【きょうの人】 0216 ■日蓮聖人降誕会 鎌倉仏教 法華宗のひとつ ■ 一向上人(一向 俊聖) 踊り念仏の普及 ■ 藤堂高虎 戦国・江戸時代の武将
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本日、ゆかりの人をご紹介します。
そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。
■ 藤堂高虎 戦国・江戸時代の武将
とうどう たかとら
弘治2年1月6日(1556年2月16日)-寛永7年10月5日(1630年11月9日)
藤堂高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名で、伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる、藤堂家宗家初代です。
浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光と、何度も主君を変えた戦国武将として知られています。
築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し、黒田孝高、加藤清正とともに築城の名人として知られています。
高虎の築城の特徴は、石垣を高く積み上げることと堀の設計です。石垣の反りを重視する加藤清正と対比されることが多いです。
関ヶ原の戦いでは、秀吉の死後、徳川家康に接近していたこともあり、徳川家康側として闘いました。
その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を上げたため、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢津藩主・富田信高の伊予宇和島藩への転封、22万石の津藩主となりました。
家康は、高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用したそうです。
■ 一向上人(一向 俊聖) 踊り念仏の普及
いっこう しゅんしょう
暦仁2年1月1日(1239年2月6日)-- 弘安10年11月18日(1287年12月24日)
鎌倉時代の僧侶で、伝記に謎が多く、生没日も定かでなく、実在すらが疑問視されていましたが、考古遺物により、存在が証明されました。
伝承によりますと、筑後国西好田(福岡県久留米市か)の鎮西御家人草野氏の草野永泰の第二子に生まれたとあります。
俊聖(一向上人)は、寛元3年(1245年)に、播磨国の書写山にある圓教寺に入寺して天台教学を修めることとなり、建長5年(1253年)に剃髪受戒して名を俊聖としました。
翌年夏には書写山を下り、奈良の興福寺、鎌倉の蓮華寺(光明寺)をはじめ各地を遊行回国し、踊り念仏(踊躍念佛)、天道念仏を修し、道場を設けるまでに至りました。
一遍と並んで浄土系遊行聖となり、各地を回り踊り念仏を広めました。
弘安七年、近江蓮華寺を立てて開基となりました。49歳で同寺で最期を迎えたといわれています。
■ 日蓮聖人降誕会 216
日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日-弘安5年(1282年)10月13日)は、鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖です。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈されています。
十二歳で出家し、各地を遊学しました。法華経の神髄を把握して、日蓮宗を開き、解いて回りました。
しかし、他宗派を強烈に批判し、排除するなど宗教家として過激な面があります。鎌倉時代執権北条時頼の逆鱗に触れ、文永8年に佐渡に凪がされます。
堂1年には許されて鎌倉に戻りますが、白布には入れられませんでした。
身延山に隠棲し、子弟の教育や著述に励み、自身滅罪の生活を送ったと言われます。代表的な著書に「立正安国論」があります。
◇ 立正安国論
日蓮が文応元年(1260年)7月16日に北条時頼に提出した文書が立正安国論です。
日蓮は、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあると主張しました。
対立宗派を非難し、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱えました。逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した書物です。
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