今日はノア教室。それが自宅でバラを進めたらしいんだけれど、旦那さんに何か良く無いから先生に見て貰ったら?・・・・と言われて・・・って。
そんな中、アトリエにあるかぐやの作品を見てため息・・・・凄いわっ・・・って。
そうね、確かにこんなに題材が似ていると比較しちゃうのも無理は無いのね。何しろメインに女の人、そして花、更に建物、モチーフがピッタリ。
それを言うと、全く質が違うし、比べるまでも無いって言うのね・・・・それは違うのね。
その前に大事なのは、かぐやのを観て、良いなっ・・・とか、こんなの作れないかな?とか、表現が少しでも変われば差は縮まると思うのね・・・。
少なくともかぐやは、俺の横に立ちたい・・・って口にして、大変だろうし、遠いから指導らしき指導も受けずにこんなに作れるようになったのは、
理由の1つにそうしたい・・・って思っているから。そもそも今なら労作展に・・・なんて思った子供の作品が良い例で、こんなものが作りたいと掲げて、確実に人に見られる前提で作っている。そう思った瞬間、労作展かぁ・・・何か作らなくちゃなっ・・・って人とは確実に変わって来る。
意識するとはそう言うもので、良く無意識だ・・・なんて言う人もいるが、無意識の人は意識しないって言う意識を持っていると思うのね・・・。
何しろそこにはプレッシャーが掛かっちゃうから・・・とか、のん気だから何も考えていないとか、色んな事を言うのだけれど、
そう言う人は完全に自分を持っていて、仮に自分の思った通りにならなかったとしても、決断力が優れていたりする。そもそも人が作ったタイルの色しか無いのだから、何とも不便で思い通りになんてなるはずが無いのね。しかし妥協するって事でも無いのね。
そこをいかにその不便さを切り抜けられるか?とか、その時の自分の判断したものをいかに次の展開に繋げるか?だったり、仮に失敗な気分になっても、何とかリカバリーが出来ないか?とか、そんな事が問われたりするのね・・・それが自分と向き合うような作品であればあるほどね。
それが判りやすいのは大作になる。だから今のノアは葛藤中って事になる。じゃ今どんな心境なのか?と考えると、最初はこんな大きいの大丈夫かな?と半信半疑でスタートしたんだけれど、自分が思う以上にダンサーに結果が出た。しかも評価も上々である事を耳にもした。
予想以上になった・・・この時点で作りたかったフラメンコのダンサーが出来ちゃった・・・って気持ちになる。つまりこれでおしまいだったら完璧なんでしょ?・・・・でも、スペースはまだあって、その中にバラがある。ただこのバラを描いた頃は、本人も言うように何と無く選んだと言うのね・・・。
ただその何と無くって言うのも、フラメンコのダンサーと比較したら?って、気持ちの入り方が見劣りするだけで、最善だったはずなのね・・・その時の自分はね。要するに上手く行った事で、その見劣りした気持ちで始まった事が今、大きな溝にもなっていると思われるのね・・・。
そうなった理由は完全に自分の作ったフラメンコのダンサーの出来が素晴らしいから。それに見合ったバラにしよう・・・と思えば思うほど、何と無く選んでしまった・・・・と思っているバラが・・・・何でこんなの選んじゃったんだろう・・・って気持ちにさせるのね。
ここが乗り越えないとならない試練なのね・・・・自分の許容範囲を超えてしまったものを作ってしまった人はね・・・。これがスイスイ作れるって人は、まだそう言うものを作った事が無いって人だったり、そう言う事の前にきちんと切れない練習中だったり、遊びの作品だったり・・・。
理由は色々あるけれど、こう言う壁みたいなものにぶつかった理由はプレッシャーなのね。しかもそのモチーフが絶対欲しいものであれば、フラメンコのダンサーのように、頑張る・・・って気力や気迫みたいな気持ちで乗り切れる。でも、何と無く・・・って言うものでは、それが半減する。
だからこそ、これだ・・・ってモチーフで始めないと、上手くなればなるほど、こう言う事が起きたりする。でもね、ノアも適当に決めた訳じゃないのね。その時はその時で最善なものを選んだと思うのね。ただ目的意識が違うって話。
例えばね、フラメンコのダンサーは好きなダンサーがいて、そのパンフを見ながら作ったりした。それが出来上がりそうになって、バックにスペインの庭なんて言う写真をいっぱい資料として持って来たのね・・・・ただバラに関してはほぼ何も無いのね・・・・。
ここなのね。つまりあんまり見ていないって事。良く観る。しかもそれが何故か?って言うのは簡単で、そもそもバラがメロン位の大きさだから。
こんなに本物よりも大きければ、いかに繊細に作るか?になる。何しろ本物よりはるかに大きいのだから、何と無く色だけで・・・とは逃げ切れない。
だって目立つのだから・・・しかも色の中で一番目立つ赤。もうここを見て下さい・・・って言っているようなもの。なのに全てのモチーフの中で、
資料が一番少なく、意識が薄い・・・・逆、逆。こんな時こそ、良く観て。最初の意識が薄かった分、ここは挽回の場所。
しかし、そんなスタートでは見劣りした見切り発車になる。でもここなのね・・・・ここを何とか65点程度に押さえられれば挽回はある。
この65点って表現は、70点だとまずまずな感じにも思えたりするが、そこに5点足りない・・・いくらか残念って感じに思えるでしょ?
