の放送が始まったその記念日に、富良野で、ある催しが開かれた。「追悼 田中邦衛さん 北の国から 40周年記念トークショー 思い出せ!五郎の生き方」である。

倉本をはじめ、中嶋朋子、さだまさし、蛍原徹(元雨上がり決死隊)、そして私も参加させていただき、『北の国から』と「黒板五郎」を語り合った。全国から3,000人を超える応募があり、抽選で選ばれた650人のファンが来場した。

 

 

驚いたのは、このトークショーの中で、倉本自身が『北の国から2021ひとり』について語ったことだ。

倉本は、ドラマのあらすじを明かす前に、客席に向かって次のような話をした。

「僕が富良野に移住して1~2年目のころ、後に黒板一家が暮らすことになる麓郷(ろくごう)や、布礼別(ふれべつ)の方へ行くと、ポツンポツンと農家の灯(あか)りが見えて、その一軒一軒の中に、それぞれ温かい家庭があることがひしひしと感じられました。

それで『灯(ともしび)』というタイトルにしようと思ったんですが、テレビ局から「地味すぎる」と言われ、『北の国から』というタイトルになりました。

純を演じた吉岡(秀隆)は今日、この会場に来ていませんが、40周年のことをずっと話し合ってきました。

吉岡は何度も富良野に来て、ひとりで山の中でキャンプをしていたんですが、実は『北の国から』の新作を一緒に作ろうと、2人で企てていました。僕も台本を7稿まで書いたんですが、諸般の事情により映像化できなくなりました。

邦さんとは、『北の国から』を「どっちかが死ぬまでやろう」って口約束をしていましたが、番組自体が『2002遺言』で終わることになり、ショックを受けました。それでも僕の中でずっと(物語は)続いていたんです。これから、どういう話だったか、お話ししてみます」

そして、作者自らが明かした、新作の内容は以下のようなものだった。

『北の国から2021ひとり』あらすじ

2002年、螢と正吉は息子の快(かい)を連れて福島県に行く。桜並木で有名な富岡町の夜ノ森に家を借り、正吉は富岡町の消防署に勤め、螢は診療所に勤める。

2009年に「さくら」という女の子が生まれる。五郎はその子に夢中になり、なかなか富良野に帰らない。それを純たちが連れ戻すといった出来事がある。

2010年、純の妻である結(ゆい)が勤め先の店長と不倫をして、離婚することになる。五郎は「うちはそういう血筋なんだ」とゲラゲラ笑っている。

東日本大震災と黒板一家

2011年に東日本大震災が起きる。消防職員の正吉は人を助けようとして津波に巻き込まれ、行方不明となる。その翌日、原発が爆発して全員避難することになり、正吉を探すことができない状況が何年も続く。

2014年に避難地区が解除され、砂浜で正吉の手がかりを探すが、見つからない。それでも五郎は必死になって砂を掘り続けるのだが、純は「もう、あきらめよう」と説得。富良野に連れて帰った。

2018年、83歳の五郎は癌の疑いで病院に検査入院する。ところが、MRIが怖くて途中で逃げ出してしまう。入院病棟に戻ると、もうひとり逃げた経歴を持つじいさんと出会う。

これが、「山おじ」と呼ばれる熊撃ちで、五郎と高校時代に二宮サチコという美少女を争い、年中けんかをしていた相手だった。じいさんになったふたりは意気投合し、付き合いを再開する。

2020年、新型コロナが流行し始める。螢は病院にカンヅメの日々。純は札幌で病院から出る感染性廃棄物を回収し、焼却施設に運ぶ仕事をしている。純も螢も五郎と連絡が取れないでいた。

黒板五郎の「最期」

そんなとき、純は札幌でかつて恋人だったシュウと再会する。シュウは純の代わりに五郎の様子を見に行く。

石の家に着くと、中から五郎の話し声が聞こえる。誰か来ているのかと思って入ると、五郎がひとりで令子の写真と会話しているのだった。札幌に帰ってきたシュウは、そのとき五郎が言ったことを純に話す。

「最近、夢を見た。山で、ものすごく大きな角を持った真っ白なシカに会った。そのシカが夢の中でおいらに言った。みんなひとりじゃないって。あれはカムイの使いだ」

純も螢も忙しくて五郎とまともに連絡を取らないまま時が過ぎ、不安になった純はシュウとふたりで石の家に行く。そして書置きがあるのを見つける。

「純様、螢様、おいらの人生もう終わる。探しても無理。探索無用。おいらのことならほっといて」

気がつくと令子の写真だけが見当たらない。大騒ぎとなり、純がいろいろなところを探すうちに、山おじに行き当たる。しかし、山おじは「五郎は山に入った。お前らに行くのは無理だ」と言って場所を教えない。

純は、自分たちが父親を放置したために死なせたという思いにかられて、螢に電話するが、涙で声が出ない。

結局、五郎は一人で山に入って亡くなり、遺体を動物に、骨を微生物に食わせて、「自然に還ったのだ」と察するしかなかった。

その晩、純とシュウは石の家に泊まる。夜中にシュウに起こされ、そっと窓の外を見る純。そこには、大きな真っ白い雄鹿が一頭、石の家をじっと見ながら立っていた。

やがて雄鹿は、ゆっくりと向きを変え、森の奥へと消えていく。その姿を目で追う純。このとき、シュウが聞いたという五郎の言葉が甦ってきた。「みんなひとりじゃない」と。

この五郎の終焉は2021年3月24日、つまり田中邦衛さんが亡くなった日であろうと思われる――。

「幻の新作」と出会う日を 

以上がこの日、会場で倉本聰本人が語った、『北の国から2021ひとり』のストーリーだ。田中邦衛という主演俳優の不在を承知のうえで、敢えて新作に挑んだ倉本に敬意を表したい。

ドラマの中の登場人物である黒板五郎。設定によれば、生まれたのは昭和10年である。それは倉本と同じだ。また40代で東京を離れ、富良野に住むことになったのも倉本と重なる。黒板五郎は「もう一人の倉本聰」であり、いわば「分身」だったのだ。

黒板五郎という国民的おやじが選択した「人生の終(しま)い方」には、86歳となった倉本自身の思想、特に死生観が強く反映されている。

会場で「台本を7稿まで書いたんですが、諸般の事情により映像化できなくなりました」と無念をにじませた倉本。もしもドラマ化されていれば、大きな反響を呼んだはずだ。

ここで「諸般の事情」をうんぬんしたくはない。どのような内容であれ、『北の国から』であるからには、フジテレビの了解なしに映像化は不可能だ。様々な事情が存在したのだろうが、ファンにとっても、フジテレビにとっても、実に残念な判断だった。

だが、それでもいつか、国民的ドラマ『北の国から』の結末となる、この「幻の新作」を見られる日が来るのではないか。そう信じて待ちたいと思う。

 

「『北の国から』黒板五郎の言葉」扉写真

 

 


没後40年、向田邦子が再び注目を集めている理由

2021年01月23日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

青山スパイラルホール

 

 

没後40年、向田邦子が

再び注目を集めている「これだけの理由」

脚本家としての軌跡を振り返る

 

「没後40年」の向田邦子

ドラマ『寺内貫太郎一家』や『阿修羅のごとく』などで知られる脚本家、向田邦子。

脚本だけでなく、優れたエッセイストであり、直木賞作家でもあった彼女が亡くなったのは、昭和56年(1981)8月22日だ。旅行先の台湾で遭遇した航空機事故だった。

今年は「没後40年」にあたるが、今も彼女が書いたドラマはアーカイブなどで視聴され、脚本や小説なども読み継がれている。

また現在、東京・青山のスパイラルホールでは、向田邦子没後40年特別イベント「いま、風が吹いている」が開催されており(1月24日まで)、あらためて注目が集まっている。

ここでは「脚本家としての向田邦子」に焦点を合わせ、その軌跡を振り返ってみたい。

「昭和の娘」向田邦子

向田邦子は昭和4年(1929)11月に東京の世田谷で生まれた。7歳だった昭和12年(1937)に日中戦争がはじまり、12歳で太平洋戦争が勃発する。昭和20年(1945)の敗戦時には15歳。目黒高等女学校の生徒だった。

つまり向田は戦前からの日本を、当時の日本人の暮しを知っていた。その体験は何ものにも代えがたい貴重な財産であり、後の脚本、エッセイ、小説などの向田作品を生み出す大きな源泉となっていく。

昭和25年(1950)、実践女子専門学校(実践女子大学の前身)を卒業すると、財政文化社に入って社長秘書を務める。2年後には出版の雄鶏社に転職。洋画雑誌「映画ストーリー」の編集に9年近く携わった。

卒業と同時に家庭に入る女性も珍しくなかった時代であり、向田は現在の働く女性たちの大先輩ということになる。

「脚本家・向田邦子」の登場

日本でテレビ放送が始まったのは昭和28年(1953)のことだ。その5年後の昭和33年(1958)、向田は会社に在籍したまま、脚本家の世界へと足を踏み入れる。デビュー作は日本初の刑事ドラマ『ダイヤル110番』(日本テレビ)の中の1本で、ほかの脚本家との共作だった。

昭和37年(1962)には自身初のラジオドラマとなる『森繁の重役読本』(TBS)に参加する。俳優の森繁久彌が、ちょっと切ない中年男の本音と建て前をペーソス溢れる口調で語っていた人気番組だ。

森繁は向田の脚本を評して「昔の日常茶飯を、巧みな比喩を用い、上質のユーモアを交えて再現している」と書いている。達意の文章家でもあった森繁に、その文才を認められたことは大きかった。

『七人の孫』

前の東京オリンピックが開催された、昭和39年(1964)に始まった森繁久彌主演の連続テレビドラマ『七人の孫』(同)は、当時流行していた「大家族ドラマ」だ。森繁が演じたのはリタイアした元会社経営者で、若い男女の孫たちとの世代差から生まれるエピソードが見る者を楽しませた。

ただし、この時期の向田は、あくまでも参加していた複数の脚本家の一人である。それは当時の向田のキャリアや実績からして当然のことだった。大抵の脚本家は、まず連続ドラマの中の何本かを担当し、また一話完結ドラマなどで腕を磨きながら、やがて全話を単独で任される脚本家になることを目指していく。向田もその一人だったのだ。

ちなみに『七人の孫』には、加藤治子、いしだあゆみ、そして樹木希林(当時は悠木千帆)といった、後年の「向田ドラマ」に欠かせない面々が出演していた。また演出陣の中には、やがて『時間ですよ』(TBS)や『寺内貫太郎一家』(同)でコンビを組むことになるディレクター、久世光彦(くぜ てるひこ)もいた。

その後も数えきれないほどの作品に関わっていく向田だが、戦前の記憶という「財産」に加え、抜きんでた「観察眼」が武器となった。世の中を、そして人間を向田は静かに見つめ、その深層と本質をドラマの登場人物たちに投影させていく。

『時間ですよ』、『寺内貫太郎一家』

昭和46年(1971)には人気ドラマシリーズ『時間ですよ』に参加。評価が高まる中で、ほぼ全話を一人で書き上げたのが、昭和49年(1974)の『寺内貫太郎一家』である。この時、向田は44歳になっていた。

気に入らないことがあれば怒鳴り、ちゃぶ台をひっくり返して家族に鉄拳を振るう貫太郎は、どこか懐かしい「昭和の頑固オヤジ」そのものだ。

実はこの頃まで、ホームドラマを支えていたのは「母親」だった。50年代の終りから約10年も続いたドラマシリーズ『おかあさん』(TBS)はもちろん、70年代前半のヒット作『ありがとう』(同)も母親を中心とする物語だ。その意味で「父親」を軸とした『寺内貫太郎一家』は画期的なホームドラマだったのである。

作曲家の小林亜星が演じた主人公・貫太郎のモデルが、向田の父・敏雄だったことは作者自身が明かしている。巨漢の石屋ではなく保険会社勤務だったが、その性格やふるまいには父の実像が色濃く反映されていた。また貫太郎の妻・さと子(加藤治子)には向田の母が、そして貫太郎の母親・きん(悠木千帆)には祖母の姿がどこか重なって見える。

『寺内貫太郎一家』のような脚本の「単独執筆」も増え、ドラマ界における地位も確立されていった向田。ところが、昭和50年(1975)に乳がんの手術を受けることになる。さらに手術の際の輸血が原因で血清肝炎となり、右手が利かなくなる病気も併発してしまう。

当時は現在よりも、がんという病気が怖れられていた時代だ。向田も自身の問題として「死」について思いめぐらすが、それは同時に「生」について考えることでもあった。今後「どう生きるか」の問題と言ってもいい。

エッセイ集『父の詫び状』

乳がん手術の影響は大きく二つある。一つは『父の詫び状』にはじまるエッセイや、その後の小説のように、「活字(本)として残る」仕事を手掛けるようになったことだ。

脚本は基本的にドラマの収録が終れば「用済み」となってしまう。中には保存しておく出演者やスタッフもいるが、多くは捨てられる運命だった。その一種の潔さを向田も愛してはいたが、どこかに虚しさや寂しさもあったはずだ。

また俳優が演じることを前提とする脚本は、俳優が口にする「台詞」と簡潔な説明である「ト書き」で成り立っており、細かな心理描写などをストレートに書き込むことはできない。そのもどかしさも脚本家は抱えている。生還したとはいえ、死を見つめざるを得なかった向田が、脚本とは異なる表現の場を求めて動き出したことに納得がいく。

その意味でも、昭和51年(1976)は向田邦子の転機となった年である。雑誌『銀座百点』で、初の連載となるエッセイの執筆が始まったのだ。53年まで24回続いたこの連載が、『父の詫び状』として刊行されると大評判になった。

特にタイトルにもなった向田の父、敏雄の存在が際立っている。家父長制が当り前の時代の、いわば「家庭内ワンマン」だったが、頑固さの奥に温もりやユーモアを感じさせて秀逸な父親だった。

また、このエッセイで語られる昭和初期から10年代にかけての東京の下町、さらに山の手の家庭が醸し出す雰囲気は、単なるノスタルジーではなく、私たち日本人が「忘れかけていた何か」を伝えていた。

『冬の運動会』、『家族熱』、『阿修羅のごとく』

そして、病気を経験したことによる影響の二つ目がドラマだった。この頃から「向田ドラマ」はその円熟期へと向っていく。

昭和52年(1977)の『冬の運動会』(TBS)は、他人である靴屋夫婦の家に自分が求めていた「家庭」を見いだそうとする青年(根津甚八)の話だが、これ以降、向田が書く家族劇の「緊張度」は一気に高まった。

それまでのホームドラマにはあまり見られなかった、家族の「影」や「闇」の部分にメスを入れたのだ。人間の本音に迫るリアルでシリアスなホームドラマ。これから先の人生は「自分が書きたいもの」を書く、という覚悟の表明だったのではないか。

昭和53年(1978)の『家族熱』(TBS)。夫婦(三國連太郎、浅丘ルリ子)、夫の連れ子の長男(三浦友和)と次男(田島真吾)、そして老父(志村喬)という平穏な家庭が、息子たちの実母である先妻(加藤治子)の登場によって揺れ始める。

また昭和54年(1979)の『阿修羅のごとく』(NHK)では、性格も生き方も違う四姉妹(加藤治子、八千草薫、いしだあゆみ、風吹ジュン)を軸に、老父母、夫や恋人も含めた赤裸々な人間模様が映し出される。

謹厳実直なはずの父親(佐分利信)に愛人と子供がいたことが判明して騒動となり、その過程で家族それぞれが抱える秘密も明かされる展開は衝撃的で、向田ドラマの代表作の一つとなった。メインの演出家は『天城越え』や『けものみち』などでも知られる和田勉だった。

『あ・うん』、小説集『思い出トランプ』

昭和55年(1980)、「小説新潮」2月号で連作の読切小説『思い出トランプ』の連載が始まった。向田に小説を書くよう勧めたのは、当時の「小説新潮」編集長である川野黎子だ。向田と川野は実践女子専門学校の同級生だった。

同じ55年3月に、『阿修羅のごとく』と並ぶ向田ドラマの名作『あ・うん』(NHK)が放送された。舞台は昭和初期の東京。主な登場人物は水田仙吉(フランキー堺)と妻のたみ(吉村実子)、仙吉の親友である門倉修造(杉浦直樹)の三人だ。

門倉は心の中でたみを想っており、その気持をたみも仙吉も知っている。しかし門倉はそれを言葉にしたり行動に移したりしない。不思議な均衡の中で過ぎていく日々を水田家の一人娘、18歳のさと子(岸本加世子)の視点で追っていく。

向田脚本のきめ細かい感情描写をもとに、深町幸男を軸としたディレクター陣が見事に映像化した。テレビドラマの歴史に残る1本だ。

さらにこの年の7月、「小説新潮」に連載中で、まだ単行本にもなっていない『思い出トランプ』の中の短編「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で、第83回直木三十五賞を受賞する。

28歳で脚本家としてデビューした向田は、50歳で直木賞作家となったのだ。そこから脚本、エッセイ、小説を同時進行で書く超人的な日々が始まるが、台湾での不慮の死は直木賞受賞からわずか1年後のことだった。

『蛇のごとく』、『隣りの女』、『続あ・うん』

昭和56年(1981)は、向田邦子の人生で最も忙しい年だった。年明け早々にドラマ『蛇蠍(だかつ)のごとく』(NHK)が放送された。

2月にドラマ『隣りの女―現代西鶴物語』(TBS)のロケハンでニューヨークに飛び、戻ってから広島で講演。3月には再びニューヨークでロケハン。『隣りの女』が放送され、『続あ・うん』(NHK)も始まり、小説『あ・うん』が書店に並んだ5月にはベルギーへの旅に出る。

6月、「週刊文春」で連載エッセイ『女の人差し指』を開始。「小説新潮」の連作小説『男どき女どき』の連載が始まったのが7月だ。8月になると野呂邦暢の小説『落城記』をドラマ化するプロデューサーの仕事で京都へ。さらに四国での霊場巡りも体験した。

そして8月20日、向田は取材のための台湾旅行に出発する。運命の飛行機事故に遭遇したのは2日後の8月22日だった。享年51。そのエッセイを初めて読んだ時、「突然あらわれてほとんど名人」と賛辞を贈ったのは山本夏彦だが、向田はまたも突然、そして名人のまま旅立ってしまったのだ。

浮上する向田邦子

あれから40年が過ぎた。しかし向田邦子の脚本もエッセイも小説も、その輝きを失っていない。いや、それどころか、今こそ向田の眼差しが求められているのではないか。

昨年からのコロナ禍の中で、私たちは生きる基盤としての「家庭」や「家族」を再認識するようになった。向田邦子が描き続けた「家族」というテーマが、40年の時を経て浮上してきたように思えるのだ。確かに、「いま、風が吹いている」のかもしれない。

 


「新春スペシャルドラマ」何がどうスゴかったか

2021年01月22日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

 

『逃げ恥SP』『教場2』…

「新春スペシャルドラマ」

何がどうスゴかったか

実力派の脚本家と演出家が競い合った!

