札幌 2020
自分の経験値だけで
物事を判断してしまう人は、
経験値から離れた知識を
取り入れることによって、
狭い檻(おり)のような
経験値の世界を広げればいいし、
知識だけあって
経験値というものの
使いようがなかったり、
あるいは
経験値を持てないままでいる人は、
「自分の人生これでよかったのか?」
と考えてみる必要がある。
橋本 治「知性の顚覆(てんぷく)」
札幌 2020
自分の経験値だけで
物事を判断してしまう人は、
経験値から離れた知識を
取り入れることによって、
狭い檻(おり)のような
経験値の世界を広げればいいし、
知識だけあって
経験値というものの
使いようがなかったり、
あるいは
経験値を持てないままでいる人は、
「自分の人生これでよかったのか?」
と考えてみる必要がある。
橋本 治「知性の顚覆(てんぷく)」
竹内涼真「テセウスの船」
細部見逃せない集中力必須の1本
日曜劇場のタイムスリップ物といえば、大沢たかお主演「JIN―仁―」を思い出す。現代の脳外科医が江戸時代にワープする話だった。
今回の「テセウスの船」、主人公は「殺人犯の息子」として生きてきた田村心(竹内涼真)だ。警察官だった父親、佐野文吾(鈴木亮平)が毒物による無差別殺人を行ったという、31年前にタイムスリップしてしまう。場所は事件が起きた北海道の寒村だ。
心にとっての課題は2つある。まず、文吾は本当に殺人犯なのか。そうでないなら真犯人は誰なのか。次に、文吾が犯人であれば犯行を阻止したい。そうすれば、自分や家族に押された「負の烙印」も消えるからだ。
このドラマ、主演の竹内は健闘しているが、父親役の鈴木の迫力が凄まじい。いい意味で主客転倒しているのが特色だ。子煩悩で職務熱心な「善人」なのか。それとも狂気を秘めた「悪人」なのか。ふっと変わる鈴木の表情から目が離せない。
またサスペンスとしての緊張感も、よく保たれている。次々と起こる不審な出来事の真相は明かされず、見る側も心と同様、不安と疑心暗鬼を抱えたままの状態だ。しかも無差別殺人の日は確実に近づいている。
タイムスリップ物は、未来を知る者と知らない者とのギャップが物語を動かしていく。どんな細部も見落とせない、集中力必須の一本だ。
(日刊ゲンダイ「テレビ 見るべきものは!!」2020.01.29)
札幌 2020
「頼るものなし」
という姿勢ができると、
周りに振り回されて
右往左往することが
なくなります。
伊集院 静「無頼のススメ」
本格歴史ドラマの予感
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は明智光秀の物語である。今回、主人公の名を聞いて驚いた人は少なくない。光秀といえば本能寺。主君である織田信長を奇襲したことで、「裏切り者」もしくは「悪人」といったイメージが一般的だからだ。
とはいえ、光秀や「本能寺の変」に対する評価には、その後の為政者たちの影響が大きい。信長の後を継ぐ形で天下を狙った秀吉にしてみれば、自身の正当性を主張するためにも光秀を「逆賊」として扱う必要があっただろう。勝者や権力者が「歴史」を作るのは、いつの時代も変わらない。
大河ドラマについて、戦国時代や幕末など同じ時代、同じ人物が何度も取り上げられるという批判もある。しかし作品によって人物像や史実の解釈が異なり、それぞれに楽しむことができる。
では、「麒麟がくる」の光秀はどのような人物として描かれるのか。ドラマの冒頭を見ると、若き日の光秀は聡明なだけでなく、野盗を撃退したように剣の腕も立つ。
外の世界を見たいと思ったら、堺や京への旅を主君の斉藤道三(本木雅弘)に直訴する、旺盛な好奇心と知識欲。また庶民への接し方からも、公正な精神と道徳心の持ち主であることがわかる。何より自分の頭で考え、行動する姿勢が好ましい。
基本的には生真面目なこの青年に、長谷川博己という役者が見事にハマっている。存在感を示したのは2011年の主演作「鈴木先生」(テレビ東京系)だ。
中学教師として担任クラスを運営する際、独自の観察眼で生徒たちの個性を見抜き、彼らの潜在能力を引き出していく。同時に先生自身も成長していった。今後、光秀が発揮するであろうリーダーシップの原型があの教室にある。
脚本は大ベテランの池端俊策だ。火に包まれた民家から子どもを救い出した光秀が、医師・望月東庵(堺正章)の助手、駒(門脇麦)から「麒麟」の話を聞く。「戦(いくさ)のない世をつくれる人が麒麟を連れてくる」と。
すると光秀が言うのだ。「旅をして、よく分かりました。どこにも麒麟はいない。何かを変えなければ、誰かが変えなければ、美濃にも京にも麒麟は来ない!」。いいセリフは、いいドラマを予感させてくれる。
(しんぶん赤旗「波動」2020.01.27)
スタートした『麒麟がくる』は、
「歴史ドラマの総本山」復活の予感!?
