今日はみどり教室。そうね、ここの所の棟梁の作品を見ていれば、相席をするみどりにはプレッシャーにもなるだろうし、相席となると、どうしてもみどりよりも棟梁の時間が多くなるし、久しぶりに本気で見て見ようかな・・・と思うと、当然あっちこっち言いたくなったりする・・・。
関係性と言うのなら、お母さんとそこそこ年頃の娘みたいなものに似ていると思うのね・・・きっと。これがもしまだまだの子供なら、目線も上で始められるが、そこそこ・・・この表現は1手、間違えたりすれば、そこを突いて来そうな感じがするでしょ?まっ手強いって感じね。
そりゃ弟子とは言え、まだまだ俺も目指しているものがあるのだから、その上での指導なのだから、そりゃ少しずつは進歩もあるだろうが、追い掛けて来る成長速度って言うのは、とても早く感じるものでね・・・きっと子供と自分なんて場合だと、方や成長と方や老いなんて事になれば、
その速度の感じ方は非常に大きくなるだろうし・・・そんな感じに似ているかも知れないが、上手くなったと言われるようになった弟子なんて相手にすれば、そこまで教えて来たのも自分だし、当然小難しい事を考えているだろうし・・・当然、こちらにプレッシャーを感じさせる圧みたいなものもある。
何しろ上手くなったのだから・・・そこを更に・・・となれば、更にとは何だ?となるでしょ・・・・。ただね、人はその日の気分なんてもんもあって、聞く耳があるか無いか?・・・みたいな事もあったりする。これもまた幼い頃は簡単に、ハーイで済んだが、中々一筋縄では行かなくなる。
あんな感じね・・・きっと。その確認みたいな事と、前回のみどりと今日までのみどりとの時間の中での変化があったか?無いか?の気分調べみたいな時間が、本題に入る前の枕な時間が送迎の車内なんかで始まったりするのね。んで、どうなの?・・・弟子には割と雑にこの6文字だったりする。
特に何も無いです・・・って言えば、じゃ・・・って事で、色々と言って見るが、えっと・・・と何かがあったのなら、それがどの程度なのかで、今日は辞めとくかっ・・・とか、ひとまず元に戻すか・・・とか、向き合い方を変えたりする。つまり自己申告制。
ただ大抵、顔を見れば今の状況が良いか、悪いか?くらいは、お母さんが子供に出来る事なのだから、しっかりと見ていれば、変化があったか?無いか?は感じられたリもする・・・まっここも感じる。そもそも五感なんてもんは誰にでもあって、それを本気で使ったり、磨いたりしなかったとしても、
後に人の気配・・・みたいに、敏感なんてもんも感だし、それを呑気に安全って思えば、車が避けるとでも思っているから、感なんて何処にも存在しなくなる。まっ、いずれにせよ、こんなもんいらない・・・って人には全く用事の無いもんだからね。ただ、弟子だからきっとみどりはいる人なんだろうね。
さて、そんな車内での数分をみどりの様子を聞くのか?はたまた、俺の様子から話すのか?でいささか状況は変わって来る。それはパスをするのか?シュートをするのか?とか、右か左か?みたいにどちらか一方をスタートさせる訳だから、犯人が誰か?って推理小説と、犯人はこいつだけど、どうしてこんな
犯行に及んだか・・・みたいな手法のように、変わると思うのね。そこで今日は俺の様子って方から初めて見たのね。まっ、普通はどうなの?って相手からなんでね・・・勿論、ある程度ブログで読み取る事は出来るだろうけれど、自分の口から話すのだから、細かなニュアンスも変わって来る。
ってな具合で・・・俺はどうかな?・・・つまりみどりから見て平常心に見えるのなら、そこそこ本気出しても、間違えの無い指導を出来るかな?