 

新年とは言いながら、新型コロナウイルスの感染拡大で、多くの人が「おめでとう!」という気分になれなかった今年の正月。外出自粛ということもあり、連続ドラマの「一挙放送」とスペシャルドラマに明け暮れた日々だった。

まずは、『アンナチュラル』(TBS系)、『逃げるは恥だが役に立つ』(同)、『MIU404』(同)の全話放送という大盤振る舞いを堪能した。いわば〝野木亜紀子祭り〟である。

野木は現在、脚本家の名前で視聴者を集めることが出来るという意味ではナンバーワンだ。現実社会の「苦み」を入れ込みながら、しっかりエンタメとして仕立て上げるその手腕にあらためて感心した。

次に『24 JAPAN』(テレビ朝日系)の前半戦を再確認する。しかし、本家アメリカ版を忘れるよう努めながら見たものの、やはりなぜこのリメイクだったのかが不明で、残り12本(12時間分)の健闘を祈るばかりだった。

さらに『孤独のグルメ』(テレビ東京系)も楽しんだ。見逃した回だけと思っていたのに、松重豊演じる井之頭五郎の「心のツイッター」的モノローグを味わっていたら、結局全部見てしまった。

そして、これらの「一挙放送」に続いて向き合ったのが、怒涛のスペシャルドラマだ。そこには実力派の脚本家と演出家が競い合った力作が並んでいた。

「攻めのエンタメ」としての『逃げ恥SP』

最初に視聴した正月のスペシャルドラマが、2日放送の『逃げるは恥だが役に立つ ガンバレ人類!新春スペシャル‼』(TBS系)だ。

2016年の連続ドラマでは、システムエンジニアで「プロの独身」を自称する津崎平匡(星野源)が、家事代行サービスでやって来た「高学歴妄想女子」の森山みくり(新垣結衣)と出会い、「契約結婚」という形で同居生活に踏み切るまでが描かれていた。

今回はその続編にあたる。脚本はもちろん絶好調の野木亜紀子。「ラブコメ」というジャンルの既成概念を超えて、物語の中に社会問題を巧みに取り込んでいた。そして演出は連ドラも手掛けた金子文紀だ。全体の明るさだけでなく、濃密な内容と軽快なテンポの両立も見事だった。

みくりが妊娠したことで、2人は契約結婚から通常の結婚へと切り替えざるを得なくなる。話し合いの中で出て来たのが「選択的夫婦別姓」だ。本当はそれぞれの姓のままでいたいが現状では難しく、みくりが津崎姓を選ぶことになった。

妊婦となったみくりに対して、平匡が何気なく口にした言葉がある。「僕もサポートします」というひと言だ。これに「違う!」と反発するみくり。サポートではなく、「一緒に親になるんじゃないんですか?」と問われて、ぐうの音も出ない平匡。こういうシーンがきちんと入ってくるあたりが野木脚本の強さだ。

また、みくりの伯母である「ゆりちゃん」こと土屋百合(石田ゆり子)は独身のキャリアウーマンだが、子宮体がんが見つかってしまう。一人で生きる「自由」と、頼れる人が近くにいない「不安」の間で揺れる百合。助けてくれたのは高校時代からの親友、花村伊吹(西田尚美)だった。

その伊吹が一緒に暮しているのは女性だ。伊吹は、「誰にも言えない」が続いた過去と、押し隠してきた本音をさり気なく語る。このドラマでは女性同士、男性同士のカップルが抱える生きづらさも丁寧に描かれていた。

出産準備の一環として、平匡は会社に1カ月の「育休」を申請する。規定に従って会社は認めるが、現場の上司からはクレームが入る。「お前、仕事ナメてるのか!」と言わんばかりだ。

それを抑えたのは仕事仲間の沼田(古田新太)だった。病気や事故などで誰かが休んでも仕事が回り、休んだ人が帰ってこられる環境を作っておくこと。それがリスク管理だとこの上司に教えたのだ。これまたユーモアで社会問題に切り込む名場面だった。

みくりの臨月が近づいた。産む本人である自分と、夫である平匡の意識のズレが気になる。ゆりちゃんに、「一番言いたいことが言えず、一緒にいるのに孤独」だと訴えた。

「家族といても孤独はある」と百合。その上で、何かあった時に「不安の共有と理解」がいかに大切かを伝えていた。コロナ社会の生き方にも通じる、忘れられないシーンだ。

みくりが元気な女の子を産んだのと、新型コロナウイルスの問題が発生したのがほぼ同時だった。緊急事態宣言、自粛、リモートワークなどが、出来立てほやほやの「3人家族」に押し寄せる。

見る側もリアルタイムで体験してきた現実を踏まえ、ドラマはみくりに明日への希望を語らせた。

「心の中の孤独は、きっと誰もが持っていて、いつまでも消えないのかもしれない。だけど、いつか再び会えた時、少しだけ優しくなって、元気で助け合えればいい」

名セリフであり、ドラマだからこそ伝えられる、胸の奥まで届くメッセージだった。

若手を鍛える「木村教場」でもあった『教場2』

木村拓哉主演『教場2』(フジテレビ系)が放送されたのは、3日と4日の2夜連続だった。

昨年の正月に、やはりスペシャルドラマとして流されたのが第1弾。原作は、第61回日本推理作家協会賞短編部門受賞作『傍聞き(かたえぎき)』をはじめ、心理トリックを使った作品を得意とする長岡弘樹の連作小説だ。

舞台は警察学校である。年齢もこれまでのキャリアも異なる生徒たちが、6カ月にわたる課程に挑むのだ。

しかも学校とはいえ、目標は人材を育てるより警察官に適さない人間を排除することにある。一種のサバイバル・ゲームを生き抜こうとする若者たちの前に立ちはだかるのが、元神奈川県警捜査一課刑事で現在は教官の風間公親(木村)だ。

このドラマ最大の見どころは、生徒たちの心理と行動の全てを見抜く、風間の驚異的な観察眼と心理分析にある。

残酷な方法で仲間をいじめる者、校内で盗みをはたらく者、密かに手製爆弾を作ろうとする者など、寄宿制の学校という閉じた空間の中でいくつもの事件が起きる。風間は生徒が抱える心の闇や秘密と向き合いながらこれらを解決していく。そして警察官になるべきではない人間だけを退校させるのだ。

そんな鬼教官を、木村は笑顔一つ見せずに演じていた。そこにいるだけで怖くなるような凄みと迫力は、木村が風間という人物像について、とことん練り上げた証拠だ。

たとえば不祥事を起こした副教官見習い、田澤愛子(松本まりか)に風間が問いかける。「過ちを犯した者に一番ふさわしい仕事は何だと思う?」と。いぶかしがる田澤に向って、「君がしている仕事だ。警察官だよ」。寡黙で表情を変えないからこそ、短い言葉にも重みがあるのだ。

生徒役の若手俳優陣も力を出し切っていた。前作での川口春奈や大島優子や三浦翔平たちがそうだったように、今回も福原遥、上白石萌歌、濱田岳などが木村との「ぶつかり稽古」で鍛えられたのだ。「風間教場」ならぬ「木村教場」である。

脚本は『踊る大走査線』などで知られる君塚良一。演出・プロデュースは『プライド』や『Dr.コトー診療所』などを手掛けてきた中江功だ。前後編で約5時間の大作は、ワンクール(3か月)分の密度で満たされていた。

滋味あふれる人間ドラマ『人生最高の贈りもの』

4日に放送されたのが、『人生最高の贈りもの』(テレビ東京系)だ。

信州の安曇野に嫁いでいる田渕ゆり子(石原さとみ)が突然、東京の実家にやってくる。翻訳家で一人暮しの父、笹井亮介(寺尾聰)は驚く。当然、帰省の理由を訊ねるが、娘は「何でもない」としか言わない。

実は、ゆり子はがんで余命わずかという状態だったのだ。そう聞いた途端、「なんだ、よくある難病物か」と言う人も、「お涙頂戴は結構」とそっぽを向く人も少なくないと思う。

しかし、このドラマは「そういう作品」ではなかったのだ。見るのが辛いヒロインの闘病生活も、家族のこれでもかという献身的な看病も、ましてや悲しい最期も見せたりはしない。

また特別な、つまり変にドラマチックな出来事も起きない。あるのは父と娘の静かな、そして束の間の「日常生活」ばかりだ。父はいつも通りに仕事をし、妻を亡くしてから習った料理の腕をふるい、2人で向い合って食べる。ここでは料理や食事が「日常の象徴」として描かれていく。

途中、不安になった亮介は、ゆり子の夫で教え子でもある高校教師、田渕繁行(向井理)を信州に訪ねる。そこで娘の病気について聞いた。ゆり子は繁行に「残った時間の半分を下さい。お父さんに思い出をプレゼントしたい」と訴えたというのだ。亮介は自分が知ったことをゆり子には伝えないと約束して帰京する。

娘は、父が自分の病気と余命を知ったことに気づくが、何も言わない。父もまた娘の病状に触れたりしない。その代わり2人は並んで台所に立ち、父は娘に翻訳の手伝いをさせる。

時間を共有すること。一緒に何かをすること。そして互いを思い合うこと。それこそが2人にとっての「最高の贈りもの」なのだろう。石原と寺尾の抑えた演技が随所で光っていた。

思えば、人生は「当り前の日常」の積み重ねだ。昨年からのコロナ禍で、私たちはそれがいかに大切なものかを知った。終盤、信州に帰るゆり子に亮介が言う。「大丈夫だ、ゆり子なら出来るさ」と。その言葉は見ている私たちへの励ましにも聞こえた。

脚本は『ちゅらさん』や『ひよっこ』などの岡田恵和。ゆったりした時間の流れを生かした丁寧な演出は大ベテランの石橋冠だ。見終わった後に長く余韻の残る、滋味あふれる人間ドラマだった。

 


『35歳の少女』が、『モモ』を援用して発したメッセージ

2020年12月24日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

 

『35歳の少女』が

柴咲コウの「代表作」の一つになった

と言えるワケ

『モモ』を援用しながら発したメッセージ

 

今期ドラマの中で注目していた、柴咲コウ主演『35歳の少女』(日本テレビ系)が幕を閉じた。

なぜ「注目」だったのか。理由はいくつかあるが、最大のものは、その「設定」だ。ヒロインは「35歳の少女」。いや、正確にいえば「35歳の体と10歳の心を持った少女」である。この人物像、かなり突飛だったのだ。

「目覚めた少女」は見た!

物語を少し振り返ってみたい。1995年、10歳の時岡望美(少女時代を演じたのは鎌田英怜奈)は自転車に乗っていて事故に遭い、植物状態に陥ってしまう。それから25年という歳月が流れ、なんと35歳の誕生日に意識が戻る。しかも、その意識というか精神は10歳のままだった。

そして、ここがドラマのキモになるのだが、25年の間に、望美(柴咲コウ)の「家族」も「社会」も驚くべき変化を遂げていた。

特に「家族」は激変と言える。大好きだった父・進次(田中哲司)は、事故の後に母・多恵(鈴木保奈美)と離婚してしまった。現在は新たな妻・加奈(富田靖子)と、その連れ子で引きこもりの青年、達也(竜星涼)と暮している。いわば時岡家の崩壊だ。

その上、可愛かった妹の愛美(橋本愛)は、ちょっとキツい、かなり性格のねじれた30代キャリアウーマンに。また優しくて明るかった母も、暗くて表情の乏しい、一人暮しの老女になっていた。戸惑う望美。そこには各人の25年と、それぞれの現在があった。

そういうわけで、当初はオリジナル脚本を書いた遊川和彦(『家政婦のミタ』など)の意図をはかりかねた。見た目は大人でも望美の心は10歳である。10歳の心と頭で、25年間に起きたことから現在までを受けとめなくてはならない。少女をそんな過酷な状況に投げ入れて、一体何を描こうとしているのかと。

同じ遊川の脚本で、昨年秋に放送された『同期のサクラ』(日テレ系)がある。ここでも主人公の10年におよぶ「昏睡状態」と、そこからの「目覚め」が描かれていた。とはいえ、サクラは大人の女性であり、10年の変化を受けとめることができた。だが、望美はサクラとは違う。

小さな希望は、小学生の頃に好きだった「ゆうとくん」こと結人(坂口健太郎)との再会だ。元小学校教師で現在は代行業者の結人も、望美のことが気になって仕方がない。戸惑うことばかりだった望美は、結人の「無理に大人になる必要なんてない」という言葉に救われる。そして「あたし、成長する!」と決意するのだった。

「異形の少女」の反逆

しかし、その後の物語は、見る側にとっても辛い展開が続いた。望美の最大の願いは、家族が「元のように」一緒に暮すことであり、家族が「元のように」笑顔で暮すことだ。しかし、望美がどんなに努力しても、その実現は難しい。また、結人との間にも大きな溝が出来ていく。

全てに絶望したかのような望美が始めたことは、「一人暮し」と「動画配信」だった。この動画配信の内容が、かなり衝撃的だ。望美がカメラに向かって語り掛ける。

「なぜ自分の周りにいるのは、愚かな人間ばかりなんだろう、と思いませんか? つまらない日常を写真に撮ってはネットにアップし、しゃべりたくなったら、名乗りもせずにマウントを取り、相手のことを「死ね!」と攻撃する。そのくせSNSで繋がっているだけで友達だと思い、相手の顔も知らないまま、自分はリア充だと勘違いする。そんな人たちが本当に必要でしょうか? 私たちに必要なのは、情報とカネ。そして自分だけです!」

これを見た結人は驚き、駆けつけた。「なぜ、こんなことを」と詰問する結人に、望美が答える。

「わたしは、あなたたちと同じになったの。それの、どこが悪いの? これからの時代は、心地いい言葉や都合のいい情報を与えて大衆の心を操作し、自分の利益をあげる者だけが、生き残ることができるの。そんなことにも気づかないで、だまされる方が悪いのよ!」

遊川和彦が「脚本」に込めたもの

ここに至って、このドラマの目指すところが、はっきりしてきた。脚本の遊川をはじめとする制作陣は、望美を通じて、この25年の間に私たちが「失ってきたもの」「捨ててきたもの」「忘れているもの」に目を向けさせたいのではないか。

この「異形の少女」を媒介にして、現代社会とそこに生きる私たちの「在り方」を捉え直そうとしているのではないか。

その意味で、望美の事故が25年前、つまり1995年に起きたという設定は象徴的だ。後に「ネット元年」と呼ばれる年だからだ。

当時、日本のネット利用者は約570万人と全人口の5%足らず。現在のような「ネット社会」「SNS(ネット交流サービス)社会」とは程遠い環境だった。

つまり、95年はネット以前・以後の「境界線」であり「転換点」なのだ。それ以降、人と人の「コミュニケーション」だけでなく、「社会構造」全体も大きく変化した。

その結果には、いい面もあれば、その逆もある。それらを、「25年前の10歳」の目と心を介して、あぶり出そうとしたのである。

ミヒャエル・エンデ『モモ』の世界観

さらに別の回で、望美はこんなことも動画配信で言っていた。

「今は、誰もが自分のインスタやツイッターに、何人が『いいね!』を付けるかを気にし、グルメサイトの点数が高ければ安心して『おいしい!』と言う。他人の意見ばかり気にしているうちに、大切な時間はどんどん失われていくのに。だったら、その時間を私に売ってください!」

この「時間の売り買い」の主張は、唐突に聞こえるかもしれない。しかし、ずっと見続けてきた人たちは、このドラマの中で、「時間」という言葉が度々出てくることに気づいていたはずだ。「時間」は、ミヒャエル・エンデの小説『モモ』のキーワードである。

映画『ネバ―エンディング・ストーリー』の原作、『はてしない物語』などで知られるエンデが書いた『モモ』は、小学生だった望美の愛読書であり、宝でもある。今でも、この本を大切にしており、ドラマの大事な場面で何度も登場した。

この本の扉にあるように、「時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」、それが『モモ』だ。

主人公のモモは、一見ごく普通の女の子だが、「あいての話を聞く」天才だ。相手が誰であれ、必要なら何時間でも、話を聞いてくれる。

モモに話を聞いてもらっていると、どうしていいのか分からず、迷っていた人は、急に自分の意志がはっきりしてくる。

また、引っ込み思案の人には、急に目の前が開け、勇気が出てくる。そして、悩みのある人には、希望と明るさが湧いてくる。そんなモモと、「みんなを笑顔にしたい」と言っていた小学生時代の望美は、どこか重なっていた。

『モモ』の中では、「時間どろぼう」である灰色の男たちが、「自分の時間」の大切さに無自覚な人たちから、その時間を買い取っていく。いや、奪っていく。モモは、それこそ必死に戦って、みんなの時間を取り戻したのだ。

灰色の男たちと戦っているはずが、いつの間にか、彼らの世界に取り込まれてしまったような望美に向って、結人が叫ぶ。

「モモにそっくりな人間が、この世から消えて欲しくないんだよ!」

渾身のセリフだ。ただ惜しいのは、誰もが『モモ』を読んでいるわけではないことだった。このドラマの中で、どんな形であれ、もう少し『モモ』の内容についての説明があったら、よかったかもしれない。

だが、その一方で、あまりに詳細な解説を加えてしまえば、一種のネタバレのようになってしまったかもしれず、難しいところだ。望美とモモのダブルイメージは、脚本の遊川にとっても挑戦的な試みだったと言えるだろう。

明日へとつながる「決着」

終盤、母が心不全で倒れた。意識が戻らず、かつての望美のように、昏睡状態が続くかと思われた。

この母の病状が、結果的に望美と妹の愛美が和解するきっかけとなる。奇跡的に目覚めた母は、望美たちに見守られ、安心して息をひきとった。

最終回、望美は友人の結婚式での「司会」が縁で、北海道のテレビ局のアナウンサーとなる。子どもの頃からの夢が実現したのだ。

愛美は、イラストをコンテストに応募して、優秀賞を受賞。夢だったグラフィックデザイナーの道を歩み始めた。

父は、現在の家庭を何とか立て直したこともあり、一級建築士の試験に挑戦すると宣言。長年の夢である建築家を目指すことに。

そして、せっかく戻った教師の職を再び捨てようとしていた結人は、いじめにあっていた生徒が、ようやく登校してきたこともあり、教壇に立ち続けることを決意した。

生徒たちに向って、結人が言う。それは『モモ』の中の言葉だ。

「世界中の人間の中で、俺という人間は一人しかいない。だから、この世の中で、大切な存在なんだ」

そして、望美の最後の言葉。

「いつか、胸を張って、こう言えるのを願いながら、生きているのかもしれない。『これが私だ!』」

見る側の中にも温かいものが浸透していくような、それぞれの「決着」だった。

各回と同様、最終回のラストもまた、望美の顔のアップだ。その表情、動き、思考や言葉の中に、見る側が「素の10歳の少女」と「35歳の女性として生きようとする10歳の少女」の併存を感じ取れなくてはならない。そんな難役に挑んだ柴咲コウ。完結した『35歳の少女』は、彼女の代表作の一つとなった。

(現代ビジネス 2020.12.22)

 

 


最終回を迎える『BG~身辺警護人~』の深化

2020年07月30日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

 

キムタクの演技も大好評…!

