経営コンサルタントへの道

コンサルタントのためのコンサルタントが、半世紀にわたる経験に基づき、経営やコンサルティングに関し毎日複数のブログを発信

【経営コンサルタントへの道】7 経営コンサルタントとしての成功のポイント 2 営業力を持つ

2025-02-09 12:03:00 | 【専門業】 経営コンサルタント成功法

  【経営コンサルタントへの道】7 経営コンサルタントとしての成功のポイント 2 営業力を持つ    

 私は1970年代から半世紀にわたり、「経営コンサルタントとはお節介焼き」「当たり前のことが当たり前にできる企業作り」「現場を重視」「管理とは温かいもの」をモットーとして経営コンサルタントという職業に就いてきました。
 経営コンサルタントになってから、いろいろな人から「なぜ経営コンサルタントになったの?」「経営コンサルタントになるにはどうするの」あるいはすでに経営コンサルタントになっている人からは「経営コンサルタントとして成功するこつは」などと聞かれてきました。
 経営コンサルタントを目指す人の大半が、世の中に漂う“常識”的な方向定めと方法で準備を開始しています。しかし、経営コンサルタントへの道は厳しいですが、成功法による近道もあります。
 経営コンサルタントを目指す人が一度は辿るこの道に、正しい回答になるかどうか、お役に立つかどうかはわかりませんが、独断と偏見をお許しいただき、以下のようにまとめてみました。ご参考にされ、皆様の自己責任でもって判断し、行動して下さい。
7 経営コンサルタントとしての成功のポイント
 経営コンサルタントの中には著名な人もいる反面経営コンサルタントとしての収入が少なく他にアルバイト的に何かをしている人も結構います。では経営コンサルタントとして、成功するためのポイントというものがあるのでしょうか。成功している経営コンサルタントに共通することを列挙してみましょう。
 営業力を持つ 

 経営コンサルタントも顧問先がなければ職業として成り立ちません。顧問先や仕事の依頼主を見つけることは実は大変困難なことなのです。経営コンサルタントは、見えないものを売るのですから、受注をとるというのは大変なのです。

 ところがいったん「あの先生は若いけれど一所懸命やってくれる」「おかげで業績が伸びた」などと評判がたつと顧問先がコンスタントに見つかるようになります。そして、顧問先が顧問先を呼んでくれるのです。

 その状態になるまでは自分をいかに売り込むかです。ただし、嫌みを相手に感じさせず、さりげなく売り込むことが必要です自分自身を売り込めない経営コンサルタントが、顧問先の収支や業績の向上にアドバイスができるはずはありません。

 営業力の基本は、AIDMAの法則です。

■【経営コンサルタントへの道】 バックナンバー

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■【小説風老いぼれコンサルタントの日記】 2月8日 ◇日米首脳会談は成功なのか? ◇元気な会社 産業を支える"ゴリラの手" ◇伝統行事:針供養 ◇経営四字熟語:名論卓説 ◇薫り・香り

2025-02-09 08:03:00 | 【小説風老いぼれコンサルタントの日記】

 

  ■【小説風老いぼれコンサルタントの日記】 2月8日 ◇日米首脳会談は成功なのか? ◇元気な会社 産業を支える"ゴリラの手" ◇伝統行事:針供養 ◇経営四字熟語:名論卓説 ◇薫り・香り 

  平素は、私どものブログをご愛読くださりありがとうございます。

 この度、下記のように新カテゴリー「【小説風 傘寿】 老いぼれコンサルタントの日記」を連載しています。

 日記ですので、原則的には毎日更新、毎日複数本発信すべきなのでしょうが、表題のように「老いぼれ」ですので、気が向いたときに書くことをご容赦ください。

 紀貫之の『土佐日記』の冒頭を模して、「をとこもすなる日記といふものを をきなもしてみんとてするなり」と、日々、日暮パソコンにむかひて、つれづれにおもふところを記るさん。