俺・・・みたいな話で、そうね、本気出す時は、間違えの無い方が良いし、当然本気なら声も張るかも知れないし、突っ込んだ話もするだろうし・・
ただ、本人が平気だ普通だなんて、一番信用ならないから、どうかな?であって、教わる側が普通に見えるのなら、まずまずだろうって判断したんだし・・・ただね、こんな事を聞く時点で、俺の評価では、今の俺は左程よろしくは無いと思うが、どちらかと言うと、自分に甘い点を付けないから、
もし自分の点を厳しく付けて、今日は弱っているから、いつもよりも声を張って・・・なんて事になると、相手は普通だと思っていたら、言い過ぎになってしまうし、本気を出す時は幾分考えたりもする。こちらにもプレッシャーが掛かるような作品の指導なのだから・・・。
まっ、そんな確認のやり取りの後の指導って言うのは、先日の棟梁の肘の件と同じような事で、スカートの縦ラインばかりを暫定的に入れているのを、横ラインを入れて、終わりを決める事。そしてその終わり方は、俺のウミウシを良く見て・・・。
それと気分でインチキな影を入れない事。資料に基づいて、この影をこの色にしたのだから、こことここは同じ色って感じに、資料を移動させるような感じにする。だから資料とにらめっこになる。最初は何でも真似から・・・って先人の優れた人達が言うでしょ?だから俺達も・・なのね。
己であって、己であらず・・・まっ、どうでも良い話だが、棟梁とみどりの作品は上っ面で見れば、単に女の人が真ん中にいて似ているように見えるが、全く違うもので、半魚人と人魚くらい違うのね。半魚人は男で人。人魚は女で魚。って感じにね。
つまり棟梁の女の人は自分であり、みどりは娘であり、第三者を作っている事になる。更に言えば弟子って言うのなら、上手いに越した事が無いのだから、上手いのなら・・・時事ネタも入れれば、将棋なら飛車角抜きでも良いんじゃないの?・・・って事になったりする。
つまりモザイクで言ったら色抜きでも・・・なんてどうだろうか?追い掛けて来る棟梁は、自分自身を色鮮やかに描き、弟子のみどりは娘をモノトーンで描く・・・ここまでなら、比較的単純な説明なんだけれど、ここまでだと単純過ぎるから、もっと高度に見せたくは無いか?・・・って、
悪魔なんだか、天使なんだかのささやきは、いにしえの手法から学ぶに、そもそも書いてある文字の裏側にある真意なんてもんのやり取りがあるのなら、何も娘です・・・あぁそうですか、じゃ若く綺麗に作りなさいな・・・はいおしまい。なんだけれど、これを更に上にするには・・・。
娘なんてもんは、血が繋がってて、見掛けが似ていようがいまいが、何らかの形で内面なんてもんが似ていたりもする。しかもだ、誰がその子に思想を植え付けた?大抵、母親なんじゃないのかな?・・・じゃ、どの位パーセントかは判らないけれど、自分なんじゃん。
大体、自分が怪我したら誰でも痛いもので、けれど親なんてもんは子供が怪我すると自分の痛さに感じるんだろっ?って話。情けないが、この歳で親では無いんで、ここはあくまで聞いた話・・・。ならば、やはり自分がいくらか入っているように・・・ここなのね・・・ように。
つまり比喩。じゃ何をどう自分を入れるか?になるが、ついつい良い所を入れようとするものだろうね。だって自分の悪い所を入れるなんて・・・ってね。そこを弟子なら遠慮はいらないから、あえて言うなら自分の悪さの露呈の方が良く無いか?ってな話なのね。
こんなにダメだった・・・ってね。だからそうなるな・・・なんじゃないのかな?これがね、幸せでたまらんって人生なら、もっと幸せに・・・でも良いから好きにすればだけれど、もしこんな所がダメだった・・・って言うのなら、そこから脱出なんじゃないのかな?それもまた幸せとね。
それでね、こちら側に自分の思う悪い事を徹底的に描く事・・・それからの脱出する娘の絵なのか?それとも、自分の教えを抱いて出て行く娘が開ける扉は、もしかすると、自分が開けられなかった扉を開けてくれる絵だったりする絵にも見えたりして・・・・。
だから向こうが何だか判らない・・・けれど誰でも向こうに光が差していて欲しい・・・親だから・・・なんじゃないのかな?だからこそ、辛抱してバックは辛い事を描くべきなんじゃないのかな?・・・ってね。これはまだ言って無いけれど、以前みどりに作品を作らせて貰ったのね・・・。
それはタロットカードのような上下が同じような絵の女の子だったのね。まっある意味、これを左右に同じものを白で作ると、俺の作品よりお洒落版になるんじゃないのかな?ただそのカードはかなりえぐみのあるカードだったりするかも知れないけれど・・・・。
いずれにせよ、俺はこう思うのね・・・エリートならデザインなんかを学校で習っているだろうね・・・じゃデッサン力があってのモザイクをする訳だって事。しかしね、そんな肩書が無いのなら、そうじゃ無い事を伸ばさないと、何処に勝ち目があるんだろうか?・・・って思わない?
