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テンションの低い人

2009年12月13日 | 田舎生活の衣食住
 携帯電話会社が、「第二世代の携帯サービスを終了しますので、買い替えて下さい」と言って来た。勝手にサービス停止を決めて、何ら不満のない電話を買い替えなくてはいけないのか? そっちの都合なんだから無料で交換が当たり前なんじゃないと思わなくもないが、番号が変わって困るのは自分なので、渋々購入。
 すると、前にも会って、嫌な思いをしたテンションの低い店員の応対に、「誰か変わってください」と声を張り上げたい衝動に見舞われたくらいに、やる気あるんだか無いんだか。それとも、けだるい私って素敵と思ってるんだか。少なくても、サービス業であんな態度、下心ありありのおっさんからしたら「可愛い」のかも知れないが、不愉快千万。
 そして、またまた居ました。テンションの低いホテルマン。20代の女性だが、朝、この人がフロントにいると、途端にイヤーな気持ちに駆られるくらいにテンションが低い。分かってるんだか、分かってないんだか…。
 口を開いたり、挨拶とかしたら損をするとで思っているかのようだ。
 かと言って愛想だけはいいがなあーんにも知らないおっさん(年齢的にマネジャーくらいの人かと思っていたが)も困ったもので、宅配を頼めばあたふたして、「もうすぐ他の人が来ますから」。コンビニの場所を聞けば、「200m先です」と2キロはあろうかという遠くの店を教えてくれる。ほかにもっと近い店が3軒もあるのに。「使えねぇ」。

国内線は飯が出ないのか!

2009年12月13日 | 八重山諸島の旅
 最後に国内線に乗ったのはもう10年以上も前になるが、確か朝昼晩の食事時にはサンドイッチくらいの軽食は出た筈である。今は食事のサービスもないのだろうか?
 しかも、飲み物には、せんべいとかあられみたいなスナックがついて来た筈。それもなし。
 おまけに帰りの便では、ビジネスクラスの弁当を2000円くらいで販売してた。と言うことはビジネスクラスには飯が出るんだ。ビールも、アイスクリームも有料。大昔にノースウエストが酒を有料で売っていたことを思い出した。
 航空業界も厳しいのか? でもね、飯ぐらい食わせろ!
 もっと笑っちゃったのが、たかだか1時間弱の石垣ー与那国便の小型機。飛行時間が短いためもちろん、飲み物のサービスもない。それはそれでいいのだが、何のサービスがないにも関わらず、フライトアテンダントが3人も乗ってるって、これこそ、人件費の無駄なのではないだろうか? だから経営悪くなっちゃったんじゃないの?
 そう言えば、乗ったこともないアメリカの航空会社からマイレージカードが届いた。なぜ? しかも、その会社日本に支店がなく、わざわざアメリカまで国際電話をかけろって。誰がかけるかそんなもん。と英文でメールを出したけど、音沙汰無し。思うに、日本を代表する例の航空会社を買収するって話しじゃん。そこから流れたのか? と思えなくもないのだが…。
 
 さてさて、この旅で感じたことをざっと書いて来ましたが、次回からは出発から帰宅までの雑文を順を追って紹介します。
 

沖縄本島は「狡っ辛い」

2009年12月13日 | 八重山諸島の旅
 離島から行くと、途端に人が多く、大都会なのに目を見張る。そして、観光客目当てのタクシー、土産物屋など、「狡っ辛い」といった印象が強い。お人好しの優しい島人の印象が感じられないのだが、それは観光を職業とする人の死活問題としての一面で、全般的にはやはり優しい大らかな人が多い。
 ただ、観光客のマナーの悪さには閉口した。何もそこまで騒がなくてもと言いたいくらいに、老若男女がみなはしゃいでいるのだ。テンションが上がっているとも言えるかも知れないが、産まれて初めて北京へやって来て紫禁城をぞろぞろ歩く、かなりの田舎もんの中国人団体より「うるさい」。こんなだから、観光タクシーの運転手もああなってしまうのだと思った次第。