【 注 】

 日記の発信は、1日遅れ、すなわち内容は前日のことです。

■【小説風 傘寿の日記】

 私自身の前日の出来事を小説日記風に記述しています。

2月8日 日米首脳会談は成功なのか?
 石破総理がトランプ米大統領と初めて対面で会談しました。大方の見方は好意的なようです。
 日本製鉄によるUSスチール問題は、「買収ではなく、投資である」という修正案を首相が示し、大統領が了承したといいます。
 詳細をチェックしていませんので、軽々にはいえませんが、私には懸念があります。議決権行使は、どこまで可能なのでしょうか、買収ではないですので、日鉄が今後、どこまで踏み込んだ形で経営、とりわけノウハウ開示をしてゆけるのか、問題が隠されていると考えます。
 1兆ドルの投資といえば150兆円です。それを約束するという大盤振る舞いは、日本にとって、どれだけのメリットがあるのでしょうか、それも不安材料です。
 これから詳細を見て行きたいと考えています。

 私の事業を引き継いでくれた竹根好助ですが、その部下が時々自分の顧問先や元気な会社に私を招待してくれます。私が企業で、何を観て、何を話すか、私の半世紀のコンサルタント経験を盗み取り、コンサルタントとして、それを顧問先に活かしたいという考えのようです。

 竹根の部下が紹介してくれた企業を訪れ、インタビューと社内見学をさせていただきました。

◆【成功企業・元気な会社・頑張る社長】 産業を支える"ゴリラの手" 2706-4208
 ゴリラは最強の霊長類といわれる。オスの体長180センチ前後、体重は200キロにもなる。そんな巨体にもかかわらず走る速度は時速40~50キロ。ウサイン・ボルトの世界記録を上回るタイムで100メートルを走り抜けられる計算だ。握力は400~500キロもあるそうで、人間の成人男性の約10倍にも上る。想像もつかないパワーだ。襲われたらひとたまりもない。だが、性格は温厚で知能も高い。「気は優しくて、力持ち」。動物園で人気が高いのはそんなギャップが魅力になっている。
 重量物の搬送をアシストする機器を製造するM社(東京都八王子市)は、製品名に「ワイマン」という名前を付けている。社長のMさんによると、ゴリラの学名が由来で、「力持ち」という意味を込められているという。調べてみると、ゴリラの学名は、なんと「ゴリラゴリラ」。ニシローランドゴリラは「ゴリラゴリラゴリラ」だった。そこで日本哺乳類学会に「ワイマン」について聞いてみた。すると、ゴリラの学名の命名にかかわった人物の名前ということが分かった。命名者かどうかは諸説あるようだが、偉大な解剖学者だったそうだ。
 同製品は小さいものでは10キロほど、重いものでは1トンもする重量物を軽々持ち上げる。「持ち上げるというよりは、シーソーや天秤のように重いものをバランスさせているイメージ」とMさんは説明する。クレーンのようなアームで重量物を重さと同じ力で支え、重量物を無重力のような状態にする。複数の人員が必要だった搬送作業も少人数でできるようになる。重量物の搬送だけでなく、宙に吊り上げた作業にも便利。ものづくりや物流、サービスなど実に幅広い業種で利用され、大手企業も数多く名を連ねている。
 「ワイマン」はMさんの父が50年前に開発し、この製品を世に広めた。しかし、父が経営していた会社は事業の多角化に失敗し、2000年に経営破綻の憂き目にあった。すでに「ワイマン」を導入していたユーザーから事業継続を求める要請が根強く、ワイマン専業のメーカーとして再興したのが今のM社だ。50年にわたって培っていた技術と経験が礎となり、成長の原動力となっている。父から経営を引き継いだMさんは、東南アジアをターゲットに海外展開を進めている。日本の産業を支えてきた"ゴリラの手"が世界の産業を支える日もそう遠くないかもしれない。

   出典: e-中小企業ネットマガジン

■【今日のおすすめ】

 四字熟語の中には意味深長な意味合いを持っているものがあります。
 また、視点を変えて見ると、意味が異なって見えることもあります。
 経営コンサルタントの視点で見た四字熟語を「経営四字熟語」と勝手に命名してご紹介しています。
 バックナンバー
  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/61712c48d4d523d0935f3067fbc1e8fa

■【今日は何の日】

  当ブログは、既述の通り首題月日の日記で、1日遅れで発信されています。

  この欄では、発信日の【今日は何の日】などをご紹介します。
    https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/7c95cf6be2a48538c0855431edba1930
 

