川本ちょっとメモ

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ダニエル・デフォーの『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の4)

2021-01-30 20:57:38 | Weblog

 オリンピックを中止して、コロナ禍脱出に専念する政治を期待します。
 〇事業補償を中止して、コロナ理由生活難に貸付金でなく給付金支給を。


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 2021-01-20 ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(中)
 2021-01-22 ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の1)
 2021-01-24 ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の2)
 2021-01-29 ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の3)
 2021-01-30 ダニエル・デフォー『ロンドン・ペストの恐怖』をご紹介 コロナを甘く見ないために(下の4)  





ロンドン1665年。ペスト死者の埋葬は夜だけと定められていました。

大流行期の死者の数があまりにも多いので、大きい窪地を作って(本書では「大きな穴」となっています)、荷馬車から遺体を放り投げ、投げ入れしだいにすぐさま土をかけて、遺体が見えないていどに覆います。次の荷馬車が来ると、薄く土に覆われた先の遺体の上に今運んできた遺体を投げ入れます。そしてまた土をかけます。窪地が満杯になるまで、これをくり返します。すぐさま土で覆うのは人目をはばかってのことでしょうが、防疫上の要請でもありました。

また、遺族親族知人といえども埋葬に立ち会うなどのことは禁じられていました。感染予防のためです。この定めのことは、前回記事(下の3)末尾のところに注記しました。

このたびの新型コロナで亡くなられた方が、遺族のもとに遺骨で帰ってきた、というニュースがありました。1665年のロンドンと、2020年2021年の日本と。……死に立ちあうことさえもできなかった悲しみは同じです。




【大きい穴に死体を投げ入れて土をかける】
『ロンドペストの恐怖』P70


 オールゲイト教区内の別の場所に穴がいくつも掘られたのは、悪疫がわれわれの教区にも広がりはじめたころだった。

  (注) オールゲイト教区は「わたし」の地元教区で、旧市街地シティの中に
   ある。「わたし」はこの教区の教会墓地に作られた埋葬用の大きな穴を
   見ているが、そのサイズは、長さ12m、幅4・5m~5m、深さ3m。
   その後6m近くまで掘り下たところで地下水が出た。


 ちょうどそのころから、8月はじめまではわれわれの教区で見かけなかった 死体運搬馬車が走りまわりはじめた。こうした穴には、それぞれ50から60体の死体が埋められたが、やがてもっと大きな六が掘られるようになった。

 そして運搬馬車が運んできた死体が、片っ端からその穴のなかへ放りこまれたのだ。その 数は、8月中旬から下旬にかけて、週に200から400だった。

  ―― 略 ――

 9月はじめになると、疫病はおそろしい勢いで蔓延し、われわれの教区の死亡者数は、ロンドン近辺の、広さがほぼ同じ教区ではかつてなかったほどの数に達した。そういうわけで、この、穴というには大きすぎる、すさまじい深淵が新しく掘られたのである。

 穴が完成したのはたしか9月4日、埋葬をはじめたのが9月6日だったが、ちょうど2週間後の9月20日までに、1114体の死体を投げ入れていた。

  (注)一つの穴に埋葬する遺体の数が、50~60体 → 200~400体 →
   1114体‥‥急速にふえていきます。新しく掘るたびに穴のサイズが
   大きくなっています。歴史に残るペスト大流行のすさまじさが表れてい
   ます。

   本書で「穴」と呼ぶものが、1カ所でこれほどの遺体を埋めることがで
   きるので「窪地」と呼ぶ方がふさわしい。訳者栗本慎一郎氏の「死体」
   という訳語は、犠牲者を思いやって「遺体」が良いのではないか、とこ
   れは私の読者感想です。






【死体の埋葬 ― 点景】 
『ロンドペストの恐怖』

 <死体運搬馬車 ①> 
P74
 そのときミノリーズ通りのはずれから、二本の松明
たいまつが近づいてくるのが見え、触れ役の鳴らす鐘の音が聞こえたと思ったら、死体運搬馬車が通りをこちらへ走ってきた。

