今日は午後からリピーターさん教室。って事で、それまでは金魚の壁画。
まぁ地味ぃぃには進んでいる。そんなこんなのお教室は、正直何も画像からは伝わらないだろうけど、結構面倒な話をしたのね。例えば、タイルを切るって言うのは、料理なら大根を切るって感じになると思うのね。同じ切る繋がりって事に例えればね。だから最初は猫さんの手ね・・・。
こんな感じな事だから、タイルニッパーは手は挟むなんて事に気をつけて・・・なんて事や、ニッパーでは手は切れないから・・・とか、諸注意から始まると、おっかなびっくりで切るから、最初は柔らかいペキペキタイルだったりする。そうね、豆腐にす~っと包丁が入るって感じかな?
子供なら、おー切れたぁって喜ぶかも知れないし、それが大根なら、ちょっと力がいるし、かぼちゃなら切れないと思うのね。そうやって食材でハードルが上がるのなら、1cmタイルはそこそこ硬く、しかも小さいから、数ミリのパーツを繰り返し切らないとならないから、果てしなく大変なのね。
所が例外ってのは、どの分野でも珍しい事では無く、男の人なら硬さに問題は無いけど、女の人とは悩み事が違ったりするのね。でも常に良い事と悪い事は背中合わせで、切れないと切れないって悩みになるけれど、切れるとどうなる?って言う話は、切れない人は、切れる人は悩み無しと思うかも
知れないが、では切れる人はどう感じるか?なのね・・・まさかもうそんな話をしなくちゃならないとはね。って言うのが本音なんだけど。例えば、幼稚園や保育園から小学生になって中学生って段々上がって行くし、学校さえ行けば進級は出来るけれど、留年とか浪人なんて言葉が高校以上で、
聞く事になる。つまり難しい事になれば、誰でも出来る訳じゃ無くなるのね。恐らくそれが大作になるのね。それも各々の大作ってもので、月に1回の人の大作とか、1ヶ月集中なんて事になると、夏期講習的に特訓講座みたいになるだろうし、単純に掛けた時間が大作の定義みたいになる。
だからフェルメールの人のように月に1回でも、2年で100時間を超えるなんて事もあれば、キウイのような十数年に渡って掛かった大作もあるし、労作展の子供のように、子供であっても、初めてでも、1シーズンで100時間を超えるようだと、あれだけの大作になるのね。
そう考えると、この方は月に2回のペースで進んで行くんだけど、ぺきぺきで進んだフェルメールの人のように、同じ2年掛かると、倍の時間になるんだけど、1パーツの大きさが違うから、恐らく終わる事は無いと思うのね。そんな果てしない事を初めてやるのだから、たどり着くだけでも十分。
でもその果てしない事が、そもそも大丈夫なんて人もいて、この方も男の人には珍しく、むしろ果てしなさ大好きな感じなのね。そもそもが果てしないって言うのは、終わりが見えずに完成が見たい・・・を優先しているから起きるのであって、いつか終わるって気持ちなら、今日の分進めば、
今日の分だけ終わるの繰り返しなのね。だから来れば何とかなるのね。ただそのそもそも果てしなさが大丈夫って言うのは、特技のようなもので、それも1つの技にもなり得るんだけど、本人に自覚は無いのね。だって出来るから・・・。それが出来ない人は、何しろ最後までたどり着く事を重視。
って事になるのだけれど、これを例えば、マラソンだとする。何しろ最後までたどり着く・・・初めてなんだからって、励ましてたどり着いた感じってどんなイメージか?って言うと、フラフラな感じで、途中歩いたりした感じに思えないかな?それを同じ初めてでも、トラックで1万メートルは、
走ったりしてました・・・って感じだと、以前、1cmタイルより硬いリップルでウォンバットを作った・・・って言うのは、硬さとそこそこの時間の体験をしているから、そんな感じに思えないかな?そんな感じの人が、最後までたどり着きました・・・って場合、汗は出ているだろうが、息が
上がって倒れ込んでいるように思うのか?タイムこそ遅いが、難なくゴールなのか?どんなイメージなのか?って言うと、ただ走り切るでは満足感に欠ける・・・みたいな感じなのね・・・本人は。勿論、具体的には言わないけれど、会話の中にそんなイメージをさせるワードが何個かあったのね。