■【知り得情報】
 「経営とは、環境対応業である」という名言は、私の先輩コンサルタントが残してくれた言葉です。
 その経営環境は、めまぐるしく変化します。政府や自治体も、その変化に対応できるように中小企業向けの各種施策を提供しています。ところが、その情報が中小企業に伝わっていないことが多いです。その弊害除去には焼け石に水かも知れませんが、仕入れた情報をときどきご紹介します。
 重複してお届けすることもありますが、ご容赦くださいますようお願いいたします。

◇《公募情報》令和7年度情報バリアフリー役務提供事業推進助成金
 (国研)情報通信研究機構(NICT)では、身体障害者の利便増進に著しく寄与する情報通信技術(ICT)を利活用した役務の提供又は開発(役務提供のために必要な実証等)に必要な資金について助成します。
[申請期間] エントリー期間:1/20(月)~2/14(金)12:00
       申請受付期間 :2/17(月)~3/14(金)17:00
[申請方法] エントリー方法:電子メール
       申請方法   :電子メール・郵送・電子申請(Jグランツ)
 詳しくは以下のサイトをご覧下さい。
 https://www.nict.go.jp/press/2025/01/16-1.html
  出典:e-中小企業庁ネットマガジン

■【経営コンサルタントの独り言】

 その日の出来事や自分がしたことをもとに、随筆風に記述してゆきます。経営コンサルティング経験からの見解は、上から目線的に見えるかも知れませんが、反面教師として読んでくださると幸いです。

◆ 早朝ウォーキングと薫り・香り

 薫りは、色と共に、意識をしていなくても季節の変化を感じ取れます。

 今の時期は、梅や老梅の薫りを楽しめるようになり始めました。

 まだ、それほど多くはありませんが、コレから処々で楽しめそうです。

 早朝ウォーキングをしていますと、自然の薫り以外に生活を感じる臭いもあります。

 ある家の近くに行きますとトーストを焼いた臭いがします。

 朝食が早いのですね。

 その少し先のお宅では、コーヒーの香りをいつも漂わせてくれています。

 薫り・香りというのは、心を豊かにしてくれるようですね。

 

 「薫り」と「香り」はどちらも良い匂いを表す言葉ですが、微妙に異なるニュアンスがあります。(以下生成AIより)

  • 薫り(かおり): 「薫り」という漢字は、「薫る」という動詞から派生しています。自然の中で漂う、柔らかく心地良い匂いを表すことが多いです。例えば、花や草木の匂い、そして季節の移ろいと共に感じる匂いなどに使われます。

  • 香り(かおり): 「香り」という漢字は、「香」という字から派生しています。主に人工的に作られた匂い、例えば香水やお香、アロマオイルなどの匂いを指すことが多いです。もちろん、自然の匂いも「香り」と表現することができますが、人工的なニュアンスが強くなります。

◆ 針供養 伝統行事として何をするのでしょうか 208

 2月8日は「針供養(はりくよう)」でした。

 お世話になった折れた針を、豆腐やこんにゃくに刺して、感謝の気持ちを持って、供養するという伝統行事です。

 普段は厳しい仕事をさせられている「針」ですが、折れて、役目を終わるときにぽいと捨てられるのではなく、豆腐のような柔らかいものに刺してもらって、安らかにお眠りくださいという意を込める日本人の優しさを伝える伝統行事に改めて感動しました。


 私の中学時代の技術家庭科の先生は、学校一の怖い先生として知られていました。

 その先生は、柄にもなく「お道具」という言葉を使って、授業をしてくれました。

 例えば木工の時間には、木を切るのこぎりは、目立て師さんが精魂こめて作ってくれた道具であることを強調していました。

 その「お道具」は、愛情込めて手入れをすれば、いつまでも綺麗な切れ味を保ってくれる。

「お道具」がなければ、何をするにも、大変な苦労をしなければならないし、時には目的を達成することができない。


 昨今の私であれば、パソコンなしには仕事もできないだけではなく、生活もできないかもしれません。

 パソコンが次第に廃れてゆく中、私にとって、やはりパソコンは大事な「お道具」なのです。

 針供養の日に、「お道具」を大切にしようと、中学生時代の怖い先生を思い出し、心をあらたにしました。

  http://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/02601cce1024f355b65ffd9244b49d6c

■【老いぼれコンサルタントのブログ】

 ブログで、このようなことをつぶやきました。タイトルだけのご案内です。詳細はリンク先にありますので、ご笑覧くださると嬉しいです。

 明細リストからだけではなく、下記の総合URLからもご覧いただけます。
  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17