ここ。そんな凄いものからは見劣りしても仕方無いのね。何しろキャリアとして3年なんだから・・・。そんなにどれもこれも最高点なんて取れるはずは無いじゃない?それが出来るならかぐやの作品見て凄いって言わなくても良いじゃない?・・・でしょ?
つまり今、仮にバラが65点で押さえられれば、左にもう1つバラはあるので挽回する場所はある。だからいかに自分の中にある下げちゃった気分じゃなくて、何とかこれ以上下がらないように・・・って頑張れるかなのね。それは本当に難しい事で、普通は心が折れちゃったりする。
恐らくこんな気持ちだと思われるのね・・・・。そうなると、何とか立て直しとなるのだけれど、1ヶ月1回だと、すでにやってしまった事を壊す事になったりする・・・。それが癖になると、壊す事にも慣れてしまい、ダメなら壊せば良いや・・・となると、これがとんでもなくダメな事で、
やって見れば判るが、きちんと張れば張るほどボンドは強力で、下地まで剥がれたり、1枚剥がそうと思ったのに目地幅が狭くて他のまで傷が付き、周辺部を壊さなくてはならなくなり、1枚が10枚になんて事は多々ある。その覚悟なら良いが、えっ・・・と思わぬ出来事に唖然なんて事もある。
ただこれだけの作品となると、壊す俺も負担になる・・・・何しろなるべく壊さないように・・・と思いつつ、それを見られるプレッシャーだったり、壊した部分をなるべく少なくして是正したいが、その是正が壊して直したのに左程変わらない・・・となると本末転倒。
それだってやって見ないと俺だって判らない・・・・。そんな気分になるのも作品が凄いから。何とも立派な作品なのね。
けれど、それだから本人も大変なのね・・・でも、そんな作品を作れるって中々出来ない事だから、大事に進めて貰いたいのね。
そう言う気持ちをキープさせる為には・・・・と数枚剥がしてやり直しをした。本人も良くなった・・・って事で、仕切り直しって感じで何より。
そんな中、思うのは何と無くの頃は何と無くで良かったのに、こんな作品を作れるようになると、本人に自覚が無いといつまでも出来たら嬉しいでは無くなっている自分に気が付かない・・・・。もう実は良いモノが作りたい・・・の気持ちがより高みを意識していないのにそっちへ進んでいる。
それがかぐやは凄いって言えば、誰もがみんなそう言うだろうけれど、そう言っているノアの作品は一体どう思われているのか?って本人は自覚が無い。これだけ作れれば相当なのに・・・・。どう見ても趣味には見えないけれどね・・・・。
でもそう言う自覚を持ってやればプレッシャーは掛かるし、けれど意識しなくても、もう出来て良かった、見えるじゃん・・・では本人も納得出来なくなっている・・・・。とても難しいのね。これが良くリピーターさんに多い、楽しいけれど・・・・苦しい・・・けど楽しいけど・・・。
そうもう単純に楽しいじゃ無くなった・・・・こんな事言う時点で、かなり上手いし、もはや見なくても趣味には見えないはずなのね。あはははは。
いずれにせよ、本気でやれば何でも楽しいだけじゃないのね。お気楽、極楽なら、読んで字のごとく、楽だわっ・・・でしょ?ねっ。
こんな作品、楽なんかじゃ作れない。けれどね、こんな作品の楽しさは作れない人には判らない。出来る人と出来ない人の差・・・それは意識。
そうしたい・・・・と思えば、何かが変わるものなのね。でもねこれで良いや・・・・仕方無い・・・・だって・・・って言えば楽になる。