最終回を迎える『BG~身辺警護人~』の深化

 

今夜、木村拓哉主演『BG~身辺警護人~』(テレビ朝日系)の最終回が放送される。第1シーズンから木村の演技もドラマの脚本も深みを増している。ラストも気になるところだが、そもそも「警護ドラマ」とは何か? メディア文化評論家の碓井広義氏が刑事・警備・警護ドラマの系譜を分析する。 

警備ドラマ」の原点となった『ザ・ガードマン』

刑事を主人公とした「刑事ドラマ」の歴史は古く、その数も膨大なものになる。しかし、刑事ならぬ警備員を主人公にした「警備ドラマ」ということになると、まず思い浮かぶのが『ザ・ガードマン』(TBS系)だ。  

昭和の東京オリンピックが開催された翌年、1965年の春に始まり、71年の冬まで続いた。7年近くで、全350話。当時、いかに人気を博していたかが分かる。  

物語の舞台は、民間警備会社の「東京パトロール」。日本初の警備会社で、実在の「日本警備保障」(現在のセコム)をモデルとしていた。  

高倉キャップを演じた宇津井健をはじめ、神山繁、中条静夫、稲葉義男、藤巻潤といった顔が懐かしい。警察以上の捜査力、いや「調査力」と「行動力」で犯人を追いつめていく様子にドキドキしたものだ。  

警備会社らしく、現金輸送車襲撃事件などは何度も作られたし、また夏場には怪奇・ホラー物と言うべき内容が放送された。  

今思えば、警備の仕事から大きく外れていたものも多かったが、そんなことは誰も気にしなかった。「警察以外の組織と人が悪に立ち向かう」という設定自体にインパクトがあったのだ。

人間ドラマとしての『男たちの旅路』

次に挙げるべき「警備ドラマ」は、山田太一脚本『男たちの旅路』シリーズ(1976~82年)だ。NHK「土曜ドラマ」史上というより、ドラマ史上の名作の一つと言っていい。  

警備会社のガードマンとして働く特攻隊の生き残り、司令補の吉岡晋太郎(鶴田浩二)の印象が今も消えない。部下である杉本陽平(水谷豊)、柴田竜夫(森田健作)、島津悦子(桃井かおり)たちとの世代間ギャップも、世代を超えた人間としてのぶつかり合いも、それまでのドラマにはなかった視点と緊張感に驚かされた。  

たとえば、77年放送の「シルバーシート」。杉本(水谷)と悦子(桃井)が担当していたのは「空港警備」だ。いつも構内で本を読んでいる本木老人(志村喬)を、他のガードマンたちは邪魔者扱いするが、2人は何かと気遣っていた。  

そんな本木がロビーで亡くなってしまう。彼が暮らしていた老人ホームを訪れ、本木の仲間たちと出会う杉本と悦子。だが数日後、その老人たち(笠智衆、殿山泰司、加藤嘉、藤原釜足)が都電を占拠し、立てこもる。  

彼らの言い分から浮かび上がる、「老いた人」を敬わない社会の理不尽と切なさ。警備ドラマというジャンルを超え、人間ドラマとしての深みに達したこの作品は、昭和52(1977)年度の芸術祭大賞を受賞した。

「身辺警護」という新たな現場『4号警備』

『男たちの旅路』から35年後の2017年春、同じNHK「土曜ドラマ」枠で放送されたのが『4号警備』だ。

民間の警備会社における区分で、1号警備とは「施設警備」のことを指す。2号は「雑踏警備」で、3号は「輸送警備」。そして、いわゆる「身辺警護」を行うのが4号警備だ。わかりやすく言えば「ボディーガード」である。  

主人公は警備会社「ガードキーパーズ」の警備員で、元警察官の朝比奈準人(窪田正孝)。そして年長者の石丸賢吾(北村一輝)だ。時に暴走してしまう朝比奈を、石丸が抑えたり、追いかけたりする形で物語が展開されていく。  

遺産相続がらみで盲目の男性を守ったり、ストーカーに狙われている女性を助けたり。またブラック企業といわれる不動産会社の社長(中山秀征)や選挙運動中の市長候補(伊藤蘭)が対象だったりと、2人は大忙しだった。  

いずれのケースでも、単なる身辺警護ではなく、警護すること自体が、相手が抱えている悩みや問題の解決につながっていく。しかもそれが、朝比奈自身や石丸自身が抱えている葛藤ともリンクしていた。

毎回読み切りで30分という短い時間だったが、窪田や北村の好演を支えた宇田学(『99.9-刑事専門弁護士-』など)の脚本は、テンポの良さと中身の濃さの両立を目指して善戦していた。  この『四号警備』によって、「警備ドラマ」から「警護ドラマ」への道筋が開かれたのだ。

警護ドラマの秀作『BG~身辺警護人~』第1章

木村拓哉主演『BG~身辺警護人~』(テレビ朝日系)が登場したのは2018年。井上由美子のオリジナル脚本だった。  

井上は『GOOD LUCK!! 』(TBS系)や『エンジン』(フジテレビ系)など、木村の主演ドラマを何本も手掛けてきたベテラン脚本家。当時、久しぶりのタッグの舞台がテレビ朝日という点も注目を集めた。  

2015年に木村が主演を務めたのが、テレ朝の『アイムホーム』だ。このとき木村は、「他者の顔が仮面に見えてしまう」という不安定な立場と複雑な心境に陥った男を見事に演じてみせた。  

これで「俳優・木村拓哉」が確立するかと思いきや、次に主演した『A LIFE~愛しき人~』(TBS系)が、脚本の凡庸さもあり、再び“キムタクドラマ”へと後退してしまったのだ。  

そして『BG』である。まず、刑事ドラマならぬ「警護ドラマ」としての骨格がしっかりしていた。  

同じボディーガードでも、警視庁のSPと違って民間警護人には捜査権がない。また銃などの武器も持てない。そのハンディをどう補い、いかにして対象者を守るのかが見所だった。  

木村は、かつての失敗をトラウマとして抱えながらも、体を張って(痛い目に遭いながら)警護の責任を果たす主人公、島崎章を抑制された演技で好演する。  

裏で支えていたのは井上脚本であり、『アイムホーム』も演出した七高剛監督である。さらに警視庁SPの江口洋介や警備会社上司の上川隆也なども、このドラマの成功に寄与していた。

深化した『BG~身辺警護人~』第2章

2年前の第1シーズンとの大きな違いは、主人公の島崎章(木村)が組織を離れたことだろう。警備会社を買収したIT系総合企業社長の劉光明(仲村トオル)が、利益のためなら社員の命さえ道具扱いする人物であることを知ったからだ。  

いわばフリーランスのBG(ボディーガード)となった島崎。最初の依頼人は業務上過失致死罪で服役していた、元大学講師の松野(青木崇高)だった。  

女性研究員が窒息死した事故の責任を問われた松野が、出所後は指導教授(神保悟志)に謝罪するために大学へ行こうとしており、警護を頼んできたのだ。  

しかも研究員の死には隠された事実があった。島崎は万全のガードを行いつつ、松野の言動にも注意を怠らない。チームによる警護から個人作業へ。そこから生じる島崎の緊張感を、木村が丁寧に表現していた。  

前シーズンでは警護する相手として政財界のVIPが多く、残念ながら物語がやや類型的になっていた。しかし、今回からは対象者の幅が広がっている。  

たとえば第2話、盲目のピアニスト(川栄李奈)の場合、彼女の身体だけでなく、彼女の折れかけていた「演奏する心」まで護(まも)っている。「警護」の意味が、より深まっているのだ。  

また第6話では、シャッター商店街でカレー食堂を営む女主人(名取裕子)を、立ち退きを要求する不良家主やその取り巻きからガードしていた。法的な問題もあり、最後には店を閉じることになるが、女主人から「私の大切な日常を護ってくれて、ありがとう」と感謝される。  

フリーになった島崎が開設した事務所に、前シーズンでは何かと対立してきた高梨雅也(斎藤工)を参加させたことも、テレ朝が得意な「バディ(相棒)物」に寄せた、巧みな仕掛けだ。設定の大胆な変更が「深化」として結実している。  

「刑事ドラマ」へのカウンターとして出発した「警備ドラマ」。それがさらに「警護ドラマ」へと発展し、現在の到達点として今回の『BG』がある。  

「相手が誰でも警護するのがプロ」と自負する島崎に対して、いわば宿敵である劉光明(仲村)自身が警護を依頼してきた。果たして島崎は、劉の何を護るのか。そしてドラマ全体の大団円をどう迎えるのか。最後まで目が離せない。

 


俳優・長谷川博己『麒麟がくる』主演獲得まで

2020年07月11日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

 

俳優・長谷川博己が

『麒麟がくる』主演を獲得するまで

今や日本を代表する俳優、その軌跡(後編)

 

新型コロナウイルスの影響で、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』が休止中だ。

「麒麟のいない時間」の欠落を補うことは出来ないが、その再開を待ちながら、主人公の明智光秀を演じている「俳優・長谷川博己」の軌跡をたどってみたい。

前回、2010年の『セカンドバージン』にはじまり、『鈴木先生』『雲の階段』『夏目漱石の妻』などを取り上げた。今回は、『麒麟がくる』へと至る後編である。

 

『獄門島』で新たな「金田一耕助」を創出

2016年11月19日、NHK・BSプレミアムで、横溝正史原作『獄門島』が放送された。

横溝作品は、これまで何度も映像化され、何人もの俳優が「探偵・金田一耕助」に扮してきた。昭和20年代の片岡千恵蔵はともかく、市川崑監督作品での石坂浩二の印象が強い。またドラマ版には古谷一行を筆頭に、片岡鶴太郎、上川隆也などが並んでいる。

だが、この『獄門島』で長谷川博己が演じた金田一に驚かされた。これまでとは全く異なる雰囲気だったからだ。石坂や古谷が見せた“飄々とした自由人”とは異なる、暗くて重たい、どこか鬱屈を抱えた青年がそこにいた。

背景には、金田一の凄惨な戦争体験がある。南方の島での絶望的な戦い。膨大な死者。熱病と飢餓。引き揚げ船の中で、金田一は戦友の最期をみとり、彼の故郷である獄門島を訪れる。また事件そのものも、戦争がなかったら起きなかったであろう悲劇だった。

このドラマが目指したのは、戦争と敗戦を重低音とした“原作世界への回帰”であり、“新たな金田一像の創出”だった。長谷川は見事にその重責を果たしたのだ。

 

日曜劇場」初主演は、問題作『小さな巨人』

2017年の春クール、刑事ドラマが同時多発した。『CRISIS 公安機動捜査隊特捜班』(関西テレビ制作・フジテレビ)、『警視庁捜査一課9係』(テレビ朝日)、『警視庁・捜査一課長』(同)、『緊急取調室』(同)などだ。

そんな中で異彩を放っていたのが、長谷川博己の『小さな巨人』(TBS)だった。長谷川にとって、満を持しての「日曜劇場」初主演である。

それにしても、『小さな巨人』とは、なかなか大胆なタイトルを付けたものだ。まず、70年代初頭に公開された、ダスティン・ホフマン主演の同名映画が思い浮かぶ。カスター将軍時代のアメリカで、シャイアン族に育てられた青年が、白人と戦う運命を背負うという物語。秀作だが、かなり重たい内容だった。

そして次は、2000年代まで流れていた、「オロナミンCは“小さな巨人”です!」のキャッチフレーズが忘れられない、大塚製薬のCM。懐かしい大村崑は、今も「元気ハツラツ!」な88歳だ。

このドラマでの「小さな巨人」とは、「見た目は小さな存在でも偉業を成し遂げた人」を指す。主人公は元警視庁捜査1課の刑事・香坂(長谷川博己)だ。出世街道を順調に歩んでいたが、上司である捜査1課長・小野田(香川照之)によって所轄署へと飛ばされる。

前半の芝署編では、IT企業社長の誘拐事件や社長秘書の自殺などが発生。真相を探るうち、黒幕として署長(春風亭昇太)が浮かんでくるという大胆な展開だった。誰が味方で誰が敵なのか。「敵は味方のフリをする」のであり、見る側も気を抜けない展開だった。

そして豊洲署編では、事件の現場が「早明学園」という学校法人となっていた。経理課長が失踪するが、その背後には学園の“不正”があった。しかも内偵中の刑事(ユースケ・サンタマリア)も殺害されてしまう。

この学園には元警視庁捜査一課長の富永(梅沢富美男)が専務として天下っている。かつて捜査一課刑事だった香坂の父親を自殺へと追い詰めた、因縁の人物だ。香坂は、ここでもまた警察という巨大組織の力学に翻弄され、苦戦を強いられる。

 

「現代の世話物」というチャレンジ

徐々に明らかになってくるのは、早明学園が行っていた「不正な土地取引」だ。しかもそこには“政治家との癒着”が見え隠れする。

となると、やはり思い浮かぶのは「森友学園問題」であり、「加計学園問題」だ。単なる政治家ではなく、総理大臣という最高権力者の関与が指摘された、当時は「現在進行形」の事件である。もちろん現実の“学園問題”とは設定が異なるが、「学校を舞台とする政治家がらみのスキャンダル」という意味で実にタイムリーだった。

例えば、歌舞伎の演目には「時代物」と「世話物」がある。江戸時代の人たちから見て、過去の世界を舞台にした歴史物語が時代物。一方、当時のリアルタイムな出来事を扱っていたのが世話物だ。近松門左衛門『心中天網島』のような心中事件や殺人事件、さらにスキャンダルも世話物の題材となった。

この『小さな巨人』は、まさに「現代の世話物」と言える。2017年2月、ドラマが準備されていた頃に森友問題が発覚し、制作者たちは急きょ、この現実の事件を物語の中に取り込むことを決意したのだ。

政治家の倫理と犯罪性をどこまで描くのか。それは見る側にとっても、現実とフィクション、2つの「学園問題」が同時進行するスリリングな体験だった。

善と悪の区別が簡単ではなく、敵と味方の見極めも難しい状況の中で、刑事・香坂はじわじわと事件の核心に迫っていく。長谷川は、香坂の中にある怒りや葛藤を、感情をあらわにするのではなく、細かな表情やセリフに込めたニュアンスで表現して見事だった。

そしてもう一つの見所だったのが、香坂VS小野田、いや長谷川VS香川という役者同士の真っ向勝負だ。2人とも、演技過剰とケレンの境目など気にせず、怒鳴り合いも、顔芸も全力投球。「全身俳優」香川照之とのガチンコ対決は、成長する長谷川博己の大きな財産となったはずだ。

 

朝ドラ『まんぷく』の成功に貢献

2018年の秋から始まったのが、NHK連続テレビ小説(以下、朝ドラ)『まんぷく』だ。安藤サクラが演じたヒロイン、福子のモデルは日清食品の創業者・安藤百福(ももふく)の妻、仁子(まさこ)である。百福は「インスタントラーメン」を発明した人物であり、ドラマの中では立花萬平(長谷川博己)となっていた。

大正生まれの仁子は、希代の起業家である百福を徹底的に支え続けた。伝記などによれば、実際は肝っ玉母さん型の普通の主婦だ。こうした、誰かを「裏で支えた人物」をドラマの主人公として成立させるのは結構難しい。朝ドラでの成功例は『ゲゲゲの女房』だろうか。目指すは、ゲゲゲならぬ「インスタントラーメンの女房」だ。

物語は昭和13年からスタートした。女学校を卒業した福子は、ホテルに電話交換手として就職。当時32歳の安藤が、18歳の福子になり切っているのは、演技派女優の面目躍如だ。ただ、あまりに高すぎるテンションは、朝からちょっと鬱陶しかった。

安藤は、ただそこにいるだけで、「何かが起きるのではないか」と思わせてくれる、不穏な空気を現出させることができる貴重な女優である。

映画『万引き家族』でも生かされていたように、何を考えているのかわからない、暗いキャラクターを演じさせたら世界レベルだ。それが「朝ドラ」という舞台に合わせて、どこか無理をしているようにも見えた。

違和感と言うとオーバーだが、この「場」に安藤がいることが、どこか不自然に感じてしまう。安藤自身も、そんなことは十分意識していたのではないだろうか。それを打ち消す、もしくは補うための異様なハイテンションだったのかもしれない。

結局、怒涛の演技はドラマの最後まで続くことになるが、それを中和し、補っていたのが長谷川の存在だ。

「萬平さん」は、世事には疎いし、夫や父としても「困ったちゃん」かもしれない。しかし、「これまでにないもの」を生み出そうとする情熱は誰にも負けない。発明少年がそのまま大人になったような無垢な男だ。

その一方で、「みんなに喜んでもらう」ためには、事業として成功させなくてはならない。発明家にして実業家。そんな高いハードルに挑む萬平を、長谷川はユーモアを交えて悠々と演じていった。

見る側は、「愛すべき萬平さん」を福子たち家族と共有することができただけでなく、「愛すべき萬平さんが愛する福子」という形で、このヒロインを、演者である安藤も含めて肯定することができたのだ。長谷川は、『まんぷく』の成功を支えた最大の功労者と言っていい。

