今日は朝から父の薬を取りに行き、タイルの問屋さんに外用ボンドを買いに行き・・・からの実家でカットTB南篠崎店のピエロの壁画の続き。
まぁしかし、目に見える仕事はピエロの制作なんだけれど、常に考える事が仕事なのね。例えば麻布小の事・・・正式に決まれば動ける事もあるが、正式で
無い以上、やれる事がもう無いくらいに説明して来た・・・その後の保育園にしても、2027年の話として、正式では無い以上、そこまで・・・って話。
まぁとは言え、決まればこんな事をする・・・って言うのは、大体決まっているので、後は色々と巻き込んで行く為の準備とか、根回し、談合だの、まぁ、
影でコソコソやらなきゃならない事ばかり・・・なのね。しかも初めてな事が多く、誰もやった事の無い事は賛同してくれるかどうか?なんて話して見なきゃ判らないのね。
それは直接仕事の話であって、根本的に常に考える事は、人生が詰将棋的に感じちゃうのね。例えば種を撒き、水や栄養、みたいな環境を気にして、収穫なんて
事になるのなら、当然、人生の種って言うものを撒く事になるのね。ただそもそも家族がいない俺はもう人生のほとんどがモザイクの事ばかりになるのね。
だからそれについて考える。その時に駆け出しの頃は、ただ必死なだけで、何の余裕も無く毎日がただ過ぎて行ったのね。でもそれじゃ何も起こらないのね。
そりゃビミョーには起こるけれどね。でも今は、これをこうする為には、ここをこうして・・・みたいにそれをする目的を持って・・・って感じなのね。
それが何をしても。例えば老いた両親の見守りなんて事にしても、モザイクの事だけを考えれば、毎日数時間取られる事になる。この考え方ではマイナスに
感じるが、むしろその数時間さえ向き合えなかった以前よりも、今はそれでも生活出来る余裕がある・・・と感じ、時には何かなぁ・・・って気持ちには
なったとしても、きっとこんな事が出来なくなった時に、思い出となるとしたら・・・これは徳でも積んでいると考えれば良いし、これも普通に出来ない
事なら、普通じゃない事をしたいのだから、その一環とでも考えれば、少なくともマイナスな気分にはならない。勿論、家族を持てなかった事や俺がこの
名字を途絶えさせる責任なんて気持ちは忘れないし、楽しい気持ちなんてもんには程遠い。しかし、別にそれ以上もそれ以下も無いから、ここもいつも通り。
ある意味、いつか夢を追い掛ける人に出会った時に、1つの指針になる話が出来るとでも思えば、良くも悪くも先人の足跡くらいにはなる。つまり生きた証
的なものになれば、何もしなかった・・・にはならない。勿論そんな事では両親の幸せの一部にもなれないだろうが、それでも何か・・・1つでも・・・
って思うのが、モザイクで少しでも結果を残す・・・そんな事を両親が望んでもいないし、本来なら普通に家族を持つ・・・なんて言う事だったんだろうが、
それが無理だから・・・って、ずっと思っている。だからそこもプラスでもマイナスでも無い。だから普通。つまり楽しさを求めているのでも無く、歯磨きを
するのと同じように、ただ普通になっただけなのね。ただ普通って言うのは、本来、家族がいて、それを守る為に働き、その中で楽しみがあったりして、
趣味があったり、家族と泣いたり笑ったりの出来事を共有する・・・ってとてもシンプルな生き方なんだろうが、完全にそれを普通と言うなら、モザイクを
始めてからの人生は、完全に奴隷のような気持ちで、結構卑屈にやって来た。そう考えれば、むしろ両親の見守り時間って、普通の事みたいなのね。
だから、やっと奴隷気分から半歩抜け出した感じがする。人の世話をする余裕ってね。まぁしかし、そんなのはペットの世話の方が大変で、俺のは数時間。
ずっと関わっている訳じゃ無いからね。ただそれを生活の一部としてルーティンにすると、いつかそれも普通になる。つまり自分の時間が無ければ、何も
取られた気持ちにはならない。そんな風に何をしても全部が普通になる。一般常識とは違う普通ではあるけれど・・・。つまりもうイレギュラーな事に
ならない限り、普通になった。この普通が俺には今まで出来なかった事で、卑下する気持ちになっていたのなら、随分と軽減された事で普通を手に入れた。
それが余裕となると、その余裕は考える事にも余裕が生まれる。切羽詰まって、考えていた頃とは違うのね。例えば持ち時間の少ない将棋と、考える時間を
大きく持った将棋では、全く違うと思うのね。その時間の無い将棋を何十年も打った実績は、今とても余裕で何でも考えられる。追われないから。
しかも来月何にする?って言うデイ・サービスみたいな経験もしたが、学校の壁画が決まるようなら、一生残す壁画どうする?って事になると、全く重みが変わるのね。
それを余裕も無く出来る?って事。それを楽しいだけで出来る?無理に決まっているのね。つまりこれからそう言う重みのある仕事をするのなら、その重みに
対応する自分作りも必要になる。それなのに家族もいないで、自分の事ばかり・・・そりゃ信用ならないわっ・・・てな話。でもお陰で人っぽくなった。
そう考えれば、両親の見守り時間は必要と思える。それを義務だのなんだのなんて普通に考えていたら、続かない。しかもこんな程度では、浅い事も判る。
そうね、カニにはなれない。だからカニ風味になろうと努力している。でもカニじゃ無くて、あんなもん偽物だ・・・と言われ続ける。でも諦めない。
すると、いつしかカニカマと呼ぶようになると、カニとカニカマは違うものと扱われ馬鹿にはされなくなる。そして更に技術を向上させると、まるでカニ
みたい・・・となり、フェイクすら出来るようになる。美大も出ていないのに、単なるタイル屋の癖に、モザイクなんか始めたって、芸術でも無ければ
タイル屋でも無い・・・さて何処へ向かうのかな?俺・・・それがカニカマ。俺はカニカマでカニより旨いって言わせたいのね。ただそれだけなんだけれど、
それしかやる事が無いのね・・・俺の人生って。それをお客さんが笑ったり、泣いたりして見てくれて・・・時に手を合わせてくれる人もいて・・・。
それを見て、良かったね・・・俺も。って思えれば、それで良し。ただもっと良しにする為に続けるだけなのね。