大体、長く続けて、まさかと思うけれど、今更デッサン力を挽回しようなんて思って無いよね?・・・それは今より上手くなれば良いね・・・くらいで十分。むしろ、エリートじゃないモザイクの仕方があると思うんだよね・・・俺は。それが情緒だと思うのね・・・。
人とは違う何か?って言うのは、そもそも技術も大事だけれど、そのモノの考え方だったりすると思うのね。そのモノの考え方が構想になり、それを道具や素材を使って表現をする。しかも、それにラッカンを押すなんて野暮な事をするんじゃなくて、あれ・・これってあの人のかい?・・・・
って具合に、見ただけでそう思われる。それこそが個性であって、これ誰が作ったの?・・・・では、大量生産なものになってしまうのね。ただ、それには、知られないとそもそもそうにはならないんだけれどね・・・・まっいずれにせよ、弟子なんで、こんな指導を本気でやったら、途中疲れちゃったのね・・・・最初から飛ばしちゃったから。それで早い段階で、今日はもう良いだろっ・・・なんて言って見た・・・あはははは。
そんなこんな中、ちょっぴりウミウシ。
関係性と言うのなら、お母さんとそこそこ年頃の娘みたいなものに似ていると思うのね・・・きっと。これがもしまだまだの子供なら、目線も上で始められるが、そこそこ・・・この表現は1手、間違えたりすれば、そこを突いて来そうな感じがするでしょ?まっ手強いって感じね。
そりゃ弟子とは言え、まだまだ俺も目指しているものがあるのだから、その上での指導なのだから、そりゃ少しずつは進歩もあるだろうが、追い掛けて来る成長速度って言うのは、とても早く感じるものでね・・・きっと子供と自分なんて場合だと、方や成長と方や老いなんて事になれば、
その速度の感じ方は非常に大きくなるだろうし・・・そんな感じに似ているかも知れないが、上手くなったと言われるようになった弟子なんて相手にすれば、そこまで教えて来たのも自分だし、当然小難しい事を考えているだろうし・・・当然、こちらにプレッシャーを感じさせる圧みたいなものもある。
何しろ上手くなったのだから・・・そこを更に・・・となれば、更にとは何だ?となるでしょ・・・・。ただね、人はその日の気分なんてもんもあって、聞く耳があるか無いか?・・・みたいな事もあったりする。これもまた幼い頃は簡単に、ハーイで済んだが、中々一筋縄では行かなくなる。
あんな感じね・・・きっと。その確認みたいな事と、前回のみどりと今日までのみどりとの時間の中での変化があったか?無いか?の気分調べみたいな時間が、本題に入る前の枕な時間が送迎の車内なんかで始まったりするのね。んで、どうなの?・・・弟子には割と雑にこの6文字だったりする。
特に何も無いです・・・って言えば、じゃ・・・って事で、色々と言って見るが、えっと・・・と何かがあったのなら、それがどの程度なのかで、今日は辞めとくかっ・・・とか、ひとまず元に戻すか・・・とか、向き合い方を変えたりする。つまり自己申告制。
ただ大抵、顔を見れば今の状況が良いか、悪いか?くらいは、お母さんが子供に出来る事なのだから、しっかりと見ていれば、変化があったか?無いか?は感じられたリもする・・・まっここも感じる。そもそも五感なんてもんは誰にでもあって、それを本気で使ったり、磨いたりしなかったとしても、
後に人の気配・・・みたいに、敏感なんてもんも感だし、それを呑気に安全って思えば、車が避けるとでも思っているから、感なんて何処にも存在しなくなる。まっ、いずれにせよ、こんなもんいらない・・・って人には全く用事の無いもんだからね。ただ、弟子だからきっとみどりはいる人なんだろうね。