 

  >> もっと見る

■バックナンバー   https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a8e7a72e1eada198f474d86d7aaf43db  


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■【きょうの人】 0209 ■夏目漱石 英文学者の顔も ■ 江藤 新平 佐賀の七賢人 ■ 南浦紹明(円通大応国師)九州に禅の布教活動 ■ 手塚 治虫 漫画・アニメ表現の開拓者

2025-02-09 06:33:00 | 【話材】 きょうの人02月

 

  【きょうの人】 0209 ■夏目漱石 英文学者の顔も ■ 江藤 新平  幕末明治初期の佐賀藩の藩士「佐賀の七賢人」 ■ 南浦紹明(円通大応国師)九州に禅の布教活動 ■ 手塚 治虫 漫画・アニメ表現の開拓者

 

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 南浦紹明(円通大応国師)九州に禅の布教活動


 なんぽしょうみょう
 嘉禎元年(1235年)- 延慶元年12月29日(1309年2月9日)


 鎌倉時代の臨済宗の僧で、出自については不詳ですが、聖一国師の甥で、駿河国安倍郡井宮村(静岡県静岡市葵区井宮町)の出身です。諱は「紹明」(「しょうみょう」とも「じょうみん」ともよむ)、道号は「南浦」、勅諡号は「円通大応国師」です。(【Wikipedia】を基に作成)

 始めは浄弁に就き、数学を学びました。その後、建長寺の道隆に禅を学ぶことになりました。

 正元元年に入宋し、虚堂智愚のもとで大悟(学ぶ・悟る)し、文永4年に帰朝(帰国)しました。

 筑前興徳寺や崇福寺に重視、30年余の間、九州に禅の布教活動を行いました。

 嘉元二年に上洛し、その後鎌倉に下りました。徳治2年北条貞時の帰依を受け、建長寺第13世となりましたが、翌年寂し、「円通大応国師」を諡られました。日本における国師号第一号です。その門下は「大応派」と呼ばれ、大徳寺や妙心寺がそれに属しています。(無量山傳通院寶暦参照)

 


■ 手塚 治虫 漫画・アニメ表現の開拓者


 てづか おさむ、本名:手塚 治
 1928年(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日


 説明するまでもなく、日本を代表する漫画家であり、アニメーター、アニメ監督としても活躍しました。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的な存在として活躍してこられました。

 兵庫県宝塚市出身(出生は 大阪府豊能郡豊中町、現在の豊中市)で、同市名誉市民でもあります。大阪帝国大学附属医学専門部を卒業。医師免許取得のち医学博士(奈良県立医科大学)を持っていました。

 大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビューしたのですね。知りませんでした。

 1958年頃より、各漫画誌で桑田次郎、武内つなよし、横山光輝などの売れっ子漫画家が多数出現していて、手塚は、漫画家達の中の一人に過ぎなくなっていました。そのためにノイローゼにまでかかったという話も残っています。天才にも、その様なことがあるのですね。


 幼少期からディズニー映画を愛好していた手塚は、もともとアニメーションに強い関心を持っており、

 1961年、手塚は自分のプロダクションである手塚プロダクションに動画部を設立、後に虫プロダクションと改名しています。

 1963年に、自作をもとにした、日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼしたことはいうまでもありません。

 当時、従兄弟達が、それを見る年代で、テレビにかじりついていたことが、昨日のように思い出されます。

 しかし、アニメブームと共に、多くの同業社の乱立・乱作から、コスト競争に直面し、倒産にまで追い込まれました。私の知人が、その時の管財人をしていました。

 晩年近く、1980年代になりますと、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)など、歴史物で円熟味を示し、青年漫画というJANするに新たな代表作を手がけることになりました。

 100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は、昏睡状態を断続的に起こしたにもかかわらず、病院のベッドで医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていたそうです。

 死に立ち会った人によりますと、「頼むから仕事をさせてくれ」というのが手塚の最後の言葉であったといわれています。

 最後まで、漫画・アニメーターだったのですね。

 


