延暦寺40歳僧侶が暴力、25歳修行僧の顔殴り鼓膜破る…袈裟破り、別の僧侶の殴打も
センスプ砲は宗教界にも容赦なしですな。
実は比叡山延暦寺には今まで行ったことがなかったので、今年の冬にこっそり訪れていました。滋賀県にあるので、場所的には高野山より近いのですけどね・・・ちなみに高野山へは中学の頃訪れています。最澄と空海は平安時代に新しい仏教をもたらした僧として中学で学習し、最澄は比叡山延暦寺で天台宗を、空海は高野山金剛峰寺で真言宗を広めたと習いますが、詳しく知るとこの2人には多くの因縁があることが分かり非常に面白いです。
そもそも何故新しい仏教がほぼ同時期に2つ生まれたのかというと、当時は奈良時代から平安時代に変わり、平安京の遷都に関わって新しく鎮護国家の基盤となる宗教が必要だったからです。奈良は東大寺で有名ですが、あの大仏や全国に建てられた国分寺・薬師寺も1つの鎮護国家プロジェクトです。しかし疫病や自然災害を防ぎきれず、終いには天武系の子孫だった聖武天皇とその娘の称徳天皇の代で男系が途絶えてしまったのです。49代の光仁天皇は天智系から6代も経た人物ですし、その息子の桓武天皇は、丁度社長が変わって色々と柵や癒着のある旧経営陣を一掃したいと考えるように(笑)最澄を遣唐使に出して2年間で新しい宗教を学んでくるように命じたわけです。一方の空海はというと、正式に認められたわけでない私度僧で、20年の留学権を獲得して同じ船に乗っていました。つまりこの時点で2人には全権大使と私立の留学生くらいの隔たりがあったわけですな。
唐で最澄は順調に最新仏教を修め、法華経こそ至高だと悟りました。天台宗とは天台法華宗の略で、法華経とは「全てのものに仏性が宿る」という釈迦後世の悟りをまとめたものであり、大乗仏教の根拠となっている重要な経典です。日本に戻った後、桓武天皇に平安京の最も重要な鬼門の位置を守るように任命され、北東の比叡山に当時の中国で最先端だった円(法華経)・蜜(密教)・禅・戒(守るべき戒め)を学べる総合大学のようなものを作りました。これらの教えを学び、後の鎌倉時代には法然・親鸞・一遍・日蓮・栄西・道元がそれぞれに特化した宗派を開いています。いわゆる専門大学ですね。
一方の空海は上記4つの最先端仏教のうち密教を極め、何と中国でその8代目を襲名してしまいました。そして彼はその教えを日本で広めようと、20年の留学を僅か2年で切り上げて日本へ戻ってきてしまったのです。そのせいで密教は中国から廃れてしまったのですが(笑)天皇との約束を反故にするなど死罪に当たる罪なわけですけど、そこに助け舟を出したのが最澄なのです。戻ってからも最澄の口利きで都の南東(東寺)を守るよう任命されましたが、結局は高野山に居を移し密教の専門大学を開きました。その後にも経典を借りたり、密教を教えてもらったりなど、最澄と空海は緊密な関係にあったようです。ざっくりまとめるとこんな感じですが、教科書だけでは歴史の何も見えてこないいいお手本ですな。ちなみに延暦寺と東寺はどちらも「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。高野山はこの前行った「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部ですね。

というわけで延暦寺。山の中に立てられたでかいお寺であり、東塔・西塔・横川の3ヶ所が見所です。自分が回ったのは東と西だけですが、敷地内には親鸞や栄西などそれぞれの僧が修行をした地が残されていて、非常に長い歴史を感じました。しかし、どちらかというとそういう弟子たちの方が有名になり過ぎてしまったからか、天台宗というのはいまいちぱっとしませんよね。現にあれから天台宗のことを知ろうと図書館へ行っても、空海や親鸞などの本はたくさんあるのにいまいち最澄や天台宗については余りピンと来る本が見当たらないのです。平安京に始まる千年王都の鬼門を守り続ける伝統のお寺だとは信じられませんが、まあ歴史上も鎌倉仏教が次々生まれたのは僧侶達の堕落が原因ですし、戦国時代は寺社勢力として信長と衝突もしています。近年でも暴力団との黒い噂もあるようで、副住職の暴力沙汰というのもそういう関係で今までも余り表沙汰になってこなかっただけなのかもしれません。
