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自宅コロナ死は他人事でない 私は自然の猛威に臆病です 台風・地下水・雨、『ロンドン・ペストの恐怖』
お勧めします
【ペスト死が始まった】 『ロンドンペストの恐怖』P14
1664年11月末か12月はじめに、ロンドンのロングエイカーだかドルアリーレインだかで、ふたりの男――ふたりともフランス人だったそうだ――がペストのために死亡したのだった。彼らが滞在していた家の者はなんとかそれを隠そうとしたが、近所の噂になってしまい、それが役人の耳に届いたのである。
当局は調査に乗りだし、真相を究明すべく、ふたりの内科医とひとりの外科医をその家に派遣し、検視をおこなわせた。はたして、医者たちはどちらの死体からも明らかな疫病の兆候を発見し、両名の死因はペストであるという所見を公表した。このことは教区役員(教区は教会行政区分の最小単位で、教区司祭2人と教区役員2人が管理運営を行っている)に報告され、彼はそれを教区役員本部に通報した。死亡週報は、いつもと変わりなく、次のように報じた。
ペスト死 2 感染教区 1
これを見た市民のあいだで不安が高まり、市中は騒然としはじめた。そのうえ、同じ年の1664年12月の最後の週に、同じ家でまたひとり、同じ病気で死んだ。
*死亡週報 18世紀以降さまざまな形で不定期に発行されていた死亡週報は、
1636年ごろロンドンの各教区ごとに教区役員が死者数と死因とを
集計し、全130教区をまとめて編集・発行するという形になった。
だが、それから6週間ほどは、疫病の兆候を示している死者がまったく出ない、平穏な日々がつづいた。ペストは去ったのだという噂が流れたりもしたが、その後、翌年2月の12日ごろだったと思うが、別の家でもうひとり死んだのだった。家は違ったが、同じ教区だったし、症状も同じだった。
そのため、市民はその界隈に注目するようになった。やがて死亡週報から、セント・ジャイルズ教区ではいつもより死亡者が増えていることがわかった。
つまり、この教区ではペストが広がっていて、大勢が死んでいるのだが、表ざたにならないように住民がひた隠しにしている恐れがあった。
市民は心底から震えあがって、やむをえない、よほど特別な用事でもないかぎり、ドルアリーレインや、そのほかの疑わしい通りをさけるようになった。
(※注)死亡週報のからは「うちペスト死」の数はわかりませんが、青文字あたり
からの状況に、コロナ禍の私たち自身の喜憂の姿を私は映し見ています。
【ペストが広がっていく】 『ロンドンペストの恐怖』P17
この最後の数字など(※1665年1月17日から1週間の死亡者数 474)はまさに恐るべきほどで、1週間の死亡者数としては、1656年のペスト流行以来の多さだった。
ところが、疫病はまたしてもすっかりしずまった。天候が寒くなり、1664年12月にはじまった冷えこみは1665年2月末までおとろえることがなかったうえ、さほど強くはないが身を切るような風も吹いていたので、死亡者数はふたたび減少し、ロンドンは生気を取り戻した。そしてだれもが、危機は過ぎさったと思いこんだのだった。
もつとも、セント・ジャイルズ教区の死亡者は多いままだった。
とりわけ1665年4月の上旬からは、毎週25人に達していた。
そして4月18日から25日にいたる1週間では、この教区で30人が埋葬されていた。このうち、ペストによるもの2名、発疹チフスによるもの8名となっていたが、どちらも同じ病気だとみなされていた。
また、先週は8名だったのが、今週は3名というぐあいに、発疹チフスによる死亡者の総数も増えていた。 ※発疹チフスの原因がシラミを媒介とする伝染病であるとわかったのは1903年です。
だれもがまたしてもぎょつとした。そして市民のあいだに動揺が広がった。なにしろ、天候も暖かくなりかけていたし、夏が間近に迫っていたからだ。それでも、翌週には、またまた希望の光がほの見えた。死亡者が減少し、合計で388名、ペストによる死者なし、発疹チフスによる死者4名になったのだ。