■ 仮名垣 魯文 戯作者


 かながき ろぶん
 1829年2月9日(文政12年1月6日)- 1894年(明治27年)11月8日


 江戸末期から明治初頭にかけての戯作者で、新聞記者もしていました。

 江戸の京橋生まれ、本名は野崎文蔵、字は能連、幼名兼吉、また庫七、後に文蔵と改めました。別号に鈍亭、猫々道人(みょうみょうどうじん)などがあり、俳号は香雨亭応一、狂名は斜月窗諸兄です。これらからも、魯文の多才さがうかがえます。

魚屋を営む父野崎佐吉は、俳句や狂歌を好み、文蔵も戯文や小説を好んで育ちました。大きな商家の丁稚となった時に、人相見に、「小説家になれば出世する」と言われ、18才で花笠魯介文京の弟子となりました。

 自作の執筆の他に、先輩の仕事の手伝い様々などをこなし、生活のために古道具屋や売薬業も営みました。

 筆名は、初め「英(はなぶさ)」または「鈍亭」としていましたが、1873年(明治6年)に、師の魯と文の字を取って仮名垣魯文としました。

 代表作に西洋道中膝栗毛(1870-1876年)があり、多数の書を書いています。

 


■ 江藤 新平  幕末明治初期の佐賀藩の藩士「佐賀の七賢人」


 えとう しんぺい
 天保5年2月9日(1834年3月18日)- 明治7年(1874年)4月13日


 幕末から明治時代の日本の佐賀藩士で、政治家です。幼名は恒太郎・又蔵、諱は胤雄・胤風、号は南白です。

 朝臣としての正式な名のりは、平胤雄(たいら の たねお)で、「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」の一人に挙げられています。

 文久2年(1862年)に脱藩し、京都で活動し、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らとの接触があります。

 15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行って、幕府が消滅した慶応3年(1867年)に、郡目付となりました。

 薩摩藩と長州藩は、公家の岩倉具視と結び、慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古の大号令を行い、新政府が誕生しますと、佐賀藩も参加し、新平は副島種臣とともに京都に派遣されます。

 戊辰戦争で、江藤は東征大総督府軍監に任命され、土佐藩士の小笠原唯八とともに江戸へ偵察に向かいます。薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で江戸開城が決定しますと、江藤は城内の文書類を接収しました。

 京都へ戻り、大木喬任と連名で岩倉具視に対して江戸を東京と改称すべきこと(東京奠都)を献言しました。

 旧幕臣らを中心とする彰義隊が活動していた問題では大村益次郎らとともに討伐を主張し、軍監として上野戦争で戦い、彰義隊勢を寛永寺周辺に追い詰め、さらに佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する戦術などにより彰義隊は瓦解しました。

 江藤の献言が通って明治天皇が行幸して、江戸は東京と改称されました。

 明治6年(1873年)には、朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助等と共に下野(表舞台からおりる)しました。

 佐賀の乱で、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌によって裁かれ、処刑されました。

 

 夏目漱石 (なつめ そうせき) 本名:金之助

 1867年2月9日(慶応3年1月5日)- 1916年(大正5年)12月9日)

 日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏

 江戸時代末期、牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)の出身で、大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学びました。

 帝国大学(現在の東京大学)英文科を卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めました。

 イギリスへの留学はその後のことです。精神的な病気にかかったといわれますが、研究に没頭している様を見た人が、その生活態度を見て、「夏目発狂」という噂を流したとも言われています。

 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』など、次々と傑作を書いて行きます。

 その後、朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載したりしています。晩年は、胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となりました。

。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。 

 新宿の生まれた場所と言われるところには、現在でも「漱石公園」など、ゆかりの地があります。

 

■ 紹明(円通大応国師)

 嘉禎元年(1235年)-- 延慶元年12月29日(1309年2月9日)
 南浦紹明(なんぽしょうみょう)

 鎌倉時代の臨済宗の僧で、出自については不詳ですが、駿河国安倍郡井宮村(静岡県静岡市葵区井宮町)の出身であることはわかっています。諱は、紹明(「しょうみょう」とも「じょうみん」とも読まれます。道号は南浦、勅諡号は円通大応国師です。

 幼くして故郷駿河国の建穂寺に学び、1249年(建長元年)鎌倉建長寺の蘭渓道隆に参禅しました。

 1259年(正元元年)宋に渡って、虚堂智愚の法を継いで、1267年(文永4年)日本に帰国して建長寺に戻りました。後に、博多崇福寺の住持をつとめたりしています。

 1307年(徳治2年)鎌倉に戻り建長寺の住持となり、1309年(延慶元年)に75歳で死去しました。

 門下には、宗峰妙超(大燈国師)、恭翁運良などがいます。

 没後の延慶2年(1309年)、後宇多上皇から「円通大応」の国師号が贈られました。これは日本における禅僧に対する国師号の最初です。南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属しています。 