楽には即効性があって、苦しい事を乗り越えたら、楽では無い何かが待っている・・・・ただそれだけ。向こうに何があるか?は乗り越えた人のみが見える景色って話・・・・世の中全てがそう。進撃の巨人のキッチフレーズじゃないけれど・・・・世の中は残酷・・・・。
出来る人と出来ない人みたいに分岐点はあって、勝つ人と負ける人みたいに分かれる。ただ、仮に負けたとしてもそこまでの道のりを経験したものは、良き指導者にもなり得るかも知れ無いし、勝った人がずっと勝ち続ける事は有得ない。
いずれにしても、答えなど無いのだけれど、挑む挑まないを決めるのは自分なんて当たり前の事を言うつもりは無いのね。そうじゃなくて、その権利も無いようにはなりたくないのね・・・・俺は。つまり権利を放棄はカッコ良いが、権利が無いのは選択権が無いのね。
やらないよ・・・なら本人の問題。やれないよ・・・は諦め。でも、やらせられないなっ・・・だと権利が無い。つまり腕が伴わないから今は無理だって事。勿論、絶対無理では無く、今は・・・ね。こうして単純に全く意味が変わって来る。
いずれにせよ、俺は全て権利の取得って感じなのね。そう言う点では弟子では無いが、誰が見てもそう見て貰えるような作品である。
だからこそ大胆にかつ繊細に・・・なのね。そして何とか切り抜けて欲しいのね・・・・。
そんなこんなでお教室が終わった後、アクアリウムバスでの下地は少しずつ終わる中、この小物で人目に付くか?となると、心もとない。
そこでメインになるkatsu作品として際立つものの製作となるのだけれど・・・・
そんな中、アトリエにあるかぐやの作品を見てため息・・・・凄いわっ・・・って。
そうね、確かにこんなに題材が似ていると比較しちゃうのも無理は無いのね。何しろメインに女の人、そして花、更に建物、モチーフがピッタリ。
それを言うと、全く質が違うし、比べるまでも無いって言うのね・・・・それは違うのね。
その前に大事なのは、かぐやのを観て、良いなっ・・・とか、こんなの作れないかな?とか、表現が少しでも変われば差は縮まると思うのね・・・。
少なくともかぐやは、俺の横に立ちたい・・・って口にして、大変だろうし、遠いから指導らしき指導も受けずにこんなに作れるようになったのは、
理由の1つにそうしたい・・・って思っているから。そもそも今なら労作展に・・・なんて思った子供の作品が良い例で、こんなものが作りたいと掲げて、確実に人に見られる前提で作っている。そう思った瞬間、労作展かぁ・・・何か作らなくちゃなっ・・・って人とは確実に変わって来る。
意識するとはそう言うもので、良く無意識だ・・・なんて言う人もいるが、無意識の人は意識しないって言う意識を持っていると思うのね・・・。
何しろそこにはプレッシャーが掛かっちゃうから・・・とか、のん気だから何も考えていないとか、色んな事を言うのだけれど、
そう言う人は完全に自分を持っていて、仮に自分の思った通りにならなかったとしても、決断力が優れていたりする。そもそも人が作ったタイルの色しか無いのだから、何とも不便で思い通りになんてなるはずが無いのね。しかし妥協するって事でも無いのね。
そこをいかにその不便さを切り抜けられるか?とか、その時の自分の判断したものをいかに次の展開に繋げるか?だったり、仮に失敗な気分になっても、何とかリカバリーが出来ないか?とか、そんな事が問われたりするのね・・・それが自分と向き合うような作品であればあるほどね。
