2020-12-10
私は自然の力、猛威については臆病です。
懸命にコロナ院内感染の医療危機に向き合ってきた旭川厚生病院は今、立ち直りました。
■台風の経験
30年ほど前に和歌山県白浜に上陸、奈良県直撃台風がありました。このとき住んでいた自宅茶の間の北向きの窓ガラスが内側にしなりました。ガラスが割れて、風と雨がどうっと入ってきたらどうしようと、怖い思いをしました。
関西国際空港が水没した台風の折に、自宅の瓦が何枚かずれました。ご近所で屋根の一部がはがれた家がありました。大屋根の半面の瓦が全部無くなった家もありました。近年、瞬間風速50mなどという台風ニュースを見ますが、今住んでいる家はこれになると潰れるだろうと思い、戦々恐々の思いがします。
■地下水のこわさ
1980年代、90年代のころは奈良県でもまだ、100万㎡~200万㎡の大住宅地造成がいくつか進められていました。大手建設会社現場事務所長の経歴を持つ叔父が言いました。大規模造成工事をしていていちばんこわいのは地下水だと。
そういう大規模宅地造成工事では当然、事前の地下水脈調査もしているはずですが、事前調査で見つけられなかった地下水脈に叔父の工区がぶつかったのです。出水の勢いが止まらず造成工事中止。工事中止日数が、あるいは月数がどれほど要したのか聞き洩らしました。しかし、その地下水問題による採算ベースが社内的に大問題になったようで、工事現場所長であった叔父への批判が激しく、叔父を登用した役員も守り切れなかったようです。結果、叔父は退職しました。地下水出水の結末がどうなったのか、それは聞いておりません。
■雨水のこわさ
地下水の話を聞いたときに、宅地造成の県の竣工検査で、係官が最も注意してみるのは宅地擁壁であると、叔父が話していました。
宅地擁壁の外側には、小さいパイプが適当な間隔で口を出しています。これは宅地に降る雨水が地中に溜まらないよう、浸透した雨水を外に逃す仕組みになっています。
この浸透雨水を逃す擁壁パイプの内側(宅地側)に土が少しづつ固まって浸透雨水の流れが止まると、擁壁内側に水溜まりができて擁壁が倒れる原因になります。擁壁が倒れたり傾くと、家が傾きます。
このため、宅地擁壁の築造に際して擁壁裏側に砕石を詰める技術基準になっています。浸透雨水の流れが地中の土といっしょに泥水になってパイプを詰まらせないためです。竣工検査のとき、検査員は宅地擁壁の裏側のコンクリートまじかの所を鉄棒で何回か突き刺して砕石が詰められているかを確かめます。
■本川が氾濫していなくても流入河川が氾濫する
奈良県で「五七水害」と呼ばれる水害が昭和57年(1982年)にありました。奈良県中部の大和川に流入する大和川水系葛下川かつげがわが、その合流口にあたる王寺町で氾濫しました。大和川そのものは氾濫していません。
大和川が氾濫していないということは、大和川自体は支流河川からの合流水を呑めるはず。それなにの何で葛下川が氾濫するのか? 叔父に教えてもらいました。
私が知った答えは――大きな河川の方が水圧が強く、流入する支流河川の方が水圧が弱い。そのために、葛下川の水が大和川に入ることができず、大和川合流口手前で氾濫した、ということでした。
水害半年後だったか1年後だったかに、私は大和川の堤防道路を歩いて合流地点を見に行きました。見た目に確認できたことは、支流葛下川の川面が大和川の川面より狭いということだけでした。あたりまえのことなのに、このときはなぜか現地を見たかった。
でも、堤防を歩いてみて新しい発見がありました。大和川流下方向は西行、大阪府行きです。葛下川が氾濫したのは大和川左岸(南側)にある王寺町で、私が歩いて見て回ったのは右岸(北側)三郷町側の大和川堤防でした。
この三郷町側堤防内側には、大小いくつものヒューム管が口を開いていました。三郷町は信貴山縁起絵巻で知られる信貴山の麓にあります。先ごろNHK大河ドラマ『麒麟』で松永弾正信貴山城滅亡の舞台にもなりました。町域全体に信貴山麓から大和川に向かって傾斜が大きい。山手からの雨水がすべて大和川に入ります。
開口小河川、開口用水路、都市雨水排水路など、すべての水が堤防の上面より下に設置されたヒューム管をくぐって大和川に入っています。
ということは、大和川の水面が流入してくるヒューム管の高さに達すると、流入ストップになります。堤防の外側の大和川への入り口で、小河川、用水路、都市雨水排水路などが溢れ始めるという理屈になります。
