katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

来年のお教室のサンプル作り

2011-09-16 21:13:17 | モザイク教室
こんな感じで野菜&果物のマグネットを2つセットで・・・・ってどうだろうか?
今までには無かった下地・・・・ひとまず終着点って所にたどり着いた・・・って感じ。

まっこれならサンプルとして提出しても良いだろう・・・となる。
そこで昨日のハロウィンを変化させる事にした。



そこでここも完成度として満足な所までたどり着いたので、この2枚を限定でお教室を
する事にした。いつもと違い追加無しに・・・。

たまにはこう言うのも良いんじゃないか?そんな話をかぐやとした上で・・・

そうそうかぐやはそこそこ復活していて、何とか形に出来そうなので、予定通り来週
アトリエに作品と共に完成させにやって来る。まっひとまず何より。

さて一応、終わったのでまたユニディ作品に戻らないと・・・・

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みどり教室

2011-09-16 03:57:42 | モザイク教室
今日は前回の調子の悪さと打って変わって中々聞く耳を持っていた・・・。
何しろ見るからに調子が良い。そんなだから当然納得も早い。

聞く耳があって、聞ける調子があるのなら、それを生かしこなせるか?になるだけ。
そうなるとちょっと俺に時間が出来る・・・・一部始終って言うのでは無くなるからね。

そこで合い間にこんなのを作って観た・・・・


まっ完成度は低いかも知れないが、変わっている・・・・そこには向かってはいる。
今後の是正いかんでは、カッコも付いて来る感じではあるのだろうけど・・・・

それはそれとして、みどりに戻ると、聞く耳があるって言うのは、向き合う俺の意見は
以前の自分なのだ。つまり以前のみどりが理想として掲げていた事のはず・・・・

って事は、この時点でその以前の自分と向き合えない・・・そんな状態では、本来の指導
つまり本当の俺の意見を言えるはずなど無い。

そこに折り合いを付ける事が出来たり、何もブレが無かったり、いずれにせよ前進出来る
何か?を見つけられるのなら、更にこうしてはどうなのだろうか?これなら・・・?となる

そこの時点で、最初の自分と向き合って何も変わらなければ次なる展開にすぐ入れる。
何もブレが無いのだから。しかしながら、そこが二転三転してしまっては本来の趣旨まで

変えてしまう事にもなるはず。それでも良くなるのなら良いんじゃないか?と言う考えも
あるだろうから、一応書いては置くが、本当に?そんな事がありますか・・・?