それが判りやすいのは大作になる。だから今のノアは葛藤中って事になる。じゃ今どんな心境なのか?と考えると、最初はこんな大きいの大丈夫かな?と半信半疑でスタートしたんだけれど、自分が思う以上にダンサーに結果が出た。しかも評価も上々である事を耳にもした。
予想以上になった・・・この時点で作りたかったフラメンコのダンサーが出来ちゃった・・・って気持ちになる。つまりこれでおしまいだったら完璧なんでしょ?・・・・でも、スペースはまだあって、その中にバラがある。ただこのバラを描いた頃は、本人も言うように何と無く選んだと言うのね・・・。
ただその何と無くって言うのも、フラメンコのダンサーと比較したら?って、気持ちの入り方が見劣りするだけで、最善だったはずなのね・・・その時の自分はね。要するに上手く行った事で、その見劣りした気持ちで始まった事が今、大きな溝にもなっていると思われるのね・・・。
そうなった理由は完全に自分の作ったフラメンコのダンサーの出来が素晴らしいから。それに見合ったバラにしよう・・・と思えば思うほど、何と無く選んでしまった・・・・と思っているバラが・・・・何でこんなの選んじゃったんだろう・・・って気持ちにさせるのね。
ここが乗り越えないとならない試練なのね・・・・自分の許容範囲を超えてしまったものを作ってしまった人はね・・・。これがスイスイ作れるって人は、まだそう言うものを作った事が無いって人だったり、そう言う事の前にきちんと切れない練習中だったり、遊びの作品だったり・・・。
理由は色々あるけれど、こう言う壁みたいなものにぶつかった理由はプレッシャーなのね。しかもそのモチーフが絶対欲しいものであれば、フラメンコのダンサーのように、頑張る・・・って気力や気迫みたいな気持ちで乗り切れる。でも、何と無く・・・って言うものでは、それが半減する。
だからこそ、これだ・・・ってモチーフで始めないと、上手くなればなるほど、こう言う事が起きたりする。でもね、ノアも適当に決めた訳じゃないのね。その時はその時で最善なものを選んだと思うのね。ただ目的意識が違うって話。
例えばね、フラメンコのダンサーは好きなダンサーがいて、そのパンフを見ながら作ったりした。それが出来上がりそうになって、バックにスペインの庭なんて言う写真をいっぱい資料として持って来たのね・・・・ただバラに関してはほぼ何も無いのね・・・・。
ここなのね。つまりあんまり見ていないって事。良く観る。しかもそれが何故か?って言うのは簡単で、そもそもバラがメロン位の大きさだから。
こんなに本物よりも大きければ、いかに繊細に作るか?になる。何しろ本物よりはるかに大きいのだから、何と無く色だけで・・・とは逃げ切れない。
だって目立つのだから・・・しかも色の中で一番目立つ赤。もうここを見て下さい・・・って言っているようなもの。なのに全てのモチーフの中で、
資料が一番少なく、意識が薄い・・・・逆、逆。こんな時こそ、良く観て。最初の意識が薄かった分、ここは挽回の場所。
しかし、そんなスタートでは見劣りした見切り発車になる。でもここなのね・・・・ここを何とか65点程度に押さえられれば挽回はある。
この65点って表現は、70点だとまずまずな感じにも思えたりするが、そこに5点足りない・・・いくらか残念って感じに思えるでしょ?
ここ。そんな凄いものからは見劣りしても仕方無いのね。何しろキャリアとして3年なんだから・・・。そんなにどれもこれも最高点なんて取れるはずは無いじゃない?それが出来るならかぐやの作品見て凄いって言わなくても良いじゃない?・・・でしょ?
