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最近の日本語って…。安い物見付けた!

2013年11月03日 | 田舎生活の衣食住
 今年は台風が多かったせいか、すっきりとした秋晴れの日が少ない気がします。昨年は、「蚊がいなくなったら庭の整備をしよう」と心構えていましたら、秋が短く、あっと言う間に冬。寒くてそれどころではありませんでした。
 どうしてでしょう。暇な時は全く気にならないのに、忙しかったり、天候的に無理だとなろと、どうにも気になるものです。

 11月といえば酉の市です。今年は3日、15日、27日と三の酉まである年は火事が多いと言われていますので、注意しましょう。しかし実際には、同じように言い伝えられている丙午でも三の酉でもそのような記録はないそうです。
 だからと言って気を抜かず、反対に引き締めましょう。
 つい昨日に読んだばかりの佐藤愛子氏のエッセイの中に、「昔は火の用心」の拍子木と声を耳にすると、改めて火元の確認をして寝入ったものであったが、現在では、そのような場合には、声が煩いとか騒音であるとかの苦情が出る。世の中は変わったといった内容の項目がありました。
 佐藤愛子氏には共鳴する部分が多く(と言いましてもこちらは氏ほど、胆が座ってはおりませんが)、同書籍の中に、最近の若い者は、過去形で話すおかしな日本語を使っているとありあました。
 「佐藤さんのお宅でよろしかったでしょうか」と電話口で言われ、思わず憮然としたとあり、全く当方と同じだでした。
 当方も「~かったでしょうか」、「~ほう~」(例えば、こちらラーメンのほうになります)と言われると、憮然とするばかりか、顔が強張り、こちらの声のトーンも苦々しくなります。
 もうひとつは、「皆さんそうしていますから」。これはもう、当方の地雷でもあります。
 ある契約時に、「●●と●●のセットのほうでよろしかったでしょうか」と問われ、「そんな事はひと事も言っていませんが」と口の端を引き攣らせながら答えると、「皆さんそうしてますから」(これも正確には、そうされております。だが、そこまでは期待しない)。「どうして皆さんと私が同じでなくてはならないのでしょうか。よろしかったでしょうかと聞かれても、あなたとは今初めて話す訳で、以前の確認のような事を言われても答えようがありません」と、契約をしませんでした。
 それくらいに耳障りな言葉遣いです。ですが、当人たちはマニュアルに従っているのであり、こちらの怒りの意味も知らないのでしょう。

 のっけから、怒りモードになってしまいましたが、気を取り直して、本日セールで見付けた野菜加工品。ひとつは、南瓜や紫芋などの泥臭い野菜の乾燥チップです。
 数十年前に乾燥チップのリンゴを口にした時の感動は未だ忘れられません。
 もうひとつは、トマトのゼリー。トマトが高価になってきたこの季節に嬉しいひと品。





 白菜の卵とじにキムチも加えちゃった、白湯スープ。またまたくどくなりますが、白湯(ばいたん)って中国語読みですよね。それは良いとして、食品や料理はきちんと中国語の発音で通用しているのに、どうして中国人の名前は日本語の音を当てはめてしまうのでしょう。
 学校教育時、欧米人はその国の読み方で教わりましたが、中国系は日本語の音でした(現在は分かりませんが)。例えば毛沢東(もうたくとう)です。中国語では、Mao Zedong(マオツォートン)になります。
 国際社会となり、海外や外国の人とも接する機会も増えたのですから、人名や地名などは、日本語読みにせず、自国の発音で押して欲しいと思います。これは、自身が中国圏内に長く滞在して不都合だった事もありますが。





 お昼は簡単に。鰤(ぶり)の切り身が、脂が乗っていて美味しかった。味噌汁は昨日の豆腐と白菜がもうひとつだったので、それにタマネギを加えたところ、グンと深味が増しました。





 


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先日のテレビ時代劇について(会津藩家老席次)

2013年11月03日 | 田舎生活の衣食住
 「八重の桜」の項で書きました、会津藩の家老について、貴重な御意見をいただきました。
 コメントの項でご紹介させていただこうかと思いましたが、御署名がありましたの、そのままでは御迷惑になってはいけないと思い、御名前を伏せてここで御紹介させていただきます。
 以下、御指摘いただきました内容です。

 会津藩の主席家老は家老になった順序で決まるという研究があり、謹慎を何回もした西郷頼母は城を出るまでの三日間になる。
 幕末の主席家老は田中土佐、次席家老は神保内蔵助になるのでしょう。萱野権兵衛は三番目でした。戦争の指揮を執った梶原兵馬は主席家老ではないという研究もあります。


貴重な御意見ありがとうございます

 数年前必要があり、幕末・戊辰戦争について調べたのですが、その時に、筆頭家老は継承制で代々、西郷家(当時は頼母)、首席家老は、幕末の動乱期とあり、他藩との折衝などで対外外交が必要とされる為に、京都守護職時に若さを買われ、梶原平馬が任命されたといった資料を読みそう認識しておりました。
 こちらの認識不足だった部分も含め、更に調べていきたいと存じます。