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2分の1成人式廃止?

2015年03月04日 | 時事
「2分の1成人式」に違和感 虐待死の子供も手紙
非常に極端なケースを一般化させてごり押しするような記事ですな。

この名大の准教授の論調、どこかで見覚えがあるなあと思って調べてみると、以前NHKのニュースWEBで人間ピラミッドについて警鐘を鳴らしていた不勉強な人でした。何か最近起きた騎馬戦訴訟でもコメントを寄せていましたが、学校現場の危険性について研究しているつもりのようで、専門家にありがちな非常に視野の狭い一方的な見方に終始してしまっている気がします。第一この人、リスクばかりに目が行ってメリットを一切語りませんからね。現在導入されている教育課程については、古今東西多くの専門家達が話し合って、当然リスクよりも大きなメリットがあるとされたから導入されてきているわけですが、まるで学校が危険で意味のないことばかり率先して行っているような印象を与えるために発言しているようで、飛びつくのは朝日とか毎日とか偏狭的な所ばかりです(笑)集団的自衛権とか特定秘密保護法とか、本当ここの新聞を読んでいるとマイナスイメージばかりの意見で記事を膨らませ、メリットについては一切書かれないため、そのままでは本当何故導入されたかが全然分かりませんからね。この准教授も、自分の結論に強引に持っていくために、本人の意図や過失を無視して都合よく解釈してしまっています。若い方ですのでただ不勉強なだけだと思いますけど、意図して行っているのならかなり悪質ですね。校長や教育委員会とかだと、その立場を代表した意見しか言えませんが、大学教授というのは「一専門家の意見」として比較的言い放題にできます。メディアはそれを利用して都合の良いコメントを取るわけですが、メディアを利用して自分の意見さえ目立てば良いという人のことを、巷では御用学者というのではないでしょうか。
まあ、百歩譲って命に関わる重大事故につながるリスク喚起については良しとしましょう。しかし、元記事の「2分の1成人式に違和感」の方は全く毛色が違い、「幸せでない家庭もいるので配慮すべき」というとんでもない論調で、そういう見方をすること自体に違和感を覚えます。これはまるで「ピーマンが嫌いな子もいるので給食に出すべきでない」と言っているのと同じです。当人の努力や個別に対処すれば済む話を、うまくいっている所も全てひっくるめて廃止させようとするのは、論理も何もないモンスターペアレント的な物言いだと言うことに気づいていないのでしょうかね?

2分の1成人式については過去にも触れましたが、9割の保護者が満足していると言う統計も出ています。初出は確か平成14年の国語の教科書で、そもそも何故コレが始まったかと言うと、平成12年頃から20歳の方の成人式が荒れ始めたからではないかと思われます。その頃も14歳とか17歳といった少年犯罪が頻発していましたし、「せめて言うことを聞くうちに保護者への感謝と立志の決意をもたせよう」という願いがあったからに他なりません。自分の親に生まれた時のこととか小さい時の話を純粋に聞ける年齢は、4年生がもう限界でしょう。実はこういう授業は2年生の生活科でもありますけど、まあ二次成長前が理想的であり、それ以上になるとやはり気恥ずかしくて中々聞けませんからね。子どもも10才になればほぼ子育ての手を離れているでしょうが、まだ目を離してはいけない時期であり、離れかけた目を戻す意味でも、行うならこの時期と言うのはまあ最適だと言えると思います。
自分が4年生で受け持った子の中にも放任気味の家庭があり、何度も電話して手紙を催促したことがありました。内容は知りませんが、当日は手紙が来たこと自体、非常に喜んでいたのを覚えています。もしかしたら自分には来ないかも・・・と思っていたのかもしれません。ちなみに学校が親のことを「保護者」と言うのは、クラスに数人の割合で片親の子がいるので、「お父さんお母さん」という表現を極力避けているためです。「母の日」や「父の日」も基本ノータッチです。学校では常に様々な家庭事情に配慮し、協力が得られない親には個別に頼みに行きますし、家族行事の度に嫌な思いをする子がいないよう努めているのです。こうした設立理由や水面下の努力を評価せず、一方的な意見だけ取り上げて非難するのはちょっと安直過ぎますな。
子どもにとっては当然、どのような事情の親元であれ祖父母であれ、間違いなく自分が愛されて育ってきたと思っています。虐待死した「お母さん大好き」と書いた子は、強制されたわけでも先生の前で取り繕ったわけでもなく、それが本心だったのではないでしょうか。そういう手紙を受け取り、「実は虐待していた」のならもちろん、少しでも後ろめたい気持ちがあるのなら、学校に文句を言う前に早急に自身の行動を猛省し悔い改めるべきではないでしょうか。それをプレッシャーに感じるなんてのはもう完全に自業自得だと思います。あと、「あなたの良い所は?」と聞かれて、「1つに決めなくてもいい」なんて、もし面接会場で答えたらどうなりますか?「考えつかなかっただけだろう」と一蹴されるに決まっています。少なくとも子どもはそう見抜きますよ。しかしズバリそう言うと親に恥をかかせるから、教師が配慮してそっと書き直させたという発想はないのでしょうか。良い所がたくさんあるのならそう断った後でいくつか例示してあげればよいだけの話で、実は思いつかなかったのならこの機会に十二分に考えてあげるなど愛情を注ぐ努力をすべきです。ましてや「自分が傷つくから行事を止めろ」と言うのは、甚だ自己中心的で筋違いな意見ですし、大学の准教授ともあろう方が、取り上げるべき価値のある少数意見とこんなイチャモンレベルの区別がつかないようではいかがなものかと思います。警鐘は鳴らせばいいってものではありません。学校には虐待の通告義務がありますから、逆にわざとこういう行事を定期的にはさんで様子を見ているという考え方も大切でしょう。コレを止めることで利するのは、まさに今虐待を続けている親なのですから。

そもそも、昔はなかったのに何故こういう家庭を巻き込んだ行事をわざわざ学校が企画しなくてはいけなくなったのかを考えれば、それはここ数十年、核家族化、共働き化、少子化などの影響で、親子関係だけでなく家族内の結びつき自体が希薄になってきているからではないでしょうか。挨拶や箸の持ち方、歯磨き指導など、家庭で行われるべきしつけの一部が学校に流れ始めたのもここ20年の話です。最近ではそんな風潮に慣れてしまってか、少年犯罪が起こるとすぐ「学校のせい」という報道に向きがちですが、本来、子どもの教育の第一義的責任は家庭にあるのです。1生に1度しかない、子どもと真剣に向き合い、親自身も親として成長できる絶好の機会を学校が骨折って用意しているのに、変な屁理屈をこねて逃げるべきではありません。家族環境や形態が多様化してきたからこそ、こうした行事が必要にかられて生まれたのではないでしょうか。むしろこういった虐待親に配慮して家族と関わる行事を一切廃し、学校が家庭環境に全く干渉しないような無機質な教育になってしまうと、それこそそこら中で川崎の事件のような野放図が出来上がってしまうのではないでしょうかね。

学校リスクを撤廃した時の人生リスクについて、ぜひ一専門家の意見が聞きたいものです。