 

◆ バックナンバー

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

 


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■【今日は何の日】 2月9日 ふくの日 【きょうの人】 紹明(円通大応国師)

2025-02-09 00:03:00 | 【今日は何の日02月】


  【今日は何の日】 2月9日 ふくの日 【きょうの人】 紹明(円通大応国師)

 一年365日、毎日が何かの日です。
 季節を表す日もあります。地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。誰かの誕生日かも知れません。歴史上の出来事もあります。セミナーや展示会もあります。
 これらをキーワードとして、私たちは自分の人生に、自分の仕事に、自分自身を磨くために何かを考えてみるのも良いのではないでしょうか。
 独断と偏見で、エッセー風に徒然のままに書いてみました。皆様のご参考にと毎日続けていこうと・・・というよりも、自分自身のために書いてゆきます。 詳細 ←クリック

今日は何の日インデックス】  日付を指定して【今日は何の日】を閲覧できます

■ ふくの日

 下関では、河豚は「ふく」と発音し、「福」という音に通じることから縁起の良い魚とされています。

 「ふ(2)く(9)」という語呂から2月9日を「ふくの日」として、下関ふく連盟が1981(昭和56)年に制定しました。

 
【Wikipedia】
フグ(河豚、鰒、?、?、?、?)は、フグ目、特にフグ科に属する魚の総称。フグ科に属さないフグ(ハコフグ、ハリセンボン)などはフグ目を参照。
185種の魚がフグ科に分類される。そのうち食用とする種として、トラフグ、マフグなどが有名。クサフグなど、体全体に毒がたまる種もおり、このような種は食用には適さない。汽水、淡水性のフグの一部の種は、観賞魚として人気がある(淡水フグ参照)。

 

 

 我々は「フグ」と言うのが一般的ですが、フグ毒の成分は主に「テトロドトキシン」であることはよく知られています。

 ところが、フグ自身は自分の毒で死ぬことはないのでしょうか?

 フグが何故、自分の毒で死なないのかは、テトロドトキシンに対し高い耐性を持っているためだからです。しかし、フグに大量のテトロドトキシンを投与するとやはり耐性の限度を超えて死んでしまうそうです。

 いずれにしろ、フグの毒については、いまだにわからないことが多いのだそうです。

 万一フグ毒を摂取してしまったときには、薬とか療法、解毒剤などはなく、呼吸困難が収まるまで人工呼吸器を続けることが唯一の治療法だそうです。

 

【きょうの人】

■ 紹明(円通大応国師)

 嘉禎元年(1235年)-- 延慶元年12月29日(1309年2月9日)
 南浦紹明(なんぽしょうみょう)

 鎌倉時代の臨済宗の僧で、出自については不詳ですが、駿河国安倍郡井宮村(静岡県静岡市葵区井宮町)の出身であることはわかっています。諱は、紹明(「しょうみょう」とも「じょうみん」とも読まれます。道号は南浦、勅諡号は円通大応国師です。

 幼くして故郷駿河国の建穂寺に学び、1249年(建長元年)鎌倉建長寺の蘭渓道隆に参禅しました。

 1259年(正元元年)宋に渡って、虚堂智愚の法を継いで、1267年(文永4年)日本に帰国して建長寺に戻りました。後に、博多崇福寺の住持をつとめたりしています。

 1307年(徳治2年)鎌倉に戻り建長寺の住持となり、1309年(延慶元年)に75歳で死去しました。

 門下には、宗峰妙超(大燈国師)、恭翁運良などがいます。

 没後の延慶2年(1309年)、後宇多上皇から「円通大応」の国師号が贈られました。これは日本における禅僧に対する国師号の最初です。南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属しています。 

 

(ドアノブ)

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 日本経営士協会は、特定非営利活動法人として内閣府による認証を受けた経営コンサルタント団体です。1951年に誕生し、経営コンサルタント育成と経営士・士補資格付与活動を1953年から積極的に行ってきている、日本で最初に設立され、約65年もの永きにわたりまして社会貢献をしてきています。
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