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ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(上)
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ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(中)
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ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の1)
【家屋閉鎖――家族・同居人もろとも外出禁止】『ロンドペストの恐怖』P62
市民の家の戸口を閉鎖して、その前に昼も夜も監視人をつけて、外へ出ることも、だれかが入ってくることもできないようにしたのだから、血も涙もない仕打ちに思えたのはたしかだった。なにしろ、家族のうちで健康な者は、病人のもとを離れさえすれば、ひょっとしたら助かるかもしれなかったのだ。
大勢の人々が、このような悲惨な監禁状態で死んでいった。たとえ家でペストが発生しても、自由の身でさえあったなら、病に倒れることもなかっただろう。
当初、庶民は動揺し、騒ぎたてた。閉鎖された家屋の監視を命じられていた男たちが暴行を受けたり、けがをさせられたりする事件が続発した。また、腕ずくで自宅から脱出するという事件も各所で発生した。
それでも、家屋閉鎖には個人の犠牲を正当化できるだけの公共の利益があった。だから、当時、いくら治安判事や政府当局に泣きついたところで、なんの役にも立たなかった。少なくとも、わたしの聞いたところではそうだった。
【検査員が家を閉鎖しに行ってみると‥‥】『ロンド・ペストの恐怖』P168
(注) 検査員は、各自の教区内のどの家で病気が発生し、だれが病気にかかり、
それがどのような病気なのかを調査・確認する。また疫病の疑いあるとき
は、病名が判明するまで外部との交渉を禁じる。疫病患者を発見したら、
その家屋を閉鎖するよう警吏に命令する。
家を閉鎖しに行ってみると、もう手遅れの状態になっていたのだ。家に残された人々がみんな永眠してしまってから、ようやく検査員の耳に入ることも珍しくなかった。
ぺティコートレインぞいにある2軒の家ではそろって感染者を出したが、病気のことはひた隠しに隠し、担当の検査員の目をたくみにあざむいていた。この検査員はわたしの隣人だったが、両家の人間がみんな死んだので死体を運ぶ荷馬車がいるという知らせがきて、やっと事のしだいに気づいたという。
両家の主たちは結託して、検査員が近所に見回りに来たらかわるがわる外に出て質問に答えようと、申しあわせていたのだった。つまり、お互いに相手のために嘘をついたのだ。
また、近くの家々にも頼んで、みんな元気にしているといってもらっていた。たぶん死に見舞われるまでは、これよりうまい手はないと思っていただろう。
が、死人となってはもう秘密を守ることもできず、夜の間に両家に死体運搬馬車が呼ばれてすべてが表ざたになってしまった。けれども、検査員が警吏に命じて家を閉鎖させたときには、家のなかにはたった3人しか残っていなかった。一方の家にふたりと、もう片方の家にいまにも死にそうな病人がひとりだ。
それぞれの家の家政婦が話したところでは、家に最初の病人が出たのは10日ほど前で、すでに5人を葬った、ということだった。この2世帯にはそのほかにもたくさんの家族がいたが、みんな逃げてしまっていた。病気の者も健康な者もいたし、どちらともつかない者もいたという。
【家屋閉鎖――家族・同居人もろとも外出禁止】『ロンドペストの恐怖』P171
人々は、こんなに激しく手のほどこしようのない疫病からはどのみち逃れられないし、もう生きのびられないのだという失意に沈んでいた。実際、病気の猛威がピークに達した(※1965年)8月、9月の約2カ月問に感染して命が助かった者は、まずいなかった。
そして、そのころには、(※1965年)6月と7月、および8月の初旬によく見られた病気の症状とは正反対の特徴が表われてきた。
(※1965年)6月、7月ころには人々は感染してもすぐに死ぬことはなく、長い間血液を疫病に毒されたまま生き長らえていた。しかし疫病の絶頂期にはこれとまったく逆のことが起こり、(※1965年)8月の後半2週間と9月の第3週までに感染した人々は、長くてもほんの二、三日わずらってあっけなく息をひきとった。そして、多くは感染したその日に死ぬという変わりようだった。
―― 略 ――
この時期になって、突然の死を迎える人々が前より増えたことは、数えきれない実例が裏 づけている。現にわたしの近所にもそういう家が何軒かあった。
わたしの家からそう遠くなく、シティの関門の外に住んでいたある家では、月曜日には10人の家族全員が元気そうにしていたのに、その晩にメイドと徒弟にひとりずつ感染者が出て、翌朝帰らぬ人となった。
そして、そのときにはすでにもうひとりの徒弟とふたりの子供たちにも病気がうつっていて、 ひとりは同じ日の夕方に、あとのふたりは一夜明けて水曜日に死んだ。
そうこうして土曜日の正午までに、その家の主人と妻、4人の子供、そして4人の使用人がひとり残らずこの世を去ってしまった。
(注1) この時代のロンドン都市部には王族や有爵位の宮廷貴人、高位要職者や新興
商工業者が集住して栄えていました。これら貴人、要人、商工業者に使われ
ている奉公人・職人は多くが、そういった人々の家・屋敷の内に住んでいま
した。彼らは教区の住民記録簿では、間借り人、と分類されていました。
(注2)間借り人は主人の家内で食事・寝床付の生活をしていました。ペスト大流
行のために、商工業者の大半が使用人を解雇しました。解雇された奉公人・
職人は多くが間借り人だったので、失業と同時に「食べる物・寝るところ」
を失いました。
(注3)首都東京にはアパート代が払えなくなったり、食べる物に事欠く若い学生・
店員・勤め人がたくさんいるのではないか。全国にはそういった人たちがた
くさんいるのではないか。事業者補償は、不公平な政策です。このたびのコ
ロナ襲来規模は天災に見立てた方がいい。天災の被災対策は事業者補償では
なくて、生きている一人一人の生命・生活の救済です。天災被災者への事業
者補償をしても、大方のアルバイト・パート・派遣社員・契約社員などコロ
ナ被災者の助けにはなりません。生きている一人一人に対する最低限の生活
費補助こそ、この急場の国の仕事ではないでしょうか。
がらんとした家には、そこの主人の兄弟に頼まれ て家財道具の始末をしにきた老女がひとりいるだけだった。その兄弟はそれほど遠くないと ころに住んでいたが、病気にはかかっていなかったそうだ。
住人はみんな死んで運びだされてしまい、無人の廃屋と化した家が街のいたるところに見られた。開門の向こうに、「モーゼとアーロン」という標識が出ていた。その標識をわきに入った路地では、とくにひどい状況だったらしい。
話によると、そこには何軒も家が連なっていたが、住人は人っ子ひとり助からなかったそうだ。そのうえ、最後に息を引きとつた数人の遺体はそのまま家のなかに放置され、運びだしけて書いた人もいる。
が、本当のところは、その路地ではあまりにたくさんの死者が出たので、ほうむらなければならない死体があることを埋葬人や墓掘り人に連絡する者がいなかったのだ。
どこまでが事実かは知れないが、そのような遺体のいくつかは傷みがひどく腐敗が進んでいて、運搬するのにたいそう苦労したという。
死体運搬馬車は路地に面した大通りまでしか行けなかったので、なおさら運ぶのがたいへんだった。何体くらい死体が捨て置かれていたかはわからないが、普通に考えればそう多くなかったはずだ。