 

大河ドラマの「スペシャル・ファクター」へ

今年の1月、長谷川博己主演のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』が始まった。昨年の『いだてん』は意欲的な実験作として評価できるが、残念ながら内容や登場人物が「大河」という枠に合致していたかどうか、疑問が残った。

『麒麟がくる』は、いわゆる「戦国大河」の復活となる。これに対して、戦国時代や幕末など同じ時代、同じ人物が繰り返し取り上げられるという批判があったのも事実だ。しかし、作品によって人物像や史実の解釈が異なる点も大河の魅力だろう。

主人公は明智光秀。「本能寺の変」で主君の織田信長を討ったことによって、「裏切り者」もしくは「悪人」のイメージが強い。

しかし、「歴史」を作ってきたのは、常に勝者であり権力者だ。信長の後継者を自任する秀吉にしてみれば、自らの正当性を主張するためにも、光秀を「逆賊」とする必要があったはずだ。

では、光秀とは果たしてどのような人物だったのか。ドラマはあくまでもフィクションだが、一つの解釈として楽しみたい。

初回で、光秀は主君の斉藤道三(本木雅弘)に直訴して旅に出た。堺に行って、地元にはない「豊かな経済」を体感し、京では「都の荒廃」を目にする。この行動力と洞察力が、光秀にとって終生の武器だ。

脚本を手掛けているのはベテランの池端俊策だが、その手腕は他の場面でも発揮されていた。光秀は京で火事の現場に遭遇する。燃え落ちる民家から子どもを救い出した光秀は、医師・望月東庵(堺正章)の助手、駒(門脇麦)から教えられる。「戦(いくさ)のない世をつくれる人が、麒麟を連れてくる」のだと。

それを聞いた光秀が言う。「旅をしてよく分かりました。どこにも麒麟はいない。何かを変えなければ、誰かが変えなければ、美濃にも京にも、麒麟は来ない!」。光秀が、その後の人生をどう歩むのかを予感させる、見事なセリフだった。

主演の長谷川だが、何よりその立ち姿が美しい。このドラマにおける光秀は、庶民への接し方も人間的で、ごく真っ当な精神の持ち主であることがわかる。そこが、長谷川の雰囲気にはぴったりだ。

ドラマ『鈴木先生』で、鈴木(長谷川)は生徒の小川蘇美(土屋太鳳)のことを、クラスを改革するための「スペシャル・ファクター」と呼んでいた。

実は長谷川こそ、大河ドラマという教室に投入された「スペシャル・ファクター」ではないだろうか。ある時は純な少年の表情を見せ、またある時は大人の思慮深さがにじみ出る「新たな戦国武将像」を創出している。

この戦国武将像ということで言えば、染谷将太の織田信長も、佐々木蔵之介が演じる木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)も、かなりユニークだ。これまでに見たことのない信長であり、秀吉になっている。

光秀、信長、秀吉と、まさに「役者がそろった」ところでの休止だった。残念ではあるが、「お楽しみはこれからだ」の精神で再開を待ちたい。

かつて長尺の映画には、上映の途中で「Intermission(インターミッション 休憩)」の文字が入り、一旦場内が明るくなったものだ。それは観客にとって、前半を振り返り、まだ見ぬ後半を予測し、心の準備をする愉悦の時間でもあった。『麒麟がくる』も今がその時。「刮目(かつもく)して待て」だ。

 


今や日本を代表する俳優「長谷川博己」の軌跡

2020年07月09日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

 

『麒麟がくる』放送休止…

今や日本を代表する俳優・長谷川博己の軌跡

 

NHK大河ドラマ『麒麟がくる』が、6月7日の放送後、休止に入った。もちろん新型コロナウイルスの影響だ。

現在は、『独眼竜政宗』『国盗り物語』『利家とまつ』『秀吉』といった歴代大河の中から選ばれた作品の「名場面集」が編成されている。

それぞれの主人公など懐かしくはあるものの、中断された『麒麟』の続きを「早く見たい!」という人が多いのではないだろうか。

しばらく続きそうな「麒麟のいない時間」。その欠落を補うことは出来ないが、『麒麟がくる』の再開を待ちながら、主人公の明智光秀を演じている「俳優・長谷川博己」の軌跡をたどってみたい。

振り返れば、長谷川博己に初めて注目したのは、NHKドラマ10『セカンドバージン』だった。

 

新鮮さが印象に残った

『セカンドバージン』(2010年、NHK)

NHKドラマ10『セカンドバージン』が放送されたのは、2010年の10月から12月にかけてのことだ。この枠としては異例の長さで、全10回だった。

「セカンドバージン」の一般的な意味としては、男性との経験はあるが、最後の性交渉から長い時間が過ぎている女性、もしくはそうした状況を指す。

当時、このタイトルを聞いた時の印象は、「なぜ今?」だった。漫画家の岡崎京子が『セカンド・バージン』を発表したのは80年代半ばであり、放送の時点で四半世紀が過ぎている。

また、92年に水野麻里の本『セカンド・ヴァージン症候群』が出てからでも、すでに20年近くが経過していたのだ。

確かにインパクトのある言葉だが、NHKのドラマでタイトルとして使われるとは思っていなかったので意表を突かれたのだ。このあたりは、脚本を手掛けた大石静の戦略だろう。

ヒロインは若い頃に結婚・出産・離婚を経験し、以後仕事一筋に生きてきた出版プロデューサー、中村るい(鈴木京香)。そして彼女が出会った男が、17歳年下の金融庁キャリアで、その後証券会社を興す鈴木行(長谷川博己)だ。

エリートである行は、資産家の我がまま娘で、しかも低偏差値の妻、万理江(深田恭子)に飽き足らない。あっという間に、るいに夢中になってしまった。要するに、セレブたちの「不倫物語」である。

このドラマのテーマは、ズバリ「40代女性の恋愛と性」だ。それをNHKが、濃厚なキスや際どいベッドシーンを入れ込みながら放送したので、かなり目立った。そして話題になった。

そのラブシーンも、最小限の露出でありながら、体温や香りが伝わってくる。エロティックではあるけど、下品ではない。世の“大人の女性たち”の関心を呼ぶのに十分だったのだ。またNHKだからこそ、「そんな不倫ドラマを見ているの?」と他人に言われる危険も少ない。

長谷川が演じた鈴木行は最終回で死亡してしまうのだが、見る側には、「俳優・長谷川博己」の新鮮さが印象に残った。ハンサムで知的、優しさや清潔感もある。大人の女性たちに大好評だった。このドラマの“成功”の、かなりの部分を、長谷川博己は背負っていたのだ。

 

個性と存在感を示した

『鈴木先生』(2011年、テレビ東京)

東日本大震災のあった2011年。その4月クールに放送されたのが、異色の学園ドラマ『鈴木先生』だ。

まず、何より長谷川が演じる中学教師のキャラが際立っていた。教育熱心といえば非常に熱心。いつも生徒のことを考えているし、観察眼も鋭い。

しかし、それは教室を自分の「教育理論の実験場」だと思っているからだ。単なる熱血教師とは異なる。

たとえば、担任クラスの男子生徒が小4の女の子と性交渉をもってしまう。レイプだと怒鳴りこんでくる母親。対応に困るベテラン教師たち。

鈴木は、この生徒と徹底的に話し合う。そして、たとえ合意の上でも、自分たちが「周囲に秘密がバレる程度の精神年齢」であることを自覚していなかったのは罪だ、と気づかせるのだ。

いや、これで解決かどうかは賛否があるだろう。ただ、このドラマの真骨頂は、鈴木が思いを巡らす、そのプロセスを視聴者に伝えていくことにある。

“心の声”としてのナレーションはもちろん、思考過程における「キーワード」が文字としても表示されるのだ。いわば頭の中の実況中継である。

しかもその中継には、自分のクラスの生徒である美少女、小川蘇美(土屋太凰!)との“あらぬ関係”といった「妄想」さえ含まれていた。

教師も人間であり男であるわけだが、この時点で、学園ドラマの古典である『中学生日記』や『3年B組金八先生』との差別化は明白だ。

さらにドラマの終盤、鈴木先生の“出来ちゃった結婚”をめぐって、クラス全体で討議が行われた。その意見の応酬と、らせん状に進展していく議論の面白いこと。こんな「ディスカッション・ドラマ」、なかなか見られない。

もちろん、頭のかたい視聴者から反発、反感を買わないはずはない。しかし、約10年前に、テレビドラマというものが、その気になればここまで表現できることを示したわけで、やはり高く評価したい。

原作は武富健治の同名漫画。メインの脚本家は、後に『リーガル・ハイ』や『コンフィデンスマンJP』などを手掛けることになる古沢良太だ。演出陣、そして生徒たちを含むキャストも大健闘だった。

最終的に、このドラマは「日本民間放送連盟賞」テレビドラマ番組部門最優秀賞、第49回「ギャラクシー賞」テレビ部門優秀賞、さらに「放送文化基金賞」テレビドラマ番組賞などを受賞する。

『鈴木先生』という難しい作品で、長谷川博己という俳優の「個性」は大いに発揮され、その「存在感」は隠しようもないものとなったのだ。

ちなみに、生徒役に起用されたメンバーの中には、前述の土屋太凰以外にも、その後目覚ましい活躍を見せることになる松岡茉優などがいた。

 

俳優としての覚悟を見せた

『雲の階段』(2013年、日本テレビ)

舞台は、離島にある医師不足の診療所だ。医師免許を持たない事務員(長谷川)が、献身的な看護師(稲森いずみ)のサポートで医療行為を行っていた。

しかし、急を要する患者(木村文乃)に手術を施したことから、彼の運命が変わっていく。『雲の階段』は、恋愛・医療・サスペンスの要素を併せ持つ、欲張りなドラマだ。原作が渡辺淳一で、脚本は寺田敏雄。

見どころは、主演の長谷川が見せる“葛藤”である。無免許ではあるが、人の命を救っているという自負。その技量を極めたいという強い欲求。また稲森と木村、立場もタイプも違う女性2人をめぐる三角関係も複雑だ。

自分の中で湧き上がってきた、人生に対する野心と欲望をどこまで解き放つのか。そんな“内なるせめぎ合い”を、長谷川はオーバーアクションではなく、ふとした表情や佇まいで丁寧に表現していく。

途中からは、物語の主な舞台が島から東京へと移り、主人公にとっての勝負所となる。離島での手術はあくまでも患者の命を救うためだったが、東京の総合病院でのそれは自身の栄達のためでもあるからだ。

上るほどに危険な階段だが、そこからしか見えない風景もある。手術場面での半端ではない長谷川の目ヂカラに、「俳優としての階段」を上っていく男の覚悟が表れていた。

「素顔の文豪」を見事に造形した

『夏目漱石の妻』(2016年、NHK)

2015年、長谷川は『デート~恋とはどんなものかしら~』(フジテレビ)に出演する。杏が主演の恋愛ドラマだった。脚本は、『鈴木先生』の古沢良太だ。

35歳になってもニートで、一度も働いた経験がないくせに、自分を「高等遊民」と言い張るダメ男というのが役どころ。何を考えているのか、本心がどこにあるのか、ちょっと捉えどころがない人物だ。こういう役でも見る側を引き込むあたり、只者ではない。

また鈴木京香と共演した『セカンドバージン』でもそうだったが、長谷川は、共演相手の女優を自然に立て、輝かせるような演技ができる俳優だ。それが次の作品でも生かされていく。

夏目漱石が亡くなったのは1916(大正5)年のことだ。2016年は没後100年に当たっていた。NHK土曜ドラマ『夏目漱石の妻』は、まさに妻・鏡子を軸にして描く夫婦物語だ。

漱石を演じたのが、『進撃の巨人』(2015年)や『シン・ゴジラ』(2016年)など話題の映画への出演が続いていた長谷川だ。

英国留学で顕在化した神経症や、小説家への夢を封印して英語教師として過ごす鬱屈を抱える漱石。家族愛に恵まれずに育ち、妻や子供たちとの接し方が不器用な漱石。ある時は沈黙し、またある時は激昂する漱石。長谷川は、メリハリのある演技で「素顔の文豪」を造形していく。

鏡子役は、当時『はじめまして、愛しています。』(テレビ朝日)を終えたばかりの尾野真千子だった。鏡子は貴族院書記官長の長女で、お嬢さま育ち。結婚後も朝寝坊の癖が直らない。気難しい漱石に従いながらも、自分の意志を通す芯の強さを持っている。

尾野は、漱石の言う「立派な悪妻」の喜怒哀楽を全身で見事に表現。長谷川と尾野が対峙する場面だけでも、このドラマを見る価値は十分にあった。

原作は鏡子の語りを筆録した『漱石の思い出』。脚本はベテランの池端俊策。この池端が現在、書いているのが『麒麟がくる』だ。

漱石が『吾輩は猫である』で注目されてから、49歳で亡くなるまで、わずか10年余り。創作にまい進していく「作家・夏目漱石」と、当時39歳だった「俳優・長谷川博己」の姿が重なって見えた。

(後編に続く)

 


「リモートドラマ」を全部見てわかった、「ドラマ」としての可能性

2020年06月16日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

 

エンタメ危機の中、

「リモートドラマ」を

全部見て感じた「可能性」

 

新型コロナウイルスの影響で、新作ドラマの放送延期や制作中断が続いてきた。そんな中で目についたのが「リモートドラマ」だ。

いわゆる「3密」を避けるために、出演者やスタッフがスタジオやロケ先に集まることなく、遠隔撮影といった手法で作られたドラマのことである。

5月から6月にかけて、このリモートドラマが花盛りだった。それぞれに工夫し、独自性を打ち出していた全作品を総括してみたい。

 

本邦初! NHK『今だから、新作ドラマ作ってみました』

本邦初の「テレワークドラマ」といわれたのが、NHK『今だから、新作ドラマ作ってみました』だ。深夜に特別枠を設け、30分で完結する形式のドラマを、3夜で3本、放送した。

5月4日(月)第1夜「心はホノルル、彼にはピーナツバター」

5月5日(火)第2夜「さよならMyWay!!!」

5月8日(金)第3夜「転・コウ・生」

この3本の中で、最も面白く見られたのが、第3夜の「転・コウ・生」だった。タイトルの真ん中が「校」ではなく、「コウ」とあるのは、柴咲コウが出てくるからだ。

出演者は柴咲のほかに、ムロツヨシ、高橋一生という豪華メンバー。しかも、それぞれが「自分」を演じるというのが基本構造だ。

たとえば、最近だとWOWOWオリジナルドラマ『有村架純の撮休』がそうだったが、有村自身が「女優・有村架純」の役で出てくる。

あくまでもドラマなので全体はもちろんフィクションだが、演じるのも、演じられるのも「本人」であることで、見る側は妄想と言うか、想像力をかき立てられる。

このドラマの中の柴咲は「女優・柴咲コウ」役であり、ムロや高橋も同様に「本人」役だ。その上で、第3夜で展開されたのは、ズバリ「入れ替わり」だった。誰かと誰かの「中身」が入れ替わってしまう。

当然、思い出すのは、この4月に亡くなった大林宣彦監督の映画『転校生』だ。あの作品では、中学3年生の一夫(尾美としのり)と、転校生である一美(小林聡美)の中身、つまり2人の「魂」が入れ替ってしまった。

しかも、大林監督へのオマージュともいえる、こちらの「転・コウ・生」のほうは、もっと複雑だ。

まず、それぞれ自分の部屋にいた、柴咲とムロが入れ替わる。見た目は柴咲で中身はムロ。そしてムロの中身は柴咲。ムロときたら、柴咲の姿のまま「お着替え」などして、柴咲に思いきり叱られる。

また、外見がムロとなった柴咲は、ムロがレギュラー出演している、ネットの「ライブ配信」に、ムロとして出演しなくてはならない。

これだけでも笑えるのに、高橋が、なんと柴咲の愛猫・ノエルと入れ替わってしまう。ネコが高橋としてしゃべるのだ。PCの分割画面に映し出されるのは、柴咲、ムロ、高橋、ネコのノエルだが、それぞれ中身が違う。

さらに途中からは、この「入れ替わり」の組み合わせがランダムになったりして大混乱だ。どうすれば元に戻れるのか。いつまでこれが続くのか。3人にも、皆目わからない。

 

リモートドラマの「熱」

しかし、そんな状況の中で交わされる会話がふるっている。

「(新型コロナの影響で)もう放送できるもの、ないらしいよ」

「企画がOKでも、ロケが出来ないんだって」

「こっちも臨機応変じゃないとね」

「そうやってるうちに、新たな活路も」

「意識も社会も変わっていくかもね」

やがて、「明日は(高橋)一生として生きることにした」と柴咲。「僕も明日はコウとして生きる」と高橋。ノエルの姿をしたムロは「俺はどうするんだあ!」と叫ぶ。

また、そこからが凄い。「いっそ、ネコのままで動画配信、やっちゃおうか」とムロが言い出すのだ。「しゃべるネコ」によるライブ。柴咲も高橋も「(一緒に)出たい!」と絶叫。

確かに、コロナ禍で、エンタメ界も相当なダメージを受けている。だが、それでも、何か出来ることがあるのではないか。出来ない理由を挙げるより、出来る方法を考えよう。出来ることから、やってみよう。3人が、そんな気持ちになっていく。

ラストでは、「月がキレイだよ」と誰かが言い出し、3人と1匹は空を眺める。そこにあるのは「フラワームーン」。5月の満月だ。

見終って、「リモートドラマって、こういうこともやれるんだなあ」と、ちょっと嬉しくなってきた。

脚本は、『JIN-仁―』や『義母と娘のブルース』などの森下佳子。「自分」役であると同時に、「他人」役でもあるという、難しい芝居に挑んだ柴咲コウ、ムロツヨシ、高橋一生、それぞれが見事な大暴れだった。

第1夜、第2夜が、実際の社会状況に対して、やけに従順というか、いわば「ステイホーム啓発ドラマ」とでも言うべき内容になっていたこともあり、この第3夜で、リモートドラマの「熱」を感じられたことが最大の収穫だ。

 

