2005年、近くの山へ行くと尋ね猫の張り紙が。
だみ声、のそのそ歩く、はぶてた表情。
はぶてたとは広島弁でふてくされたという意味です。
あれから15年、ギンちゃんは無事家に帰れたでしょうか。
一時期、どこへでも自転車で行き、写真撮っていた。
こちら基町クレドのクリスマスツリー前。
デパート、ホテルなどあるので警備の方に注意される前に即撤収。
まだまだ若かった私。
これは呉道路のランプができるので神社が撤去された跡。
小さな社は熊野神社、とても大きなウバメガシもやがて取り払われてしまいました。
年末の夜回りは、我が地区ではずっと続いています。
冬の澄んだ空気に拍子木の音が季節感いっぱい。
お断りして写真撮らせていただきました。
このころから一人で尾道へ遊びに行くようになった。
海に至近の尾道グリーンホテルで。
尾道グリーンホテルのレストランで。
真似して自分の家で。
造花は味気なくて、やがて飽きて捨てた。
木箱は近所の八百屋の息子さんが趣味で作って販売。
カントリー雑貨がはやっていたころ。
まだ家のどこかにあると思う。
このころはものが少なくて家の中すっきり。
反省。
近所の家具屋さんが廃業するので、ディスプレイの小物もらってきました。
でも結局趣味に合わないので人に上げたり処分した。
ヨン様靴下。
ヨン様って・・・?
夏みかん入れてみる。
入れる場所で顔が変わる。
ヨン様とヨン様母。
2003年ころの、東千田町、平野町付近の地図。
下の方の四角なのはプール。
原爆投下数日後、米軍が写した同じ場所。
プールがはっきりわかる。
小説「黒い雨」では、主人公閑馬重松が、後で取りに来るつもりで鍋を沈めて避難しますが、原爆後の猛火でプールの水は午後には干上がっていたとのこと。
鍋も回収はできなかったことでしょう。
プールは広島高等師範→広島大学→千田小学校と移管され、2003年ころには撤去されました。
旧土地台帳は広島法務局で閲覧。ネットに上げる許可もいただいています。
「黒い雨」の向かいの野津さんを、この中の左から二行目の野津浩爾さんと仮定すると、まるでもつれた糸がほどけるように、小説のモデルになった重松静馬の当時の家の場所が分かったのでした。
今は千田小学校の校庭南端になっています。
戦後の区画整理で道路も付け替わり、特定するのはなかなか困難でした。
友達が作ってくれたキーケース、当時被爆証言集作っていて、費用調達のためのバザーで売りました。
この前後10年間くらい、原爆についていろいろ勉強する機会がありました。
名古屋のノリタケの森で買ったキャンドル立て。
絵付けを自分でしました。
何でも写真撮って面白がる私。
公園でノラ豚発見。
誰かが育ちすぎたミニ豚を捨てたらしい。
警察で保護された後、動物好きの県北の人が引き取っていきました。
「うちで育ててやらんといけんじゃろう」とやさしい男性でした。
東署ではトンちゃんと呼ばれていたそうです。
トンちゃん、その後どうしているでしょうか。
由布岳頂上から湯布院の街を見下ろす。
高度感いっぱい。
湯布院のカフェで一休み。
大昔、湯布院は別府の奥座敷で寂しいところでしたが、このころはブーム。
今は開けすぎて、黒川もにぎやかになって、どこかひなびたところはないでしょうか。
四国88番札所のうち、我拝師山出釈迦寺奥の院。
残雪少し。
今からあの後ろの山に登ります。
弘法大師が身投げしたらお釈迦様が現れて受け止めてくれたそうです。
ほぼ直角の岩肌にハーケン打ち込んでいて、それをつかんで上ります。
私が落ちてもお釈迦様現れないと思うので、緊張しました。
頂上で、またあそこ通るの嫌、下りたくないと言ったら、じゃずっとここにおりんさいと夫。
そうもいかないので下りてきて今日の私があります。
国の登録有形文化財、京都大学楽友会館のたたずまいを破壊する息子の車。
修理跡多数。
ここで落研の寄席があって見に行ったのでした。
京都市文化会館の催し物で。
十二単など、いろいろな装束来て写真撮れるイベントでした。
見ていただいてありがとうございました。
昔を振り返るばかりじゃなくて、そろそろ今のこともしなければ。。。。