この作品の場合、自分の親を猫に例え、出て来たアイテムはすべてそれに関係する人達。
だから何一つ欠けてはならないはず。そう言う点ではまずまず。何もブレは無し。

では更なる掘り下げ。年齢を忠実にする為に老夫婦に見えるようになってはいるか?
そんな色を選択しているか?こんな事を一つ一つ確認をしながら・・・・

そこを別に色なんて・・・まっそんな事はどうでも良い・・・気分が変わった・・・
こんな浅はかな事で最初に掲げた構想を曲げてしまうのなら、何を作っても気分となる

それなら二転三転大いに結構だが、それでは一貫性が無い以上、ほぼカンなんだから、
本人にしか判らない。ならば教えられるはずが無い。

本来は、こう言う趣旨にしたいのだけれど、どんなやり方がありますか?とか、
こんな事を考えて来たのだけれど、そう見えますか?とか、

他にどんな事があると思いますか?とか、質問とはまず自分ありきであって、
どうしたら良いですか?は丸投げで質問とは言わない。ここに自主性など存在しない。

そもそもオリジナルなのだから、本人にしか判らない。それをイメ-ジを語る事で
俺がそこからヒントを見つけ出す・・・こんな事を最後まで繰り返す訳で・・・・。

そもそも気分なんてもんでやれるのは、体験教室のヘタでも良い・・・楽しかった、
面白かった・・・出来たぁ・・・って完成度よりも初めてやったにしては良いじゃん。と

自己満足のレベルが低くて良い場合か、逆に常に完成度が安定しているくらいにまでの
実力が付いて、その作風が良い意味で安定し過ぎている・・・こんな感じになった時に

ここまでの安定の打破に気まぐれを使う・・・・そんな実力者がやる事。
まずは発展途上の場合、いかに掲げたものに近づける事が出来るか?になる。

最初は常にきちんと忠実に掲げた通りになるか?を目指す事。
勿論、白紙の部分はあったとしても、張った部分を見て趣旨を踏まえた選択をすれば

自ずと答えは見えて来る。しかし掲げた事が浅はかであれば二転三転する。
だから、構想時に向き合う時にそうなの?と何度も聞く訳で。

何故なら上手くなればなるほど、こだわりが多くなる。こだわればこだわるほど、
時間は掛かる。時間が掛かればそれに押し潰されそうになる・・・・この繰り返しを

すれば、結果が伴って来るとウキウキするが、伴わなかったり、気分で進めて急ぐと
その日の気分なんて浅いものを技術の無い者が使うと確立を下げる事になる。

だからこそ気分ってものが一定になるようにする事が大事となる。
しかしそれが出来ると言う人がいるのなら座禅なんてのはナンセンスになる。

その心の乱れを正す事が一人で出来ないから、人に背中を叩いて貰うのにね・・・
つまりそれは修行で得るものとなる。では修行とは何か?おそらく自分と向き合う事。

それはとても難しく、とても落ち着いていて、常に冷静で、ブレずに・・・と
気持ちを安定させる事にも繋がって行く。それがあっての技術とその反復。

そんな事を踏まえて、今日は指導をきちんとさせて貰えた・・・・。
そんな話が出来たのなら、自宅で困る事は少なかろう・・・・きっと一人自分と

向き合う時に、俺が出て来るはずだから・・・・俺が何を言っていたか?・・・・
モザイクをする時に、俺が出て来れば失敗は少なかろう・・・ただ例外もある。

それはかぐやのように、ライバルと俺に言われてしまったような奴は、
いかに俺を受け入れて、いかに俺の意見にとらわれず自分自身を見つけられるか?となる

しかしそれは時に、図星であって判っていたのに・・・・言おうと思ったのに・・・と
先に言われてしまう事もある。それの繰り返しでは進歩が無い。

そうなるといかに老婆心を辞め、俺が自分を語る事を控えると今度は指導が無い・・・と
なる。言われれば悔しく、言われないと寂しい・・・・全くクソガキと一緒となる。

つまり依存の生き方。受け入れる生き方ってのは、俺とさくらのような関係の事。
俺もさくらも他人としての信頼関係としてほぼ完璧に近いので、きっと一生変わらない。

その信頼関係はブレる事があるのなら、その時は二度と会う事は無い・・・その覚悟。
ならば、何をしてもそこに悪意は絶対に無い。ならば何かあるならきっと理由はある。

それは一体何なのか?と考える事はあっても、そこにブレは無い。だからと言って、
心配は無いのか?となると、そんな事は無い。安心などして良い付き合いなんぞ、

他人にあるはずも無い。今は油断などして失敗などしている時では無い。
余裕が無さ過ぎにも思えるが、師弟関係が人に本当に理解されるまでその必要は無く、

もっと修行して行くべき。俺はこの関係をこう考える。さくらは長女の生き方で、
かぐやは次女な生き方。ただほぼ双子なんだけれど・・・。

心の出来はさくらが格段上なんだが、腕は格段にかぐや。人には持分ってものがあるが
そう言う扱いをされるのが、かぐやにはたまらなく嫌で、認めず掴もうとする。

それでは永遠に手に入らない。虎穴は入らずんば・・・ってのがあるじゃない?
トラの子を手に入れるのならトラの巣に入んなきゃね・・・。