NHKの第2弾、『リモートドラマ Living』

この後、NHKは第2弾として、5月30日(土)と6月6日(土)の深夜に、『リモートドラマ Living』(全4話)を放送した。

出演者は広瀬アリスと広瀬すず、永山瑛太と永山絢斗、中尾明慶と仲里依紗、そして青木崇高と優香の4組。つまり、実際の姉妹、兄弟、夫婦というペアだった。

毎回、タイトル通り、リビングルームが舞台で、そこに彼らがいる(優香は声のみ)。通常のドラマ作りのように役者をスタジオに集めるのは困難だが、本物の「家族」なら、「まあ、許されるだろう」といった判断らしい。

それぞれのペアが、「いかにも」「らしいなあ」と思わせる会話を展開する。また、この物語を書いている作家(阿部サダヲ)を登場させた設定も効いていて、それなりに楽しめた。脚本に坂元裕二を持ってきただけのことはある。

ただ、撮影方法はリモートだったかもしれないが、全体として普通のドラマを見ているような印象で、あえて「リモートドラマ」である必要があったのか、なかったのか。少しモヤモヤしたのも事実だ。

 

リモートで新作に挑んだ『家政夫のミタゾノ特別編』

そして民放では、5月29日(金)の『家政夫のミタゾノ特別編~今だから、新作つくらせて頂きました~』(テレビ朝日系)が、リモートドラマに挑戦していた。

主人公は女装の男性、家政夫の三田園薫(松岡)。派遣先の家庭が抱える秘密を暴き、いったんはその家庭を崩壊させるものの、最後には再生の道を示すというのが定型だ。今回は、その全てが見事にリモート画面の中で展開されていた。

ミタゾノが向かったのは、夫(音尾琢真)が出張中で、妻(奥菜恵)だけが居るという家だ。ところが、そこに妻の姿はなく、どこかへ消えていた。

一方、夫のほうは出張先の大阪ではなく、部下で愛人の女性(筧美和子)の部屋にいる。

リモート会議には画面の背景を偽装して参加していたが、ミタゾノの画策で愛人宅にいることがバレてしまう。

いわば「リモート慣れ」が生んだ悲劇というか喜劇で、音尾が緩急自在の快演で大いに笑わせてくれる。

しかも部下たちから「置物上司」と思われていたことも、愛人が計算ずくで接近したことも暴露されてしまう。仕掛け人は妻であり、夫が反省したことで一件落着かと思いきや……。

会社でも家庭でも、またリモートであろうとなかろうと、「大切なのは心の距離」というメッセージも鮮やかで、見ていて飽きないリモートドラマとなっていた。

 

リモートドラマの真打『2020年 五月の恋

WOWOWオリジナルドラマ『2020年 五月の恋』(全4話、5月末から配信・放送)もリモート制作だが、純粋にドラマとして見応えがあった。

画面は完全な2分割だ。別々の部屋に男女がいる。スーパーの売り場を任されているユキコ(吉田羊)と、設計会社の営業マンであるモトオ(大泉洋)。2人は4年ほど前に離婚した元夫婦だ。

在宅勤務のモトオが間違い電話をしたことで久しぶりの会話が始まった。会話はあくまでもスマホを通してのもので、リモートドラマでよく見る、PCを使ったテレビ会議風の絵柄ではない。また全4話は、それぞれ別の夜の出来事だ。

第1話。ユキコは、家族へのウイルス感染を心配する同僚から、独身であることを「うらやましい」と言われ、傷ついていた。口先だけで慰めるモトオをユキコが怒る。驚いたモトオはしゃっくりが止まらなくなり、ユキコも苦笑いしてしまう。

第2話では、離婚の原因が話題となる。別れるかどうかの話し合いの中で、当時、モトオが言った「ユキちゃんはどうしたいの? それに従うよ」という言葉が決定的だったと告白するユキコ。

モトオが家庭でも会社でも、言い争いやけんかを避けるのは、子どもの頃に亡くした妹との辛い思い出が原因だったことが明かされる。

第3話。ずっと気になっていたのに、確かめることを避けていた話になる。現在、付き合っている相手がいるかどうかだが、2人とも不在だった。

そして最終の第4話では、モトオの在宅勤務が終わること、ユキコたちが弁当を届けている病院関係者への共感などが語られる。最後に2人の“これから”についてモトオから提案があり……。

 

紛れもない「ドラマの時間」

この2人のように、互いが別々の場所にいて話をする場合、表情も見えず、思っていることが伝わりづらい。誤解されないようにと言葉が過剰になったり、その逆になったりする。

しかし相手の顔が見えないから言える本音もある。目の前にいない分、少し優しくなれたりもする。

会話だけのドラマを駆動させるのはセリフ以外にない。本来、不自由であるはずの「リモートな日常」を梃子(てこ)にして、人の気持ちの微妙なニュアンスまで描いていたのは、脚本の岡田恵和(NHK連続テレビ小説『ひよっこ』など)の功績だ。

またドラマというより舞台劇、それも難しい一人芝居に近い構造だが、吉田も大泉も見事に演じていた。自身をキャラクターに溶け込ませ、緩急の利いたセリフ回しと絶妙の間で笑わせたり、しんみりさせたりして、「ドラマの時間」を堪能させてくれたのだ。

確かに「リモートドラマ」は緊急対応で、苦肉の策かもしれない。しかし平時以上の創造力が発揮された時、「ドラマ」というジャンルの地平を広げる作品が生まれる。そんな可能性を示す1本だった。

 


外出自粛中に読みたい、「社会」「カルチャー」の厳選30冊

2020年05月10日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

 

コロナ禍に疲弊したら…

外出自粛中に読みたい厳選30冊

「社会」「カルチャー」という観点から

 

お花見もできないまま4月が終わり、「ゴールデンウィーク」という呼び名にも寂寥感が漂う、異例の連休となりました。

とはいえ、「緊急事態」が続く中では外出も控えるしかない。自宅での楽しみはいくつかありますが、「本」の世界もまた、コロナ禍に疲れた私たちを大歓迎してくれます。

今年1月から3月にかけて出版された、「社会」と「カルチャー」に関連した新刊の中から、読んでみてオススメできるものを30冊選んでみました。好奇心と興味関心のアンテナが少しでも反応するようなら、読んでみてください。

 

【社会】

内田樹、えらいてんちょう(矢内東紀)『しょぼい生活革命』

晶文社 1650円(税込み、以下同じ)

両親は東大全共闘の生き残りだという30歳の異色起業家と、「生きているうちに伝えておきたいこと」があるという70歳の対談集だ。共同体、貧困、資本主義、国家、家族、教育、福祉など話題は多岐に及ぶ。「分断と自閉の時代」を生きるヒントとして秀逸な一冊。

 

NHKスペシャル取材班『憲法と日本人~1949-64年 改憲をめぐる「15年」の攻防

朝日新聞出版 1650円

日本国憲法が70年以上も改正されなかったのはなぜか。かつて展開された白熱の改憲論議を検証し、憲法の現在とこれからを探る試みだ。改憲論の原点とは? アメリカや経済界からの改憲圧力の内幕。改憲と護憲の攻防戦。果たしてそれは「押しつけ憲法」だったのか。

 

橋本健二『<格差>と<階級>の戦後史』

河出新書 1210円

現代社会を語る際、必須の概念となっている「格差」。本書は、経済史や世相史、さらに文化史なども踏まえ、格差の問題を「戦後日本の歴史的な文脈に位置づけ、評価し直す」試みである。格差の背後に「階級構造」があるという指摘が、戦後史の見方を変えていく。

 

籠池泰典、赤澤竜也『国策不捜査~「森友事件」の全貌

文藝春秋 1870円

「森友学園」前理事長は、詐欺などに問われた裁判で有罪判決を受けた。一方、国有地を不当な安値で売却した背任や、行政文書の改ざんなどを行った側は刑事責任を問われていない。公権力は何をして、何をしなかったのか。本書は事件の核心部分を暴く重要証言だ。

 

石川文洋『ベトナム戦争と私~カメラマンの記録した戦場

朝日新聞出版 2200円

ベトナム戦争終結から45年が過ぎた。著者は戦時中、約4年にわたってサイゴンに住み、南ベトナム政府軍や米軍に同行撮影した。さらに北ベトナムにも入り、戦場のリアルと民間人の日常を目にする。「これが戦争なのだ」という実感が伝わる、貴重な回想記だ。

 

片山夏子『ふくしま原発作業員日誌―イチエフの真実、9年間の記録

朝日新聞出版 1870円

新型コロナウイルス騒動で脇に置かれた、今年の3月11日。しかし9年が過ぎたことで、ようやく明かされる真実もある。「行ってはいけない」場所で働く人たちは、その目で何を見てきたのか。取材を続けてきた記者が伝える、終わりなき原発事故のリアル。

 

内田 樹『サル化する世界』

文藝春秋 1650円

著者によれば、為政者から市民までを支配する気分は「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」。つまり「朝三暮四」の論理だ。ポピュリズム、憲法改正、貧困など多様なテーマを論じる本書。正しい書名は「サル化する日本と日本人」かもしれない。

 

橋爪紳也『大阪万博の戦後史―EXPO'70から2025年万博へ

創元社 1760円

大阪を舞台とする「現代史読み物」であり、軸となるのは昭和45年の大阪万博だ。万博以前、万博そのもの、そして万博後と、編年体の通史になっている。中でも万博主要パビリオンの解説は圧巻。世紀のイベントが大阪という街にもたらしたものは何だったのか。

 

長谷部恭男『憲法講話~24の入門講義

有斐閣 2750円

法は「人として本来すべき実践的思考を簡易化する道具」だと著者は言う。頼り過ぎも危険であると。その上で使える道具としての憲法を講じていく。平和主義と自衛権。表現の自由と規制。内閣総理大臣の地位と権限。現代社会を再検証するための教科書だ。

 

宇梶静江『大地よ!―アイヌの母神、宇梶静江自伝』

藤原書店 2970円

俳優・宇梶剛士の母でもある著者は、アイヌの自立と連帯を体現してきた女性だ。昭和8年北海道生まれ。23歳で中学校を卒業した。詩作と、アイヌの叙事詩を古布絵として表現する活動が現在も続く。本書では自身の軌跡はもちろん、リアルなアイヌ文化を語っている。

 

小川和久『フテンマ戦記~基地返還が迷走し続ける本当の理由

文藝春秋 1980円

軍事アナリストの著者は長年、普天間問題に関わってきた。本書はその回想録であると同時に、日本の民主主義に対する警鐘だ。無責任な首相や防衛官僚だけでなく、最高権力に近い奸臣の存在も指摘する。問題の経緯と原因を明らかにした貴重なドキュメントだ。

 

小田嶋 隆『ア・ピース・オブ・警句~5年間の「空気の研究」2015-2019

日経BP 1760円

アベノミクス、モリカケ問題、文書改ざん、東京五輪など、現在まで続く事象の大元、その本質は何なのか。5年分の時評コラムを読み進めながら、「そうだったのか」と何度も得心がいった。様々な局面で露呈する「事実」の軽視。それはコロナ禍の現在も変わらない。

 

カルチャ―

<本>

北上次郎『息子たちよ』

早川書房 1870円

平日は会社に泊まり込み、家に帰るのは日曜の夜だけ。それが20年続いたことにく。いわば無頼の書評家が、子供としての自分も踏まえて2人の息子への想いを綴った。「家族はけっして永遠ではない」と覚悟しながら愛し続けた家族と本をめぐるエッセイ集だ。

 

吉田 豪『書評の星座』

集英社 2970円

著者はプロ書評家にしてプロインタビュアー。格闘技専門雑誌『紙のプロレス』に参加していた、生粋の格闘技ライターでもある。この15年間に書いた、膨大な「格闘技本」の書評をまとめた本書だが、実は著者初の「書評本」だ。裏格闘技史としても画期的。

 

三浦雅士『石坂洋次郎の逆襲』

講談社 2970円

『青い山脈』『陽のあたる坂道』などで知られる作家、石坂洋次郎。かつてのベストセラーや大ヒット映画に比して、現在その名を見聞きすることは稀だ。しかし「主体的な女性を追究した」作品群が現代につながると著者は言う。新たな視点による石坂文学再評価だ。

 

柴田元幸『ぼくは翻訳についてこう考えています』

アルク 1760円

ポール・オースターなどアメリカ現代作家の翻訳で知られる著者。過去30年の間に翻訳について書いたり話したりしたことのエッセンスが一冊になった。「翻訳は楽器の演奏と同じ」「読んだ感じがそのまま出るようにする」など、100の意見と考察が刺激的だ。

 

毎日新聞出版:編、和田誠:画『わたしのベスト3―作家が選ぶ名著名作』

毎日新聞出版 2200円

「毎日新聞」書評欄の人気コーナー、15年分である。肝心なのは選者だ。誰が、誰の、どんな作品を選ぶのか。原尞のチャンドラー。逢坂剛のハメット。太田光の太宰治も好企画だ。さらに、みうらじゅんのスキャンダル、三谷幸喜が選んだ和田誠の3冊も見逃せない。

 

三島邦弘 『パルプ・ノンフィクション~出版社つぶれるかもしれない日記

河出書房新社 1980円

2006年、著者は単身でミシマ社という出版社を興した。動機はシンプル。自分が思う「おもしろい本」を出したかったのだ。本書は過去5年分の回想記であり、「本」をめぐる思考の記録でもある。この小さな版元は、なぜ今もリングに立ち続けていられるのか?

 

<音楽>

野川香文『ジャズ音楽の鑑賞』

シンコーミュージック・エンタテイメント 2640円

昭和23年に刊行された日本初の本格ジャズ評論集の復刻版だ。明治生まれの野川がジャズ研究を始めたのは昭和5年頃。出版当時44歳だったが、黎明期、ラグタイム時代、ブルースの誕生とたどる発達史は画期的なものだった。70年前の情熱が甦る、歴史的な価値をもつ新刊だ。

 

古関正裕『君はるか―古関裕而と金子の恋

集英社インターナショナル 1760円

この春に始まったNHK朝ドラは『エール』。主人公のモデルは作曲家・古関裕而と妻の金子(きんこ)である。本書は夫妻の長男によるノンフィクション・ノベル。オペラ歌手を目指す少女が書いた、一通のファンレターから始まる文通と恋は、小説より奇なる純愛物語だ。

 

<芸能>

塩澤幸登『昭和芸能界史 [昭和二十年夏~昭和三十一年]篇』

河出書房新社 2970円

戦後の芸能界を多角的に描いた労作。映画、音楽、放送はもちろん、出版にも目配りした点がユニークだ。当時、雑誌の連載小説を映画化し、読者を観客として動員する流れが王道だった。時代を作ったスターやアイドルの原風景がここにある。

 

<映画>

崑プロ:監修『映画「東京オリンピック」1964』

復刊ドットコム 4950円

昭和39年10月10日、国立競技場。古関裕而作曲「オリンピック・マーチ」と共に5千人を超える選手が入場し、東京五輪が始まった。この世紀の祭典を記録したのが市川崑監督率いる550余名の制作陣だ。企画、準備から本番、編集まで極秘作業の全貌が明かされる。

 

<テレビ>

藤村忠寿『笑ってる場合かヒゲ~水曜どうでしょう的思考2

朝日新聞出版 1430円

全国区のローカル番組『水曜どうでしょう』のディレクターが、新聞に連載したコラム集だ。5夜連続放送のドラマ制作。役者として参加した劇団の舞台。マラソン大会への出場。そして『水どう』ファンとの祭り。他人と積極的に関わることで自分が見えてくるそうだ。

 

<落語>

川田順造『人類学者の落語論』

青土社 1980円

文化人類学の泰斗と落語の組み合わせが新鮮だ。戦後の小学生時代から落語と接してきた経験は、後のアフリカ口承文化研究につながっている。著者が愛する八代目桂文楽や五代目古今亭志ん生の芸と、現地で採取された「アフリカの落語」が地続きとなる面白さ。

 

立川談四楼『しゃべるばかりが能じゃない~落語立川流伝え方の極意

毎日新聞出版 1650円

他者に何かを伝えようとする時、その人の個性が出る。書けば文体、しゃべれば口調。立川談志の口調は「断定型」だが、真似ても劣化コピーにしかならないと著者は言う。かつての弟子として、落語家として、さらに師匠としての体験を交えて語る「伝わる」の極意だ。

 

<美術>

渡辺晋輔、陳岡めぐみ『国立西洋美術館 名画の見かた』

集英社 2310円

開館から60年が過ぎた上野の国立西洋美術館。2人の著者はその現役学芸員であり、イタリアとフランスの美術史専門家だ。静物画や風景画など、ジャンル分けした収蔵品を解説しながら西洋美術史をたどっていく。また美術館と作品をめぐるコラムもトリビア満載だ。

 

とに~『東京のレトロ美術館』

エクスナレッジ 1760円

歴史のある美術館ではなく、レトロな趣が漂う34の美術館が並ぶ。いずれも美術作品は白い壁で囲まれた展示室ではなく、個性に満ちた空間に置かれている。著者はアートを愛する、お笑い芸人。朝倉彫塑館、原美術館、五島美術館など建物も含めて丸ごと鑑賞したい。

 

<建築>

隈 研吾『点・線・面』

岩波書店 2420円

新国立競技場の外壁は、なぜ杉の板なのか。「風通しをよくしたい」と建築家は言う。人と物、人と環境、人と人をつなぎ直すために、建築という大きなボリューム(量塊)を点・線・面へと解体するのだと。世界を巡り、過去へと遡る思考の旅。その全記録である。

 

<茶道>

伊東 潤『茶聖』

幻冬舎 2090円

千利休という「茶聖」と「茶の湯」のイメージを一新させる長編歴史小説だ。秀吉が茶の湯に求めた「武士たちの荒ぶる心を鎮める」機能。利休が天下人に求めた「人々が安楽に暮らせる世」の実現。互いの領分を侵さぬはずが、やがて表と裏の均衡は崩れて・・・。

 

<陶芸>

加藤節雄『バーナード・リーチとリーチ工房の100年』

河出書房新社 2750円

イギリス西南端の街、セントアイヴス。リーチ工房はそこにある。フォトジャーナリストである著者が初めてこの地を訪れたのは45年前。やがてリーチへのインタビューも実現させた。美しい写真と簡潔な文章が、リーチの人物像と工房の歴史を浮き彫りにしていく。

 


大ヒットドラマ『半沢直樹』とは何だったのか?

2020年04月20日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

 

新作が放送延期

大ヒットドラマ『半沢直樹』とは

何だったのか?