 <死体運搬馬車 ②> P184
 ある運搬馬車がショーディッチを通っている最中に、ひとりで乗っていた御者が死んでしまい、手綱を取る人がいなくなった。でも、馬は足を止めるどころか、運搬車をひっくり返して遺体をあちこちにばらまいて行き、まさにおぞましい情景を繰り広げた。

 <死体運搬馬車 ③>    P184
 オールドゲイトのわたしたちの教区では、死体を山ほど積んだ死体運搬馬車が教会墓地のの門前に置き去りにされていたことも何度かあったらしい。鐘を持った触れ役も御者も、車についている者はひとりもいなかったという。

  こういう場合には、車に積まれた亡骸
なきがらの身元が皆目わからなかった。でも、身元がわからなかったことはこれ以外にもよくあったのだ。死体はたいていベランダや窓からロープでつるして下ろされるか、運び人などが運搬馬車までかついで行っていたからだ。運び人たちは、いちいち死体を数えている暇はない、と開き直っていた。

 <埋葬地の明かり>     P77 
 穴の周囲の土の山には、一晩じゅうランタンとろうそくが7つか8つ、あるいはそれ以上おいてあって、充分な明かりがあった。
 

  (注) ここでいう「穴」は、集団埋葬用に作られた大きく深く掘られた窪地のこと
   で、1カ所あたり何百体もの遺体を埋めることができる。


 <無造作に積まれた遺体>       P77  
 荷馬車(※死体運搬馬車のこと)には16、17体の死体が積まれていた。リンネルのシーツや上掛けに包まれている死体も、裸同然の死体もあった。

 だが、いずれにしろ、巻きつけてあるだけだったので、荷馬車から放り投げられた拍子に、どの遺体も丸裸になってしまうのだった。

 もっとも、彼らにとってはどうでもいいことだったし、だれもわいせつだと思ったりしなかった。彼らはみな、いうなれば人類の共同墓地のなかで、寄りそって死んでいた。そこにはどんな違いもなく、金持ちも貧乏人も、一緒に横たわっていた。

 ほかに埋葬の仕方はなかった。あるはずもなかった。このような大災厄のさなかに、膨大な数にのぼる死者を、いちいち棺桶におさめるわけにはいかなかったのだ。
   



 ペスト菌はコロナウイルスとは違って細菌の一つで、ノミにかまれることによって人間に感染しますが、これが明らかになるのはこの時代から230年後のことです。

 今の日本は、毎日毎日コロナニュースがトップになってから1年を越えようとしています。わたしたちみんなが、たとえ感染していなくとも日夜コロナの悩みを抱えて暮らしています。

 このときのロンドン・ペスト大流行は1665年の春先から流行の勢いが始まりました。そしてすぐに、ペスト、死の伝染病に席巻されます。身内やご近所や親類知人のうちから誰かが、次々に亡くなっていったことでしょう。こんな時代環境の中で恐れ暮らす気持ちというものは、わたしたちの不安や想像をはるかに超えて、想像を絶するものと思います。

 下に書き写す1665年8月9月がピークであり、やがて寒い季節の訪れにつれてペスト流行の勢いが衰える兆しを見せ始めます。しかし渦中にある人々に、その夜明けの兆しはまだ見えません。人々はペストに席巻された世界の底で身も心もすくめて生きていました。




【絶望のピーク:8月後半から9月第3週まで 死に絶える家々】
                    『ロンドン・ペストの恐怖』P171

 人々は、こんなに激しく手のほどこしようのない疫病からはどのみち逃れられないし、もう生きのびられないのだという失意に沈んでいた。実際、病気の猛威がピークに達した8、9月の約2カ月間に感染して命が助かった者は、まずいなかった。

 そして、そのころには、(※1665年)6月と7月、および8月の初旬によく見られた病気の症状とは正反対の特徴が表れてきた。

 6、7月ころには人々は感染してもすぐに死ぬことはなく、長い間血液を疫病に毒されたまま生き長らえていた。

 しかし疫病の絶項期にはこれとまったく逆のことが起こり、8月の後半2週間と9月の第3週までに感染した人々は、長くてもほんの2、3日わずらってあっけなく息をひきとった。そして、多くは感染したその日に死ぬという変わりようだった。