つまり今、仮にバラが65点で押さえられれば、左にもう1つバラはあるので挽回する場所はある。だからいかに自分の中にある下げちゃった気分じゃなくて、何とかこれ以上下がらないように・・・って頑張れるかなのね。それは本当に難しい事で、普通は心が折れちゃったりする。
恐らくこんな気持ちだと思われるのね・・・・。そうなると、何とか立て直しとなるのだけれど、1ヶ月1回だと、すでにやってしまった事を壊す事になったりする・・・。それが癖になると、壊す事にも慣れてしまい、ダメなら壊せば良いや・・・となると、これがとんでもなくダメな事で、
やって見れば判るが、きちんと張れば張るほどボンドは強力で、下地まで剥がれたり、1枚剥がそうと思ったのに目地幅が狭くて他のまで傷が付き、周辺部を壊さなくてはならなくなり、1枚が10枚になんて事は多々ある。その覚悟なら良いが、えっ・・・と思わぬ出来事に唖然なんて事もある。
ただこれだけの作品となると、壊す俺も負担になる・・・・何しろなるべく壊さないように・・・と思いつつ、それを見られるプレッシャーだったり、壊した部分をなるべく少なくして是正したいが、その是正が壊して直したのに左程変わらない・・・となると本末転倒。
それだってやって見ないと俺だって判らない・・・・。そんな気分になるのも作品が凄いから。何とも立派な作品なのね。
けれど、それだから本人も大変なのね・・・でも、そんな作品を作れるって中々出来ない事だから、大事に進めて貰いたいのね。
そう言う気持ちをキープさせる為には・・・・と数枚剥がしてやり直しをした。本人も良くなった・・・って事で、仕切り直しって感じで何より。
そんな中、思うのは何と無くの頃は何と無くで良かったのに、こんな作品を作れるようになると、本人に自覚が無いといつまでも出来たら嬉しいでは無くなっている自分に気が付かない・・・・。もう実は良いモノが作りたい・・・の気持ちがより高みを意識していないのにそっちへ進んでいる。
それがかぐやは凄いって言えば、誰もがみんなそう言うだろうけれど、そう言っているノアの作品は一体どう思われているのか?って本人は自覚が無い。これだけ作れれば相当なのに・・・・。どう見ても趣味には見えないけれどね・・・・。
でもそう言う自覚を持ってやればプレッシャーは掛かるし、けれど意識しなくても、もう出来て良かった、見えるじゃん・・・では本人も納得出来なくなっている・・・・。とても難しいのね。これが良くリピーターさんに多い、楽しいけれど・・・・苦しい・・・けど楽しいけど・・・。
そうもう単純に楽しいじゃ無くなった・・・・こんな事言う時点で、かなり上手いし、もはや見なくても趣味には見えないはずなのね。あはははは。
いずれにせよ、本気でやれば何でも楽しいだけじゃないのね。お気楽、極楽なら、読んで字のごとく、楽だわっ・・・でしょ?ねっ。
こんな作品、楽なんかじゃ作れない。けれどね、こんな作品の楽しさは作れない人には判らない。出来る人と出来ない人の差・・・それは意識。
そうしたい・・・・と思えば、何かが変わるものなのね。でもねこれで良いや・・・・仕方無い・・・・だって・・・って言えば楽になる。
楽には即効性があって、苦しい事を乗り越えたら、楽では無い何かが待っている・・・・ただそれだけ。向こうに何があるか?は乗り越えた人のみが見える景色って話・・・・世の中全てがそう。進撃の巨人のキッチフレーズじゃないけれど・・・・世の中は残酷・・・・。
出来る人と出来ない人みたいに分岐点はあって、勝つ人と負ける人みたいに分かれる。ただ、仮に負けたとしてもそこまでの道のりを経験したものは、良き指導者にもなり得るかも知れ無いし、勝った人がずっと勝ち続ける事は有得ない。
いずれにしても、答えなど無いのだけれど、挑む挑まないを決めるのは自分なんて当たり前の事を言うつもりは無いのね。そうじゃなくて、その権利も無いようにはなりたくないのね・・・・俺は。つまり権利を放棄はカッコ良いが、権利が無いのは選択権が無いのね。
やらないよ・・・なら本人の問題。やれないよ・・・は諦め。でも、やらせられないなっ・・・だと権利が無い。つまり腕が伴わないから今は無理だって事。勿論、絶対無理では無く、今は・・・ね。こうして単純に全く意味が変わって来る。
いずれにせよ、俺は全て権利の取得って感じなのね。そう言う点では弟子では無いが、誰が見てもそう見て貰えるような作品である。
だからこそ大胆にかつ繊細に・・・なのね。そして何とか切り抜けて欲しいのね・・・・。
そんなこんなでお教室が終わった後、アクアリウムバスでの下地は少しずつ終わる中、この小物で人目に付くか?となると、心もとない。
そこでメインになるkatsu作品として際立つものの製作となるのだけれど・・・・