そして、大和川に流入している小河川、用水路、都市雨水排水路の地盤高が大和川の堤防高を越えるあたりで止まります。ここまでくれば、大和川水面が堤防より低ければ、溢水が堤防を越えて大和川に流入します。大和川が氾濫していれば、氾濫している水面と同じ地盤高まで水浸かりになります。
堤防を観察して歩いて、こんなことがよくわかりました。特に身に染みて思ったことは、川水が堤防を越えたら水害が始まるとは限らないということでした。
■私の身辺にまつわる伝染病――結核、赤痢
私の祖父は母が小学校2年生のときに、肺結核で転地療養の末に亡くなりました。
2歳下の私の弟は、私のおぼつかない記憶ではたぶん3歳か4歳のころだったと思いますが、伝染病である赤痢になりました。そのころ住んでいた家に何人かの人が消毒に来たこともうっすらと記憶に残っています。私も母も感染してはいませんでした。
そんなに幼いころのおぼろげに残っている記憶の断片なので、伝染病で怖い思いをしたという気持ちは残っていません。
■『ロンドン・ペストの恐怖』 伝染病の恐ろしさを身近に感じた
2000年前後のことだったと思いますが、歴史上有名なペストの流行を書いた本を読みました。小学館地球人ライブラリー 「ロンドン・ペストの恐怖」 ダニエル・デフォー著 1994年7月20日初版第1刷発行。ダニエル・デフォーはロビンソン・クルーソーの作者ということで、今でもよく知られている著作です。アマゾンの読者批評のうちアルベール・カミユの「ペスト」よりこちらの方がいい、と評していた人がいます。
『ロンドン・ペストの恐怖』 ―本書のプロフィール― から
1665年、当時のロンドン市の人口は約50万、実にその6分の1の命を奪ったペスト禍。その恐ろしさは知っていたが、治療法を知らない当時の人々は、家の中に閉じこもるか、逃げ出すか、あるいは座して死を待つかしか方法はなかった。
当時、まだ幼少であったデフォーは長じてから、その酸鼻のようすを生き残った人々を訪ね歩いて、精細に描出する。極限の状況に置かれた人間はどんな行動を取るのか。ペストの恐怖もさることながら、デフォーは詳細な数字を示しながらそれも明かしていく。
ダニエル・デフォーは1660年生まれ。『ロビンソン・クルーソー』の代表作を残した小説家・ジャーナリスト。 1722年に刊行された本書の原題は『A Journal of the Plague Year』という。その後、世界各国で翻訳され、疫病流行・疫病史研究の古典となった。
『ロンドン・ペストの恐怖』 ―表紙カバーのコピー― から
50万都市ロンドンから8万の命が奪われた。死体を運ぶ御者さえ途中で死ぬ。たった2名の死から始まったそのペスト菌の猛威の前に治療法を知らぬ市民はなすすべもない。ロビンソンクルーソーの著者が描き出した迫真のルポルタージュ。
1665年8月22日から9月26日までの5週間の死亡者合計38,195名。――デフォーは期日と死亡者数を執拗に書き連ねていく。当時のロンドン市の人口は約50万、実にその6分の1がペストに命を奪われた。
「死体運搬を受け持つ御者が墓地に着くまでに疫病に倒れることもあった。馬はそのまま歩いて行き、車はひっくり返って死体がちらばる。教会墓地の門前にそんな御者のいない死体運搬馬車がぞろぞろといることもあった。」
始まりはドルアリ小路に住む二人の男の突然の死からだった。死亡週報に、さりげなく「疫病死2」の記事が出た。それから数カ月後、同じ教区の死亡者の数がみるみる増えていく。1週間ごとの統計で、16名、12名、18名…24名。ついに違う教区にもこの疫病は魔の手をひろげていく。
治療法もいまだ知らない当時の人々は、家の中に閉じこもるか、逃げ出すか、あるいは死を覚悟するしか道はない。‥‥路地裏から人影は消えた。
『ロビンソン・クルーソー』の作者、ダニエル・デフォーが疫病流行の恐怖を精細に描き出した知られざる傑作。
次回は、私たちが新型コロナに謙虚に対峙していくために、『ロンドン・ペストの恐怖』の一部分を紹介するつもりです。当時のペストと今の新型コロナと、私たちが身を慎んで立ち向かわねばならないことに、なんら変わることはありません。歴史から学べることは多い。
東京オリンピック開催などという世迷いごとを言う森や小池や菅や安倍、よく聞け。一日も早く、オリンピック中止宣言を世界に発信するべきでしょう。