さて、そんな車内での数分をみどりの様子を聞くのか?はたまた、俺の様子から話すのか?でいささか状況は変わって来る。それはパスをするのか?シュートをするのか?とか、右か左か?みたいにどちらか一方をスタートさせる訳だから、犯人が誰か?って推理小説と、犯人はこいつだけど、どうしてこんな
犯行に及んだか・・・みたいな手法のように、変わると思うのね。そこで今日は俺の様子って方から初めて見たのね。まっ、普通はどうなの?って相手からなんでね・・・勿論、ある程度ブログで読み取る事は出来るだろうけれど、自分の口から話すのだから、細かなニュアンスも変わって来る。
ってな具合で・・・俺はどうかな?・・・つまりみどりから見て平常心に見えるのなら、そこそこ本気出しても、間違えの無い指導を出来るかな?
俺・・・みたいな話で、そうね、本気出す時は、間違えの無い方が良いし、当然本気なら声も張るかも知れないし、突っ込んだ話もするだろうし・・
ただ、本人が平気だ普通だなんて、一番信用ならないから、どうかな?であって、教わる側が普通に見えるのなら、まずまずだろうって判断したんだし・・・ただね、こんな事を聞く時点で、俺の評価では、今の俺は左程よろしくは無いと思うが、どちらかと言うと、自分に甘い点を付けないから、
もし自分の点を厳しく付けて、今日は弱っているから、いつもよりも声を張って・・・なんて事になると、相手は普通だと思っていたら、言い過ぎになってしまうし、本気を出す時は幾分考えたりもする。こちらにもプレッシャーが掛かるような作品の指導なのだから・・・。
まっ、そんな確認のやり取りの後の指導って言うのは、先日の棟梁の肘の件と同じような事で、スカートの縦ラインばかりを暫定的に入れているのを、横ラインを入れて、終わりを決める事。そしてその終わり方は、俺のウミウシを良く見て・・・。
それと気分でインチキな影を入れない事。資料に基づいて、この影をこの色にしたのだから、こことここは同じ色って感じに、資料を移動させるような感じにする。だから資料とにらめっこになる。最初は何でも真似から・・・って先人の優れた人達が言うでしょ?だから俺達も・・なのね。
己であって、己であらず・・・まっ、どうでも良い話だが、棟梁とみどりの作品は上っ面で見れば、単に女の人が真ん中にいて似ているように見えるが、全く違うもので、半魚人と人魚くらい違うのね。半魚人は男で人。人魚は女で魚。って感じにね。
つまり棟梁の女の人は自分であり、みどりは娘であり、第三者を作っている事になる。更に言えば弟子って言うのなら、上手いに越した事が無いのだから、上手いのなら・・・時事ネタも入れれば、将棋なら飛車角抜きでも良いんじゃないの?・・・って事になったりする。
つまりモザイクで言ったら色抜きでも・・・なんてどうだろうか?追い掛けて来る棟梁は、自分自身を色鮮やかに描き、弟子のみどりは娘をモノトーンで描く・・・ここまでなら、比較的単純な説明なんだけれど、ここまでだと単純過ぎるから、もっと高度に見せたくは無いか?・・・って、
悪魔なんだか、天使なんだかのささやきは、いにしえの手法から学ぶに、そもそも書いてある文字の裏側にある真意なんてもんのやり取りがあるのなら、何も娘です・・・あぁそうですか、じゃ若く綺麗に作りなさいな・・・はいおしまい。なんだけれど、これを更に上にするには・・・。