 

痛快だった「現代の時代劇」

 

4月クールのドラマに異変が生じている。始まるはずの作品の多くが、なかなか開始されないのだ。軒並み、放送延期や撮影の中断が伝えられている。原因はもちろん、新型コロナウイルスである。

今期ドラマの注目作のひとつ、日曜劇場『半沢直樹』(TBS系)も、初回の放送が延期されたままだ。大ヒットドラマの続編であり、多くの視聴者が開始を待っていることだろう。

とはいえ、前回から何と7年の歳月が流れているのも事実。始まるのを待つだけでなく、その間に、おさらいというか、復習というか、記憶を呼び戻しておきたい。それによって、待望の放送開始となった際、一気にドラマの世界へと入っていけるはずだからだ。

では、そもそもあのドラマ、堺雅人主演『半沢直樹』とは、一体何だったのか。

それは2013年夏のことだった

もう大半の人は覚えていないと思うが、『半沢直樹』が放送された2013年の夏は暑かった。そう、毎日ひたすら暑かったのだ。

夜になっても気温は下がらず、外で遊ぶ気にもならない。できれば早く仕事を終えて家に帰りたい。クーラーの効いた部屋に避難したい。そんなふうに思いながら暮らした人が多かった夏だ。

7月に各局の夏ドラマが始まった時、「初回視聴率」の高さに驚いた。テレビ朝日『DOCTORS 2』19.6%。フジテレビ『ショムニ2013』18.3%。そしてTBS『半沢直樹』が19.4%と、スタートから横並びで、高い数字をたたき出したのだ。

一瞬、「高視聴率の原因は連日の猛暑か!」と半分本気で思ったものだ。その後、『半沢直樹』は、単独でモンスター級のドラマへと成長していく。

初回の放送直後、『半沢直樹』を次のように分析した。そのポイントは2つだった。

まず主人公が、大量採用の「バブル世代」であること。企業内では、「楽をして禄(ろく)を食(は)む」などと、負のイメージで語られることの多い彼らにスポットを当てたストーリーが新鮮だった。

このドラマの原作は、池井戸潤の小説『オレたちバブル入行組』と『オレたち花のバブル組』の2作だが、どちらも優れた企業小説の例にもれず、内部にいる人間の生態を巧みに描いている。

第2のポイントは、主演の堺雅人である。前年、フジテレビ『リーガルハイ』とTBS『大奥』の演技で、ギャラクシー賞テレビ部門個人賞を受賞していた。シリアスとユーモアの絶妙なバランス、特に目ヂカラが群を抜いていた。当時、まさに旬の役者だったのだ。

「現代の時代劇」としての『半沢直樹』

8月に入っても、『半沢直樹』は順調に数字を伸ばしていく。銀行、そして金融業界が舞台の話となれば、背景が複雑なものになりがちだが、『半沢直樹』は物語の中に解説的要素を組み込み、実にわかりやすくできていた。

銀行内部のドロドロとした権力闘争やパワハラなどの人間ドラマをリアルに描きつつ、自然な形で銀行の業務や金融業界全体が見えるようにしていた。「平易」でありながら、「奥行」があったのだ。

また、銀行員の妻は夫の地位や身分で自らの序列が決まる。半沢の妻・花(上戸彩)を軸にして、社宅住まいの妻たちの苦労を見せることで女性視聴者も呼び込んだ。8月11日放送の第5回、視聴率は前週の27.6%を超えて29.0%に達する。この頃、すでに『半沢直樹』は堂々のブームとなっていた。

ところが、なんと次の日曜日、18日は『半沢直樹』を放送しないというではないか。その理由が『世界陸上』だ。独占生中継とはいえ、このタイミングで『半沢直樹』を1回休むのはもったいないという声も多かった。しかし、結果的には視聴者の飢餓感を刺激し、また話題のドラマを見てみようという、新たな層も呼び込むことになったのだ。

前半(大阪編)がクライマックスを迎える頃、このドラマが「現代の時代劇」であることに気づいた。

窮地に陥る主人公。損得抜きに彼の助太刀(すけだち)をする仲間たち。そして際立つ存在としての敵(かたき)役。勧善懲悪がはっきりしていて分かりやすい、まるで時代劇の構造だ。

威勢のいい「たんか」は、『水戸黄門』の印籠代わりである。主人公は我慢に我慢を重ね、最後には「倍返しだ!」とミエを切って勝負をひっくり返す。視聴者は痛快に感じ、溜飲が下がるというわけだ。

武器は「知恵」と「友情」

主人公の半沢は、「コネ」も「権力」も持たない代わりに、「知恵」と「友情」を武器にして内外の敵と戦う男だ。

しかもその戦いは、決して正義一辺倒ではない。政治的な動きもすれば裏技も使う。また巨額の債権を回収するためなら、手段を選ばない狡猾(こうかつ)さもある。そんな「清濁併せのむヒーロー像」が見る人の共感を呼んだのだ。

9月、東京編に移っても、その勢いは止まらない。半沢の父を死に追いやった、銀行常務役の香川照之はもちろん、金融庁検査官を演じた片岡愛之助など、クセのある脇役陣も自分たちの見せ場を作っていく。役柄が化けていくのだ。

そして最後に用意されていたのが、「運命の対決」だった。半沢を正面からとらえたアップを多用する演出も、ぞくぞくするような臨場感を生んでいた。最終回の視聴率は今世紀最高の42.2%を記録した。録画したものを見た人を加えると、その数は膨大なものになる。

密度とテンポの物語展開

こうして振り返ってみて、このドラマが、『オレたちバブル入行組』と『オレたち花のバブル組』という2つの小説を原作としていたことに、再度注目したい。

制作陣が「やろう!」と思えば、大阪編だけでもワンクールの放送は可能だったのだ。しかしそれだと、結果的に『半沢直樹』が実現した、あの密度とテンポの物語展開は無理だったろう。

それは、同じ2013年上期に放送された、NHKの朝ドラ『あまちゃん』が、北三陸編と東京編の二部構成で成功したことにも通じる。

1話分に詰め込まれている話の密度が極めて高く、またスピーディなのだ。それなのに、わかりづらくないし、見る側も置いてきぼりをくわない。

それを支えていたのは、八津弘幸のダイナミックな脚本と福澤克維をはじめとする演出陣の力技だ。

特にチーフ・ディレクターの福澤は、『半沢直樹』の前に、同じ日曜劇場の『南極大陸』や『華麗なる一族』なども手がけていた。こうした「男のドラマ」を作らせたら、ピカイチの演出家だ。

ワンカットの映像でも、一目見れば「福澤作品」とわかるほど個性が強い画(え)を撮る。往年の和田勉(NHK)を彷彿させる、極端なほどの人物のアップ。かと思うと、一転してカメラをドーンと引き、大群衆を入れ込んだロングショット。そのメリハリの利いた映像とテンポが心地いい。

忘れられないのは、『半沢直樹』の第1話の冒頭のシーン。まず、半沢の顔のアップ。そこからズームアウト(画角が広がり背景も見えてくる)していく長いワンカットが使われた。あのワンカットを敢行する思いきりのよさ、大胆さは見事だ。

その一方で、福澤の演出は細部にまでしっかりと及んでいる。登場人物たちのかすかな目の動きや表情。台詞のニュアンス。さらに大量のエキストラが登場するシーンでも、一人一人に気を配り、画面の隅にいる人物からも緊張感のある演技を引き出す。

大胆であること、そして繊細であること。オーバーな言い方をすれば、福澤には、「天使のように大胆に、悪魔のように細心に」の黒澤明監督と重なるものがある。

骨太なストーリーの原作小説。そのエッセンスを生かす形で、起伏に富んだ物語を再構築した脚本。大胆さと繊細さを併せ持つ、達意の演出。それに応えるキャストたちの熱演。それらの総合力が、このドラマを、見る側の気持ちを揺さぶる、また長く記憶に残る1本に押し上げたのである。

そして、2020年版『半沢直樹』は・・・

 今度の『半沢直樹』の原作は、前作と同じ池井戸潤の小説『ロスジェネの逆襲』と『銀翼のイカロス』の2作だ。おそらく前編、後編という二部構成になるのではないか。

原作の『ロスジェネの逆襲』をもとに、ドラマ前編を少しだけ想像してみたい。

この小説の舞台は、半沢が飛ばされた先の系列証券会社だ。IT企業の買収をめぐって、親会社の銀行と対立する半沢は、ロスジェネ世代との共闘を選ぶ。

「ITベンチャーの星」と呼ばれる電脳雑技集団が、ライバルである東京スパイラルの買収を企む。相談を持ちかけたのは銀行ではなく、半沢のいる証券会社だ。

ところが途中で親会社の一派が、この案件を横取りしようと仕掛けてくる。買収のアドバイザーは巨大な利益をもたらし、同時に半沢を潰すこともできるからだ。

半沢の部下、森山雅弘は典型的なロスジェネ世代。まさに「楽をして禄を食む」連中だと、バブル世代を目の敵(かたき)にしてきた。だが、半沢は森山の能力を評価し、一緒に反撃に出ようとする。「やられたら、倍返しだ」である。

物語の中で明かされる、企業買収の仕組み。特に銀行や証券会社の動きが興味深い。また優れた企業小説の例にもれず、本書も企業の中にいる人間の生態が巧みに描かれている。「組織対組織」、そして「組織対個人」の暗闘がスリリングだ。

何より、「正しいことを正しいと言えること」「世の中の常識と組織の常識を一致させること」を、愚直に目指す男の姿が清々しい。それはドラマ『半沢直樹』も同様だ。

2020年版『半沢直樹』は、TBSにとってだけでなく、今年のドラマ界全体の目玉となる作品である。

ただし今回は、新型コロナウイルスの影響で、放送の開始時期によっては、夏クールの冒頭まで食い込むことになるかもしれない。もしかしたら、放送回数を減らすという判断があってもおかしくない。いや、場合によっては、全体を夏クールに異動させることさえ考えられる。

いずれにしても、とにかく半沢には会いたい。「チーム半沢」と呼ばれる制作陣、そして堺雅人をはじめとする俳優陣が、どんな人間ドラマを見せてくれるのか。今は辛抱して、半沢との再会を待つのみだ。


ついに『やすらぎの刻~道』完結…倉本ドラマは「名言」の宝庫である

2020年03月27日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

ついに『やすらぎの刻~道』完結

倉本ドラマは「名言」の宝庫である

 

ゴール間近の『やすらぎの刻(とき)~道』

昨年4月にスタートした、帯ドラマ劇場『やすらぎの刻~道』(テレビ朝日)。1年間という長丁場も、いよいよゴールが近づいてきた。

このドラマは、2017年の『やすらぎの郷』の続編であると同時に、主人公の老脚本家・菊村栄(石坂浩二)が発表のあてもないまま書いている、シナリオ『道』の物語も映像化するという、画期的な「二重構造」の作品だ。

『道』は、戦前の山梨に始まり、昭和、平成、そして現在放送中の令和まで、ある庶民一家の歩みを、この国の現代史と重ねながら描いてきた。こちらの主人公は根来公平。若い頃を風間俊介が、そして壮年期以降は橋爪功が演じている。

二つの物語を動かしているのは、もちろん脚本家の倉本聰だ。倉本は、ある時は菊村栄を通じて、またある時は根来公平の口を借りて、人間や社会に対する自身の思いや考えを、見る側に伝えてきた。それは主に登場人物たちの「台詞(せりふ)」に込められている。

たとえば、少年時代に終戦を迎えた菊村は、戦後の復興から現在までのこの国を見てきた。そして今、こんな感慨を胸の内に秘めているのだ。

「私は大声で叫びたくなっていた。君らはその時代を知っているのか! 君らのおじいさんやおやじさんたちが、苦労して瓦礫を取り除き、汗や涙を散々流して、ようやくここまでにした渋谷の路上を、なんにも知らずに君らは歩いてる! えらそうにスマホをいじりながらわが物顔で歩いてる! ふざけるンじゃない! あの頃君らは、影も形もなかったンだ! 影も形もなかった君らが、でっかい面して歩くンじゃないよ!」

こんな台詞が出てくるドラマ、そうはない。

倉本ドラマは「名言」の宝庫

ドラマの「脚本」を形づくる、主な構成要素は三つだ。「柱(はしら)」、「ト書き(とがき)」、そして「台詞(せりふ)」である。柱は、その場面(シーン)が昼なのか、夜なのかといった「時間」や、何処(どこ)で展開されているのかという「場所」を指定したものだ。たとえば、「シーン№6 上智大学7号館入り口(朝)」などと書く。

ト書きは、登場人物の動きや置かれている状況を説明するためにある。その呼称は、『「おはよう」と言いながら花子に駆け寄る太郎』の「と」から来ている。「おはよう」までは台詞で、「と」以下がト書きだ。最後の要素、台詞については説明するまでもない。劇中の人物たちが口にする、すべての言葉である。

小説であれば、登場人物がどんな人間で、どのような状態にあるかはもちろん、その心理も含め、あらゆることを自由に書くことが出来る。それに比べると、ルールに則(のっと)り、柱とト書きと台詞だけで表現する脚本は、一見かなり不自由で、同時に制約があることで逆に自由だったりする創作物だ。

三要素の中で最も重要なのは台詞である。なぜなら、台詞が物語を駆動させていくからだ。誰が、どんな状況で、誰に向かって、何を言うのか。台詞は、たとえたったひと言であっても、物語の流れを変えたり、ジャンプさせたり、場合によってはドラマ全体に幕を下ろしたりする力を持っている。

台詞の中に、そんな「言葉の力」が凝縮されているのが、倉本聰の脚本だ。いわゆる「説明台詞(せつめいぜりふ)」など皆無であり、あらゆる台詞に背景がある。言葉の奥に、それを語る当人の見えざる過去があり、進行形の現在がある。その場面、その瞬間、その台詞を言わねばならない必然がある。

しかも、架空の人物たちである彼らが語る言葉に、現実を生きる私たちをも揺さぶる、普遍的な真実が込められている。一つ一つの台詞が、いわば「人生のヒント」であり、倉本ドラマ全体が「名言」の宝庫なのだ。

倉本ドラマが描く「人間」「人生」

倉本聰が書いてきた作品を、人間や人生といった視点で読み直していくと、まず浮上してくるのが『文五捕物絵図』(NHK、1967年)だ。

ニッポン放送を退社してフリーとなった倉本が、複数の脚本家たちと競い合うように書いたドラマであり、その名前が注目された記念すべき一本である。

当時、現代劇には社会的テーマや表現の面で制約が多かったが、時代劇はかなり自由だった。江戸の岡っ引きである文五(杉良太郎)を通じて、倉本は現代にも通じる普遍的な人間の姿を生々しく描いている。たとえば、ふと文五がつぶやく言葉。

「人と人が信じ合わなくなったらこの世は何と暗くなることか」

格差社会、分断社会といわれる、生きづらい現代社会とそこに生きる私たちに対する警鐘にも聞こえる。

この時、倉本は32歳。人間を見る透徹した目がすでに具わっていたことに驚く。それから半世紀以上も書き続けている倉本だが、どうしようもない弱さや醜さも含め、「愛すべきもの」として人間を捉える姿勢は今も変わらない。

その象徴の一つが、『やすらぎの郷』で菊村栄(石坂浩二)に言わせた台詞だろう。

「〝人生は、アップで見れば悲劇だが、ロングショットでは喜劇である〟と、チャーリー・チャップリンが云っている」

このチャップリンの言葉こそ、倉本自身の創作の指針であり、人生哲学でもある。

倉本ドラマの中の「男と女」

倉本聰は、俳優や女優たちと徹底的につき合ってきた脚本家だ。特に自分の作品に出てもらう役者たちについては、その人間性はもちろん、口調やしぐさの癖まで熟知した上でないとペンを取らなかったと言う。「シナリオは役者へのラブレター」というのが持論だ。

そして一旦執筆に入れば、倉本はシナリオの中で妙齢の女性となったり、頑固な老人へと変身したりする。男の気持ち、女の思い、さらに男女の機微にも、絵空事ではないリアルな情感が込められていく。それは倉本の役者に対する「疑似恋愛」の成果だ。

『拝啓、父上様』(フジテレビ、2007年)で、作家役の奥田瑛二に言わせた台詞がある。

「恋だけは年中しようとしてます。それがなくなったら終わりだという気がしてね」

それは、今も静かなる〝男の色気〟を漂わす、倉本自身の密かな信条かもしれない。

同時に、女の愛しさと怖さを熟知しているのもまた倉本だ。35歳の時に書いた、『わが青春のとき』(日本テレビ、1970年)では、ヒロインの樫山文枝がこんな告白をする。

「男は知りません。女は、ある時、人を恋したら、仕事も、使命も、道徳も、社会も、何もかも投げうつことができる」

面白いのは、「女性の前に出ると少年に戻ってしまう」と倉本自身が語っていることだ。12歳以上の女性は全て「お姉さん」に見え、自分が見透かされたような気分になるという85歳この奇跡の純情があるからこそ、倉本ドラマの男も女も魅力的に映るのだろう。

倉本ドラマにおける「親子」「夫婦」

倉本聰の代表作の一つに、『前略おふくろ様』シリーズ(日本テレビ、1975~76年)がある。東京で板前修業中の主人公、サブこと片島三郎(萩原健一)が、故郷にいる母(田中絹代)に向かって語り掛けるナレーションが秀逸だった。

父を早くに亡くした倉本にとって、母はずっと大切な存在だった。このドラマの中でも、自分を気遣ってくれる母に対して、サブが逆に気遣う印象的な台詞がある。

「遠慮することなンてないんじゃないですか。あなたの実の息子じゃないですか」

もう一つの代表作、20年以上も続いた『北の国から』シリーズ(フジテレビ、1981~2002年)は、まぎれもない「父と子」の物語だ。

このドラマがスタートする数年前、倉本は東京から北海道の富良野へと移住した。原生林の中に家を建て、冬は零下20度という見知らぬ土地で暮らし始めたのだ。ドラマで描かれていた黒板五郎(田中邦衛)の苦労も、純(吉岡秀隆)の戸惑いも、実は倉本自身のものだった。

父への反発や反抗もあった純だが、やがて「父さん。あなたは――すてきです」と胸の内で五郎に語りかけるようになる。サブも純も蛍(中嶋朋子)も、そしてサブの母も黒板五郎も、皆、倉本の分身なのだ。

それはドラマの中の夫婦像も同様である。『やすらぎの郷』で、大納言こと岩倉正臣(山本圭)が言う。

「だけど女房なら、若い頃より、――死ぬ間際の老けた女房にオレは逢いてえ」

この言葉、倉本にとっての実感でもあるはずだ。

倉本聰にとって、「創る」とは

倉本聰は、60年以上もテレビと芸能界を内側から見てきた。そんな「生き証人」の目に、現在のテレビはどう映っているのか。

『やすらぎの郷』では、芸能界のドンと呼ばれる加納英吉(織本順吉)が憤っていた。

「テレビが出た時、わしはこの機械に、自分の未来を賭けようと思った。テレビはあの頃、輝いていた。なア先生。汚れのない真白な処女だったぜ。それを、銭儲けばかり考えて、売女(ばいた)に堕(おと)したのは誰だ――!」

倉本が脚本を書く時、最も大事にしている作業が、登場人物の「履歴」作りだ。いつ生まれ、どのように育ち、誰と出会い、何をしてきたのか。まるで実在の人物を扱うように詳細な履歴書を作成していく。

ドラマの中で、それぞれの過去を持つ人物同士が出会う。そこで生まれる化学反応こそが物語を動かす力だ。倉本の分身ともいえるベテラン脚本家、菊村栄(石坂浩二)も『やすらぎの刻~道』の中で言っている。

「樹は根に拠って立つ。されど根は人の目に触れず、一見徒労なその作業こそが、ドラマを生み出す根幹なのだ」

愛用の200字詰め原稿用紙を、ひと文字ずつ、特徴のある書体で埋めていく倉本。そうやってゼロから何かを生み出す恍惚と不安を味わい続けてきた。

『玩具の神様』(NHK、1999年)の偽脚本家、ニタニツトム(中井貴一)が色紙に記している。

「創るということは遊ぶということ」

倉本こそ、永遠の「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」なのかもしれない。

 


『恋はつづくよどこまでも』の上白石萌音は、最強の「地方出身娘」か

2020年03月10日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

 

『恋はつづくよどこまでも』の上白石萌音は、

最強の「地方出身娘」!?