 本島は都会である。観光客目当ての客引きも多く、ゆったりとした気持ちではいられなくなる。だが、やはり、内地の人間には無い大らかさはあるようだ。
 散歩の途中のおじいは、「うちはおっかあがもういねーから、こうして散歩に出てるんだ」。そして、「(息子の)嫁がきつくてさー。子ども(孫)にもきつくて、家に居たくねーんだ」と、初対面にも関わらず、あけすけに話す。その話し方が嫌味でも無く、悲壮的でもない。「孫が20人以上いるさ。また今度産まれるんで内地に行くさ」。おじいは、大忙しなのである。ただ、ほとんどの子どもが内地へと移住しているのはやはり寂しいだろう。
 また、若い女性も、「東京で暮らしてたけど、離婚して戻って来た」と。「東京に未練はあったけど、子どもを育てる環境を考えると、こっちの方が良かったかも知れない」と、こちらも言いにくい話しをサラリと言って退ける。だが、「産まれたのは本島の北の方の島で、家の周りになーんにも無くて、ポツンと一軒家がある様な所ですよ。だからかな? こっち(本島)に帰って来た当初は東京に戻りたかった」と。20年と経たずに彼女のお子さんは都会へと憧れるだろう。その時、彼女に去来する東京の思い出は、どんなものだろう。
 本島まで来ると、都会なだけにやはり悩みも複雑になるようだ。
 

やっとコンビニのある島へ

2009年12月13日 | 八重山諸島の旅
 コンビニもスーパーマーケットもファーストフードも石垣島にしかない。あると言っても、我々に馴染みの深いセブンイレブンやら、ファミリーマートはとんと見当たらないのだ。
 あるのは、ココスという全く馴染みのないコンビニが数軒と、マックスバリュというこれまた知らないもスーパーマーケットが数軒。ほかに1軒あった。
 後は、他の島同様に○○商店といった食品と生活雑貨を売るお店がところどころにある。昔は町のあちこちにあったこのような個人商店も今ではすっかり見なくなったが、八重山では健在なのだ。
 コンビニもスーパーマーケットもファーストフードはなくてもまだどうにでもなるが、銀行、薬局、煙草のない島がほとんどなのには驚かされた。野菜等はどこで買うのだろうか?
 と言うか、島には個人商店が数軒ということは、食生活や暮らし方全てが知られてしまうのだ。そんなことを気にしない人でないと島では暮らせないな。と感じた。自分には、石垣島が限度。

八重山一の大都会石垣島

2009年12月13日 | 八重山諸島の旅
 大きな港には終始船が行き交い活気のある、言わずと知れた八重山諸島のハブである。ビルの建ち並ぶ、八重山一の都会でもある。そんなビル群の前を「漁師の島だからみんな朝が早いさ」と早朝から行き交う人々。「みんなさ、優しい反面、すぐに(人に)騙されるんだ」と、島のおじいは言う。都会だけに人の出入りが多く、ほかの島々と比べると気を抜けない部分も否めないのだ。だが、一歩、奥に入れば行き交う車も殆ど無く、のんびりと釣りをしたり、海に仕掛けをする島のおじいに出会える。都会と自然が共存する島である。北上すると、「同じ島」とは思えないくらいにのどかな景色に出会うこともできる。
 異国情緒豊かな唐作りの「唐人の墓」が海に向かって建っているが、これはその昔、イギリス船で奴隷として働かされていた中国人が逃げ出して、そして、イギリス軍に殺された悲しい歴史を埋もれさせないようにと、石垣市で建立したもので、各人の名前が刻まれている。当時は、島民が中国人を匿い食料を与えたりと無償の優しさで接したことも知られている。そんな無償の優しさが、「すぐに(人に)騙されるんだ」に繋がるのだろうか…。
 日本返還時に名前を書くだけで貰えた運転免許を有するおばあがタクシードライバーとして一線で働いており、その運転たるや、「すごいもんさー」と笑うのどかさも持ち合わせている。
 
 

石垣島の「やいま村」

2009年12月13日 | 八重山諸島の旅
 古民家を移築した一種のテーマパークのような感じで、古いもの大好きの自分は是非足を運びたい所でもあった。が、「小せえ」。正直、「来なくても良かった」感あり。
 しかも修学旅行生でいっぱいという有様。
 バスで片道400円の高額料金プラス入場料も840円。バスなんか2時間に1本あればいいようなもんで、1時間後を逃したら5時間は足止めになるため、見学は50分弱。
 やはり、島は足が必要である。