娘なんてもんは、血が繋がってて、見掛けが似ていようがいまいが、何らかの形で内面なんてもんが似ていたりもする。しかもだ、誰がその子に思想を植え付けた?大抵、母親なんじゃないのかな?・・・じゃ、どの位パーセントかは判らないけれど、自分なんじゃん。
大体、自分が怪我したら誰でも痛いもので、けれど親なんてもんは子供が怪我すると自分の痛さに感じるんだろっ?って話。情けないが、この歳で親では無いんで、ここはあくまで聞いた話・・・。ならば、やはり自分がいくらか入っているように・・・ここなのね・・・ように。
つまり比喩。じゃ何をどう自分を入れるか?になるが、ついつい良い所を入れようとするものだろうね。だって自分の悪い所を入れるなんて・・・ってね。そこを弟子なら遠慮はいらないから、あえて言うなら自分の悪さの露呈の方が良く無いか?ってな話なのね。
こんなにダメだった・・・ってね。だからそうなるな・・・なんじゃないのかな?これがね、幸せでたまらんって人生なら、もっと幸せに・・・でも良いから好きにすればだけれど、もしこんな所がダメだった・・・って言うのなら、そこから脱出なんじゃないのかな?それもまた幸せとね。
それでね、こちら側に自分の思う悪い事を徹底的に描く事・・・それからの脱出する娘の絵なのか?それとも、自分の教えを抱いて出て行く娘が開ける扉は、もしかすると、自分が開けられなかった扉を開けてくれる絵だったりする絵にも見えたりして・・・・。
だから向こうが何だか判らない・・・けれど誰でも向こうに光が差していて欲しい・・・親だから・・・なんじゃないのかな?だからこそ、辛抱してバックは辛い事を描くべきなんじゃないのかな?・・・ってね。これはまだ言って無いけれど、以前みどりに作品を作らせて貰ったのね・・・。
それはタロットカードのような上下が同じような絵の女の子だったのね。まっある意味、これを左右に同じものを白で作ると、俺の作品よりお洒落版になるんじゃないのかな?ただそのカードはかなりえぐみのあるカードだったりするかも知れないけれど・・・・。
いずれにせよ、俺はこう思うのね・・・エリートならデザインなんかを学校で習っているだろうね・・・じゃデッサン力があってのモザイクをする訳だって事。しかしね、そんな肩書が無いのなら、そうじゃ無い事を伸ばさないと、何処に勝ち目があるんだろうか?・・・って思わない?
大体、長く続けて、まさかと思うけれど、今更デッサン力を挽回しようなんて思って無いよね?・・・それは今より上手くなれば良いね・・・くらいで十分。むしろ、エリートじゃないモザイクの仕方があると思うんだよね・・・俺は。それが情緒だと思うのね・・・。
人とは違う何か?って言うのは、そもそも技術も大事だけれど、そのモノの考え方だったりすると思うのね。そのモノの考え方が構想になり、それを道具や素材を使って表現をする。しかも、それにラッカンを押すなんて野暮な事をするんじゃなくて、あれ・・これってあの人のかい?・・・・
って具合に、見ただけでそう思われる。それこそが個性であって、これ誰が作ったの?・・・・では、大量生産なものになってしまうのね。ただ、それには、知られないとそもそもそうにはならないんだけれどね・・・・まっいずれにせよ、弟子なんで、こんな指導を本気でやったら、途中疲れちゃったのね・・・・最初から飛ばしちゃったから。それで早い段階で、今日はもう良いだろっ・・・なんて言って見た・・・あはははは。
そんなこんな中、ちょっぴりウミウシ。