例えば、これを半分位に切って・・・と言ったとする。わざわざ位って言葉を付けるのは、半分は難易度ありって事で、その位の誤差はアリって言う、ハードルを下げた例えだとすると、この人には大体とか付けようかな・・・とか、この人には、絶対半分みたいに、難易度をその人なりに変える
言い方をするのね。それがそろそろ言っても良いかな・・・みたいに、頃合いを見計らってね。ただそれを体調とか気分とか、問診のように会話の中で、いつもと違うような事は無いか?いつも通りか?みたいな確認をした後、じゃチャレンジ行く?みたいにね。それには果てしなさに慣れたなぁ・・・
ってものが感じられないと、厳しいのが判っているから、質の向上だけの為には言いづらいのね。所が会話の中に、きちんと切るって事を、キャベツの千切りばかりって飽きるような表現があったのね。これは出来ない人側の意見じゃないのね。大抵必死です・・・って感じが出来ない側だから。
そうなると、いつしか出来る人は質を落とさず、手も抜かないけれど、向上心を失ったりするのね。そこの位置が予定調和になるから。当たり前の普通って感じで・・・音楽なら単調になるって感じね。そこでこんな説明で緊張感とか、予定調和を崩す事にしたんだけど、本来それは、相当の上級者
であるべき人へのアドバイスになると思うのね。何故なら、果てしなさって言うのが、普通大変な事だから、その大変さにまずは慣れるって事からのスタートなのに、既にもういつか終わる・・・の気持ちが整っているから、その上の話が聞きたいみたいな事になっちゃっているのね。
でもこれが厄介で、本人にその自覚は無く、これを話してドン引きしないか?ってこっちが不安だわっ・・・って事になるのだけれど、その先って言わば、ド変態側の考え方になるのね。どう言う事か?って言うと、あくまで趣味なんだよね・・・?それなら、ここまででも十分なのに、それよりも先。
って、もはやプロとか、プロぽくとかの話でしょ?そしたら、かなり厳しい話になるでしょ・・・その話の内容が、例えばかぐやの作品の髪の毛を見て貰うと判るように、細く均等に切ったパーツを滑らかに見えるように張ってある。しかも毛先の尖らせ方も、段々細くって言う感じ。
それが出来ると、髪の毛はサラッと見えるのね。じゃ俺の金魚の尻尾。同じ1cmタイルで俺は奴の師匠って事なんだけど、そもそも金魚の尻尾をサラッと見せてどうする・・・って話なのね。金魚の尻尾はレロレロなのね。サラッじゃ無いのね。最低でもヒラヒラ。こうして表現が変わるのなら、
切り方を変えないと、そう見えるはずが無いのね。音楽でもそう。タッチってもんがあるのね。強弱。野球だってそう。ただ早いストレートなんて、若手の全力ってだけなのね。この場面は何処・・・この場面に全力ストレートなのか?外すのか?みたいな組み立てが必要なのね。
つまり本当に上手い人って言うのは、きちんと出来た上で、きちんとし過ぎない・・・とか、だらしないって言われない寸前みたいな事をしたりする事で、幅を持つもんなのね。緩急なんてもんは、毎日シャインマスカットじゃ、どんなに高級だって飽きるのね。当たり前になるから。
時よりデラウェアを入れる事で、寄りシャインマスカットの威力は増すみたいにね。プロってのは、そんなちょこざいな真似をすんのね。それをする為には、まず感じる事で、人が気が付かない事を繊細に感じる事で、フェイクするみたいな事がテクニックになったりするのね。
でもこんな話、面白いかな?・・・って話なのね。そりゃ俺が確実に成功者なら、信ぴょう性も増すから、一つの話として良いだろうが、まだ俺程度の話では、立ち位置が低すぎて、雑談にも聞こえないと思うし、はぁ?何の話・・・ってただめんどくさい話にしか聞こえないと思うのね。
ただ、この方、どうやらこの話が面白く聞こえるようで・・・結構大変なんだけどね・・・この話を広げるのは。まっ大抵は理解して貰えない前提で、時間の許す限りの全力で話すけど、弟子ならともかく、そこまで分かち合う話を受け入れてくれるのかな・・・ってのは、いつも疑問なのね。
それと俺に伝える技量があるか?ってのも、若干不安なものもあるしね。これが成功者になって同じ話なら、聞き手の耳が大きく変わるから、伝わり方もスマートになるだけだろうけど・・・。ただ、必要とあれば、いつでもやるけれど・・・って話。