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』が始まりました。その初回、出会いがしらの第一印象で言えば、「ハセガワ光秀に魅力あり!」。そして、「歴史ドラマの総本山」復活の予感です。
まず、主人公の幼少時代などではなく、いきなり青年時代から始めたのは正解でした。室町時代末期の時代背景と、美濃の国と明智家の社会的背景などを、冒頭の図解で簡潔に分かりやすく説明し、さっさと主人公がどんな人物なのかを見せてくれました。
光秀の人物像は・・・
初回のエピソードが描き出していた、若き日の明智十兵衛光秀。
聡明であり、また武にも秀でている。自分の頭で考え、行動する。公正な精神と道徳心。そして旺盛な好奇心と勇気の持ち主でもある。
こう並べてみると、何だか、まとも過ぎる優等生みたいですが、長谷川博己という役者が演じることで、光秀が「凛とした男の色気」を漂わす若者になっていました。主人公が魅力的であること。それはドラマを強くします。
次に、物語展開は、どうか。初回にもかかわらず、いや、初回だからこそかもしれませんが、光秀は大きく「移動」していました。
美濃から西へと向かって、堺。ここで、地方とは異なる、「豊かな経済」というものを体感します。さらに京に回って、今度は「都の荒廃」を目にしました。故郷にじっとしているだけでは知ることのできない世界を知ったわけです。
しかも、主君の斉藤道三(本木雅弘)との約束である、「鉄砲の入手」と「名医の招聘(しょうへい)」という2つのミッションをしっかり果たしていました。いずれも、光秀の「異能ぶり」を伝えるには適切なエピソードでした。
余談ですが・・・
1920年代に、古い「魔法昔話」を分析した、ウラジミール・プロップという有名な学者がいます。プロップによれば、すべての魔法昔話には、共通する「物語構成の法則」があるのだそうです。
端折って言えば、主人公は「魔法の授与者に試される」形で、「出発」します。そして「移動」しながら、「敵対者との闘争もしくは難題」にぶつかるのです。しかし、ついに「勝利」して、「帰還」します。この旅で、主人公は「新たな変身」を遂げており、待っているのは目出度い「結婚(もしくは即位)」です。
たとえば、「授与者」として道三の顔がちらっと浮かんだり、「難題」と2つの使命が、「新たな変身」と成長した光秀が、しっかり重なったりしますよね。
このプロップの法則は、後のRPG(ロールプレイングゲーム)などで応用されますが、さすがベテラン脚本家の池端俊策さんです。初回で、しっかりと組み込んでいました。
しかも、今回の大河のいいところは、脚本、映像、編集、音楽、そして演技も「ゆったり、たっぷり、堂々としている」ことです。
語り口が急ぎ過ぎない。あわてない。落ち着いている。見る側に、受けとめて咀嚼(そしゃく)するだけの余裕を持たせている。しかも、決して緩慢(かんまん)ではない。「時代劇という時間」が、正しい速さで流れているのです。
さてさて・・・
京で、燃え盛る民家から子どもを救い出した光秀。医師・望月東庵(堺正章)の助手、駒(門脇麦)から、「麒麟」の話を聞きます。「戦(いくさ)のない世をつくれる人が、麒麟を連れてくる」のだと。
そして光秀は言います。「旅をして、よく分かりました。どこにも麒麟はいない。何かを変えなければ、誰かが変えなければ、美濃にも京にも、麒麟は来ない!」
いいドラマには、いい台詞(せりふ)があります。台詞が物語を駆動していくのです。その意味でも、『麒麟がくる』は期待できそうです。
そういえば・・・
放送前、「大河ドラマ」について、週刊誌の取材を受けました。「存続か、廃止か」という、かなり乱暴な問いかけでしたが、ざっと以下のような回答をしました。
「熟練のスタッフによって積み重ねられた知恵や技術は、一度途絶えてしまえば、復活は非常に難しいです。打ち切りは簡単でしょうが、60年近い歴史がある大河を終わらせることは、視聴者にとっても、テレビというメディアにとっても、大きな「文化的損失」ではないでしょうか。
大河ドラマの醍醐味は、歴史上の人物群像との出会いであり、彼らが生きた時代を体感することにあります。それは一種のタイムトラベルであり、時空を超えた壮大な留学体験だと思います。1年間の放送期間も長すぎるとは思いません。
戦国時代や幕末など、同じ人物が何度も取り上げられているという批判もありますが、作品によって人物像や史実の解釈が違う点も大河の魅力です。歴史ドラマの総本山として、今後も残してほしいですね」(週刊ポスト 2020年1月17・24日号)
『麒麟がくる』が展開しようとしている、新たな「人物像」や、新たな「解釈」を楽しみながら、あらためて「歴史ドラマの総本山」という言葉を思い返していました。
人情刑事ドラマ
「ケイジとケンジ」が持つ
既視感の正体とは
先週から始まった「ケイジとケンジ~所轄と地検の24時~」は、いわば“変形バディー物”だ。
主人公のひとりは交番勤務から待望の刑事となった仲井戸豪太(桐谷健太)。以前は高校の熱血体育教師だった。
もうひとりが東大出身のエリート検事、真島修平(東出昌大)。自分を切れ者だと思っているが、部長検事(柳葉敏郎)から厳しい指導を受ける日々だ。
そんな2人が連続空き巣事件で出会う。犯人の滑川(馬場徹)は豪太の元教え子。侵入した家の主人が滑川に突き飛ばされた直後に死亡したことから、修平は強盗殺人を主張。納得がいかない豪太は修平と衝突する。
また2人には、もうひとつの接点がある。豪太の妹、みなみ(比嘉愛未)が立会事務官としてサポートする検事が修平なのだ。しかも修平はみなみに好意を寄せている。
豪太、修平、みなみの3人がそろったシーンで、このドラマが持つ既視感に気づいた。「まんぷく」の桐谷、「ごちそうさん」の東出、そして「なつぞら」の比嘉。いずれも彼らが脇役として好演していた「朝ドラ」だ。
刑事ドラマと検事ドラマの合わせ技かと思っていたら、そこに朝ドラのテイストも加わっている。そもそも脚本の福田靖は「まんぷく」も手掛けていたではないか。
変形バディー物にして、シリアスすぎない人情刑事ドラマ。そのココロは“夜の朝ドラ”だった。
(日刊ゲンダイ「テレビ 見るべきものは!!」2020年01月22日)