しかし、翌週には元のもくあみだった。疫病はほかの二、三の、すなわちホーボン区のセント・アンドルー教区にも、セント・クレメント・デインズ教区にも飛び火してしまったのだ。そのうえ、市民を愕然とさせたことに、いわゆる城内のセント・メアリ・ウール・チャーチ教区でも1名の死亡者が出た。くわしくいえば、食料品市場の近くのベアバインダーレインだった。
(注) それまでセント・ジャイルズ教区以外の城内、すなわち旧市街地のシティから
ペストが出ていなかったので、シティの住民は恐れおののきました。
合計で、ペストによる死亡者9名、発疹チフスによるもの6名であった。しかし、調べてみると、ベアバインダーレインで死亡したフランス人は、ロングエイカーの、例のペストを出した家の近くに住んでいたことがわかった。疫病を恐れて引っ越したのだが、時すでに遅く、感染していたというわけだ。
市民も数日間ははかない望みをいだいていた、が、文字どおり数日に過ぎなかった。もはやそんなことではごまかせなくなっていたのだ。家々の調査が進むと、ペストはいたるところで蔓延しており、毎日多数の人々が死んでいることが判明した。そういうわけで、希望的観測を信じつづけることはまったく不可能になった。
ペストがいまや下火になることもないほど広がってしまっているという事実は、隠しきれるものではなかった。いや、一目瞭然というべきだった。
たとえばセント・ジャイルズ教区では、ペストはあちこちの通りに侵入しており、一家全員が病の床についている家族も多かった。そして翌週の死亡週報から、疫病がいよいよ猛威をふるいはじめたことがわかった。
週報には、ペストによる死亡者はわずか14名しか記載されていなかったが、これはまったくのごまかしであった。
セント・ジャイルズ教区では計40名が埋葬されているが、たとえ死因がほかの病名になっていても、その大部分がペストによる死者なのは明らかだった。
また、死亡者が32名しか増えておらず、週報に記載された総数が385名でも、発疹チフス14、ペスト14という数字が示されていたのである。その一週間で、ペストにかかって死亡した者は、およそ50人と見積もられた。
次の死亡週報は1665年5月23日から30日までの分だったが、ペストによる死者は17名だった。
だが、セント・ジャイルズ教区での死者は全部で53名にのぼった。そらおそろしい数だ! このうち、ペストによるものは9名になっていた。
けれども、市長の要請にもとづいて、治安判事たちが徹底的に調査すると、この教区で実際にペストで死んだ者は、このほかに20人もいたことがわかった。それなのに、週報では発疹チフスなどのほかの病名になつていたのだ。
もっとも、この直後に生じた事態に比べたら、そんなことは取るに足りなかった。というのも、天候は暑くなってきたし、1665年6月の第1週から、疫病はみるみるうちに広がったからだ。
死亡者数ははね上がり、熱病だの、発疹チフスだのという項目がふくれあがった。なにしろ、だれもができるかぎり病名を隠そうとしていたのだ。隣人たちからつまはじきにされるのではないか、当局に家を閉鎖されるのではないかという恐れからだった。
家屋閉鎖は、当時はまだ実施されていなかったが、市民はこの措置をことのほか恐れていたのだ。
(注) ペスト感染者が一人でも出て家屋閉鎖の命令が出ると、その家に住む者は一歩
も戸外に出ることが許されなかった。それゆえその家屋内に住む家族も多くが
感染して死んだ。
1665年6月第2週にはいると、あいかわらず疫病がはびこっているセント・ジャイルズ教区では、死亡者は120名にのぼった。
死亡週報によれば、ペストによるものは68名にすぎなかった。だが、この教区のいつもの埋葬数から考えて、どう少なく見積もっても100人はペストで死んだにちがいない、というのがもっぱらの噂だった。