自分の能力・実力を無視して、自分の基準でしか物事や人を評価して、その評価が、狂った「ものさし」によって測定した、誤差のある評価であることを認識できない人が多いです。
兼好は、「素直である」という表現で、私達に注意喚起をしてくれています。
*
人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから正直の人、などかなからん。おのれすなほならねど、人の賢(けん)を見てうらやむは尋常(よのつね)なり。
至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、是を憎む。「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽りかざりて名を立てんとす」とそしる。おのれが心に違(たが)へるによりて、この嘲(あざけ)りをなすにて知りぬ、この人は下愚(かぐ)の性(しょう)移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、かりにも賢を学ぶべからず。
狂人の真似とて大路(おほち)を走らば、則ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥(き)を学ぶは驥のたぐひ、舜を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを賢といふべし。
*
おのづから: まれには、時には
すなほ: まっすぐ
至りて: 非常に、極めて
下愚(かぐ); 非常に愚か、究極の愚者
偽りて: 仮に嘘であっても
驥(き): 一日に千里を走る駿馬
舜: 古代中国における伝説的な徳の高い、優れた皇帝
*
人の心は、素直で、まっすぐというわけではなく、偽りが無いわけでもありません。
ところが、そうはいいましても、まれには正直な人がいないわけではありません。
自分はまっすぐではありませんのに、人が賢いのを見て、自分もそうありたいと、相手をうらやむのは世の常です。
*
「大きな利益を得るために、小さな利益を受け入れようとしません。偽りかざって名を立てようとしているのだ」と、あたかも自分は賢人であるかのように難癖を付けます。
自分の気持ちと違っていることによって、この見当違いな嘲(あざけ)りを行うのでしょうが、このことから、次のようなことを知ることができると言えます。
この人は極めて愚かであり、その生まれ持った性質が、賢人の性質によい変化が起こることはなく、偽りであってでも、小さな利益を無視することもできず、たとえ賢い人がいても、そこから何かを学びとることのできるような人ではありません。
*
「至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、是を憎む。」という件(くだり)があります。
他の人がすばらしいものを持っていますと、欲しくなり、それを抑制できない人がいます。それが金銭などで解決できるの物ですと、通常は、それで解決しようとします。
ところが、他の人が持っていても、それを、その様な方法で解決できないものはたくさんあります。
たとえば、地位ですとか、名声ですとかは、お金を積んでも手に入りません。自分を納得させるために、相手を嫉(ねた)んだり、時には、相手の地位や名声を傷つけたりする行動に出ることもあります。
近年のネット社会は、それを容易に可能にしてしまい、ネットという隠れ蓑を着て、相手を攻撃することも多いようです。
その多くの場合、根も葉もなかったり、勝手に想像を膨らませたりして、無実の人を傷つけているのではないでしょうか。
経営コンサルタントの世界では、「ウラを取る」というTVの刑事物語の「現場百遍」とともに、大変重視しています。ウラを取ることにより、自分が入手した情報は「ガセネタ」であることにたどり着くことが多いです。そのために、罪のない人に迷惑をかけることは、厳に慎まなければならないと考えています。
*