シュガー・ロードも刈り込みされてりゃただの道

2009年12月13日 | 八重山諸島の旅
 シュガー・ロードと呼ばれるサトウキビ畑の中の一本道があまりにも有名になった農業と牧畜を主産業とする小さな島である。そんな人気急上昇に島民は無関心である。この島を広く知らしめたドラマの撮影が行われた場所を観光スポットとしてはいるものの、だからと言って、特に整備はしていない。農道は舗装されているが、生活上必要な道であるからの舗装で、観光を考えての道は作られていないのだ。よって島を一周する海岸沿いの道等も無い。一過性の人気に溺れることを良しとしないということかも知れない。
 ほとんどの島で人の気配を感じることが無かったのだが、ここでは家々から話し声が漏れ、日中は暑さを避けて夕方から畑に出るのが沖縄流だが、畑で働く人の姿もあった。観光客が往来する道を悠然と働く島の人たちは、「何でこんな何もねぇ島にくるんだか」とでも思っているかのようだ。だが、観光客を寄せ付けないわけでも、迷惑がっているわけでも無い。島の東南には(島の)面積の5分の1を、ヤマハリゾートが開発した「はいむるぶし」が占め、素朴な島とは違った顔を見せている。リゾート方面へは、シュガー・ロードを南下することになり、サトウキビ畑の向こうは楽園と言ったところだろうが、面積7.84㎢の小さな島では、便利さと快適さには変えられない、ゆるやかな時間を感じたいものだ。

赤瓦の島では建築制限がある

2009年12月13日 | 八重山諸島の旅
 竹富島で新築する場合、赤瓦の家しか建ててはいけないといった、建築制限がある。景観を崩さないための配慮だろう。しかし、こんな静かな何もない島にもリゾート開発の魔の手は迫っているのだ。島民の考えは賛否二つに分かれているらしい。島民でもない行きずりの自分が思うには、出来るならば、自然のままで、手を加えないでほしいと。
 こちらも自転車で回ったのだが、歩いても十分なくらいに小さい島。しかも神様の領域が実に多いのだ、この島のどこに大型リゾートホテルが作れると言うのだろうか? しかも頑に守り続けている赤煉瓦の景観はどうなるのか?
 島には、元出羽の海部屋の力士だったおじいがいる。「相撲の話しするのは久し振りだ」と喜んでいただき、お昼ご飯をごちそうになったばかりか、車で島を案内していただいた。こんな出会いが旅の楽しみでもある。

竹富島は神々の島

2009年12月13日 | 八重山諸島の旅
 御嶽と呼ばれる神様の聖地が多く存在し、その数は100から200m四方に1つくらいの割合ではないだろうか。人口に対する神の領域は日本で一番。神と共に生きる島なのだ。赤瓦の古民家群が今に残るのも神に守られて来たことの証なのかも知れない。あの、太平洋戦争の激戦地となった沖縄諸島にあって、戦災を受けなかった数少ない島でもある。 
 島唯一の小学校には、「卒業記念に掘った」。また別の場所には、「日露戦争終結を祝って掘った」。と、珊瑚で出来た島故の水不足を物語る井戸が今も残る。その土壌から農作にも適せず、西表島まで出稼ぎに行っていたほどの決して豊かとは言えない島での暮らしは容易ではなかったであろう。「わしらは珊瑚じゃけん。水の中で息だけしてきたさ」とおじいは言う。琉球、薩摩、日本、アメリカと支配され続けた歴史が作り出した悲しい優しさなのかも知れないが、底抜けの笑顔は本物である。「島や自分の歴史を調べてるさ」と語るおじいは、「わしらは、中国から来た民族なんじゃないか」とも言う。中国文化の色濃い島の伝統を守るために、現在は観光資源に頼る部分も多いが、ホテルや観光設備などを整えることも無く、観光客に媚びることはしない。だが、今こ時点で、島をまっ二つに割るような事件が起きている。島へのリゾートホテル建設問題がそれだ。時節の流れが静かな島を飲み込もうとしている。神の下す采配は…。

そして50ccバイクで湯布島へ

2009年12月13日 | 八重山諸島の旅
 レンタサイクルなんかありゃしない。バイクだって1軒のみ。仕方ないので、エンジンのかけ方から教わって乗ったさ。そしたら、歩いてる人も対向車も殆ど皆無で快適快適。
 今のバイクって否応無しにライトは光ってるし、エンジンもボタン一つで掛かるなんてことも知らなかった。そして重い。
 湯布島って、なんかたいそうなリゾートがあるだけだから渡らなかったが、水牛車のラッシュアワーみたいで、風情も何もあったもんじゃない。

西表島でラブボート?