 その理由はいろいろいわれたが、わたしにはなんともわからない。季節が暑い盛りだった せいかもしれないし、はたまた占星術師たちが吹聴したように狼星が悪い影響をおよぼしていたのかもしれない。人々のからだにずっと潜んでいた病の趣旨が一気に成熟したとも考えられる。

  が、ともかくこの時期には、一晩のうちに3千人以上の人間が死んだと報告されてい た。

 そして、さらにくわしく調査したと称する人々によれば、病人たちはみんな午前1時から 3時の2時間のうちに息絶えたそうだ。

 この時期になって、突然の死を迎える人々が前より増えたことは、数えきれない実例が裏づけている。現にわたしの近所にもそういう家が何軒かあった。

  わたしの家からそう遠くなく、シティの関門の外に住んでいたある家では、月曜日には10人の家族全員が元気そうにしていたのに、その晩にメイドと徒弟にひとりずつ感染者が出て、翌朝帰らぬ人となった。

 そして、そのときにはすでにもうひとりの徒弟とふたりの子供たちにも病気がうつっていて、ひとりは同じ日の夕方に、あとのふたりは一夜明けて水曜日に死んだ。

 そうこうして土曜日の正午までに、その家の主人と妻、4人の子供、そして4人の使用人がひとり残らずこの世を去ってしまった。がらんとした家には、そこの主人の兄弟に頼まれ て家財道具の始末をしにきた老女がひとりいるだけだった。その兄弟はそれほど遠くないところに住んでいたが、病気にはかかっていなかったそうだ。

 住人はみんな死んで運びだされてしまい、無人の廃屋と化した家が街のいたるところに見られた。(※シティの)関門の向こうに、「モーゼとアーロン」という標識が出ていた。その標識をわきに入った路地では、とくにひどい状況だったらしい。

  話によると、そこには何軒も家が連なっていたが、住人は人っ子ひとり助からなかったそうだ。そのうえ、最後に息を引きとった数人の遺体はそのまま家のなかに放置され、運びだ して埋葬されたのは死んでからしばらくたってからのことだった。生きている人間がほとん どいなかったから死人の埋葬がとても追いつかなかったのだ、といいかげんな理由をこじつけて書いた人もいる。

 が、本当のところは、その路地ではあまりにたくさんの死者が出たので、葬らなければならない死体があることを埋葬人や墓掘り人に連絡する者がいなかったのだ。

 どこまでが事実 かは知れないが、そのような遺体のいくつかは傷みがひどく腐敗が進んでいて、運搬するのにたいそう苦労したという。死体運搬馬車は路地に面した大通りまでしか行けなかったので、なおさら運ぶのがたいへんだった。
     



「ペスト菌が人々の家庭に忍び込むと、16~23日後になってようやく最初の症状が出る。症状が出て3~5日後には患者は死亡する。」 National Geographic 日本語版 2020.5.24.「ペストの歴史」(  ←クリック )




【ペスト最盛期:ロンドンの死者、5週間で約4万人】
                    『ロンドン・ペストの恐怖』P178

  過去ロンドンが災害に見舞われたときの報告を全部調べてみても、この9月ほどひどい被害が出たことはなかった。死亡週報には、8月22日から9月26日までのわずか5週間に約4万人の死者が出たと記されていた。詳細は次の通りだ。

   8月22日から29日まで  7496人
        9月 5日まで  8252人
          12日まで  7690人
          19日まで  8297人
          26日まで  6460人
             合計 38195人

 けたはずれな数字だが、実はこの統計でも網羅しきれてはいなかった。その理由を述べ れば、この期間に毎週1万人をこえる人々が死に、その前後の数週間でも相当数の死者がで ていたことを読者も信じてくれるだろう。

 人々は激しく動揺し、ことに当時のシティの混乱は大変なものだった。死体の運搬を任さ れていた人たちも、あまりの恐ろしさにとうとうおじけづく始末だった。

 運搬人が実際に死ぬこともあった。が、そういう目にあったのは以前に一度病気にかかっ て回復した人たちだったらしい。せっかく墓穴のそばまで死体を運んで行きながら、さあ投げ込もうというときに自分がばったり倒れ込んでしまうという例もあった。




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