ついでに比叡山記をはじめるかな(笑)
センスプ砲は宗教界にも容赦なしですな。
実は比叡山延暦寺には今まで行ったことがなかったので、今年の冬にこっそり訪れていました。滋賀県にあるので、場所的には高野山より近いのですけどね・・・ちなみに高野山へは中学の頃訪れています。最澄と空海は平安時代に新しい仏教をもたらした僧として中学で学習し、最澄は比叡山延暦寺で天台宗を、空海は高野山金剛峰寺で真言宗を広めたと習いますが、詳しく知るとこの2人には多くの因縁があることが分かり非常に面白いです。
そもそも何故新しい仏教がほぼ同時期に2つ生まれたのかというと、当時は奈良時代から平安時代に変わり、平安京の遷都に関わって新しく鎮護国家の基盤となる宗教が必要だったからです。奈良は東大寺で有名ですが、あの大仏や全国に建てられた国分寺・薬師寺も1つの鎮護国家プロジェクトです。しかし疫病や自然災害を防ぎきれず、終いには天武系の子孫だった聖武天皇とその娘の称徳天皇の代で男系が途絶えてしまったのです。49代の光仁天皇は天智系から6代も経た人物ですし、その息子の桓武天皇は、丁度社長が変わって色々と柵や癒着のある旧経営陣を一掃したいと考えるように(笑)最澄を遣唐使に出して2年間で新しい宗教を学んでくるように命じたわけです。一方の空海はというと、正式に認められたわけでない私度僧で、20年の留学権を獲得して同じ船に乗っていました。つまりこの時点で2人には全権大使と私立の留学生くらいの隔たりがあったわけですな。
唐で最澄は順調に最新仏教を修め、法華経こそ至高だと悟りました。天台宗とは天台法華宗の略で、法華経とは「全てのものに仏性が宿る」という釈迦後世の悟りをまとめたものであり、大乗仏教の根拠となっている重要な経典です。日本に戻った後、桓武天皇に平安京の最も重要な鬼門の位置を守るように任命され、北東の比叡山に当時の中国で最先端だった円(法華経)・蜜(密教)・禅・戒(守るべき戒め)を学べる総合大学のようなものを作りました。これらの教えを学び、後の鎌倉時代には法然・親鸞・一遍・日蓮・栄西・道元がそれぞれに特化した宗派を開いています。いわゆる専門大学ですね。
一方の空海は上記4つの最先端仏教のうち密教を極め、何と中国でその8代目を襲名してしまいました。そして彼はその教えを日本で広めようと、20年の留学を僅か2年で切り上げて日本へ戻ってきてしまったのです。そのせいで密教は中国から廃れてしまったのですが(笑)天皇との約束を反故にするなど死罪に当たる罪なわけですけど、そこに助け舟を出したのが最澄なのです。戻ってからも最澄の口利きで都の南東(東寺)を守るよう任命されましたが、結局は高野山に居を移し密教の専門大学を開きました。その後にも経典を借りたり、密教を教えてもらったりなど、最澄と空海は緊密な関係にあったようです。ざっくりまとめるとこんな感じですが、教科書だけでは歴史の何も見えてこないいいお手本ですな。ちなみに延暦寺と東寺はどちらも「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。高野山はこの前行った「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部ですね。

というわけで延暦寺。山の中に立てられたでかいお寺であり、東塔・西塔・横川の3ヶ所が見所です。自分が回ったのは東と西だけですが、敷地内には親鸞や栄西などそれぞれの僧が修行をした地が残されていて、非常に長い歴史を感じました。しかし、どちらかというとそういう弟子たちの方が有名になり過ぎてしまったからか、天台宗というのはいまいちぱっとしませんよね。現にあれから天台宗のことを知ろうと図書館へ行っても、空海や親鸞などの本はたくさんあるのにいまいち最澄や天台宗については余りピンと来る本が見当たらないのです。平安京に始まる千年王都の鬼門を守り続ける伝統のお寺だとは信じられませんが、まあ歴史上も鎌倉仏教が次々生まれたのは僧侶達の堕落が原因ですし、戦国時代は寺社勢力として信長と衝突もしています。近年でも暴力団との黒い噂もあるようで、副住職の暴力沙汰というのもそういう関係で今までも余り表沙汰になってこなかっただけなのかもしれません。
ついでに比叡山記をはじめるかな(笑)