まずは受け入れる事。ただし、時に受け入れるってのは勇気。ならばその最初の時に
良く考える事。後からでは無く先にね・・・。

あっこれって、結婚式のスピ-チに出て来るアレと同じなのね・・・。
結婚する時は両目で見て、結婚したら片目をつぶる・・・みたいなね。

ほら昔の人って良い言葉残すのね・・・・もの作りにも当てはまっちゃうのね・・・
勿論、人の考え方もね・・・ただし、そこには文明の力は存在しない。

携帯、FAX、パソコン、・・・・の無かった時代。当然、情報に惑わされる事もある。
聞かない事も1つの手だが、聞いてもブレなければ何も変わらないはず。

こう言う事があった・・・って事実は必要だが、コメンテ-タ-のような話は単なる説明に
使うべきで、流される程の必要は無い。

何が言いたいか?それは弟子だの生徒には、俺はコメンテ-タ-では無いのね。
指導をしているのだから・・・・。自分らしさを見つけようとするのなら、

どうぞ出し惜しみするつもりは無いので、常に何があっても俺はいつもの俺で待てるようにと心掛けているので、変わったのならご自分では?・・・と言い切れる準備を整える。

それが俺の役目。何度も言っているが、死に場所はとっくに見つかっている。
問題は死に方なのだ。その1つが必要とする人の力になる。

しかしこれを進化させれば必要とされる人になる。と進化する。がしかしそれは変化で
無く進化。是正したいのなら変化。

ぎくしゃくする人ってのは、その進化が変化に見えるのだろうけれど・・・。
そう言う点では、みどりは元に戻って数日前からバカチンかぐやになってしまったが、

是正のきっかけを作って見たので、修行の意味が判るのなら明日は復活しているだろう。

つまりこう言う事。オリジナルを作ると言うのは、自分自身と向き合う事。
しかし無意識に向き合って行くといつしか上手いと言われるようになる。

それが最初は嬉しいが、知らぬ間にプレッシャ-に変わる・・・が本人は気が付かない。
しかし何か変化がある事は感じるのだ・・・何か?ね。これがカン。

感じたのなら、脳で何を感じたか?と向き合えば、自ずと答えは出て来るものだが、
日々の忙しさで向き合えない・・・とか、向き合うのが怖い・・・疲れる・・・・と

先延ばしにし、今度は忘れると言う能力に頼ったりする。勿論これも能力だから、
使う事も良かろうが、オリジナルを作る・・・と向き合っている以上、辞めるか、

結果が出るまで付きまとう事になる。じゃどうする?って事になる訳だ。
それを気分なんてもので乗り切ろうとすると、所詮気分なんて偶然の産物。

何度も成功するはずも無く、むしろ成功の確率を下げてしまう。
こんな例をあげよう。ジャズって即興スタイルあるよね・・・もう判ったよね?

そう技術を持って自由。そこに計算が無い事を良しとするスタイル。
そこに何もかも計算してそこへ向かって行く・・・・逆のスタイルでレコ-ディングなる

ものもある。そう技術がしっかりしていればどちらも素敵で、後は聞く者の好み。
では技術の未熟な者はどちらのスタイルが良いのかな?となると、最初は物真似だから、

計算ずく・・・を選択すると思うがね。

こんな事をいつしか知らぬ間にみんながやりつつあって、常連は試行錯誤なのね。
そこに弟子のさくらは病気の身で働く母として時間制限がある中やっていたり、

かぐやのように大阪で習いたくとも遠距離であるが故に習えない・・・そんな葛藤の中
やっていたりする。

一見、そんなの私だって・・・と思う人もいるだろうけれど、俺の弟子を名乗るのと、
習っている・・・って生徒では、プレッシャ-の度合いが違い過ぎる。

勿論、オ-ドリ-にしても別に感じて無い・・・って言うかも知れないし、感じているかも
知れない。ただ今は自分はどう見られるのか・・・?と感じるだけで良い。

それがいつしか準備となるから。そんな3人を弟子とひとくくりとする人がいるのなら、
三者三様感じる事があるだろう。

その中でかぐやは先頭を走ると決めた人。それがこうしてみどりのようにまた追い掛けて
来るような作品を作る人が現れれば、常に追い掛けられる身となる。

気持ちがしっかりしていれば、何の問題も無いが、調子を崩せばその追い掛けられる
速度が脅威とも思えて、上手くなる速度が速いのはアトリエの指導なんだ・・・と

考えたりする。そこに大きな勘違いがある。何故なら今日のみどりがアトリエでやった
部分は月と雲だけ。そして次回は2週間後・・・。

本当に上手くなる人は、向き合ってやり方やミスすると思われる老婆心をガッチリ聞き
アトリエでは進まなくとも、自宅でどれだけやったか?なのね。

ならば毎日のように話をしているかぐやは、みどりと何ら変わりは無い。
むしろ聞く気があるのなら、毎日が指導となる。しかし良い事と悪い事は背中合わせ。

毎日指導とは?毎日向き合わなければならない・・・俺とも自分とも・・・・
それは大変な事だ。修行なのだから・・・・。

しかしかぐやはこんな事は卒業しつつある。追い掛けて来る人達とは違う・・・と
断言出来るだろうから。そうなると追い掛ける身となる。追い掛けるって誰?