2009年12月13日 | 八重山諸島の旅
 観光業に就いている人以外、島民の姿は皆無と言っても過言では無いくらいに、観光化された島である。だが、島の抱える過疎化の問題は、観光だけでも十分に計り知れる。
 島を案内する観光バスの運転手が、どうやら、1人の20代の女性を気に入ったようだった。彼女が乗る仲間川遊覧ボートの運転を代わり、熱烈アピールに終始する50歳手前の男性。たまたま乗り合わせたのは、石垣からのフェリーで一緒だった、60代とおぼしきご夫人と、アテンドに駆り出された彼女の息子さんの友人の20代の男性。この2組による(年配側の)アピールと言えるだろうか舞い上がりに、マングローブ林も自然環境も何もかもが、「ラブワゴン(観たこと無いけど)」に成り下がった。嫁不足の島民にとっては深刻な問題なのだろう。 初めて一人旅の冒険をしたご夫人にとっても、若い男性との旅は生涯で初のことなのだろう。そのはしゃぎぶりが、痛かった。だが、仲間川の折り返し頃から、それまで気を遣っていた若者たちが、ガードを固めた瞬間、年配者たちは悟ったようで、急速に静かになり始めた。
 その、大人の判断が悲しくもあり、また、年を重ねることへの憤りをも感じずにはいられなかった。ほろ苦いの思いを飲み込み仲間川が静かに流れる、水面が写し出す雄大な自然は自分と向き合える時間でもあった。

与那国気質

2009年12月13日 | 八重山諸島の旅
 与那国島はたおやかではない。
 海の蒼さに似つかわしくない岸壁に打ち寄せる波そして、年間を通して吹きすさぶと言う表現がふさわしいくらいの風。荒々しい人に媚びない自然の島。そんな印象だ。よって道も平坦ではない。風に負けないように、上っては下り、下っては上る。そんな自然と共存する人々も一方ならではいかない力強さを持っている。
 島には高校が無いことから、子どもが高校に入学するのを期に、一家で本島や内地に移住してしまうことが過疎化の大きな原因となっているが、それでも、「(島には)銀行もねえ、スーパーもコンビニもねえ。何もねえさ。内人(ないちゅう)が憧れて移住して来たってだめさー。わしらみたいに、島しか知らねえもんしか住めねえさー」と、語る。「内人って言葉があるくれえだからさ。それに島はみんな親戚さー」。
 内人とは内地の人。いわゆる日本人のことである。この言葉には侮蔑の意味も含まれている。旅人には優しいが、よそ者は踏み込ませない頑な線は引いている。
 「与那国って言うくれえだから、昔は国だったんじゃねーか」と、琉球王朝でさえも自分たちとは一線を引く島民は、過酷な歴史の中で、島で生き抜いた誇りに彩られている。

与那国島を自転車で走破

2009年12月13日 | 八重山諸島の旅
 「自転車では無理」全てのガイドブックにそう書いてある。だが、車も、バイクももはや10年以上乗っていないのだ。選択肢は自転車のみ。だが、ガイドブックは正しかった。平坦な道なんかありゃしない。1/3は押して歩いたって感じだ。しかも、風は強いは、スコールみたいな雨に見舞われるはで、悲壮な1日目。宿のおばちゃんも、「みんな、自転車借りても、途中で引き返して来るさー。あんたよく回ったさー」。って始めに言ってよ。
 道を間違えたって、畑はあれど人なんかいやしない。牛と馬とヤギだらけ。
 「だってコトー先生は自転車だったよ」は、おばちゃんに大受けだった。コトー先生は腕だけではなく健脚ぶりも一流だった。