 

「女優姉妹」という系譜

姉が女優で、妹も女優。そんな「女優姉妹」というのは、世代によって挙がる名前は違うだろうが、以前から存在した。

たとえば、思い出せる範囲でさかのぼると、まず浮かんだのが倍賞千恵子・美津子の倍賞姉妹。次が、姉が真野(まや)響子、妹が眞野(まの)あずさ、という真野姉妹だ。

それから、石田ゆり子・ひかりの石田姉妹もいる。特に姉のゆり子は、『さよなら私』(14年、NHK)、『コントレール~罪と恋~』(16年、NHK)など、大人の女性の恋愛物で再ブレイク。同じ年の『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS)で演じた、「叔母の百合ちゃん」が秀逸だった。

そして最近の女優姉妹といえば、広瀬アリス・すずの広瀬姉妹ということになるだろう。こちらも以前は妹ばかりが目立っていたが、現在は姉のほうも自分のポジションを獲得している。

そんな女優姉妹というくくりに、ドーンと入ってきて注目を集めているのが、上白石萌音・萌歌の上白石姉妹だ。

妹の萌歌は、このところ『義母と娘のブルース』(18年、TBS)、『3年A組―今から皆さんは、人質です―』(19年、日本テレビ)、そして大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺』(19年、NHK)などで大活躍。姉の萌音は、現在放送中の『恋はつづくよどこまでも』(TBS)で主演を務めている。

広瀬姉妹も、うかうかしてはいられない。「アリス・すず」とはタイプの異なる「萌音・萌歌」だが、懐かしい表現をすれば、「赤丸急上昇」と言っていい。

そんな上白石姉妹、今回は姉の萌音について考察してみたい。

『恋はつづくよどこまでも』の上白石萌音

女子高生だった七瀬(萌音)が、地方から修学旅行でやって来た東京で、偶然出会った医師の天堂(佐藤健)に一目ぼれ。彼の近くに行こうと決意し、勉学にも励み、一生懸命努力してナースになった。現在は新人看護師として、天堂と同じ日浦総合病院の循環器内科に勤務している。

確かに医療ドラマの一種なのだが、メインはあくまでも「七瀬の恋」だ。かつて多くの映画やドラマが作られた『愛染かつら』以来、医師と看護師の恋物語は、いわば日本の「伝統芸」である。

1930年代に初映画化された『愛染かつら』まで戻らなくても、70年代の大ヒットドラマ『ありがとう』(TBS)の第2シリーズでは、看護婦(当時)の水前寺清子と医師の石坂浩二の、ほほえましい恋愛が展開されていた。

この『恋つづ』も、いわゆるラブコメであり、気楽に見ていられることがありがたい。

最初は歯牙にもかけなかった天堂だが、いつの間にか七瀬を憎からず思っている。いや、それどころか、最近はハグもキスも当たり前のように頻発しているのだ。よかったね、勇者!(笑)

萌音が演じる七瀬だが、看護師としては全然頼りないし、ミスは多いし、一種の「困ったちゃん」でもある。しかし、彼女がそこにいるだけで、みんなが笑顔になる。これはこれで貴重な才能であり、何より仕事に対して全身全霊、一生懸命なのがいい。

しかも、その一生懸命さは、人を好きになることでも発揮されている。5年間の片思いというのもすごいが、とにかく異常なほどの「一途(いちず)さ」で天堂を慕う。

それでいて本人は、恋愛に関して自信はないし、泣き虫だし、見方によっては結構ウザいかもしれないのだ。しかし、その鬱陶しさの一歩手前で、真っ直ぐな「健気(けなげ)さ」が七瀬を救っている。

一途で健気。見ている側も「こんな娘がいてもいいじゃないか」と思えてくる。看護師の新人としても、恋愛の初心者としても、七瀬を、つい応援したくなってくるのだ

上白石萌音は、最強の「地方出身娘」!?

女優・上白石萌音に、最初に注目したのは、いつだろう。多分、初主演の映画『舞妓はレディ』(14年、周防正行監督)だったと思う。地方出身の女の子が、京都に出てきて、「舞妓さん」になることを目指すというお話だった。

あか抜けない、田舎っぽい少女だった主人公の西郷春子が、だんだん洗練されていく姿が、往年の名作ミュージカル『マイ・フェア・レディ』でオードリー・ヘプバーンが演じたイライザと重なった。地方出身の春子に、萌音という女優がドハマリだった。

次が映画『ちはやふる』(16年、小泉徳宏監督)で、広瀬すず演じるヒロイン、綾瀬千早の「かるた仲間」だった。都立瑞沢高校の「かるた部」の部員、大江奏の役だ。

都立なので、もちろん地方出身ではないが、和服好きで、おっとり屋さんで、古典おたくというキャラクターは、渋谷とか六本木とかを闊歩するタイプの「東京女子」とは、見事に一線を画していた。

そして、萌音の知名度を一気に上げたのが、同じ16年公開の劇場アニメ『君の名は。』(新海誠監督)だ。2次元のヒロイン・宮水三葉(みつは)に、声優として命を吹き込んだのは、萌音の演技力のなせる業だった。

三葉は、豊かな自然に囲まれた、岐阜県糸守町に暮らす女子高生で、古くからある神社の巫女。本当は東京に憧れているのだが、ままならない環境にある。まさに「地方出身娘」そのものであり、そのやわらかい方言もどこか懐かしく、萌音と三葉は完全に一体化していた。

さらに、もう1本、連ドラ初主演となった『ホクサイと飯さえあれば』(17年、毎日放送)も、忘れてはならない。

主人公は上京したばかりの超内向女子、ブンちゃんこと山田文子(あやこ)だ。ホクサイという名の「ぬいぐるみ人形」と一緒に、北千住のアパートで暮している。

無類の「ごはん好き」だが、食事は「お家(うち)ごはん」のみ。自炊料理の食材を近所の商店街で手に入れ、自分で作るのが一番楽しいし、最も嬉しいという女子大生だ。

しかも画面では、安くて、早くて、おいしい「ブンちゃん料理」を作るところは見せるのだが、食べているシーンは一切描かれないという、ちょっと変わった「DIYグルメドラマ」だった。

このブンが、これまた、何ともいい味の「地方出身娘」で、一般的にはコミュ障と言われそうな強い人見知りなのだが、自分の好きことには一生懸命で、一途で、健気でもあり、どこか『恋つづ』の七瀬につながっている。

現代劇だけじゃない、上白石萌音

3月3日、「ひな祭り」の放送では、七瀬に横恋慕した患者の上条(清原翔)が天堂を訴えたため、ずっと天堂が面倒を見てきた少女の手術に立ち会うことが出来なくなってしまった。

七瀬は訴えを取り下げる「交換条件」として、天堂から離れることを決意し、鹿児島(上白石姉妹の故郷)の小さな診療所で働き始める。

そして、ラストでは、やはりというか、待ってましたというか(笑)、天堂が現れ、七瀬を背後から抱きしめた。さあ、この恋物語も、いよいよ大詰めだ。

というわけで、上白石萌音の軌跡をたどってきたのだが、最後にもう少し・・・。

3月5日に、文化庁が主催する「芸術選奨」の2019年度受賞者が発表になった。

その「放送部門」の選考審査員を務めさせていただいたのだが、文部科学大臣賞は、ドラマ『スローな武士にしてくれ』(NHK)、『令和元年版 怪談牡丹燈籠』(同)などの脚本・演出を手掛けた、源孝志氏に贈られた。

この『怪談牡丹燈籠』で、萌音は、亡霊でありながら好きな男につきまとう「お露」を演じて、絶品だったのだ。一緒になることは出来ない運命だからこそ、萌音が見せてくれた女としての執念が哀しく、美しく、そして怖かった。今回の源孝志氏の受賞に、彼女が大きく貢献したと言っても過言ではない。

誰にも真似できない演技は現代劇だけじゃない、上白石萌音。『恋つづ』のゴールも気になるが、これからのさらなる活躍が大いに楽しみだ。

 


天才脳外科医、がん専門医・・・急増する「医療ドラマ」

2020年02月03日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

番組サイトより

 

天才脳外科医、がん専門医・・・

急増する「医療ドラマ」その確実な進化

「大門未知子」のいない冬の熱き戦い

 

林立する「医療ドラマ」

今期のドラマで目立つのが、医師が主役で、病院が主な舞台となる「医療ドラマ」だ。

『トップナイフ―天才脳外科医の条件―』(日本テレビ)、『恋はつづくよどこまでも』(TBS)、『病院で念仏を唱えないでください』(同)、『アライブ―がん専門医のカルテ―』(フジテレビ)、そして『病院の治しかた―ドクター有原の挑戦―』(テレビ東京)と5本にもおよぶ。

なぜ、これほど医療ドラマが乱立、いや林立するのか。

作る側からすれば、「(視聴者に)見てもらえるドラマ」「他のジャンルに比べて数字(視聴率)の歩留まりがいいコンテンツ」ということになるのだろうが、もう少し、その背景を掘り下げてみたい。

第一に、しっかり作られた医療ドラマは、同時に「社会派ドラマ」でもあるということ。なぜなら、医療システムとは、社会システムそのものでもあるからだ。

現在、多くの視聴者(特に高齢者)にとって、医療は経済などと並んで大きな関心事の一つになっている。いや、医療に対する不安感や危機感が、今ほど広がっている時代はないかもしれない。

関心度が高いからこそ、週刊誌などでも医療をテーマとした特集が繰り返されている。しかも医療の世界は外部からうかがい知ることが難しい。視聴者が持つ医療そのものへの関心が、医療ドラマを支持する要因の一つとなっている。

また、医療ドラマの主人公である医師は、「強き(病気)を挫き、弱き(患者)を助ける」存在であり、本来的に「ヒーロー」の要素をもった職業だ。

ならば医療ドラマは、生と死という究極のテーマを扱う「ヒーロードラマ」ということになる。『ドクターX―外科医・大門未知子―』(テレビ朝日)などは、その典型だろう。

 

天才外科医ならぬ天才脳外科医『トップナイフ』

思えば、今期ドラマのラインナップには、『ドクターX』が入っていない。いわば「大門未知子」のいない冬だ。しかし大門は不在でも、個性的な女医はいる。

その一人が、『トップナイフ』の深山瑤子(天海祐希)だ。大門は「天才外科医」だが、深山は「天才脳外科医」。医学界は天才でいっぱいだが、深山は大門のようなフリーランスではない。東都総合病院の脳神経外科に所属する勤務医だ。

本当は大門と同じように手術だけやっていたいタイプだが、そうもいかない。今出川部長(三浦友和)の指示で、新メンバーの「まとめ役」を担うことになる。

ひとりは脳腫瘍では「神の手」と呼ばれる天才医師、黒岩(椎名桔平)。次が深山にもタメグチの生意気な秀才医師、西郡(永山絢斗)。そして3人目は高偏差値の「ドジっ子」研修医、幸子(広瀬アリス)だ。

第1話では深山と西郡、黒岩と幸子がそれぞれペアを組み、2つの難手術を同時に決行していた。見せ場も2倍となる、ぜいたくな展開だ。『ドクターX』の大門ワンマンショーもいいが、タイプの異なる天才たちによる「群像劇」も悪くない。

第2話でも、この同時進行パターンは踏襲された。患者は、長年「三叉神経痛」による顔面の痛みに苦しんできた女性と、見知らぬ男性を自分の恋人だと思ってしまう「フレゴリ妄想」に陥った女性だ。

このドラマでは、患者たちが手術に至るまでの背景、それぞれが抱えた事情についても丁寧に描かれている。その回だけの登場人物であっても、彼らの「その後の人生」を見たくなってくる。医療は患者の現在だけでなく、「これから」をも支えるものだと分かるのだ。

毎回、ドラマの冒頭に、「脳はこの世に残された唯一の未開の地である」という文章が表示される。確かに、1000億の神経細胞が集まった脳の複雑さは想像を超える。オーバーに言えば「神の領域」だ。

そこに踏み込む脳外科医は、脚本の林宏司が手掛けた、同名の原作小説の言葉を借りれば、「神をも恐れぬ傲慢な職業」である。

何しろ脳は体だけでなく、人格や性格など精神面も支配している。さまざまな患者たちの人生をも描く「人間ドラマ」として見応えがある

 

がん患者と向き合う専門医『アライブ』

もう1本、女医が活躍しているドラマが、『アライブ―がん専門医のカルテ―』だ。

こちらの特色は、舞台が「腫瘍内科」という、がん専門の診療科が舞台であること。かつては4人に1人が、がんになると言われていたが、今は2人に1人だそうだ。まだあまり知られていないが、腫瘍内科は誰もがお世話になる可能性を持つセクションかもしれない。

主人公は腫瘍内科医の恩田心(松下奈緒)。横浜みなと総合病院に勤務している。夫と息子の3人暮し。仕事と主婦と母親という負荷の大きい毎日が続いていたが、夫の匠(中村俊介)が事故で意識不明となったことで事態は一変する。

そして、他の病院から、みなと総合病院に転籍してきたのが、腕のいい消化器外科医である梶山薫(木村佳乃)だ。物語は、この2人の女医ペアを軸に展開されていく。

実は、以前薫が在職していたのは、匠が入院している関東医科大学付属中央病院だった。しかも彼女は匠の執刀医を務めていたのだ。

しかし、そこで起きたらしい医療ミスのことも含め、心は何も知らない。また、匠に関して強い自責の念を抱えている薫が、なぜ、その妻である心のいる病院に移ってきたのかは不明で、このあたり、サスペンス風でもある。

第2話では、乳がんの若い女性患者が登場した。手術では片方を切除することになると知り、彼女は将来の恋愛や結婚や出産をイメージして、立ちすくんでしまう。

すると突然、薫が「実は私も、がんサバイバーだった」と告白する。その場で衣服を脱いで、彼女に「再建した」という胸を触らせたのだ。さらに、「もしも胸の傷を気にするような男なら、それは、あなたの運命の相手じゃないから」と。

この時の木村は、背後から上半身をカメラに撮らせたまま、ワンカットですっぱりと脱いだ。それは見事な女優魂であり、おかげで説得力のあるシーンとなった。一瞬、主役は松下ではなく、木村ではないかと思ったほどだ。こうした「拮抗」が、ドラマの緊張感を生む。

第3話は、末期がん患者の女性(朝加真由美)とその家族のエピソードだった。本当は自宅で最期を迎えたいのだが、夫や嫁いでいる娘たちに迷惑をかけるからと、ホスピスに行くことを希望する。

緩和医療という難しいテーマだったが、患者本人と家族、それぞれの葛藤というリアルなストーリーを通じて、見る側も、自分たちに引き寄せて多くのことを考えることが出来た。前述した、「社会派ドラマ」としての要素がそこにある。

この第3話で、心の夫、匠が息を引き取った。事故が起きる前、小説家を目指していた匠に向かって、「いつまで待たせるの! これ以上、失望させないで」となじったことを後悔する心。医師もまた、「患者の家族」になり得るのだ。

また匠が亡くなったことは、秘密を抱える薫にも強いショックを与えた。今後の展開が大いに気になる。

 

進化する「医療ドラマ」

女医が活躍する医療ドラマといえば、やはり『ドクターX』が代表格だ。そこには、命を扱う緊迫感があり、善悪が明快な展開があり、見せ場としての手術があり、最後は命が救われる爽快感もある。

『トップナイフ』も、『アライブ』も、同じく女医が主役だ。しかし、『ドクターX』との単純な差別化というだけでなく、医療の現場で医師や患者が直面する、現実的な課題や苦悩をストーリーの中に巧みに取り込んでいる。

そして、そこでの医師は、いわゆるスーパーヒーローではなく、悩みや迷いを抱えた一人の人間として描かれており、見る側の共感もそこから生まれる。医療ドラマもまた確実に進化しているのだ。

 


「民放連賞グランプリ」が示す、地方局のコンテンツパワー

2019年12月29日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

 

「民放連賞グランプリ」が示す、

地方局のコンテンツパワー

 

民放連賞グランプリ『チャンネルはそのまま!』

北海道テレビ(以下、HTB)が制作したドラマ『チャンネルはそのまま!』が、2019年日本民間放送連盟賞」のテレビ部門でグランプリを獲得した。

HTBは、札幌にあるテレビ朝日系列の放送局。長い間、郊外の南平岸の高台にあった局舎が、都心の「さっぽろ創生スクエア」へと移転したのは昨年9月ことだ。

南平岸に残った「旧社屋」を、ロケセットとして使いながら制作した開局50周年記念ドラマが、受賞作の『チャンネルはそのまま!』だ。放送されたのは今年の318日(月)から22日(金)までの連続5夜だった。

「バカのチカラ」が人を動かす!?

