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水は大切

2020-08-02 | 随想

元保川/広島 フリー素材集photo AC様より


18歳で広島へ来て、驚いたこともいくつかあるけれど、いちばんはやはり、川に水が流れていたこと。

それまで、被爆体験を読んでも、火に追われて川に逃げるのが何でかなあと、意味が分からなかった私。

故郷の香川県は、いまでもたぶん全国一降水量が少ない県ではないだろうか。子供のころ、そう習った。代わりに昔からため池を築き、農業用水にしてきたと。

川・・・あることはありますが、短くて流域面積も狭く、どの川も流量が少なく、中流では砂利の真ん中に小さな流れがある。私にとっては川はそんなイメージ。

今は気候が変動して、香川県も雨が降るらしいけど、昭和のころは何回も渇水に悩まされてきた。見たわけではないけれど、祖父の話では、水の少ない年は朝洗顔した水を取って置いて夕方足を洗い、それを田に持って行って撒いたとか。

昭和15年だったと思うけど(記憶あいまい)、年間降水量が県内のある観測地点で600ミリ代ということもあり、その年には田植えができずに陸稲おかぼ=畑で作る稲を植えたと、実家にはその時の写真もあった。

田に過不足なく水を入れ、キープするかが一番大切。水は水路のわずかな傾斜で流れるので、上から順番に田に水を入れる。一つが終わればせき止めて、次の田へ入れる。一枚入れるのに何時間かかかるので、夜中でも順番が来たらその作業に祖父は出かけていたのだと、大人になってやっとわかった。

水に関する取り決めは鉄の掟、どこの池の水をどう流してどこへ入れるか、昔からきちんと取り決められていた。地元では**池の掛かりという言い方をしていた。どんなに水が足りなくても、水利権のない水は回してもらえない。それはまあ、全国共通と思いますが。

悲願は徳島県を流れる吉野川を分水すること。1970年代、私がこちらへ来てからその工事は完成し、早明浦ダムに貯めた水が香川用水を通って香川県にも来ることになった。父祖以来の願望がやっとかなったことになる。

その頃私はもうこちらへ来ていたので、昨今の水事情は知らないのだけど、香川県人は今でもよその土地の人よりは水の大切さが身に染みていると思う。以前は蛇口の横によく節水シールを貼っていたし、私の実家近くの家は、洗車と庭の散水用に井戸を持つ家も多かった。


翻って広島ですが、上水道は太田川から取水。太田川は流域面積も広く、上流部は山陰に接して積雪もあり、だいいち、市内をとうとうと流れる6本の川を見ていたら、水不足なんて絶対にないと私は思っている。

広島は埋め立て地で海に近いほど井戸が掘れず、全国で何番目かに上水道が整備された町。日露戦争の直前と記憶しています。軍都として、急速に人口が増えていた時期ではないでしょうか。そして今まで、一日たりとも断水したことがないそうで、ただただ感謝あるのみ。

原爆投下の日だって、水圧下がりながらも配水し続けたそうで、水はなるほど生きる基本手段。焼け跡に戻ってきた人が、水道栓ひねったら水が出たので住めると思い、バラック建てたという話も聞きました。

夏になったので、水に関する父祖の苦労に思いをいたし、一層節水に努めたいと思います。


それにしてもコロナです。太平洋戦争末期、何の方針も立たず、誰も責任取らず、手をこまねいて破滅へと向かっていた時期って、こんな感じだったのでしょうか。

久しぶりに見たら、相変わらずあのマスクして、礼服来て、皇居で何かの儀式やっていた。一人だけ違うマスクして、寂しくないのかな。全国に配って誰もしていないなんて。たぶん。私は一度も見ていません。

検査の徹底と隔離、治療。それしか道はない。素人でもこのくらいのことはわかる。応援団の中国人、韓国人をバカにする人たち、風邪の一種だから大騒ぎしなくていいって言ってるけど、感染症対策では完全に日本の負けって素直に認めたらいかが。

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