いつしか俺をライバルとして追い掛ける身に専念したのだろう・・・・バカチン。
ライバルってのは腕。技術のみ。人間として並ばれるか?抜かされるのなら必要無かろう

俺は・・・。何度も教えているのだが、突っ込み入れるのなら優しさを持って。
上に身を置くのなら、言い方1つで嫌がらせとも取られるのだから。

嫌がらせをするのなら一生付き合わない覚悟で。常に上に身を置き仲良くやって行くのなら、受け入れて見守って育てて行くべきで、馬鹿って言ったらお前が馬鹿。

小さな頃に言われた事無い?あれはこう言う意味。人に馬鹿と言うのなら、自分は
その人より上だと言ったも同然。ならばその下に見た人に伝えるすべが無い先人となる。

つまり馬鹿に教えるすべの無いお前も馬鹿と言った事になる、己自身がね。
最低な指導員だったり、親だったり、とそんな事に繋がるのだ・・・。

今回の場合もわざわざ書くのだから、俺の指導はこの程度と一緒に痛んだつもりだが。
あくまでつもりは自分主体。かぐやに伝わってこそ指導。

未熟な師匠と未熟な弟子。お互いが勉強と考える。そして弟子のオ-ドリ-にも、
何かを感じる事があるのなら、同じ事を目指している以上、何かの足しになるはず。

そしてこれによってまた一皮剥けたかぐやが上に登ると、同じ弟子のさくらはまた
プレッシャ-となるはずだが、そこを引っ張って行けるだけの人間に成長して貰いたい

ものである。ならば苦労は買って出るべき。悩んだら悩んだ分、身になる。
それが修行と言うもんだ・・・・。

今回のかぐやは完成の為の教室に来週やって来るのだが、1ヶ月前から日程を決めた時、
後1ヶ月しか無いんだから・・・と言って置いたが、腕として張り終わる事は出来たが、

俺が作らなければならない枠の下絵を未だに提出せず。それが来るまでの間に明日と
来週の火曜日が教室の無いかぐやと向き合える時間であったのだが、

ご新規が火曜日に予約を入れてくれた事により明日しか無くなった・・・・。
結局、俺に聞かれるまでまとまらず、話せず、今に至ってしまった・・・・。

こんな事が奴を狂わせてしまった大きな原因。しかし奴はそうでは無く、ちょっとした
事務処理のやり取りが気に入らない・・・・何故私が悪いの?と思っているはずである。

がしかし、根底にあるのは奴の考え方。すべてが対応って考え・・・・おいおい自分は
無いのかい?対応は受身。相談って言うのは自分がある人のみが出来る事。

つまり聞けば聞いたで怒られる、だから聞かない、聞けない・・・・
いつしか一人で考える・・・が身に付く。さすればいつしかそこに結果も付いて来る。

するといつしか1人で出来ると判断せずに判断するようになる。
対応ってスタイルが身に付いているから。まっそれが依存にも繋がって行く。

かぐやの場合、調子が良いと頼もしく、悪いと足を引っ張るくらいもろい。
さくらの場合、いついかなる時も良くも悪くも変わらない。

かぐやが上に行くには、悪い時に落とさない安定感。そんな時も気配り出来る頼もしさ。
期待して当然でしょ?ねぇかぐや・・・・人と違った人生を望んだのだから・・・。

結果を出せないのなら、来週は無かった事にする・・・無駄な教室は出来ないから。
飛行機乗って、子供を置いて、観光に来る訳じゃない・・・・だよね。

結果を楽しみにしている・・・不安はあるがね。

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