ドラマ『チャンネルはそのまま!』全5話の内容を、ひとことで言うなら、北海道のローカルテレビ局「HHTV北海道(ホシ)テレビ」に入社してきた破天荒な新人女性記者、雪丸花子(芳根京子)の奮闘記である。

そういう意味では、いわゆる「お仕事ドラマ」と呼べるかもしれない。しかし、「テレビ局が舞台のお仕事ドラマ」としてイメージしやすく、またこれまでにドラマにもなったアナウンサー物ではない。花子が所属する報道部だけでなく、編成部、営業部、技術部といった、外部からは見えづらい部署の人たちを丁寧に描いているのが特徴だ。

ドラマの中の花子は、一種の「狂言回し」であり、効き目のある「触媒」のような役割を果たす。彼女によって、それまでなんとなく「俺たちローカルって、こんなもんだよね~」という気分で沈滞していたホシテレビが、じわじわと活性化していくのだ。

しかし、「花子はとてつもなく優秀なスーパーテレビウーマンなのか?」と問われたら、答えは「逆ですね」となる。優秀の逆で、ドジな劣等生であり、どう考えても、テレビ局の採用試験という難関を突破できるはずのない就活生だった。

では、なぜ入社できたのか。採用に際して、ホシテレビが設けているという「バカ枠」のおかげだ。

優秀なメンバーだけでは、組織全体が小さくまとまってしまう。そこに異種としてのバカ(「おバカ」ではない)を混入させ、予測できない化学反応が起きることを期待する。それが「バカ枠」であり、このドラマは、ローカルテレビ局という組織と人が、「バカのチカラ」によって思わぬ変貌を遂げていく物語だったのだ。

ちなみに、ホシテレビでは「バカ枠」と同時に、バカをサポートする「バカ係」も採用していた。ドラマの中では、花子と同じ報道部に配属された出来のいい新人、山根(「男劇団 青山表参道X」の飯島寛騎)が、それに当たる。

事件は「現場」で起きる!

第1話は、ドジと失敗ばかりなのに応援したくなる花子のキャラクターと、テレビの仕事を、視聴者側が知っていく時間だ。続く第2話で、カリスマ農業技術者にして農業NPOの代表でもある蒲原(大泉洋、快演!)が登場したあたりから、物語はぐんぐん加速していく。

また、局内の2人の人物を通じて、テレビとローカル局の現状を垣間見ることができるのも、このドラマの醍醐味だ。キー局から送り込まれた編成局長、城ケ崎(斎藤護)が部下たちに言い放つ。

「いいか! キー局では視聴率がすべての基準。数字がすべてだ!」

一方、いかにも生え抜きの情報部長、ヒゲ面にアロハシャツの小倉(演じる藤村忠寿はHTB『水曜どうでしょう』ディレクターにして本作の監督)は、こんなことを言う男だ。

「報道部で必要なのは5W1H。情報部に必要なのは5W1H+L。ラブだよ!」

さらに、ホシテレビよりも強大で、視聴率でも断然リードしている「ひぐまテレビ」(モデルは札幌のどの局か?)には、ホシテレビを目の敵にしている剛腕情報部長の鹿取(安田顕)もいる。ローカルにはローカルの熾烈な戦いがあることを、安田が、『下町ロケット』などで鍛えた凄味のある演技で伝えていた。

「果敢な挑戦」としてのドラマ制作

今回、ヒロインを演じたのは芳根京子だ。昨年の『高嶺の花』で、石原さとみの妹役でひと皮むけた進化を遂げたが、このドラマでは、コメディエンヌとしての才能をフル稼働させている。

確かにドジかもしれないが、いつも一所懸命。周囲が見えなくなってしまうほど、他者の気持ちに寄り添ってしまう。周囲に迷惑ばかりかけるが、必ず何かの「きっかけ」を生み出していく。

「バカのチカラ」炸裂の花子だが、テレビ局だけでなく、社会の中に、こういうバカが増えてくれたらいいなあ、と思わせてくれる元気な女子だ。

主演の芳根、脇を固めた大泉をはじめとするTEAM NACS(チーム・ナックス)の面々、オクラホマなど北海道のタレントや役者、そして作り手であると同時にキャストでもあるHTB社員たちの総合力によって出来上がったこのドラマ。笑いながら最終話まで見ていくと、いつの間にか、とんでもない領域まで連れていかれたような快感がある。

放送という電波だけが、視聴者とつながる回路ではなくなった時代だ。アウトプットの方法が多様化した時代。東京の局だろうが、地方の局だろうが、面白いコンテンツを創造できるかどうかが生命線となる時代。「地方局はどう生きるべきか」という自問への一つの回答が描かれていた。

またこのドラマは、ときには「オールドメディア」などと言われたりもするテレビが持つ、「どっこい、ナメんなよ!」というポテンシャル(可能性としてのチカラ)も示してくれていた。別の言い方をすれば、物語の中に「テレビだからこそ」「テレビならでは」の魅力の再発見があったのだ。

今回のHTBの果敢な挑戦、もしくは壮大な実験には、これからの生き残りを模索している、全国のローカル局も注目していた。その結果としての民放連賞グランプリではなかったか。

原作は佐々木倫子(『おたんこナース』『Heaven?』など)の同名漫画で、脚本は森ハヤシ。監督はキャストでもある藤村忠寿を筆頭に4名が並ぶ。総監督を務めたのは、『踊る大捜査線』シリーズの本広克行だ。

この『チャンネルはそのまま!』だが、グランプリ受賞記念として、20201月にHTBをはじめ全国のテレビ朝日系列局で放送されることが決まった。

HTB、テレ朝、朝日放送、メ~テレ、九州朝日放送などでは、202015日(日)午前10時~第1話・第2112日(日)午前10時~第3話・第4119日(日)午前10時~第5話となっている。他の系列局でも日程は異なるが視聴可能だ。

地方局の番組は、たとえ秀作であっても、他の地域では見ることが難しい。こういう形で全国放送が実現したことは、「賞」の効果として、とても喜ばしいことだ。テレビの「現在」を目撃するという意味でも、一見の価値がある。

研究者も注目の『水曜どうでしょう』

『チャンネルはそのまま!』で監督を務めた、HTBの藤村忠寿ディレクター。あの伝説的ローカル番組『水曜どうでしょう』で知られた制作者であることは言うまでもない。

北海道で、『水曜どうでしょう』の放送が始まったのは1996年のことだ。思えば、出演の大泉洋も鈴井貴之も当時、道内では知られていても、全国的にはまだ無名だった。

やがて番組は、いわば「無茶な旅」という鉱脈を見つける。様々な行先が書かれたサイコロを振り、何が何でもその通りに実行する姿がおかしく、口コミなどでファンが増えていく。後には国内だけでなく、「原付ベトナム縦断1800キロ」といった壮大な企画にも挑戦していった。

この番組の特徴は、出演者2人とディレクター2人の計4人だけでロケを敢行することだ。カメラもディレクターが回している。姿は映っていなくても常にスタッフの声が入り、笑ったり、怒ったりするのも番組名物だ。

レギュラー放送が終了したのは2002年。その間に各地のテレビ局に番組販売が行われ、全国区の知名度を持つドキュメントバラエティとなっていった。 

キーワードは「共感の共有」

つい最近、『水曜どうでしょう』に関する興味深い本が出版された。広田すみれ『5人目の旅人たち―「水曜どうでしょう」と藩士コミュニティの研究』(慶應義塾大学出版会)だ。著者は気鋭の社会心理学者。「ファンはなぜこの番組にのめり込むのか」を探った、異色の研究書である。

著者がまず注目するのは、早い段階でのDVD化やネット動画を通じて、繰り返し視聴を可能にしたことだ。また番組掲示板の活用により、ファンの間の「共感」を維持してきた。

さらに著者は、この番組が持つ「身体性」を指摘する。まるで4人と一緒に旅をしているような、一種のバーチャル感を生み出す映像と音声。特に時間にしばられずに臨場感を高める編集を施したDVDは、通常のテレビ番組とは違う「体験」型の映像コンテンツとなった。

今回の研究は、全国のファン(藩士と呼ばれる)の中に、この番組を「癒し」と感じる人が多いと知ったことがきっかけだったという。特に東日本大震災の被災者を精神的に支えるアイテムとなっていた。視聴者同士の間に生まれた「共感」の共有。それはまさに現在のソーシャルメディアでの「共有」の先駆けだったのだ。

共感の共有。それは『水曜どうでしょう』のみならず、ドラマ『チャンネルはそのまま!』にも通底していることに気づく。それは、来る2020年からのコンテンツ制作にとっても、大きなヒントとなるキーワードである。

 


『ドクターX』が今回も「快進撃」を続ける理由

2019年11月01日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

 

米倉涼子主演『ドクターX』が

今回も「快進撃」を続ける理由

 

第6シーズンとなる、米倉涼子主演『ドクターX~外科医・大門未知子~』(テレビ朝日系)。「失敗しない」どころか、今回も快進撃が続いている。それを可能にしているのは、一体何なのか。

ヒットシリーズが衰退する要因は、皮肉なことに、「長く続いた」がゆえに生じるものが多い。しかし最も怖いのが、制作側とキャストの「慢心」だ。レギュラー出演者やスタッフの緊張感が緩み、ストーリーはワンパターンとなり、視聴者は飽き始める。シリーズ物こそ、現状維持どころか、「進化」が必要なのだ。

ただし、ベースとなる「世界観」は変えずに、細部は時代や社会とリンクさせながら、柔軟に変えていく。つまり「流行と不易」のバランスである。それをしっかり実現しているのが、このドラマなのだ。あらためて、近年の軌跡を振り返ってみたい。

2014年〜病院が舞台の「仁義なき戦い」

「国立高度医療センター」という新たな舞台を設定し、手術室などの施設や設備を含め、病院としてのスケールをアップさせたのが、5年前の第3シーズンだ。

また、そこに居並ぶ面々も豪華だった。いきなり更迭される総長に中尾彬。入れ替わる新総長は北大路欣也。そして次期総長の座を狙うのが古谷一行である。

ライバル関係が続く外科部長は、伊武雅刀と遠藤憲一。また、前シリーズで帝都医大を追われながら、しっかり西京大病院長に収まっている西田敏行も“健在”だった。

しかも男たちの権力争いは、往年の「東映やくざ映画」のようにむき出しで、遠慮がなく、分かりやすい。すべてはヒロインを引き立てるためであり、おかげで実質的「紅一点」としての大門未知子の印象が一層鮮やかになっていく。

舞台の病院が変わろうと、男たちの争いが激化しようと、大門=米倉は決して変わらない。超のつく手術好き、天才的な腕前、少しヌケた男前な性格。このブレなさ加減こそが、このシリーズの命だ。

2016年〜「権力とビジネスの巨塔」大学病院

第4シーズンでの進化は、「登場人物」だった。アクが強く、アンチも少なくない、あの泉ピン子を副院長役に抜擢したのだ。「権力とビジネスの巨塔」と化した大学病院で、副院長と院長(西田敏行)の脂ぎった対決が展開された。

また、米国の病院からスーパードクターとして戻ってきた、外科医・北野(滝藤賢一)の投入も有効だった。

さらに肝心の「物語」も進化していた。たとえば第7話では、当初、耳が聞こえない天才ピアニスト・七尾(武田真治)が患者かと思われたが、七尾は中途半端な聴力の回復よりも、自分の脳内に響くピアノの音を大事にしたいと手術を断ってしまう。大門はその過程で、七尾の女性アシスタント(知英)の脳腫瘍を見抜き、彼女の命を救っていく。

この回の寺田敏雄をはじめとするベテラン脚本家たちが、「必ず大門が手術に成功する」という大原則を守りつつ、より豊かな物語を模索していたのが印象的だ。そうした努力があるからこそ、『ドクターX』一座の興行は継続可能なのだ

 2017年〜「女性リーダー」「ゆとり世代」も取り込む時代性

第5シーズンの冒頭、舞台となる東帝大学病院に、「初の女性院長」である志村まどか(大地真央)が登場した。

彼女のモットーは、某都知事がアピールしていた「都民ファースト」ならぬ「患者ファースト」。医学界や医師たちに清廉性を求めることから、「マダム・グリーン」ならぬ「マダム・クリーン」のニックネームがついていたりして、しっかり笑わせる。

結局、初の女性院長は、キャスターも務めるジャーナリストとの不倫問題で首を切られてしまうが、シーズン開幕のインパクトとしては十分だった。

普通なら、この女性院長を数週間は活用するところだが、わずか1週で舞台から下げたことも驚きだ。「もったいない」と考えるより、優先したのは「贅沢感」。そして「スピード感」を大事にした、余裕の構えだった。

また、このシリーズから、「ゆとり世代」の若手医師たち(永山絢斗など)が入ってきた。その中のひとり、伊東亮治(野村周平)は、自分の母親(中田喜子)の難しい手術を担当して、自らの力不足を痛いほど思い知る。

もちろん大門の活躍で母親は命拾いするのだが、この「ゆとり君」は医師をやめて、なんとミュージシャンを目指すと言い出すのだ。初回の大地に続き、好演した野村も1回限り。あらためて贅沢感とスピード感を見せつけた。

一方、ブレない大門はもちろん、「あきらさ~ん!(by 大門)」こと神原晶(岸部一徳)、仕事仲間の麻酔科医・城之内博美(内田有紀)、院長に返り咲いた蛭間(西田敏行)とその取り巻きたち(遠藤憲一など)といった面々の“変わらなさ”に、見る側はホッとした。

 2018年〜『リーガルV』というトリッキーな戦略商品

すでに忘れている人も多いのではないかと思うが、1年前の2018年秋、米倉涼子主演の連ドラ『リーガルV~元弁護士・小鳥遊翔子(たかなし・しょうこ)~』(テレ朝系)が放送されていた。

このドラマのことを知った時は、ドクターXこと大門未知子先生が、副業で弁護士事務所でも開いたのかと思った。手術続きで、さすがの天才外科医も疲れたのか。それとも同じ役を続けてイメージが固まることを主演女優が嫌ったか。

おそらく制作側が提案したのだろう。「今度は医者ではなく弁護士です。ただし手術室ならぬ法廷に立つ必要はありません。なぜならヒロインの小鳥遊(米倉)は弁護士資格をはく奪されてますから」とかなんとか。

弁護士ドラマの主人公が、弁護士として活躍できない。この一見矛盾した「異色の設定」こそが、『リーガルV』の面白さを支えていた。

本人は「管理人」という立場で、法律事務所のメンバーを集める。それもクセのある人物ばかりだ。

所長の京極(高橋英樹)は法学部教授で法廷の経験はない。大鷹(勝村政信)は大失敗をして検事を辞めたヤメ検弁護士。そして若手の青島(林遣都)は、まだ半分素人。パラリーガルも現役ホスト(三浦翔平)や元ストーカー(荒川良々)といった問題児たちだが、小鳥遊は彼らをコキ使って事実を洗い直していく。

このドラマは、「チーム小鳥遊」とでも呼ぶべき集団の活躍を見せる群像劇になっていた。そこにはスーパーヒーロー型の『ドクターX』や、バディー型の『相棒』との差別化を図る効果も織り込まれている。
 
また、大門の神技的外科手術と組織内の権力闘争などが見せ場である『ドクターX』と異なり、『リーガルV』では訴えた側、訴えられた側、それぞれの人間模様が描かれた。まさに人間ドラマとしての見応えがあったのだ。

たとえば第3話では、裁判の行方を左右する重要証人、被告の恩師(岡本信人)の偽証を見事に覆した。夫の浮気に気がついていた妻(原日出子)の応援を得た結果だ。

そして第4話では亡くなった資産家(竜雷太)の莫大な遺産をめぐって、死の直前に入籍した若い女(島崎遥香、好演)と一人息子(袴田吉彦)が対立する。遺産目当てと思われた結婚の背後には意外な真相があった。

大事な局面では直感と独断でしっかり存在感を示すヒロイン。小鳥遊はドクターXの不在を埋める「もう一人の大門」であり、いわば戦略商品だった。しかし、その後、続編とかシリーズ化という話は聞かない。視聴者はやはり、「もう一人の大門」より、「本物の大門」のほうを求めていたのだ。

 2019年〜「流行と不易」の見事なバランス

今回の第6シーズンでも、大門未知子の「目ヂカラ」と「美脚」と「手術好き」は、2012年の放送開始当時と変わらない。いや、ますます磨きがかかっている。

舞台は東帝大学病院。人事にも「流行と不易」のバランスが見える。ニコラス丹下(市村正親)という投資・再生事業のプロが、院長代理として辣腕を振い始めた。また総合外科部長の潮一摩(ユースケ・サンタマリア)、総合内科部長の天地真理ならぬ浜地真理(清水ミチコ)といった新顔たちも、何かと大門を圧迫してくる。

そうそう、蛭間院長(西田敏行)の筆頭家老だった蛯名(遠藤憲一)は、ヒラの医師に降格。逆に「腹腔鏡の魔術師」加地(勝村政信)のほうは、部長に昇格している。このあたりも、「知った顔」を変えないだけでなく、視聴者を飽きさせないための細かい工夫だ。

物語においては、最新AI(人工知能)が手術の現場を仕切っている。執刀医たちはAIの指示に従って動くロボットのようだ。しかも、AIの言いなりになっているうちに、患者の命が危うくなる。それを救うのは、もちろん大門だ。

第2話では、2人の患者に対する肝臓移植をダブルで行う、「生体ドミノ肝移植」という荒業も披露された。しかも、治療で優遇される富裕層と、病室から追い出される貧困層を対比させ、「命の格差」をしっかり描いて秀逸だった。

AIにしろ、格差社会にしろ、今どきのリアルを巧みに織り込んだ物語展開。そして視聴者が見たい、大門の変わらぬ天才外科医ぶり。2つの面白さが両輪となって、この鉄板ドラマをぐいぐいと推し進めていく。

おかげで、いまやエンディングの名物である、晶さんの「風呂敷メロン」と「高額請求書」と「ひとりスキップ」を、今回もまた毎週楽しむことができそうだ。